青年の旗 179号(1992年9月15日)

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【投稿】沖縄で、オキナワを考える
     --その1 沖縄の米軍基地---

 「恋をしたら、オキナワへ行きましょう。」と今年もANAがキャンペーンをやっていた沖縄。今年は本土復帰20周年ということで(?)沖縄に行ってきました。実際沖縄の海はきれいである。伊豆と比べても(西伊豆の穴場と比べても)、かなりの違いがある。
房総、湘南であろう(私はどちらもいったことがないので分からない)。海を求めて集まってくる人々が多いことも納得できる。にも関わらず海には伊江島で30分位浸かっただけであった‥・‥。
 私は、これまで沖縄に触れる機会がなく、出発に先立ち改めて勉強をしてみると知らないことだらけであった。実際に行ってみると、自分の無知もあり、カルチャーショック的感動が多かった。
 このカルチャーショックを、何回かに分けて報告したい。今回は、沖縄の米軍基地に焦点を当てて考えてみた。

(1)本土から空路沖縄に向かい、沖縄本島に近付く
と、那覇空港に着陸するまでの4〜5分間高度300メートルの低空飛行を強いられる。離陸時もまず300mまで上がり、そこから水平飛行に移り、嘉手納基地を過ぎてから再度上昇する。通常、旅客機は一気に巡行高度(1000m以上)まで上昇することが安全運行状必要だといわれている。
 この不快な低空飛行は、危険でありかつ燃料を余分に消費する(従って、沖縄までの航空料金は距離当たりでは割高になるそうである)。嘉手納基地と普天間基地の米軍機の出発・進入コースを妨げないように、米軍から「民間機は1000f(300m)以下で飛行するように」と規制されているからである。これは「嘉手納ラプコン」と呼ばれるレーダー・アプローチ・コントロールの権限を米軍が持っており、米軍機を優先(高度450m〜600m)し、次に自衛隊機(高度300m〜450m)であり、最後に民間機の航行区域が決められている。また、嘉手納と普天間の滑走路は平行になっているが、那覇空港の滑走路はこれらと交差して平行になっていないことが更に拍車をかけている。
 我々の到着した日(7月30日夜)の夕方まで恒例の米空軍と航空自衛隊の共同訓練が行われ、とりわけ着陸するまでの待ち時間が多かった様である。那覇空港の管制官の8割がニアミスの危険を感じると言い、実際3割がニアミス経験者あるそうである。本土ではニアミスがあっただけでニュースになるが、沖縄では日常茶飯事の様である。
 現在沖縄には、日本の米軍基地(専用施設)の75%が集中している。沖縄県全体の11%、沖縄島の20%は米軍基地によって占められている。しかし、地上以外の空域や海域も併せて米軍に握られているのでる。
(2)周囲17.4km、甲子園球場が800個、羽田空港が6個人る広さの嘉手納基地。将校住宅、学校(大学まで)、教会、劇場、銀行、診療所、ゴルフ場もあり、約2万人の米軍人、軍属とその家族が住む。嘉手納基地を定点観測しているグループの人から嘉手納基地の縁に沿った位置にある丘(通称「安保の見える丘」)から説明を受けた。居るは居るわ、F15イーグル、F16、ハリアー、FA18ホーネット、C130オライオン、C5Aギャラクシー、KC135、E3B、P3C・・・・・・、航空機ファンには応えられない光景である。丘からは、思い入れ予算で作った航空機(F15)用の蒲鉾型格納庫(シェルター)1ケ4億円也も見えたが、全部で15戸建設予定だという。思い入れ予算は米軍入用の住宅ばかりではない。でも、こんな物を日本の国家予算で出費していいのだろうか?!
 夜は「3時間英会話教室(?)」に参加して、この安保の丘を嘉手納基地の内部から眺めた。この企画は、米軍関係者と基地内をドライブし、基地内のレストランで食事をし、基地内のパブで酒を飲み、基地内のディスコで遊びながら“英会話を勉強しよう"という企画である。「英会話の勉強」という理由であれば、紹介してくれる基地関係者とコンタクトさえ取れば、割りと自由に基地内に入れるようである。基地内で実際に英会話の勉強をしている琉球大学の学生は結構多いそうである。昼間の“英会話"コースでは嘉手納基地内から小型機(もちろん米軍機)で飛び立ち沖縄上空を遊覧飛行しながら“英会話を勉強する”という、とんでもないオプションもある。そんな企画を立て、米軍関係者との仲介を商売としている人が居るのである。なんとも沖縄の人は逞しい。

