ASSERT 200号(1994年7月15日)
【投稿】 官僚主義から民主主義へ
【投稿】 ドル安・円急騰と村山政権の登場
【投稿】 「これからのアサート」
【書評】 「労働時間短縮から個の生の自由へ」
【本の紹介】 「脱=社会科学・・19世紀パラダイムの限界」
【詩】  ノイエスト「白樺派」の興隆を

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(投稿)  官僚主義から民主主義へ
     ・----村山大連立政権と政界再編の行方を考える------

 <羽田=小沢ファッショ政権の崩壊>
 6月29日、47年振りに社会党の党首が首班となって第1党自民党と第2党社会党による大連立内閣が成立した。この1年の間に、自民党一党支配とそれがもたらした政治腐敗に対する国民の不信感が、細川・羽田という2代の連立政権を生んだ。自民党を初めて野党に追い込んだことによって、念願の政治改革が緒に着き、選挙制度改革や政党助成が準備されていた。しかし、「改新」という新会派づくりを社会党に何の断りも得ずに進めたことで、社会党の存在を数合わせとしか見ていない小沢ファッショ内閣の本質が明らかになって、社会党の政権離脱と羽田=少数与党内閣の成立という波瀾ぶくみの展開となった。政局の焦点は、自民党政治に止めをさすのか、「普通の国」=政治大国へと一気呵成に突き進もうという小沢の政治戦略に止めをさすのかという消極的な選択にうつった。
 社会党がそのキャスティングボードを握った。なぜなら、その選択について党内が真っ二つに割れていたからである。右派のデモクラッツは反自民の連立をあくまで追求するべきだと主張したが、これは連合の社会・民社両党の協調という路線に後押しされていた。しかし、小沢ファッショ政治は歩み寄りを見せなかった。すなわち消費税の大幅な引上げを年内に決めること、欧米主導の国連安保理事会の常任理事国入りに積極的になることなど反国民的、好戦的課題について社会党の一方的な譲歩を迫った。大蔵省を始めとした官僚とマスコミが一体となって展開された福祉のための増税という大キャンペーンや「普通の国」に対抗するビジョンを国民に示せなかった自社大連立派の政策面での弱さによって、国民の期待はまだ反自民連立政権にあった。したがって、世論の後押しを受けた小沢ファッショ政権の内閣総辞職から政権協議へという動きに同調する社会党右派のデモクラッツの動きも楽観的であった。
 しかし、小沢は海部という切札をもっていた。これによって社会党を割り、自民党の政治改革推進派を取り込むという、自社を分裂へと追い込む勝負に出た。この勝負は、小沢の後ろに中曾根が付いていたことが会期末ぎりぎりになって明らかになったことで、デモクラッツの村山首班指名への方針転換につながった。しかし、74人の衆議院議員の内3分の1の24人が白票か海部票だったことに社会党内の混乱振りが現れている。

<「ハト派政権」の波紋>
 自民党が社会党の首班を担ぎ、しかも社会党の政権構想を丸飲みするという決断をしたこと自体が自民党の政権奪取への並々ならぬ意欲を示している。社会党の従来からの「反自民」の看板もわずか一日で降ろされてしまった。このような姿勢を国民は「野合」政権ととらえている。確かに一年前の選挙まで全国津々浦々で宿敵のような闘いを演じてきた両党がなぜ簡単に連立を組めるのかという疑問が湧いて当然である。その疑問をいち早く捉えて大連立への道を清めたのが新党さきがけである。「ハト派政権」という国民のもっとも受け入れられやすいネーミングで時代遅れのイメージが定着しつつあった社会党への国民の再評価と分裂を繰り返してきた自民党の体質の変化を端的に表現し、国民の自社大連立アレルギーを幾分和らげた。
 新党さきがけの「普通の国」批判は、ビジョンとして国民に示されるところまでまだいかないが、国民に何が論点かを示している。国連安保理事会の常任理事国になることによって発生する責任と義務の重さ、そして積極的になることによって加重する軍事的貢献の危険性を指摘したことが、社会党や自民党の平和国家路線を結びつける触媒の役割を果たした。ここでも官僚とともに羽田政権が、国民の重大な進路選択を国民の前にわかりやすく説明することなしに既成事実を積み重ねていた。このような官僚が国民の意思を問うことなく重要な意思決定をするという官僚政治の悪弊は、族議員という形で一定程度の発言力を持っていた自民党政治よりもひどい状態、すなわち小沢と彼を支える創価学会=池田というごく一部の人間にだけ官僚が意思を聞けばよいという国民不在の政治になりつつあった。
 新党さきがけと自民党が社会党の村山を担いで結束できたのは、このような一部の人間が密室で政治を行うというファッショ政治の阻止ということが最大の理由である。しかもこの羽田=小沢政権の好戦的性格に対してアジアの国々が警戒の色を強めていたことに示されるように、社会党が政権構想を骨抜きにして反自民の連立に付いていたならば、消費税の大幅引上げがもたらすであろう軍事大国化に周辺諸国の警戒はますます強まっていたと思われる。村山内閣の誕生を中国が歓迎の意思で迎えたことと日本をカードとして国連で使いたい覇権主義のアメリカが落胆の色を隠せなかったのは、当然の結果である。

