アサート 203号(1994年10月15日)
【書評】 新説・ロシア的聖霊非合理主義者レーニン(?!)
  ---中沢新一『はじまりのレーニン』(岩波書店 1994.6.1発行)
  「すべてに逆らってレーニン。20世紀の廃虚に、レーニンの笑いがこだまする。無底としての唯物論、誰も書かなかったレーニン」(『はじまりのレーニン』帯より)と銘うたれた、レーニンと唯物論と弁証法に「関する」本が中沢新一によって書かれた。社会主義の崩壊以来とめどもなく落とされ続けてきた、唯物論哲学、マルクス主義、レーニンの評価にまた新たな投石がなされたのである。しかも今回のそれは、あきれかえるまでの神秘化の衣をまとったレーニンを描き出し、彼をロシア的聖霊非合理主義の教組に祭り上げている。
 中沢のやり方はこうである。レーニンについてのエピソードの中で、彼の「笑い」は特異な位置を占め、その人柄をしのばせるものとされている。しかしその「レーニンの笑い」は、時として「いじわるで、悪魔的な、おそろしい笑いだった」、あるいは「なにかとてつもなく『客観的』なものが破壊的な冷や水をあびせているような感じなのであると記録されている(クルプスカヤ他による)。そのことは、実はレーニンが、「思考のそとにあるもの」「原始的で言語にあらわせないもの」(トロッキーの記録)のごく近くにいたことを示しているのではないか。というのは、中沢の引用する思想家バタイユ(1897〜1962、フランスの無神論的実存主義者)によれば、「人間の意識が未知のものではなく、知りえないものに触れ、それが意識の中に侵入を果たすとき、人間は笑う」からである。中沢は、この「知りえぬもの」、精神の「その外にひろがる無底の宇宙」への通路を開くものこそ「レーニンの笑い」であり、「笑いが開くその無底の空間を、レーニンは『物質』と名付けた」とするのである。つまりレーニンは、「笑い」によって、哲学の概念や言語によっては把握も表現もできないものに「思考のセンサー」で感応し、これを「物質」と名付けたというわけである。中沢はここで、レーニンの「物質」を、合理性をこえた(合理性の底を突き抜けた)ものとして位置づけ、ここからレーニンの唯物論を再検討しようとする。
 それでは何故このような解釈が可能になるのか。その経緯は、中沢によるレーニンの哲学的見解の変遷をたどることによって明らかとなるとされる。それによれば、レーニンは『唯物論と経験批判論』において、マルクス主義のマッハ主義的改変を批判し、物質概念について「われわれの意識の外部にある」、「客観的実在」という規定を提出した。しかし「それは、無限の深さと、無限の力能と、無限の階層性と、無限の運動をはらんで、人間の意識の外に、実在している」と規定され、このことが取りもなおさず、レーニンが意識の外にある「物質」に触れていることなのである。そしてこの概念が後に、未完の『哲学ノート』においてその通俗性を脱して「レーニン的『物質』」とされるにいたるのである。
 中沢によれば、「レーニン的『物質』概念は、ヘーゲルの「精神(ガイスト)と共通性を有し、ヘーゲルの客観哲学があらゆる観念論を無効にしてしまうように、普通の意味での唯物論を、破壊し完成するもくろみを持っている。」すなわち「レーニン的『物質』とは、思考からも客観からも過剰した、なにものかなのだ」、「それはまた普通の唯物論の言う『もの』ではない」のである。
