ASSERT 207号(1995年2月15日)
【投稿】 --大都市直撃地震の恐怖と教訓--
        阪神大震災と「大地動乱の時代」
【投稿】 長い復興・「平常」への道の
         ---芦屋市での数日--
【投稿】 厳しい時勢だからこそ明るい希望を持って
      --95春闘を巡る情勢について--
【投稿】 地方分権と政治改革(3)
【投稿】 女性問題ことはじめ

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(投稿)  --大都市直撃地震の恐怖と教訓---
      阪神大震災と「大地動乱の時代」

<「午前5時46分」>
 1月17日、その日は上下左右の強烈な、叩きつけるような激しい振動によって突如目を覚まされた。今何が起ころうとしているのか、これがさらにどうなるのか、今まで経験したこともない、立っても座ってもいられない、中腰で右往左往し、家族を呼び合い、ただおろおろし、これは大災害になるのではないか、火事が発生しているのではないかという恐怖の戦慄におののくばかりであった。振り返ってみれば、その後の余震に未だに極度に敏感になっているとはいえ、当初のその時間は10秒ほどだったのである。
 大阪でこのような状態であったのだから、震源地の淡路島、神戸、西宮、芦屋、宝塚、尼崎地域では事態はもっと破壊的であり、悲劇的であった。神戸の現地に足を踏み入れると、庶民の家屋やアパート群は軒並みといっていいほど押しつぶされ、ガレキの山に変貌し、残っていてもほとんど瓦屋根はずり落ち、1階部分はへしゃげ、傾斜し、あるいは亀裂と歪みを露わにしている。狭い路地の電柱は折れ曲がり、電線が垂れ下がり、火災の発生した地区では見るも無残な姿に一変していた。巨大なビルや工場も相当な被害を受けているが、あらゆる階層、地区、住民の弱い脆弱な部分に、弱者に被害が集中している。ビルの谷間で全壊していたある小さな家にたむけられていた花束には「千穂ちゃん、たくさんの思い出をありがとう」と記されてあった。

<「被害広げた開発行政」>
 神戸に住んで17年、その開発志向の異様さを警告し、地元新聞にも書いてきた早川和男・神戸大学教授(建築学)は、「被害広げた開発行政」と題して、「神戸市は株式会社といわれるほど商売にたけ、‥山を崩し、海を埋めて人工島を作り、売った。‥それに伴う山や海や生活環境の破壊には目を向けない。住民の反対運動や裁判闘争を、行政は「反対のための反対」などと無視してきた。行政が巨大開発とイベントに明け暮れていれば、市民の安全や生活の保障は後回しにされる。行政の最大の責務は市民が安全で安心して住み続けられる住宅と町をつくることである。それがこの町では切り捨てられ、戦災と見まがう人命の損失と焼け野原につながったのではないか。経済効率中心の都市開発が被害を甚大にしたといわざるをえない。‥・大地震でも倒れない家、延焼しにくく、消火活動の容易な術の構造、電気・ガス・水道などのライフラインの頑丈な共同溝、こういう町づくりこそが本当の震災対策であり、福祉の町づくりである」と書いておられる(1/21朝
日)。今最も必要な核心をついていると言えよう。
 今になって兵痺県内には多くの活断層が走っていて、かなり大きな地震の可能性が10年前から指摘されていたにもかかわらず、神戸市が防災計画上の想定被害を、意図的に低く抑えて「震度5」にしていたとか、「神戸市に地震はない。うまくやってくれ‥」などと
いう指示をしていた、活断層の分布地図を隠していたなどと暴露され、報道されているが、ついこの前まではマスコミあげて神戸市の企業精神を生かした自治体経営をもてはやしていたのである。こうしたことは多少の差はあれ、どこの大都市圏でも共通の姿勢であり、問題であった。しかし今回の阪神大震災は、自然のエネルギーを見くびり、最新の地震学の知見や警告をも無視してきた、人間の騎り高ぶった傲慢な姿勢を一撃のもとに叩きのめしたといえよう。ここから深刻な反省と教訓を得ないならば、そしてそれを生かさないならば、さらに巨大な悲劇が待ちかまえていることは確実であろう。