(3)この嘉手納基地の前身は、旧日本軍の中(なか)飛行場であった。旧日本軍は沖縄を本土防衛の防波堤とすべく、沖縄島、伊江島等に幾つかの飛行場を建設した(これらがほとんど使用される前に米軍の手に落ちた)、その最大なものが中飛行場で、米軍が40倍に拡張し、15の部落を飲み込んだ嘉手納基地となった。いくら占領下とはいえ合法的にそんなに自由にできるはずはない。
 若干歴史を見てみると、沖縄戦の終了と同時に、戦場で捕虜にした住民を収容所にいれ、その間に米軍は白地図に線を引くように軍用地を確保した。その後、軍事的に必要でない地域の住民から順に帰還を認めた。当初米軍は地主に一銭の使用料も支払っていなかった。アメリカは、1950年代、半永久的支配を前提にした巨大基地建設の開始(54年の一般教書)し、一方、私有財産を尊重する立場から使用料を支払う方針を出した。しかし、その額は1円8銭/坪/年程度であった(CoKe1本10円の時代にである)。当然、地主は拒否して、新たな土地の提供に応じない。米軍は銃剣とブルトーザーとによって必要な土地を強奪したのである。
 この強奪に対する闘争は、いわゆる「島ぐるみ闘争」へと発展し、軍用地使用料大幅引上げ等によって一応終止符を打ち、軍用地主の大多数は賃貸契約に応じる。しかし、具志、伊江島の農民は依然契約を拒否していた。
 その後、沖縄の日本復帰によって、今度は日本政府が軍用地を米軍に提供する義務を負ったのである。つまり、政府は2万数千人の軍用地主と土地の賃貸借契約を結ばなければならなかった。この時、約3000人の地主が契約拒否し、「権利と財産を守る会」(通称、反戦地主会)を結成した。復帰後の10数年は防衛施設局と反戦地主の闘いが続き、政府は、 
@復帰前から軍用地は地主の同意がなくとも軍用地  として使用可能とする法律を制定する。
 A使用料を一挙に平均6倍にupし、契約に応じた地主に協力謝礼金を払う。
 B契約に応じない地主の土地が基地の周辺部にある場合には基地のフェンスを内側にずらして土地を返還し、同時に隣接する契約地主の土地も株がせ的に返還するなど契約地主と契約拒否地主の反目対立化させた。などの対応をし、地主の  切り崩しをはかってきた。現在、反戦地主は数十人に減少しているが、嘉手納基地に末契約軍用地を共有する一坪反戦地主は全国に2000余人を数えている。政府は、反戦地主の土地を20年間強制使用するべく沖縄県収用委員会の裁決を求め、公開審理等で激しい攻防を繰り広げ、委員会は1987年5月以降10年間の強制使用を認めた。
 その後、契約地主からも契約拒否を宣言する地主も登場し始めているそうである。

(4)車で走っていると、突然道路の真ん中に突然3m位のコンクリートの箱が出現する。ななんだこれは!?−一道路の下にはパイプラインが埋設してあり、そのバルブが地上に出ているのだそうである。
(5)普天間飛行場に隣接する普天間第二小学校を見せてもらった。都会の学校のように狭い校庭で、校庭のフェンスの先は当然米軍基地になっている。更に全校生徒が集まる運動会など使用するグランドは、フェンス沿いに2〜3分歩いた基地の中にある。運動会の時には仮設トイレを用意して対応するのだそうである。

(6)先の湾岸戦争では、イラク軍撤退期限の1月15日に向けて手に汗握る和平交渉が展開されていると思っていたが、何のことはない。既に夏前に嘉手納では演習が始まり、突然8000人が居なくなったという。
いつもに賑やうコザの米軍相手の店は閑古鳥が鳴いていたそうである。湾岸に部隊を整える期間に半年間必要としていただけなのである。撤退期限までに揃えた軍隊を再び帰す訳はなかったのではないだろうか。

(7)沖縄--基地の町、という泥臭いイメージは少なくなっている(見えにくくなっている)。基地の周りは夾竹桃の真っ赤な花で仕切られているところもあり、そこでは基地内はもとより、フェンスすら見えない。夾竹桃といえば「夏に咲く花、爽竹桃・・・・・・」と歌った夾竹桃である。海洋博を前後して政府が成長の早い夾竹桃を植えたそうである。(参考資料『観光コースでない沖縄』高文研発行、他)次回は、沖縄戦について考えてみたい。(東京Y)