<官僚支配から民主主義の国づくりへ>
 消費税の問題は村山政権の命運を掛けた大問題であると同時に、日本の官僚支配を政治の側が第1党と第2党の大連立で打ち破れるかという民主主義をかけた戦いである。国民が選んだ政治家たちが国の進路に関わる政策決定に何の影響も及ぼすことができないという官僚支配の壁を破壊するための闘いが、自民、社会、新党さきがけのサンフレッチェ内閣で始まることを、国民が本当に期待できるかが問われている。民衆の立場を代弁するという当たり前のことを政治がしはじめたとき、政治不信が解消に向かいはじめる。消費税問題にしろ、国連安保理事会の常任理事国入りにしても国民の声と村山内閣の政権合意とはみごとに符号していることに一縷の望みがある。
 問題は、このような国民の声を実行できるだけの力量が村山内閣にあるかどうかということである。官僚の壁は厚く一筋縄ではいかないが、国民世論を味方にして闘いを挑むのか、55年体制のような密室での取引に終わるのかによって内閣の命運が決まるだろう。村山内閣が自らの公約を国民の生活に密着した具体的なビジョンとして国民に示し、行政改革と大企業優遇税制の是正、誰もが安心して暮らせる福祉社会づくりといった公正な政策を確実に実行に移すことがまず必要なことである。
・---新しい連立政権の樹立に関する合意事項(1994年6月29日)-----
@政治改革の継続的推進 A行政改革と地方分権の推進 B経済改革の推進
B農林漁業振興の推進 C高齢社会と税制改革 D外交・安全保障・国連改革
E戦後50年と国際平和 F朝鮮民主主義人民共和国の核開発への対応 G教育
の充実と男女共生社会の創造 H連立政権与党の運営
    (1994年7月15日 大阪 M)

投稿 ドル安・円急騰と村山政権の登場

<<ドル売り・円買いに走る日本企業>>
 6/21正午過ぎのニューヨーク外為市場で、外為ディーラーがあっけにとられるうちに円は1$=100円を突破した。そのきっかけは、このところ強まってきていたドル暴落の危険性を予感して、今の内に少なくとも100円台で円をドルに替えておきたいという日本の輸出企業、その浮き足立った注文を受けた金融機関が一斉に円買い・ドル売りに走ったことにあり、しかもそのドル売りの規模は50億ドルに達したという。利益確保の行動が、逆に急激な円高という逆襲を受けることとなった。
 こうした事態はさらに拍車をかけ、その後一気に95円台をうかがうに到り、協調介入も行われ、とりわけ日銀の円売り・ドル買い介入は100億ドル以上に達した。ドル買い支えのために政府の外為会計の累積為替評価損は94年度末で10兆円を突破する勢いである。泥縄式に惜しげもなく使い捨てられた評価損の規模は、決して無視し得ない巨額なものであり、これらが円の国内購買力を高め、貧困な社会資本の充実に使われていたならば事態はまったく違った展開になっていたであろう。

<<一顧だにされないサミット特別声明>>
 そして少なくとも通貨対策ぐらいは注目されていたナポリ・サミットであるが、各首脳はワールドサッカーの結果に気もそぞろで、何らの合意も獲得できず、為替対策にいたっては、「ドル安は好ましくない」との蔵相特別声明だけで終わった。市場は、この特別声明を無視し、あざ笑うかのように、いっそうのドル売りを進行させている。冷戦終結後のサミットには、個々の不安定な国内事情、ブロック化した経済とその維持に精いっぱいで、もはや国際的に強固な意思統一を期待すべきリーダーも政策も不在であり、サミット廃止論まで登場する中、国際的な市場と経済に影響を与えたり、コントロールできるような先進国サミットの時代が終了したことを明らかにしたといえよう。
 それは同時に、国際通貨体制について言えば「今やドル本位制ではなく、市場本位制なのだ」という新たな時代への移行期をも表している。ドルの包括的支配の時代、決裁通貨としてのドル垂れ流しの時代がもはや許されないし、さらにはサミット参加諸国を含めた先進国が世界市場を支配し得ていた時代が、すでに過去の時代のものとなったのである。それぞれの諸国の当局の動き、そしてサミットでの合意でさえ、急速にグローバル化し、拡大した国際市場の中では、それらの比重は以前ほどの重さを持ち得なくなっており、いわば市場の一材料に過ぎなくなってしまったのである。