<1998年4月±3.1>
 昨年8月に発行された岩波新書『大地動乱の時代一地震学者は宰告する−』(建設省建築研究所国際地震工学部応用地実学室長・石橋克彦著)は、1月17日以降あっというまに姿を消してしまい、増刷が追い付かないほどのベストセラーになっているという。この警
告は、主として関東首都圏の巨大地震について述べているのであるが、今回の阪神大震災に照らしてみて実に的確であり、「そのとき何がおこるか」という地震災害の共通項にもとづいた想定と現実の一致には驚かされる。
 著者はマジックナンバー70年という地震発生の周期を、過去の詳細なデータと最近の著しい知見の発展をもとに検証し、西相模湾断裂の大規模な震源断層運動を、1560年から確認されている5回の年月をプロットするとほとんど一直線上に並び、繰り返しの平均年数が約73年でバラツキが非常に小さく(標準偏差0.9年)、地震や火山噴火といった現象としては驚くほど規則正しいことを明らかにしながら、前回1923年7月からすると、次回を1998年4月±3.1にプロットされるグラフを呈示する。その場合に考えられる最悪のシナリオを次のように述べている。
 「西相模湾断裂の最後の破壊(1923年)から7,80年経過する今世紀未から来世紀初めにM7クラスの小田原地震(神奈川県西部地震)が発生する。目下警戒態勢が取られているM8クラスの東海地震がその時までに発生しなければ、それが小田原地震に引き金をひかれて数年以内に発生する。その結果首都圏直下が大地震活動期に入り、M7クラスの大地震が何回か起こる。この活動期は、相模トラフで次の関東巨大地震が発生するまで長期間続く」。
 そしてこのようなシナリオが予想時期に発生しないとしても、21世紀半ばまでにほほ確実に東海・南海巨大地震が同時または連続して起こり、その場合には宝永や安政に匹敵する最大規模と予想され、過去にはみられなかった長大構造物の損壊や地盤災害が生じ、さらに中部・西南日本の広範囲の山地で地盤災害が顕在化するだろう、と述べ、「地震の災厄は、台風などと違って、進路が変わったり消滅したりすることはない。プレートが動いている限り、ひずみエネルギーの蓄積は続くから、先送りされればされるほど事態は悪化するのである」と強調する。

<「思い切った地方分権を!」>
 石橋氏は、「敗戦後の復興期とそれに続く高度経済成長−−一極集中の時期が関東地方の地震活動静穏期にあたり、しかも人類史上かつてない技術革新の時代に一致したことは、過去と決定的に違う要因である。その間に東京圏は、実際の大地震に一度も試されることなく野放図に肥大・複雑化して、本質的に地震に弱い体質になってしまった」ことを指摘し、しばしば「大正関東地震にも耐えられる」という言葉を開くが、「これは無責任な言い方である」と断言する。問題なのは、現代日本社会が、このような技術の限界をわきまえず、大自然に対する畏怖を喪失して、経済至上主義で節度のない大規模開発を推し進めていることであろう、と述べ、「関東大地震にも耐えられる」という言葉の蔭で、実は、「超高層ビルや先端的な都市基盤施設が密集する東京圏は、けっして大地震に万全だから建設されているわけではない。むしろ、無数の市民をいやおうなく巻き込んで大地震による耐震テストを待っている、壮大な実験場というべきである」と、悲鳴にも似た警告を発している。その警告のさなかに共通の特徴を持つ大都市圏である阪神地方に大震災が生じたのである。この警告は、さらに重大な危惧を持って原子力発電所の安全性についても発せられなければならない。人類全体を脅かす、地球的規模の危険性を有していることが現実のものとなってきているといえよう。
 氏は、事態を切迫する時間との競争であるととらえ、「21世紀に向けて、私連日本人も経済至上主義を改め、農林業・沿岸漁業を復権し、地球の一部としての日本列島の環境と自然力の回復をはかり、産業・人口・情報・文化的活動などが分散した多様で永続的・安定的な国土と社会を創るべきである」と訴え、そのためには「日本の国土と社会を望ましい姿に変えるためには、思い切った「地方分権」を実現するしかない」と主張する。それは地震学者として、地震工学がいかに進歩しても、短周期から長周期までの激烈な強振動と地殻の絶対的な隆起・沈降に抗して、超過杏都市の地盤と構造物と地域全体を耐震的・免震的にすることは不可能であるという確信からの繰言でもある。

