ASSERT 233号(1997年4月19日)
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投稿 沖縄・特措法と保・保大連合

<平成の琉球処分>
 4/11、米軍用地特別措置法改悪案が衆議院の9割の議院の賛成で可決され、参議院に送付された。これによって事実上、沖縄県収用委員会の審理、採決を無視して、国側が一方的に強制使用が必要と判断すれば、「暫定使用」の名の下に永続的に基地使用が出来ることとなった。
「橋本首相は、沖縄の米軍基地の使用の継続、日米安保条約の義務の履行、安保体制の堅持という大きな”手土産”を持って24日に訪米、クリントン米大統領との首脳会談には笑顔で臨むことであろう。しかしこの笑顔づくりのために、いかに沖縄県民の心と声を踏みにじったかを知るべきである。」ーーこれは同法が衆院を通過した翌日の琉球新報の社説の冒頭部分である。
 また沖縄タイムスの社説は「政府は、同法改正に当たって『必要最小限の措置』と説明しているが、その内容は、県民の反基地感情を強圧的に抑え込み、犠牲と差別をさらに強要するものと言わざるを得ない。「平成の琉球処分」と言ってもいい。」と述べている。
 これは沖縄県民の圧倒的多数の声と言えよう。ところが、この沖縄の主要2紙に対して、4/9の衆院安保土地特別委員会で、新進党の西村真悟議員(大阪17区)らは、この2社の幹部に一坪反戦地主がいることを取り上げ、「はっきり言って普通の新聞ではない。偏向と言われても仕方がない」、「戦後史の長い間、二つの新聞に振り回されている」、「沖縄の心がマインドコントロールされている」などといった、沖縄の人々の心をまで侮辱、愚弄する参考人の意見が展開された。こうした新聞批判を超えた「”常識以前”の参考人を推薦する政党、また、その意見を拝聴する国会、選良の常識とは何なのだろうか」と琉球新報は問いかけている。

<『大政翼賛会』の再現>
 大田沖縄県知事も、「多くの国会議員が、沖縄県民の切実な願いを自らの問題として受け止めていない結果、こうなったのではないか。非常に残念です」と述べている。同知事は4/12から約2週間の予定で直接米国を訪問、橋本首相が求めようともしない在沖縄米軍の削減を求める必死の努力に対する回答が、その直前に合わせるかのように急いで可決された日本政府と国会の仕打ちであった。
 ところが、この4/11の衆院本会議で、自民党広報委員長でもあり前自治相でもあった安保土地使用特別委員会の野中委員長が、その委員会報告をする際に、「圧倒的多数で法案が可決されようとしているが、「大政翼賛会」のようなことにならないよう若い方にお願いしたい」と発言したのである。それまで思惑通りに進む議会場で上機嫌だった新進党の小沢党首は憮然とした表情に一転、会議後、発言の削除を求め、梶山官房長官はあわてて記者会見、「大政翼賛会と今日の事象を混同するのはナンセンスだ」として露骨な不快感を表明、急遽開かれた衆院議院運営委員会は問選の発言を削除してしまった。野中氏の当然の危惧と配慮を生かすどころか、発言の事実そのものまでなかったことにしてしまうという、まさに戦前の軍事ファシズム下の言論抑庄を地で行くような「大政翼賛会」の行動そのものが展開されたのであった。圧倒的多数の国会議員はそのことを問題にもせず、ただただ見過ごすという情けない事態が進行している。
 小沢氏や梶山氏は、野中氏の発言に対してなぜそのょうに焦ったのであろうか。彼らが今や一心同体で行動していることは、まぎれもない事実であり、その伏線はすでに引かれていたといえよう。