<<景気回復下のドル不信>>
 もちろんドル安の放置は、クリントン政権にとって最も危険なドル暴落をもたらしかねないし、短期的にも物価上昇をもたらし、インフレ抑制の大きな障害になる。しかしこれまでクリントン政権は貿易赤字縮小の最も手っとり早い手段として、公然とドル安を求める発言を繰り返してきた。その結果、今年の1月から6月にかけてドルの実効為替レートが5%も下落してきたのであるが、今回の新たなドル安は、株・債券を含めたトリプル安をもたらし、金融・株式市場の混乱を伴った新しい段階に入っていることを示している。
 これまで米国にとっては、「ドル本位」制を続けておれるかぎり、膨大な経常赤字対策を先延ばしにし放置してきても、他の諸国や黒字国が対外資産をドル建てで運用する限り、赤字が自動的にファイナンスされる利点を徹底的に利用してきた。だが基軸通貨であり決済通貨であるドルだけに働くこの特権も、もはや通用しなくなってきたのである。市場は放漫財政を支え、ドル紙幣を乱発する体制を支えきれなくなり、逆に規律を失ったドルと、支えるに値しなくなってきたドル支援体制そのものをも投機の対象とするようになってきた。
 そして皮肉なことに、米景気回復が明瞭になるとともに、ドル信認低下のムードが広がってきたのである。94年上期には米経済は、4%台の経済成長を達成している。ところがレーガン・ブッシュの放漫財政のツケは、景気回復とともに、財貨・サービスの輸入(実質)のテンポが同輸出より早いという経済構造を根付かせてしまっている。これを改善し、逆転させるには、ドル安政策からドル防衛政策に転換し、財政赤字穴埋めのための対外借り入れ依存から脱却し、金融引き締めと財政の構造的赤字の大胆な削減の実行が迫られている。しかし、11月に議会の中間選挙を控え、内政外交上で多くの行き詰まりを打開できず、個人的スキャンダルで傷つけられているクリントン大統領にはそれが出来ないであろうという不信感が市場を支配している。

<<MIT教授「日本は5年程度の減税先行が必要」>>
 クリントン政権下の米エコノミストの主流は、レーガン・ブッシュの共和党政権時代に影響力のあったシカゴのマネタリスト派からハーバード、MIT(マサチューセッツ工科大学)系のネオ・ケインジアン派などに移っているといわれる。その一人、ドーンブッシュMIT教授は、「いまのように米国内の投資が好調で、貯蓄をはるかに上回っている状態では、経常赤字が減少しないのは当然だ」として、「むしろ米国とは逆に投資が増えずに貯蓄がたまり、経常黒字の減らない日本が、景気低迷を放置していることこそ問題なのではないか」と主張している。もちろん一方では、「ドルの全面安になった段階で、米政府はドル安放置がいい政策ではないことをはっきりと認識した」と政策転換の必要性は認めている。しかしドルは、円とマルク以外の通貨に対しては強含みであることから、特に日本の財政・景気政策に不信を投げかけ、官僚の強大な抵抗を問題にし、とりわけ日本の内需拡大に不可欠な減税問題について、「大蔵省の力が非常に強いから結局、消費税の引き上げが減税とセットになるだろう。減税の先行期間は1年より3年の方がいいに決まっている。実は日本を消費者重視の経済にするには5年程度の減税先行が必要だ」と述べている。(6/17日経)
 日本の内部では、減税先行論は財政に無責任な暴論としてまともに検討もされず、旧連立与党では新生党と公明党が大蔵省と組んで、社会党に無理矢理消費税の大幅増税を認めさせようと、次から次へとハードルを高く設定してきたことは周知の通りである。
景気回復に冷水を浴びせるような暴論が、責任政党の必須条件に祭り上げられていたわけである。