<住民参加の地方分権>
 今回の大震災を機にここぞとばかり、「危機管理」や「非常事態法制」、「有事立法」の必要性が声高に語られ、自衛隊の活用に重点がおかれている。しかし事態の進行が明らかにしたことは、東京一極集中の中央集権制の弊害であり、それにもとづいたタテ割り行政の弱点が客室されたことである。災害にかかわる行政だけでも道路=建設省、鉄道など輸送機関=運輸省、車両規制=警察庁、消防=自治省、災害出動=防衛庁、電気・ガス=通産省、水道=厚生省、電話=郵政省など、受け持ち範囲はバラバラであり、それらを国家レベルで調整・統括すべき国土庁も寄り合い所帯で、協議機関にしか過ぎず、実行力を持たをい。自衛隊自身が初動からバラバラに行動し、そのもたつきは上に行けば行くほど事態の掌握カを欠いていたことが暴露されている。そもそも自衛隊は冷戦時代の軍事対決を理由に肥大化してきたものであり、災害出動の組織や装備を目的に訓練されてきたものではないし、災害出動はいわば余技にしか過ぎないのである。その余技であっても重要な役割をはたしたことからすれば、この際、自衛隊の組織や装備を根本的に見直し、災害復旧を専門とする「緊急援助隊」に質的に転換させることが必要であるといえようが、基本はあくまでも自治体を基礎においた消防部隊の質的な強化とそれを全国的にもそして今では国際的にも活用できる態勢の構築であろう。
 さらに重視すべきことは、政府のもたつきや行政の出遅れに比べて、被災地住民自身のすばやい協力体制やモラルの高い自治活動、在日外国人を含めた連帯活動、救助・消火活動、大量のボランティアの献身的な活動、そして数々の国際的支援などの全面的で積極的な評価こそが、今後の防災体制、都市改造に生かされなければならないことであろう。多様な形態での市民参加、住民参加の地方分権こそが問われているのではないだろうか。
                 (生駒 敬)

(投稿) 長い復興・「平常」への道のり
       −−芦屋市での数日−−

<<突然の職員派遣依頼>>
 1月の末日、もうすぐ一日の仕事が終わろうとしていた午後5時ごろ職場(市福祉事務所)にFAXが飛び込んで来ました。「地震のため福祉事務所(生活保護)の業務が滞っている。至急生活保護職員の派遣を求む!!」という内容でした。急きょ、職場で会議を行い、意見交換。
「うちも仕事があるのに行ってられない」
「近畿各府県に依頼しているからどこかがいくよ」
「他市が行くならうちも行こう」
「今年度は地震まで起こって、何にもいいことないなあ」(・・という八つ当たりの意見)
「困っているのは明らか。できるだけ行こう」・・・・・。
 いろんな意見が出た後、その日は「情報を集めて、他市と同等の対応」という無難(?)な所に到着。
 
 翌日朝、再度FAX。派遣依頼人数は前日の30人/日から80人/日。派遣依頼先は近畿各府県から、全国の都道府県に対して。今日中に返事を!!
 また職場で会議。出る意見は昨日と同じ。しかし、結論の方向は少し違う「最初の依頼は全ての市にあったが、全ての市が派遣するわけではない。どうせ回答するなら要請者の希望にあったものを」。戦後最大級の大惨事が身近に起こったため、「何かせなあかん」との共通認識があったのかも知れません。

<<交代で芦屋市へ>>
 結局、期間で2週間足らず、芦屋市へ交代で応援に行くこととなりました。
 芦屋市内の状況はマスコミの報道どおり。月並みですが、百聞は一見に如かず。途中の電車から見えたぷっつり切れた阪神高速。建物が傾き、立ち入り禁止の市役所旧館。地震から4週間経っても土砂で塞がれた道路。へしゃげた家は珍しくもない。路上に散乱するビルのガラス片。波打つ歩道。割れた道路。・・・・
 電車の中、隣で地図を見る若者「ボランティアですか?どちらから?」と聞くと「ええ、東大阪市からです。ぼく散髪屋です。40人の仲間で水の要らないシャンプー持って3カ所の避難所へ行くんです。」一人ひとりが何ができるかを考えているんだと感心。
 市役所も避難場所。執務場所の傍らで陣地を確保している被災民。顔をあげれば着替えをしている人。洗面所へ行くと歯磨き。段ボールで囲って寝ている人。壊れたロッカー、脇に押しやられたロッカー。職員も必要最小限いるのかいないのか、聞くのも気がひける。
 近くにいた福祉部のある課長さん「地震があってから、今日(2/13)初めて自分の席に座った」「職員を2つに分けて24時間交代、この体制が出来たのが地震後1週間目でした」。
 夕方、私に応援のお礼を言ってから救援物資の仕分けという次の仕事に向かう係長さん。「最初の1週間、何をやったのか、よく覚えていない」
彼らは、この状態をいつまで続けなければならないのでしょうか。

