ASSERT 195号(1994年2月15日)
【投稿】 必要な「政治」の再生
【投稿】 「キラリと光る」政界再編成を
【投稿】 私は「主張」したい
【詩】 揺らぐ自画像
【投稿】 森滝さんと「人類的立場」
【書籍紹介】 「政治改革」

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(投稿)必要な「政治」の再生  (大阪)依辺瞬

 正月明けから、政治改革に関連したことについて、何度か投稿しようと思いながら、結局果たせずに今日まで来た。現実の動きがめまぐるしくて、何を書いても、原稿が紙面に出る頃には、ピンぼけになっているような気がしたからだ。
 案の定、1月21日の参議院本会議での政治改革法案否決に始まって、両院協議会の開催、細川首相と河野自民党総裁によるトップ会談による合意と、特に終盤は目まぐるしく事態が移り変わった。1月29日の衆参本会議において政治改革法案が可決された時には、いささかうんざりした気分にすらなった。
 しかし、今、一連の事態を振り返ると、あらためて明白になったこともあるような気がするので、気のつくまま、考えていることを記してみたい。

トラップに引っ掛かった社会党造反議員
 今回の一連の事態の中で最大のポイントは、何と言っても1月21日の参議院本会議での政治改革法案の否決であった。そして、その鍵を握ったのが17人(欠席を入れると20人)の社会党造反議員であった。
 彼らの主張に対する私の考えは後に述べるとして、結果的に彼らの果たした役割は、次のとおりだった。第1には、政治改革法案、とりわけ、政治資金規制について、政府案からの大幅後退を導いた。第2には、「社会党の主体性重視」との主張とは裏腹に社会党の分裂(解党)状況、公党としての発言力低下を決定づけた。
 これらは「結果論」ではあるが、冷静に考えれば、1月21日の時点で十分に予測できたことであった。ヘボ将棋でも、自分が打った手の次の手ぐらいまでは考えるものだが、社会党の造反議員たちには、そうしたセンスもなかったようだ。「信念に基づく」というと聞こえは良いが、現実判断能力の決定的な欠如は、抵抗型の市民運動では通用しても、政治家としては致命的であった。
 参議院での採決結果が12票の大差での否決だと聞いた時に、「なぜこんなに大差なのだろう」「否決されるのなら、なぜこんなに強引に採決に持ってきたのだろう」と何となく腑に落ちなかったが、今日までの事態の推移を見ると、参議院での否決も想定されるシナリオの一つとして折り込み済だったような気がする。昨年の総選挙以降、着々と進められてきた「社会党解体」の最後に仕上げとなるトラップ(仕掛け)に、社会党造反議員がまんまと引っ掛かったということだろう。
 政治はまさに「結果」である。「地獄への道は善意によって舗装されている」とは、筑紫哲也氏がよく引用されるフレーズであるが、まさにそのとおりの結果だったと言える。

不十分な選挙制度改革の目的論議
 政治改革、とりわけ選挙制度改革に関する国会での議論を聞いていると、否定論者の主張はそれなりに聞こえるが、推進論者の主般が一向に聞こえなかった。特に社会党の場合が、ひどい。
「連立を組んだ時に(小選挙区比例代表並立制いう毒は飲んだのだから、最後まで行くしかない」とか、「政権から離れるべきでないから、賛成するしかない」などという乱暴な議論ばかりが目についた。これでは造反議員が出ても仕方がないとも言える。
 ー方、新生党代表幹事の小沢一郎氏は、その著書「日本改造計画」の中で、小選挙区比例代表並立制の導入という選挙制度改革の目的や理念についての考えをそれなりに明確にしている。その内容は、どうも
「強権政治指向」としか理解されないことが多いが、私は「機能的な国家意志の形成」と「政権交替による民意の反映」が彼の主張の核心だと理解している。
 さて、私は、違ったプロセスから、彼の結論に一致するところがあり、今回の選挙制度改革は、後に述べる主体的条件を満たすことができれば、大きな意義を持つのではないかと考えている。