<<村山新連立政権登場の意味>>
 たしかに世界中を駆けめぐる投機資金は、日本が抱える巨額の経常黒字を格好の標的にしていることは間違いない。大蔵省の貿易統計によると、不況進行下の92年度の平均1$=125.15円から、93年度1$=108.17円へ、約13%円高が進んだのであるが、それでも輸出額は3662億$で、前年度を6.5%上回っている。94年度に入っても、実質数量ベースでは減少傾向が明瞭になっているといわれながらも、ドル換算の輸出額では、4月が前年同月比7.3%増、5月も同4.4%増と、増え続けているのである。最近は5月の通関統計によると、貿易黒字額が前年同期比15.9%も減少するなど、明らかに円高で輸入が増える作用の方が強く働いているのであるが、90円台に入った急速な円高によってドルベースでは逆に、94年度の貿易黒字額も当初の見通しより40-60億$増額すると試算されている。
 大胆な内需拡大を目指した景気拡大政策が実行されない限り、円高攻撃は止まないであろうし、一部には1$=80円台説まで言われ始めている。すでに94/1-6月期、円高倒産が近畿地区では前年同期の5倍近く発生している。こうしたさなかに村山新連立政権が登場したのであるが、旧連立政権とは違って、ハト派色を鮮明に打ち出し、所得税減税の先行を明瞭にし、消費税増税については何よりも国民合意を重視し、論議の公開性と民主的手続きの重要性をうたっている。そしてサミットでの村山・クリントン会談では村山首相は、大衆の生活に根ざした公共投資の見直しと拡大を提起している。唐突な社会党と自民党、新党さきがけとの連立政権の登場ではあったが、ある意味では現実の要請と必然性に敏感に対応したものであったとも言えよう。
 モンデール駐日米大使は村山政権の登場とともに「羽田政権とはかなり違った話が出来た」ことを評価し、税制改革について「減税は恒久的ということなら非常に良い。増税は景気が回復してから考えれば良い」と強調し、「日本に戻ったら大蔵省があいまいにしているようだ」と大蔵官僚の批判を忘れてはいない。(7/16日経)
 問われているのは、日本の官僚を乗り越える政治経済改革の具体性と整合性、そして国民の合意を背景にした実行力ではないだろうか。
(生駒 敬)

投稿 これからのASSERT〜「何でもあり」の時代に〜

 ASSERTに改題してから半年が経過し、同時に通算で200号を迎えることとなりました。私たちの新聞が現在の形態に変わってからというもの、ソ連−社会主義の崩壊、クリントン米民主党政権の誕生、自民党一党支配の崩壊−連立政権の誕生と、これまでの私たちの「常識」を覆す様々な出来事がありました。今にして思えば、当時の段階でよく新聞の形態を変えていたなぁとつくづく感心します。これが政治的主張のアジテーションのみという旧来の形態であれば、主張の内容に詰まり、どんな内容にするのかということで延々と議論し、中途半端な折衷的内容が掲載され、到底時代の流れにはついて行けず、あげくの果てにはこの新聞は消滅の一途をたどっていったのではないかと思うのです。ソ連の崩壊を目の前にして途方にくれた当時の悩み、葛藤が生の声として掲載されたからこそ、堰を切ったように本音が飛び出し、時代を追って、新たな価値観を生み出そうとする前向きな「動揺」が次々と投稿されていったのです。
 ASSERTに改題してもそれは変わりません。むしろ時代の流れは加速し、連立政権は期待された役割を果たすことなく崩壊し、私たちがその動向を最も注目していた社会党は何と自民党と組んで首相を出すという、まさしく「何でもあり」の時代になり、私たちの悩みは益々深まるばかりです。連立政権参加以来の社会党のぶざまな動揺は、まさしく私たちの姿そのものなのではないでしょうか。
 新聞がこの形態になって、ひとつ不満なことがあります。様々な主張が掲載されるのはいいのですが、いまいち議論になっておらず、一方的になっているのではないかと思うのです。確かに多様な価値観に基づく意見は出ているのですが、やや時流追認の傾向があるのは否めません。真っ向から反対の意見の人や賛同できるが一部納得できないという意見の人が必ずいるはずです。「最近の新聞の論調についていけない」というメッセージを編集委員あての年賀状のスミに書いていた人もいたそうです。そんな人たちの意見を聞きたいのです。現場の最前線や地域でがんばっている私はこう思う、という意見のぜひ聞いてみたいです。書き手が固定化しているのではないかといわれているこの頃、そういった人たちの声は貴重です。
 「そうはいっても文章を書くのはちょっと構えてしまう」「ASSERTは結構レベルが高くて難しい」という声もあります。そんなことは気にせずに、どんどん書こうじゃありませんか。こんな拙文でも堂々と記事になるんです。要は「私はこう思う」というのがはっきりしていれば立派な「主張」なのです。そんな文章の方が、起承転結はきっちりしていても退屈な文章より、よっぽどおもしろいと思います。また、ネタは政治に限りません。世相や日常の雑感も時代の反映です。そんなことが掲載されない方がおかしいのです。
 「そんな新聞では単なるおしゃべりサロンではないか。この時代に明確な指針を」と思う方もいるでしょう。おしゃべりサロン、大いに結構ではありませんか。私たちに指針を指し示すリーダーはもういらないのです。自分たちで考え、議論し、悩み、苦しみ、行動、展望を切り開いていくことが求められているのであって、甘ったれた「メシア主義」とはおさらばしなければならないのです。
 せっかく毎月定期的にある程度リアルタイムに発行できるようになったのですから、自分たちのやっていることの情報交流や紹介をもっと積極的に掲載していってもいいのではないでしょうか。例えば、読者の中に「公務員の国籍条項撤廃」の運動をやっている人がいると聞きます。今の運動の状況や次の集会などの案内を広く紙上で呼びかけることはできないものなのでしょうか。これだけの貴重なメディアなのですから、有効に利用したいものです。
 何だか支離滅裂な文章になってしまいましたが、これからのASSERTをどうすればいいのかという私なりの意見です。地域の読者会というのも考えたのですが、何か前衛党的な感じもしてピンときません。でも年に1回は読者の集いみたいなものをやって、生で議論してみるのは必要なことだと思います。また、ひとつのテーマにひと区切りつけば、別冊で特集を組んでみるのもおもしろいかもしれません。やれることはいろいろあるような気がします。主張だけにとどまらず、いかに参加・交流をはかっていくのかが、これからのポイントになるような気がします。
 メディアの基本は、受手(読者)のニーズがどこにあるかを的確に把握することです。みなさんの求めているものは一体なんなのでしょうか。ぜひ教えてください。
(大阪 江川 明)