 そして同時にここに、ヘーゲルの「精神(ガイスト)」との根本的な差異が指摘されることになる。それは、古代ギリシャの「はじまりの哲学者」であるヘラクレイトスなどの語った弁証法と、近代観念論哲学の語るものとの「微妙で根本的な異質性」である。すなわち「はじまりの哲学者」においては、「生と有の本性」を絶えず問直し、次々と「立ち現れるもの」(存在=生命の根源)を瞬間的に露呈させることが弁証法であるとの認識が存在していた。換言すれば「過剰したもの、破壊されざるもの、純粋な差異であるもの、まったき力であるものの運動が、弁証法の手に触れていく」ことが彼らにはあった。しかしこのことは、ヘーゲルの弁証法においては実現されなかったというのである。そしてその理由は、「プラトン以後(ヘーゲルにいたるまでーー引用者)の哲学は、はじまりの哲学者たちの存在思想がもっていた、底なしの『暗さ』を忘却することによって、がっしりとして堅固なその存在論の大神殿をつくりあげることができた」ことにある。すなわちプラトン以後の西洋哲学は、存在と生命の無底の根源への問いかけに蓋をし、底をつくることでその暗闇を閉じ込めてきたのである。
 ところが今やレーニンが、彼の「物質」によってこの存在(有)の底を踏み抜こうとしている。「私の考えでは、レーニンは、『素朴』なヘラクレイトスの弁証法の背後に、ヘーゲル的な『精神』によっては堰とめることのできない、ある別種の運動を感知していたのだ」。中沢はこう書くことで、レーニンの唯物論を、「自然と生の無底の運動にむかって開いていこうとしている」哲学として描き出す。そこから結果するものとは、「はじまりの哲学者のもとで守っていた、あの素朴さとディオニュソスの力」であり、「亀裂の発生した『精神』の底部からは、暗い存在の底からの『物質』の運動がいきおいよく吹き出してくる」ことになる。換言すれば「裸の客観、むきだしの真実」こそが、中沢のいうレーニンの思考の本質であって、「レーニンはそういうものを、弁証法的唯物論と呼ぼうとした」というのである。ここまでくると、まさに何をか言わんやというところであるが、この徹底した非合理観ーーそれは後にニヒリズムにつながることになるーーが、中沢レーニンの依って立つところである。
 そしてこの「暗い思想家」レーニンは、次に示されるように、さらに様々に根拠づけられることになる。
 そのひとつは、中沢の心酔するドイツの神秘主義哲学者ヤコブ・ベーレ(1575〜1624)の思想を通して語られる三味一体論である。ベーレは、「根拠のない神」「無としての神」を語り、そこから独特の精神の発達過程を展開する。それは大雑把にいって、無(底なし)〜求め・あこがれ〜「底」〜「ガイスト(霊)」〜中心・心臓・ロゴスというプロセスをとるが、この無底に立つプロセス全体が、父と子と聖霊(ガイスト)の三位一体説のペルソナ(性格)に対応していると考える。すなわち、父と子と聖霊の三つのペルソナは、一体となって、無底から底へ、底から世界へと展開する原理であり、「父が本質なのでもなく、子が中心をなすのでもなく、また聖霊だけが万能なのでもない」神として作用する。従って神には底がなく、人間にはこの三位一体を手がかりとして、神そのものの内に入り込んでいく、というのがベーメの思想であった。
 ところがこのベーメの立場は、実は古代において主張されたが、その後滅び去った東方的三位一体論と同じ内容を有しており、ローマ世界の正統キリスト教における立場ーー「父と子」が神の本質とされ、聖霊はこれに従属するとされる形式論理ーーとは全く対立する。しかしこのように、ヨーロッパでは一度埋葬されたはずの思想がよみがえり、ベーメを評価するヘーゲルを通して、そのヘーゲルを評価するマルクス、さらにはレーニンに継承されている、と中沢は主張するのである。ここにおける環は、またしても「底」(合理性の限界)を打ち破ることで触れることのできる「生命」であり、非合理的な運動である。中沢はこれを次のように語る。「マルクスとレーニンの『唯物論』が、ヘーゲルのかなたに切り開こうとしたものとは、『生命のようなもの』の『底』を破って、そこから生命そのものにたどりついていく、未知の思想の運動を発芽させることだった。概念には『底』がある。価値にも『底』があり、(中略)商品社会は生命そのものを隠す社会なのだ」と。