根源的な危機にある日本の政治状況
 前提として、現在の日本の政治状況に対する私の認識を明らかにしておかねばならない。制度を変えるか変えないの議論は、現状に対する評価の如何に尽きる。現状にリスクの大きい制度変革を行うほどの問題がないと判断するのならば改革には消極的になるし、そうでないなら、多少のことには目をつぶってでも何らかの改革を実施しようということになる。改革に対する姿勢は、現状に対する評価の反映なのである。
 実は、私は、今日の日本の政治状況は「根源的な危機」に直面しているのではないかと感じている。「根源的な危機」とは、「政治の機能不全」ということであり、この場合の「政治」とは、「異なる利害の民主的調整機能」ということを意味している。こうした事態が最もドラスティックに展開しているのがロシアであろうが、日本の事態も相当に深刻だと、私は思う。
 1月28日付「週刊金曜日」に筑紫哲也氏が次のような指摘をされていたが、私も全く同感である。
 「欠陥、問題だらけ、危っかしい私たちのデモクラシーのなかでいまいちばんの問題は何だとお考えですか。私は有権者が投票にやって来ないことだと思います。・‥この『観客民主主義』を生んだ要因はいろいろですが、やはり政治腐敗と中選挙区制との関係が大きいと思うのです。いくら腐敗、汚染が明らかにされた政治家でも、この制度の下では同じく腐敗、利権に組み込まれた一部の有権者を取り込めば当選してしまう。いわゆる『16%の不正義』に多くの人がうんざりし、投票に行かなくなる。不信、無関心だけでなく有権者としての無斉住もそこから生れています。」
 私は、これに加えて、「投票行動の政策に対する無力感の増大」を指摘したい。
 世の中はどんどん変わっているのに、政治の世界だけが「モグラ叩き」のようなことをやっていて、新しいことが何も打ち出されない−−このような事態に対する苛立ちが有権者にあると思うのだ。
 その原因は、自民党については、個々の議員の選挙公約と党としての政策が一致していないこと。例えば、消費税を党としては導入する方針にも関わらず、個々の候補者は実質的には導入反対で選挙を闘うといったスタイルの横行にある。野党については、万年野党を脱却するための戦略もなければ、気力もないといったことが、有権者のシラケを増幅させてきたと思う。
 自分の投じる1票が政策に反映する「手応え」のようなものを感じなければ、多くの人々は投票には行かない。投票に行く人は、何らかの形で政党・議員に系列化されている層だけとなる。そうすると、ますます何の変化も起きない。「観客民主主義」を決め込んでいた多くの人々も、このあいも変わらぬ田舎芝居にとうとう愛想が尽きて、「こら、え−加減にせえ!」と国会に向かって座布団を投げているというのが今日の状況ではないだろうか。
 現に、政治改革法案が吋決された後の世論調査で、細川内閣の支持率は再び急上昇した。しかし、一方で「この改革によって政治が良くなる」と答えた人は極めて低い率であった。有権者の目はシビアで、制度改革に過大な期待はしていないが、とにもかくにも現状を変革しろというのが大勢であったのだ。国民の世論は「腐敗防止の先行」などという「正論」よりは、はるかにラジカルだったといえよう。

「被害妄想思考」の克服を
 それにしても、日本の「左翼」を称する陣営の発想の貧困さは救いがたい。一言でいうなら、「被害妄想思考」とでもいうべき発想だと私は思っている。「被害妄想思考」という表現が不適切なら、「最も危険な意図の貫徹作用との観点からすべての動きを理解する発想」と言ってもよい。
 例えば、「小選挙区制」というと、「保守勢力による一党支配の強化」「大衆収奪強化」「強権政治・翼賛政治の展開」「憲法改悪」「徴兵制導入」「軍国主義復活」と直結する思考回路が形成されている。
 ひとたびこうした思考回路が形成されると、どんな状況もこの文脈で理解されるから(アドラー心理学でいうところの「認知バイアス」が働く)、確信が高まることはあれ、客観敵な状況分析に基づいて方針が修正される可能性は皆無となる。また、具体的な対応姿勢は、ヒロイズムに裏打ちされた「名誉ある孤立」路線一辺倒で、最終的には、見事な「討ち死に」を図るということになるのである。
 これは、裏返して言うと、「自信のなさ」「民衆に対する信頼のなさ」の反映である。そして、最も重要なのは、こうした思考の迷路にとどまっていると、現実に対応し、現実を自らの描くイメージの方向へ引っ張っていく「構想力」をいつまでたっても確立しえな
いことであろう。