書評   労働時間短縮から個の生の自由へ
−−−山科三郎『自由時間の哲学−−生の尊厳と人間的共同』
(一九九三.六.一〇発行、青木書店、2472円)

 長時間労働による人間疎外、およびその究極の帰結としての「過労死」、これが現代のわが国の縮図であり解消されるべき課題であると言われながら、今日もまた長時間労働が繰り返されている。この現実を暴露、告発している書が過労死にいたるまで働かされ続けた労働者の怒りやその家族の悲しみを訴えている時でさえ、長時間労働は止まる気配すら見せていない。
 本書は、かかるわが国の社会を支配している独占資本の異常な長時間労働方策に対して、労働時間の短縮の闘いこそが人間の尊厳性の回復、人間の解放へのキー・ワードであることを主張する。すなわち、長時間労働の実態と構造を解明する第T部「”企業社会”の陰影−−−長時間労働の根源はなにか」、人間の生活時間における労働時間(賃労働時間)の本質と位置について検討する第U部「長時間労働と生活時間の構造の変化−−−時間から人間疎外をとらえなおす」、そして労働時間の短縮から自由時間の獲得を通じて人間疎外の克服と全面的発達を目ざす方向を探求する第V部「自由時間の獲得・享受と人間の再生−−−”わたし”が”わたし”らしく生きるために」である。
 著者はまず「一見、労働者の主体的な行為にみえる長時間労働は、労働者のいのちを全面的に否定(過労死)するにいたらしめる緩慢な、社会的殺人の未遂行為であるといわなければならない」として、過労死を「計画的な、凶器なき殺人」と特徴づけ、この長時間労働を強制するものとして、@企業社会維持のための秩序原理=「能力」主義的序列の原理(「業績」主義)、A優勝劣敗の原則の「競争」の原理、B「日本」的集団主義の原理、C「巨大企業による労働者の全生活過程の包摂の原理」を指摘する。
 そしてこれらの原理に対応して(対応させられて)、労働者の側には独占資本による人格管理=「企業内人生」という生活意識が形成されて、彼らを長時間労働に駆り立てている。その内容は、@労働者の「意識革命」=企業への帰属意識を基盤にした、労働者の精神的生活を生涯的に管理する「生産管理」論、A「個人の消費(水準)が社会的権威を示すという生活原理」、およびB「市場にあふれる商品世界への物神崇拝」=「飽食」と「浪費」によって象徴される「ゆたかさ」への渇望、である。こうして「労働者自身が主体的に『能力』競争をつうじて企業目標を達成することのうちに、自分の”生きる喜び”と”労働の誇り”を感じとる人間」=「ワーカホリック」となって長時間労働が遂行されることとなる。
 しかしこのことは、彼の全生活時間の構造を根本的に変化せしめ、規定することになる。すなわち著者によれば、個人の一日の生活時間は、(a)生理的生活時間、(b)社会的労働(生活)時間、(c)家事的生活時間、(d)社会的・文化的生活時間に区分される。しかしこ
のうちの(b)社会的労働時間は、資本主義社会においては、労働者の「生命の発現」とい
う労働の本来的意味においてではなく、「賃労働時間」として、資本によって直接的に拘束された時間としてあらわれてこざるを得ない。従って右の個人の生活時間はまた、拘束時間としての(b)賃労働時間と、非拘束時間のその他(a)(c)(d)の各時間とに区別される。 周知のように資本主義社会においては資本の目的は利潤獲得であり、このためにはいかなる手段をも辞さないというのが資本の本性である。従って資本は、拘束時間の延長、非拘束時間の短縮のためにその全機構をあげて邁進する。この結果労働者は、(d)から(c)、(c)から(a)へと必要性の高い生活時間の領域に次々に追いつめられ、最後には(a)の生理
