青年の旗 1984年12月1日 第94号

【哲学】 「平和と社会主義」紙の”森哲学批判”の思想的本質

 『平和と社会主義』紙、十月一日号に「関西夏季理論合宿の報告」と題する、無署名の「報告」が掲載されている。稚拙で、無内容な、空文句のくりかえしにすぎない同「報告」は、批判に値しないものでばあるが、「一般民主主義者とは共闘できない」などと言い大衆運動の分裂を策するに至っては、その思想的本質を明らかにしておくことも必要であろう。
 「報告」の基調をなすものは、一般民主主義=ブルジョア民主主義=ブルジョア的とする、歴史の発展の弁証法を理解しない機械論的な図式であり、それに対して、プロレタリア独裁を対置するといった、ありふれた主観的政治主義(トロッキーズム)にすぎない。
 「報告」は森信成教授を批判して、「人類の歴史を生産力と生産関係の矛盾の発展の歴史としてではなくて、一般民主主義の発展の歴史を歴史の発展と把え・・・プロレタリア独裁は否定される」と語っているが、このような「理論」の実践的帰結が「一般民主主義者とは共闘できない」というものとなるのは当然であろう。これでは、一般に、民主主義のための闘いを真面目に追求することは、不可能であろう。
 生産力と生産関係の矛盾の発展は、生産関係における矛盾の激化、階級対立の尖鋭化、階級闘争の発展として現象する。その場合、上部構造(国家)における、民主主義をめぐっての勤労諸階級と独占資本との対立が激化すること、そこでは、プロレタリアートが、民主主義の担い手として登場すること、しかも、今日その矛盾は、一握りの独占資本と、勤労諸階級の対立にまで進むほど尖鋭化していること、ここに反独占民主主義闘争の今日的な革命的意義が存すること、等々は、今日では、国際共産主義運動の常識に属することである。
 「報告」の筆者にこれらのことが理解されていないのは、先に指摘した、機械的図式によって考えているからであるが、そのことは、「生産力と生産関係の矛盾」について具体的には何も語り得ず、単なる、お題目になっているところに、現実的根拠を置いている。それは、代々木派のセクト主義、民族主義、議会主義によって大衆運動が分裂させられ、平和と民主主義のための闘いが、一進一退をくりかえしている現実に、焦燥感をいだくのみで、それの貝体的な克服のための思想的・実践的努力を放棄する小児病患者のとなえるお題目である。
 教条主義(お題目主義)はその本質を実感主義、経験主義にもっている。彼らにとっては教条 (お題目)は自分たちの実感を表現する「記号」にすぎず、何ら、現実を把え得ない、主体的唯物論者たちの言うところの「主体物質」「人間そのもの」等と同義のもの、「無」にすぎない。「報告」の筆者が、現実の具体的なところ、新しいところについて何も語り得ないでいるのは、そのためである。
 「報告」は森信成氏の宗教批判を批判して「神なき人間博愛主義、神なき宗教が森哲学の本質である」と言っているが、主体的唯物論者(観念論者)である「報告」の筆者は、現代の宗教たる「神なき実存主義」について、その本質が、唯物論の一分子をも含まない超越存在(『主体物質』『実存』等々)にあることに何らの注意をはらっていない。彼らが、そのことに無関心なのは、自分たちがとなえる 『生産力と生産関係の矛盾』だとか『プロレタリア独裁』 と言った 「お題目」が他ならぬこの超越存在=無、にすぎないからである。
 「報告」の筆者は、八回大会綱領について、これも、ことばだけの「お題目」として、くりかえし語っているが、不破、上田らの民族主義を批判する時、八回大会綱領の民族主義的偏向についてしっかり勉強しておく必要があろう。宮本路線の民族主義は、八回大会綱領のこの弱点をあますところなく利用している点に目をつむることはできない。
 さらには、この綱領の決定にさいして、党内にあった種々の思想的、理論的対立が、党内民主主義の発展(一般民主主義の最高形態の一つ)によって克服されたのではなく、宮本一派の官僚主義的しめつけ、党内民主主義の破壊によって「決定されたのであり、今日、宮本は、このような党運営を合理化するため、党史の改ざんにまで進んでいる。
 今日、代々木派が、平和運動、労働運動で、そのセクト主義、分裂主義を一層強めているもとで「森信成氏らの哲学は、不破、上田の理論の出発点となっている」と、見当違いの結論を引き出すことは、『平和と社会主義』紙を、どこへ導くことになるのであろうか。(M)

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