 炊き出しをしている公園、広場を数カ所巡る。2月の寒い昼、あっちにもこっちにも100人前後の列。芸能人もボランティア(石原プロのトレーラー、渡瀬恒彦も走り回っていた、なぜかカメラを向ける人も多かった。)「応援に来てもらって何も(歓迎)できない。これも勉強のうち、気分転換になったら・・・」と、公園・広場巡りをしてくれた職員。「お宅も地震で大変なんでしょう」と聞くと「わが家は何とか住めるようになったが、向かいの実家が潰れ、母が亡くなりました。私だけじゃなく皆さん、同じだから・・・」(大阪 T.T)

(投稿) 厳しい情勢だからこそ明るい展望を持って
        ・・・95春闘を巡る情勢について・・・

 いよいよ95春闘が、本番スタートした。とは言っても、突然の阪神大震災。労働側にとっては、出鼻を挫かれたような春闘スタートとなった。

[労資の主張]
 今春闘は、昨年末から労使間で舌戦が繰り広がれていた。経営側は「円高を背景とした基幹産業の海外流出には、日本の最高水準にある賃金コストにある」として、「雇用を確保するためには、賃金抑制が必要。当分の 間、賃上げはゼロ」と今春闘に限らず、将来においても「賃上げゼロ」を明言するに至っている。更に労働側の賃上げ要求の組み立て方式にも言及し、「物価上昇分を賃上げに上乗せすべきではない。賃金が上がらなくても生産性の向上分だけ物価は下がり、生活水準は向上する」と批判している。
 これに対し、労働側は「日本経済を安定した軌道に乗せるためには、賃上げは必要不可欠。適切な賃上げで消費回復・内需拡大を図るべき」と反論している。特に主要大手企業50社の別途積立金が、前年より3,550億円上回る12兆6,000億円となっていることを指摘し、「この額は、人件費総額の1.28倍に達し、労働側の賃上げ要求に充分、耐えられる」と主張している。
 実際のところ、賃上げと物価との関係においては、この間の賃上げ率以上に物価は安定しており、「賃上げが、物価上昇に拍車をかける」との経営側の主張は、破綻していると言える。しかし産業の海外流出による雇用不安については、そのことの原因が、これまでの労働側の賃上げ闘争にあると言うよりは、元々の国際的な賃金水準のアンバランスや国際経済トータルとしての円高の結果とは言え、労働側にとっても強い脅かしになっている。経営側の本音の思惑で言えば、賃上げ要求があろうが、なかろうが、より低賃金コストの開発途上国への流出を図るつもりであろうが、労働側への牽制としては、強い恫喝の口述になっている。しかし産業の海外流出が更に進めば、マクロ的に見れば、日本型雇用形態と言える年功序列体系が崩れ、それに替わる様々な雇用形態を生み出しながらも、結果として相当な雇用不安と社会不安を巻き起こし、更には日本経済そのものが失速してしまうことが予想される。その意味で産業の海外流出は、春闘論議とは別次元で、その歯止めと一定、社会主義的な産業政策が求められるのではないか。

[戦術上の特徴]
 連合は、今春闘で二つの大きな戦術の転換を打ち出した。一つは、賃上げ要求の率から額への転換で、その目的は中小と大手との格差是正にある。だが額方式にしたからと言って、中小経営側が要求に応じやすいとは言い難く、また要求額にも産別でバラツキが見られ統一要求額とはなっておらず、結果として従来からの「産別自決方式」の名の下に、相場形成の相乗作用の効果までは期待し難いものとなっている。しかし連合は、この額方式の転換は、将来の個別賃金方式の移行の過程として「是非とも格差是正が必要」との認識で位置付けており、今春闘の結果如何に関わらず、そのことの有効性について、明確な総括を行い、更に個別賃金方式への追求を図ることを前提に、積極的な評価を与えたい。
 もう一つの戦術上の転換は、打順の入れ替えで、従来からのJCが前面に出るパターンから私鉄・電力・NTT等の公益事業が、前面に出る戦術に変更した。これは、JCの厳しい経営状況に鑑みて、不況の影響が少なく、支払能力のある公益事業を前面に出すことで、有利な相場形成を図ろうとするものだが、公益事業の経営側が、実際にJCよりも早く回答額を提示するとは考え難く、その実効性となると極めて乏しい。その上に、突然の阪神大震災。こうした公益事業にも大きな打撃を与え、せっかくの、この基本戦術の転換も破綻したと言える。