的生活時間すら削らざるを得ない状況に陥っていくのである。そしてこの挙句の果てに過労死に導かれると言えよう。かくして労働者は、二四時間稼働体制の下で彼の家族をも含めてその生活過程を支配され、「時間ドロボー」たる資本に従属し、疎外された生活時間(賃労働時間)を送ることになる。
 ではこのような状況を克服する方向はどこにあるのか。著者はこれを、労働時間の短縮に見出そうとする。労働者の現状が右に見てきたようなものであるとするならば、「労働時間の短縮は、いまや、わたしたちの現実的生活過程全体の構造的な変革の問題」として位置づけられる。それは「労働者の”人間宣言”」なのである。この視点から現在闘われている労働時間短縮要求の運動を見るならば、労働時間短縮は、たんに労働者の生命を摩耗させる長時間労働からの一時的脱出という意味にとどまらず、「理屈ぬきで自分自身にかけられる時間」を獲得し、「人間らしく生きるための前提条件」となる。すなわち、「賃労働時間短縮は、(中略)疎外された労働をしいられる生活時間の長さを短縮し、短縮した長さだけ形式的には、自分の自由な生活時間として自分の生を未来につなぐというかたちで、労働者の日常生活における全面的な要求のうちに内在する未来志向に、(中略)表現する」。
 それ故労働時間短縮には同時に賃金引上げがともなわねばならず、また法的社会的に公認させると共に、自由時間における社会的文化的生活活動の手段を活用し得る権利をかちとらなければならない。こうしてはじめて労働者は、「個の生の自由」と全面的発達の可能性を手に入れることができるのである。
 ところがこの労働時間短縮の要求に対して、資本の側は、彼ら自身育成してきた「会社人間意識」、「企業内人生」によって希薄化してきた「余暇意識」を逆手にとることで、「余暇=自由時間」という宣伝を行ない、賃労働時間を他の生活時間に優先させる方策を打ち出している。そして余暇を企業社会において資本が労働者に対して精神的肉体的限界まで剰余価値を搾取するための社会的必要条件として位置づけ、これに従って労働者の「余暇」管理、余暇の消費過程の支配まで目論んでいるのである。
 かかる独占資本の新たな領域に対する攻撃に対して、著者は、「自由時間−−−それは余暇時間であるとともにより高度な活動にとっての時間である」というマルクスの言葉を引用しつつ、その「より高度な活動」とは、「目的意識性」、「目的生活活動(目的志向型)」、「人間的な共同関係の創造」をメルクマールとする「人間活動の本質」であるとする。またこのためには「自由時間を使用する人間的な力、自由時間の使用能力の形成」が不可欠であることを指摘する。
 そしてこのような労働者の自由時間、全面的発達を目ざす運動は、実は資本主義的大工業自体が発展過程において(社会的生産力の発展、労働者の全面的可動性等々によって)その客観的諸条件を可能性として形成しつつある。従って労働者は企業社会の原理に対して、「人間の原理」、「人間的共同の原理」、「自治的共同の統御」を全面的に打ち出すべきであるとされるのである。
 以上のように本書は、長時間労働の批判から、労働時間短縮の主張を通して人間的共同という将来への展望を有するものとなっている。人間の本質的活動が労働にのみ限定されず、その他の生活時間にも眼が向けられている現在、本書のように労働時間に焦点を合わせて問題を論ずるタイムリーな姿勢は評価されるべきであろう。ただ賃労働の克服が労働時間短縮をひとつの契機とするとはいえ、これのみにとどまらないことは明かであり、また独占資本の側からの強力広範囲かつ組織的な日常攻勢にどのように抗していくかについては、自由時間の目的意識性に加えて、労働者の側からの積極的かつ組織的な対応が重要な環を占めると考えられる。現在のところ本書にそこまで要求するのは無理であるとしても、本書が人間の生活活動を考察する上でひとつの指針を照らし出したことは確かであり、今後、自由時間・遊び・創造的活動等人間の本質を検討する際に示唆を与えるものであろう。(R)