小選挙区制をどう生かすか
 はっきり言って小選挙区制は怖くない。怖くないどころか、それを使って、日本政治の抜本的改革を達成するぞとの意気込みが必要だと、私は考えている。
 「小選挙区制では膨大な死票がでる」と反対論者は言う。しかし、考えてみれば、これまで自民党以外の万年野党に投じられてきた票は、「膨大な死票」ではなかったか。小選挙区選挙では、1回の選挙においては「死票」であっても、次回の選挙では「生票」となる可能性が高い(もちろんいつまでたっても「死票」となる少数勢力は存在するが)。
 前述の1月28日付「週刊金曜日」で筑紫哲也氏は次のような指摘もされている。
 「…小選挙区制はアングロ・サクソンの『ゲームの論理』と分かちがたく結びついている。「勝者ひとり占めJ(wimer−take−all)が基本原則で、・‥勝つ時は思い切り勝つ、負けた方も次に思い切り勝てばよい、というゲーム感覚がそのベースにはある。」
 今日の政治状況は、資本を背景にした強大な自民党が、勤労国民の利害を代表する社会党と対決をするといった二項的対立関係にあるわけではない。国家戦略をめぐっても、個々の政策をめぐっても、複雑な対立や違いが存在しており、小沢流の路線が(例え創価学
会と結託したとしても)常に一人勝ちできるような状況にはない。3割〜5割の棄権票のパワーを少しでも掘り起こした者がキャスティングボードを握れるのだから。
 議員を選ぶ選挙が、本当に政策をめぐる国民投票の観を呈するまでに争点を明確化できれば、日本の政治における意志決定システムは、もっと明瞭で、ダイナミズムのあるものになろう。

何よりも重要な「政党再編」
 調子に乗って書いているうちに原稿が長くなった。最後に、この選挙制度改革を実りの多いものにするために最も重要な主体的条件について指摘して、拙文を終えることにする。
 私は、現在最も重要なのは、「政界再編」にとどまらない「政党再編」であると考えている。
 とりあえず自民党も社会党も早く分裂することだ。今のような状態で、それぞれの看板にしがみついていることは、何のメリット(党財産の分割という問題はあろうが)もない。
 そして、誰と誰が一緒になるというレベルでの「政界再編」ではなく、新たな理念・新たな価値・新たな意志決定や運営手法を具体化できる「新党」を結成することだ。日本新党は細川首相の「個人商店」、新生党は「自民党旧田中派」という性格を脱皮しきれてい
ない。再度、「新党」の結成をめざすべきであろう。
 もちろん、新党は理念だおれではだめだ。政治は力である。理念や政策で多少の譲り合いをしても多数派を結集し、政策の実現担保性を高めた方が良い。
 そして、その際の理念・政策は、小沢流の「普通の国家」ではなく「平和国家」、「個人自立を原則にした自由主義国家」ではなく、「自己決定権が保障された民主主義国家」、「市場経済放任」ではなく「市場経済の民主的制御」、「中央集権」ではなく「地方分権」、「低負担、低福祉」ではなく「高負担・高福祉」、「経済活動重視」ではなく「環境保護重視」というものだろう。そして、女性や障害者、そしてあらゆるマイノリティの人権に配慮したような政策を一歩でも(現実的制約の中では、本当に「ー歩」でよい)具体化するとの姿勢を打ち出せれば、土井ブームの時のような幻ではなく、本当に「山が動く」のではないかと思うのだ。
 次から次へと押し寄せる現実課題への対応に右往左往している連立与党、とりわけ社会党の議員の中で、大きな構想の実現に向けて地を這っている人はいないのだろうか。ぜひ、明るい情報を教えていただきたいものだと思う昨今である。
            (1994年1月31日記)