[阪神大震災と95春闘]
 阪神大震災は、95春闘にも大きな打撃を与えた。前述の基本戦術もさることながら、とにかくも盛り上がろうと春闘準備を進めていた労組にも冷水を浴びさせるような出来事で、旗開きを取り止めるところや、今春闘は見送りを囁く労組も少なくない。ましてや被災地の中小企業を中心に失業・雇用不安が増大し、賃上げどころではないと言う様相だ。本音のところで連合も頭を悩めているのが実態であろう。
 しかし、せめて明るい展望をと提言するならば、次のことぐらいは言えるのではないか。例えば、明らかに大震災により情勢は変わったとの認識の下に、平時の春闘から震災救援・復興春闘に切り替えることであろう。その中味の一つとしては、雇用・生活対策も含めた総合的な復興対策(いわばニューディ−ル政策)を政府よりも大胆に提起し、結果として、より強く内需・個人消費の拡大を求めること。もう一つは、復興には大量の様々な労働者の動員が必要なことに鑑みて、経営側にも一定の賃上げによる早期妥結を求め、労使共に安定的な救援態勢の構築を提起すること。更には、そう遅くない時期に復興景気が来ることを予想して、秋闘も念頭に入れた通年戦略・戦術を検討・提起すること、等々が考えられる
 いずれにしても、余りにもショッキングな出来事だけに、本当に厳しい春闘ではあるが、それだけに創意・工夫しながらも裸の闘いで乗り越えることを期待したい。 (民守 正義)