 かくしてレーニンの唯物論が、その「底」を打ち破ろうとする思想であるとすれば、その商品社会、資本主義社会の「底」を打ち破っていく現実の運動が必要とされる。そしてここにレーニンを根拠づけるさらなる理由、すなわちその運動である共産主義とその担い手である「党」が出現することになる。
 しかしこの場合にもまたレーニンの共産主義と「党」は、中沢によれば、従来の例にならって古代への先祖返りを行う。それが本書の最後を飾る「グノーシスとしての党」である。グノーシス主義とは、古代キリスト教の異端と呼ばれる思想であるが、その特徴は「現実の世界や宇宙(コスモス)の秩序をそのままで承認することを拒否」し、コスモスによって隠されてしまっている真実の神を、この世界を否定した外部に求めることを主張する。このグノーシス主義の立場と、商品社会のコスモスの「底」を打ち破り、異質なリアルを実現しようとするレーニンの共産主義の運動および「党」との類似性こそ、レーニンの構想した「党」の意義であるとされる。レーニンの「党」は、資本主義の原理とは全く異質なものでなければならないし、そのためにはそれを構成するメンバーひとりひとりが「底」を破っていく「戦闘的な唯物論者」でなければならない。そして「党」は、資本主義社会の「底」を破ることで、それを無低に向いて開いていくのである。
 かかる「党」は、中沢自ら述べているように、「ラジカルなニヒリズムを原理とする「党」であり、しかも「底」を破ることで存在自体を変革しようとする「生気あふれるニヒリズム」を持つとされる。まさしく「レーニンの『党』とは、われわれの世界に露呈した、無低からの発芽なのである。」そしてこの「党」は、既成のコスモスの秩序に飲み込まれてしまわないために、「純粋性と分割性」という2つの原理を与えられることになる。絶えず高温の純粋性を維持する流動体としての「党」は、異質の意識(すなわち「前衛」の意識)によって資本主義コスモスのラジカルな否定を実現し続けていくのである。そしてこの意識性こそ、現存する教会のコスモスに反対して、グノーシス(叡知)のみが人間に救済をもたらすとするグノーシス派との類似性を示唆する、と中沢は主張する。
 かくして今までさんざん述べてきたことを集約して、中沢は、「レーニン主義の三つの源泉」とは、「古代唯物論、グノーシス主義、そして東方的三位一体論」とするのである。賢明な読者諸氏には、中沢の主張の本質はすでに明きらかであろう。中沢は、レーニンの「物質」概念を手がかりとして、その合理的側面を全くの非合理的側面と塗りかえることで、ことごとくひっくり返し、古代と東方の衣裳を付け、「土くささを失っていない聖霊」を手にした「あのロシア性」のレーニンを描き出したのである。そのレーニンは、近代資本主義の「底」を打ち破る思想と「党」を率いて、コスモスの「底」の下に存在する無底をめざすニヒリストとして、「裸の客観、むきだしの真実」を求める。しかも中沢は、かかるロシア的非合理主義者レーニンを、次のように讃えるのである。「レーニンの思考は、無底である『物質』の運動そのものに触れていた。それと一体であることもしばしばだった。だから、レーニンには、いっさいの神秘主義がないのだ」と。
 「無底である『物質』そのものに触れていた」から「いっさいの神秘主義がないのだ」などと言うことは、中沢が、レーニンを純粋の神秘主義者に仕上げてしまったことを意味する。中沢は、このようにしていっさいの理性、合理主義と手を切り、ベーメの無底へと沈んでいくのである。中沢のような立場に立つ限り、無底の予感に恐れおののくか、現実の無秩序な破壊的ニヒリズムへとラジカルに進む以外に道はない。しかし「レーニンの笑い」は、中沢が本書の最初の方で引用した諸文献を読んでみても、そのような恐れおののきや無秩序なニヒリズムなど吹き飛ばしてしまうような、大胆且つ人間的な笑いであったとも考えられるが、いかがなものであろうか。(R) 

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