<政治の決断と割り切れば>
 彼らは相当以前から密かに連絡を取り合い、梶山官房長官が「5月14日までに特措法を上げないとクリントンは橋龍を見限るかも知れない。ここは天下国家のため協力して貰いたい」と切り出すと、小沢一郎「分かりました。心情は以前から一緒です。私も腹をくく
ります」と応じた、という(「週刊現代」4/5)。
 きらに小沢側近の平野参院議員は「実は中曽根氏が、3/26小沢党首と秘密会合、今回の合意シナリオを措き、橋本首相との間を仲介した」ことを明らかにしている。またもや保保連合で暗躍を続ける中曽根氏である。そして同氏は、3/29の金丸一周忌の集いで
「情を振り払い、国家統治の原則を確立しなければならない。暫定使用はやむを得ないが、いずれ国家意思を厳然と決定しなければならない」とぶちあげたのである。
 かくして、沖縄米軍用地特別措置法の国会提出前夜の4/2夜、首相官邸で橋本・小沢会談が設定され、「いっちゃん、ビールでも飲まないか。僕はウイスキーのお湯割りにしよう」−と、沖縄県民の心を踏みにじり、それを酒の肴にした密室の中の謀議は3時間半に
も及んだのである。その中から出てきた「合意」が「基地の整理・縮小・移転等を含め、国が最終的に責任を負う仕組みを誠意をもって整備する」(第三項目)であった。橋本首相自身が表面上は、「残酷に見えるかも知れない」とつぶやいた同法について、暫定使用どころか、「国が最終的責任を負う仕組みを整備する」、つまり地方自治体から米軍基地についての全ての権限を奪う方向でこの時に合意したのである。
 小沢氏は、翌4/3の法案提出日に、「首相とは認識がかなり共通していた。首相は本気だ」と党の会議に報告し、法案そのものについては何の検討もしないで、橋本首相との合意事項を条件に法案賛成を決定し、ろくな審議もしない採決だけを急ぐ協力ぶりを露骨に表明。
 このところあらゆる局面で求心力をなくしてきていた小沢氏は、これを挽回の絶好のチャンスと捉えたわけである。小沢氏は、安保・軍事に関することは国の専管事項として、地方自治体や収用委員会等の一切の関与を排除するべきであり、今回の特措法では生ぬる
いと主張し、そして「土地収用法とは違う法体系を整備することは、政治の決断と割り切れば難しいとは思わない」(4/9会見)とまで極言するに至ったのである。

<一つになるのが当然だ>
 保保連合への動きはさらに加速しているといえよう。3/27、自民、新進両党の若手議員64人が、「日本の危機と安全保障を考える会」を旗揚げした。新進党からはほとんどが小沢側近の31人が参加、同党側の藤井代表は「安保問題で第一党と第二党が共通の基盤を
持つのは国益として大事だ」ともはや与党側の姿勢である。「新保・保連合」をとなえる亀井静香氏は、「自民党の安全保障政策と重なり合う部分は社民党よりも大きい。橋本政権としてこれを活用する以外ない」と自派グループの議員をこの会に送り込んでいる。
 4/2には、自民党の「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」(小渕会長)と新進党の「靖国神社参拝議員連盟」(渡部会長)が合体して、合流、自民党の名称と会長を引さ継ぎ、会長代理となった渡部氏は「日がたつと夫婦喧嘩でも兄弟喧嘩でも輿曹がさめて
くる。一つになるのが当然だ」と、自民・新進一体化への期待を語りだした。
 日米安保体制をめぐっては、朝鮮半島有事の際の米軍の後方支援などを想定した日米防衛協力の指針(ガイドライン)の見直し期限が11月に来る。自民党の軸足が「安保優先」に傾く限りは、いずれ自民党と新進党による政権の組み替えが浮上する公算が大きくなってくるといえよう。自民党内でも9月の党総裁選を背景に「保保連合」の機運がさまざまな確執を生じさせながらも急速に拡大してくるであろう。6月までの今国会を通じて、社・さとの与党連合よりも、自民・新進の政策、課遁ごとの「部分連合」が前面に登場し、9月以降、保守大連合政権の樹立が現実味を帯びてくることも予想される事態である。焦る部分からは、5月の連休明けにはおかしくなっているのではないかとまで言われ出している。

<白昼公然たる怒鳴り合い>
 もちろん、事態はそう単純には進むものではない。
 自民党自身においても、加藤幹事長グループと梶山グループとは白昼公然たる怒鳴り合いまで演じており、保保連合派においては小沢との密約で、次期首相は橋本ではなく、小淵か梶山を想定しており、矛盾は逆に拡大しかねない。新進党はさらにいっそう複雑である。保保大連合への合流は、結党以来掲げてきた「自民党を打倒して真の改革政権を樹立する」という目標に対する敗北宣言でもある。そうしたこの間の事態の進行から公明系は完全に外されており、ついに別の政策集団の旗揚げに踏み切っている。新進党でただ一人、今回の特措法案に励寸した白保氏(公明系)は、「地元では新進党が賛成に廻ったことにものすごい反発が出ている。期限切れになったから延長するなんておかしい」と公言している。民社系議員に対しては、支援している友愛会が、保保連合に賛同すれば支援を打ち切ることを通告している。細川の日本新党グループはもはや小沢について行ける状態ではない。
 なにしろ自民・新進保守大連合が仮に成立すれば、先の衆院選挙では、小選挙区300議席の内、両党で265議席を占め、それだけで安定過半数を確保するという事態が生じるのである。危険極まりない連携、連合は、さまざまな懸念と矛盾を拡大させ、いっそうの政局流動化と不安定化をもたらすことは間違いないといえよう。ある意味ではそうした事態の進行は、逆に対立点と問題点を明確にさせ、政策にもとづかないあいまいな状況よりは、より広い意味での政策選択の幅を拡大させ、「体制翼賛会」的な状況を打破する可能性を提供しているとも言えよう。しかしそれには、保保大連合に対決する、革新であれ、民主であれ、リベラルであれしっかりとした連合戦線が築かれねばならない。社会民主党や民主党は、それに応えるにはあまりにもふがいない状況である。