【本の紹介】
『脱=社会科学 19世紀パラダイムの限界』I・ウォーラーステイン著、93年9月15日発行、藤原書店、5800円

<<「世界システム分析」論の提起>>
 国際政治経済学者でニューヨーク州立大学教授のイマニュエル・ウォーラーステイン、この名前を聞かれたことがあるだろうか。今、注目の学者であり、日本でも昨年、12月7日、国立京都国際会館で、京都精華大学開学25周年事業として開かれた講演会で満員の聴衆を前に「リベラリズムの苦悶」という講演を行っている。
 氏は、長期の大規模な社会的変化を研究の中心にする視座としての世界システム分析を提唱している。ここで提起される世界システム論とは、これまで分析の中心を占めてきた「国民経済」という経済単位では、世界経済の全体像を表現するには不十分であるとして、ヨーロッパに始まり全世界を覆うに至った世界システムとしての資本主義の出現に分析の中心を据え、そのシステムには中核(コア)、半辺境(セミ・ペリフェリ)、辺境(ペリフェリ)という三つの地域から構成される一つのシステムして見なければならない、その意味では世界システム分析は、19世紀社会科学の批判を目指しているという立場である。このように書くと、世界を三つの地帯に分けて、都市を農村が包囲するという毛沢東の「中間地帯」論を思い出させるのであるが、似て非なるものである。

<<19世紀社会科学の危機>>
 氏は、われわれは今、史的システムの危機の只中にあるという。「構造的な緊張があまりに大きくなったために、結局システムそれ自体が消滅せざるをなくなるような状態、しばしば100年から150年間の期間を要する移行期、資本主義世界経済から何か別のもの、おそらく社会主義的な世界秩序であろうが、危機への移行期に生きているのである。」
 それはとりわけ19世紀社会科学の支配的な見方の危機として取り上げられる。そうした支配的な見方とは「世界システムとしての資本主義の出現の結果でありまたその支えともなった知識のシステム、ニュートン、ロック、デカルトによって体系化された、人は理性によって、普遍的法則という形態での真理や正確さに到ることができるという信念」である。
 ここでウォーラーステインは、こうした見方に対置するものとして、以前にも何度か紹介したことのあるI・プリゴジンの自己組織化論、複雑性の科学を取り上げる。「この新しい根底的な批判の代弁者の一人であり、社会科学にとっての意味をも熟知しているのは、イリヤ・プリゴジンと、かれのいわゆるブリュッセル学派である」。「自然を、普遍的法則によって支配される、単純な現実に還元することはできないこと」、「ハイゼンベルグの不確定性原理はミクロ的な現象にだけ当てはまるものではない」ことを主張する。
 そして氏によれば、「世界システム分析は、種々の社会科学の批判として登場したが、それはまずもって、1960年代を通じて世界中で社会科学を支配しているようにみえた発展段階論と近代化論の批判として登場したのである」。

<<政党マルクス主義の危機>>
 ここで当然、マルクス主義も批判の爼上に乗せられる。「マルクスの思想は、政党マルクス主義によって組み立てられた解釈に従って、政治経済学批判の追究であるよりは、支配的な認識論の一部となり果ててしまっている」。
 そして社会主義運動は、つまり「マルクス主義者たち」は、「三つの主要なメッセージを引き出したように思われる。1=資本主義世界の経済的及び政治的過程に占めるプロレタリアートの中心的地位。しかも工業プロレタリアートだけが剰余価値を生産し、「鉄鎖の他は失うものは何も持たない」。2=最「先進」諸国の先進性。資本主義とは、それ以前の諸形態に対する「進歩」を示すものであった。ここからヨーロッパ中心主義は単に正当であるだけでなく、必須でもあった。3=商人資本と産業資本の区別の経済的重要性。一定の国における商人資本に対する産業資本の勝利はとにもかくにも進歩的」という、周知のメッセージである。マルクス主義を、あるいは社会主義運動をこのように単純化、図式化することには当然問題のあるところであるが、それらを克服し得なかったことは事実といえよう。
 この点についてウォーラーステインは、一方では「わたしはここで、もう一人のマルクスに、19世紀社会科学の支配的な見方に抵抗したマルクスに立ち戻ってみたい」として、いくつかの論点を上げているが、ここでは省略する。
 いずれにしても、氏は「世界システム分析は、発展主義、自由主義的・マルクス主義的合意、そして最後にはニュートン的科学観念、これらに対する批判であり、こうした考え方からどう自由になるか、自己を解放しうるかということを目的としています」と強調する。