(投稿) 女性問題ことはじめ

 アサート読者で性差別に関心のある方はどれぐらいいるのでしょうか。僕は労働運動を考えていくなかでフェミニズムに出会い、徐々に魅かれていきました。なんといっても“深い"のです。「単なる一つの分野」というより、日本的経営、働きすぎ、福祉、教育等の諸問題と大きく結びついているのです。ここでは働きすぎの問題と絡めて少し説明してみます。
 日本人が働きすぎていることは、完全週休2日になっていないことによって19日分、有給休暇が少なくその消化率も低いことによって20日分、欠勤が少ないことによって9日分、その他残業などの分を合わせると合計年間で約500時間、3カ月分ドイツより多く働いていることでも明らかです。何故こんなに働くのでしょうか。
 原因はいろいろあります。会社の強制力という直接的な理由もありますが、むしろ問題は「仕掛けられた自発性」とでもいうべき、強制されつつも本人が内面化している発想の問題です。つまり、「どうせ仕事は多いんだから残業してでもやってしまおう」とか「休むと仲間に迷惑かけるから」あるいは「残業を断ると出世に響く」「真面目に働いて家族を養うのが男の責任」と考えて残業長時間労働をしかたなくやってしまうのです。この背景には、労働組合が、要員や仕事量、昇進昇格などに規制力を持っていないことがあります。再度、労働組合の再生が求められていると言えましょう。また、家事・育児・介護を妻に任せることができるが故に、男性労働者は長時間労働ができるという問題もあります。
 この間題を考えるとき、いわゆる男女関係の問題を組み込むことが決定的に重要です。ところが依然として、男と女には特性があるのだから性別分業はあって当然と考える人がほとんどです。しかし近年の研究では、男女の差(ジェンダー)は社会的に造られるものであり、「結婚」は決して普遍的なものではないことが明らかにされています。今私たちが異性愛性分業結婚を受け入れているのは、とても時代の制約を受けています。簡単に言えば男女の性差が大きく、性差別が大きいほど結婚のメリットは増大します。男女が自立するほど、結婚のメリットは低下します。つまり本能・自然というより、「結婚をしたら得だ」という条件が多い時代というだけのことなのです。
 さて、この性分業があると、家事・育児は女性の役割となりますから、男性は別時間フルに会社人間にならざるをえないことになります。「子どもがいますから早く帰ります」といっても「奥さんがいるだろ」と言われてしまうのです。会社は「家族賃金」「扶養手
当」として妻子を養う家族分まで払っているのですから、男性社員には心置きなく残業をしてもらうつもりなのです。
 また、男性は家族を養うという責任を持つので、首を切られないよう働きつづけ、出世競争に頑張らざるをえなくなります。年功賃金のもとでは査定による出世の差が大きく年収の差などに結びつくのです。
 つまり、男性は競争に勝たねばならない、強くなくてはならない、妻子を養わなくてはならない、リーダーシップを持たなくてはならない、感情を出してはならない、寡黙でなくてはならないといった、「男らしさ」秩序に縛られてしまうことになります(この点がいま「男性学」として大きく発展しています)。この点を根本的に考え直さないで「時短一般」を唱えていても駄目です。
 この性別役割分担には、その他いろいろな問題があります。まず女性が働くときに男性と同じような賃金や労働条件を得ることが難しくなります。「女性は養ってもらう」ことが基本とされるからです。補助的な労働やパートなどの悪い条件でしか働く場所がなくなります。
 また「女らしさ」というステレオタイプが押しつけられてしまいます。家事・育児・介護の負担がすべて女性の肩にかかり、それをタダでやっても当然のことにしか過ぎません。それ以外をやろうとすると「わがまま」とされます。長時間働いても経済力がないので、自己決定カがなく依存的にならざるをえなくなります。
 性分業が肯定されると異性愛結婚も肯定されるため、それ以外の選択をしたとき−-離婚した者や独身者、ゲイ・レズビアン等−−に不利に扱われます。
 ではどうするか。経済と家族の現実は、いま大きく変わりつつあります。昔の性分業家族モデルに合わせているだけでは、「働きすぎ」問題にしても、「女性差別」問題にしても解決しないでしょう。
 したがって「働かざるをえない状況」を変えるには、もう一度労働者一人一人、女と男ひとりひとりが、原点に立ち返って、自分がどのように何をして生きたいのかを明らかにする必要があると思います。カントは、「虫けらになることを受け入れたものは、踏みつけられても文句は言えない」といいました。自己主張をする個人が増えないと、会社や組合などの社会構造は変わりません。個人は暮らしている社会の影響を受けますが、その社会はそれを構成する個々人によって刻々と改造されていくようなものなのです。
 この「主張する個人」のことを「シングル」と呼びたいと思います。そして、従来の性分業の社会秩序を変えていくには、性役割に捕らわれず、自分のしたいことを自覚し、それに向かって努力する「シングル」が増えていくしかないでしょう。そしてそれを援助する社会システムを「シングル単位社会」と呼びたいと思います。これは、今までの社会が性分業を組み込んだ「家族(カップル)単位社会」であったことに対応した呼び方です。言い換えれば、多様な生き方を認めあうためには、各人の共通要素である「個人(=シングル)」を単位にするしかないのです。制度としては、介護や育児も社会化し、高齢者や児童や障害者自身の権利として社会保障体系を作り替えることが必要となります。「主人/主婦役割からなる家族」というものを解体していくことが必要なのです。「専業主婦」や「妻役割」を肯定するような「ものわかりのいい」ものではないと思います。「家族」「性・セクシエアリテイ」をめぐる問題は、第1級の政治的課題なのです。これは古い左翼にはなかった思想です。
 しかし、このことは言うは易く行うは難しです。従来の秩序から離れると、「受け身的姿勢」ではいられず、各人は不安定を受け入れなくてはなりませんし、自分で方向性を決め、創造力を培っていかなくてはならないからです。役割でなく、個人を生きなければならないからです。親でも子でも、妻でも夫でも、まず自分を持たなくてはならないからです。
 でもこれは各人が自由を手に入れる希望でもあります。「シングルになる」とはそうした「創造的な営みのことでもあるのです。そうした試みや努力と結びつくことなしには、真に女・男がゆとりをもち、楽しく働き生活していく民主主義社会を造ることはできないでしょう。