<打開のカギ>
 そもそも、今回の特措法問題に対しては、社会民主党や民主党側は、海兵隊の削減こそが、沖縄問題を打関するカギであることを正面から打ち出し、アメリカ側にそれを提起し、共通の議題とすることこそが要請されていたのである。冷戦体制崩壊後の今日、米軍の前方展開を年間6000億円も資金を提供して支えているような同盟国は今や存在していないのである。
 たしかにこの間、オルブライト国務長官(2月)、ゴア副大統領(3月)、コーエン国防長官、シヤリカシエビリ統合参謀本部議長(4月)など米政権要人の来日が相次ぎ、圧力をかけていたことは間違いない。しかしその一方で、海兵隊の地上兵力をハワイや米本土に移転することは耶巨であり、沖縄に常時艦留し、訓練を続ける必要もない、ということは米国内で公然と議論の対象となっており、その現実的可能性まで具体的に論じられているのである。
 J・プリアー米太平洋軍指令官などは、「朝鮮半島で和解が成立すれば、当然日本での兵力水準について話し合いをすべきだ」と、「朝鮮半島統一前でも米軍の削減に向けた協議を始めることが出来る」ことを明言し、また海兵隊の訓練を沖縄から日本の国外に移転することについても「現在より頻繁に沖縄を離れ、別の場所で訓練することは、今後有り得ることだ」として、オーストラリア北部をすでに視察し、候補地の一つとして考えていることまで明らかにしている。(3/27ホノルル司令部での朝日新聞インタビュー)
 昨年、ハワイ州の知事は「ハワイで海兵隊を3万人でも5万人でも受け入れましょう」とのメッセージを大田知事に送っている。
 こうした事態があればこそ、大別中縄県知事が直接アメリカに出かけ、具体的な打開の努力をいわば孤軍奪闘で展開しているのである。保保連合に反対するのであれば、それに対抗するリベラル大連合を目指すのであれば、冷戦体制崩壊後の平和・安全保障政策を大胆に提起し、大田知事を支えるような具体的な行動のイニシヤチブをとるべきではないのだろうか。 (生駒 敬)

(投稿)新保守主義を許さない民主リベラル勢力の結集が必要だ

 生駒さんの巻頭文書では自民橋本・新進小沢会談による国会絶対多数による特措法成立へのプロセスが論じられている。「保・保連合」への動きを中心に中曽根・梶山などの「保・保推進」派に焦点をあてているわけだ。
 私は、旧来の「野党」的体質に先祖帰り(もともとそうだったのかも知れないが)しながらも、「与党で有り続けたい」という社民党の態度に疑問を持ち、加速するであろう保保連合に村抗する必要性に焦点をあててみたい。

社民党と保・保連合
 沖縄米軍用地の暫定使用を認める駐留軍用地特別措置法(以下特別措置法)が4月11日衆議院本会議で可決された。衆議院議員500名の内9割近くの賛成があり、野中広務をして「翼賛議会にしてはならない」と言わしめるほどとなった。その大きな原因は予想されていたとは言え、衛撃的な4月3日の「橋本・小沢会談の3項目合意」である。
 5月14日の借地期限切れを前にして、5月政変の議論はこれまでに流布されてきた。自民党単独では過半数が取れず、新進・民主・共産が反対をした時には安保条項でもあり、橋本政権の正念場であった。そういう意味では、安保政策を変更した社民党の対応如何にかかっている、というのがマスコミの論調であった。
 しかし、野党第一党である新進党は、オレンジ共済問題に主犯の友部議員、さらに細川前首相に疑惑が波及、離党者が相次ぐなかで、「現在の新進党は膨らむ一方の不良資産を抱えて、経営破綻寸前の企業を思わせる」(2月23日日経)と報道される程、「結束か瓦解か」というところまで「停滞」し、地方でも「新進党では選挙にならない」状況にまで陥っていた。消費税5%を含む97年度予算も早々と成立してしまう。特措法への対応についても、新進党の中では、自民党に対抗して「特措法反対」を決めた場合、オレンジ共済問選や相次ぐ離党問選など一連の党的弛緩状態を背景にして、「特措法」賛成に走る議員がでることが確実視されており、小沢党の存続をかけて決断をすることが迫られていたわけである。そして社民党は3月末、「特措法には反対だが、閣外協力は続ける」方針を決めてこうした新進党の状況を見て取った自民党内の中曽根・梶山などのタカ派グループに根回しされ、「自民・新進部分連合」が進められ、「歴史的和解」が決行されたのではないか。こうした経過を見てくると、社民党の対応は余りに子どもじみてしょうがない。
 そんな社民党であることは、最初からわかっていたこと、という意見もあるだろう。しかし、現在の政治状況の特質と今後政治の舞台で議論されるであろう、日本の構造的変革を議論する過程では、「自らの主張」をただ正直に貫くだけで、「唯一の野党です」みたいな議論では徹底的に不充分であり、むしろ犯罪的ですらある。新保守主義への純化が果たして可能かどうか、の議論も必要であるとともに、新保守思考勢力を如何に分断させ結集を許さない全体の流れをどう誘導していくのか、という意味での政治的センスが問われている、ということを言いたいがためである。
 こうした中、社民党は「特措法には反対だが、閣外協力は存続、自社さ政権の一員」「特措法には反対して、民主党より支持率があがった。これで都議選・参議院選挙が闘える」などというような「狭い」政治的判断での対応では、いかがなものか。よしんば「保・保連合」の動きがいずれ出てくるとしても、その流れを如何にして食い止めるか、の戦略・議論が必要ではなかったか。
 新聞論調も、特措法反村でも閣外協力を続ける、という社民党に対して、政権離脱を鮮明にしてこそ、国民の理解と支持が勝ち取れると批判しているが、ことはそう簡単なものではないとは感じるているのだが。