<<反システム運動の危機>>
 同様の批判は、反システム運動にも向けられる。「反システム運動そのものが資本主義世界経済の産物であった。結果としてその運動は自らの行動によって世界システムを掘り崩しただけでなく、この同じシステムを支えもしたのである。したがって、世界システムが危機にある一方で、それに対抗する反システム運動も危機にあり、さらに付け加えるならば、このシステムの分析的な自己反映構造、つまり科学も危機にあるのである」。
 そして反システム運動の存在にもかかわらず、「世界経済の境界の拡張は、新たな低賃金労働の統合様式として機能するようになった。その統合様式のために、実際にはどこか他のところで実質賃金の上昇が埋め合わせられ、そうして世界的平均を低下させたのであった」。
 反システム運動の中では、「一方で、発展は国内的平等の推進、つまり根本的な社会的(あるいは社会主義的)変革を意味すると考えられていた。他方では、発展は先導者に「キャッチアップ」していくことを含む、経済成長を意味すると考えられていた」のである。
 しかし、何らかの形態の空間的な不等価交換、半周辺地帯の構造的な存在、賃労働とならんで、非賃金労働が大きくかつ持続的な役割を演じている点、そのシステムの組織原理としての人種差別や性差別の根本的な重要性が、反システム運動の中では忘れ去られてきたが、これらは世界システム分析にとっては、決定的に重要な地位を占めている。

<<第三世界、階級、エスニシティ>>
 ウォーラーステインは、「第三世界というように呼んでいる、階級−エスニシティの(つまり国民−階級の)下層がまさに世界レベルで存在していること」の重要性を指摘する。今日の世界で「階級−エスニシティの下層」をもたない国家の名前は一つも思い浮かばない。「下層がいたるところに存在するのは一体なぜかを問うのみならず、たいていの場合その下層がエスニックな次元を有しているのは一体なぜなのか、を問わねばならないのだ」と主張する。
 そして「人種差別と低開発はジレンマ以上のものではないだろうか。わたしのみるところ、それらは史的システムとしての資本主義世界経済の構成要素となっている。それらによって、史的資本主義の存在理由である、不断の資本蓄積が可能となる。それらをともなわない資本主義世界経済の概念を構築することは不可能である」と強調する。
 先進国の賃金に比べて、10分の一、50分の一、100分の一という国が数多く存在し、しかもその人口は先進国の何倍にもなるという現実、そしてこれらの諸国は低賃金労働でしか世界に対抗し得ないという現実、さらに難民や移民、不法入国、出稼ぎ労働といったさまざまな形態を通じて先進諸国の最底辺の最も低賃金な労働に組み込まれている現実を見るならば、この指摘の重要性はますます高まってきているといえよう。

<<「史的社会科学を建設すべし」>>
 ウォーラーステインは、このような分析の上に立って、われわれは「システムの危機の只中にいるが、この危機は目には見えるが予想のほか緩慢な速度で進展する長期のものである、と言いたい。その方向を予想することは出来るが、確信はもてない。だが、方向に影響を与えることが出来る」と主張する。
 そして「現在われわれは長い移行期に生きており、そのなかにはそのシステムの矛盾があるがゆえに、その機構を調整し続けることは出来なくなっている。この時代は、そのシステムの旧来の仮説にもとづいては理解できない時代である。世界システム分析とは、史的社会科学を建設すべしという要求である。その史的社会科学は、移行の不確実さに違和感をもたず、善が不可避的に勝利するという信念をたよりにする手段に訴えないで、さまざまな選択枝を明らかにすることによって、世界の移行に貢献するものである」と提起している。
 世界システム論という言葉の中に、何か形式論的で自己完結的な、還元論的な色彩を感じるのであるが、既成社会科学に対する批判は鋭く、本質的でもある。氏の言う史的社会科学の建設、19世紀パラダイムを超える新たなパラダイムの構築に向けた呼びかけは傾聴に値するものがあるのではないだろうか。
(生駒 敬)