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 性差別を考えていくと、(家族)というものについて考えざるをえませんでした。驚くほど「家族肯定」「異性愛肯定」があふれていました。性別分業はあっても、女性も「カを持っている」「評価されている」「庶民の女性はしたたか」という見方は非常に多いのです。「男女の対等なパートナー」「セックスは全人格的コミュニケーション」といったカップル幻想・エロス幻想も非常に多いのです。セックスを生殖に結び付けることによる「ゲイ・レズビアン排除・変態視」は無意識的・意識的に前提でした。「わかったように言う人」はもちろん、いわゆるフェミニストや左翼や労働組合運動家、民主的市民運動層、革新系政治家でさえ、そうした家族にまつわる現在の有り様を無前提に所与のものとしていたり、疑ってもいない場合がほとんどなのです。家族の中の「人間的な暖かい心の交流」が、権力や貨幣と対抗的な価値と思われているのです。
 でも、それは思考の中断の結果でしかないとおもいます。女性が「家のなかでしたたか」でも、性別貸金格差にはつながるということがあるのです。セックスが成りたつ背景には、対等でないく女と男>という2分法に基づく幻想があるのです。「女」「男」という
意識(性的自己認識とそれにもとづく性的志向性)自体に既に抑圧関係があるようです。「全人格的でない要素」でセックスをしているのです。家族はそうした「男制、女制」を再生産する場でもあるのです。つまり落とし穴が<家族)<性別分業>にはありました。(愛)に落とし穴があるように。男女が職場と家庭を単に相互乗り入れするだけの問題ではないということです。このことは保守派(宗教勢力、右翼)がこぞって家族や愛や性役割を肯定していることと結び付けて考える必要があります。女性が「家のなかでしたたか」ということと、ゲイ・レズビアン差別やシングルペアレント差別とを切り離して考えられるとおもうのはオネボケです。
 この点を深めないで、今日の「人権」を語れるとは思いません。「会社人間」になることと「結婚する」ことには、秩序の観点から同じ根があります。私たちが「自由」なつもりでいて、いかに秩序に囚われ、秩序にそって思考し、秩序の上位へいこうとしていることか。そんなことでは、近代自体が生み出している差別の構造は乗り越えられないでしょう。「男らしさ、女らしさ」というものを受け入れることは、同じ意味で、今の社会に全く受け身的です。それでは民主主義は呼吸できません。
 ではどうするのか。そういう立場で僕はこの度『性差別』と資本制』(啓文社)を書き上げました。今までフェミニズムに興味のなかった人も是非読んでやってください。この本では、民主主義の方向性とは、制度においての従来の幻想を解体することにあるということをいいたかったのです。とりあえずは制度的秩序を具体的に解体していくこと。制度において、この私たちの幻想を幻想と意識すること。それしか現実的に性差別を乗り越える展望はもてないと思います(それでも完璧はありませんが)。そしてその上で、長期的には、ジェンダーやセクシュアリティを意識し解体し新しく作っていくこと、その意味での多様性を認めることしかありません。
 「シングル」とはそういう「秩序から逸脱するスタイル」のことです。民主主義の単位のことです。「シングル(個人)単位」という言葉には馴染みがない方も多いかと思いますが、いまフェミニズムや福祉制度、家族法、税制度関連分野では徐々に共通認識になりつつある重要な概念です。
 『性差別と資本制』の構成はこレギュラシオン理論を援用し、従来のフェミニズムをめぐる諸論争をカップル単位制度の観点から整理・再評価することで、本書の基本的考え・基本概念・自説体系を提示するT章、サービス経済化・ME化や現在のカップル単位の具体的諸制度といった現状を中心に、蓄積体制に対応した家父長制の歴史的推移と内容をみるU章、家事労働の無償性の解明を通じて再生産構造の経済学的把握を試みるV章、結婚と家族の機能分析などを通じて、カップル単位と性差別の関係を解明するW章、カップル単位からシングル単位社会へというパースペクティプで、生産/再生産構造の再編成を展望するV章から構成されています。また、補論1では、上野千鶴子氏の「二元論型マルクス主義フェミニズム」を、統一論型マルクス主義フェミニズムの立場で批判的に検討しています。
 本書は家族単位社会がなぜ性差別的なのか、またシングル単位社会とはどのような社会であるのかをはじめて総括的に展開したものです。単純な「男VS女」でなく、新しいフェミニズムの表現です。労働問題だけでなく、行政や教育を考えるうえで非常に実践的な政策提起にもつながっていますので読んでみて感想をお聞かせください。(ヒロユキ・イダ)