部分連合が加速化する背景
 言われているように今後具体的な政策を巡る「部分連合」的な動きは、今後加速する勢いである。高齢社会を迎えての国民負担率の議論、負債400兆円と言われる国家財政の再建をめぐる議論、出口の未だ見えない経済低迷と労働法制の改編をめぐる間道、行財政改革と地方分権をめぐる問題においても然りである。これらのいずれについても基本的なところで、自民・新進の間には極端な政策的村立は見られていない。むしろ政党の垣根を超えた「旧竹下派総結集」の動さもあり、部分連合や政策協調への傾斜は確実と言える。
 加藤・山崎などの自社さ推進派にしても、今回の社民党の特措法反対の事実は、党内での立場を厳しいものにするだろうし、オレンジ疑惑を抱え傷つき支持低下が著しい新進小沢も「改革派」勢力であることを示せるならば、安保問題・行財政改革・財政再建課題などでは、この動きを強めることになるだろう。
 今通常国会の後半には、医療保険改革法案、公的介護保険法案、金融監督庁設置法案、の審議が控えており、年内には財政再建関連法案が出てくる。すでに自社さに加えて民主が、医療保険改革と公的介護保険で大枠の合意に達しており、財政再建法案では、村山・武村を加えた「財政構造改革会議」が審議入りしていることから、この枠組みは変わらない。ただ、小沢は今国会期末に出される財政再建法案の骨格に対して、新たな部分連合または政策協調の用意があると述べている。

都議選・参議院選挙結果がどうなるか
 おそらく総選挙は今後1年以上は有り得ないという状況の中で、自民党を中心にした部分連合という形が続く場合、危惧されるのは、結局大胆な改革が行われず、国民への負担増がじわじわと進んでいく危険性である。さらに自民単独過半数に程遠い参議院の議席状
況から、来年の参議院選挙までは表面的に自社さの枠組みが維持される中で、今回のような部分連合・政策協調が重ね合わさり、その行き着く先には何があるのだろうか。予想にしかすぎないが、日本をめぐる経済・社会・財政の激変に対して、新保守主義に純化していく部分とそうでない部分という形で、自民・新進を貫く中で再編か起こるのかどうか、ということが注目すべき点であろうか。(この部分は、昨年11月号での総選挙分析議論を参照されたい)。おそらく今後、日本の選択肢をめぐる焦点が益々「新保守主義」をめぐる議論に傾斜していくことが必死であろうからである。
 そういう意味では、第2次橋本政権による97予算、消費税UPと国民負担の増大、そして沖縄特措法などに対して、国政選挙に匹敵する影響力を持つと言われる今年の夏の都議選には注目する必要があろう。
 そして、新進党が分裂する場合、旧公明と旧民社がどう動くのかにも注目する必要がある。旧公明グループの「平和と平等」指向と「政権への権力」指向という二面性については、いずれも過小評価できないし、旧民社・友愛グループに対しても「労使協調」の側面だけで論じられるべさではないし、労働組合・労働者の既得権についても「大胆なメス」を入れようとする勢力との分岐についても注意する必要があろう。連合が民主・新進の股裂き状態を危惧し「連合新党」的指向で議論をしていることも、中々進まない状況が伝えられているが、新進に楔を打つ意味でも進められるべきである。

民主党・社民党の取るべき態度
 話しを戻してみる。「政治スローガン」としての「特措法改正反対」は誰でも理解する。民主党の5年間の時限立法の修正案提案も私は理解する。しかし、社民党については特措法審議の過程を通じて、確実に政治世界での「存在感」を失ってきているのだ。「反対野党」としての存在感はあったにしても。さらに今回の「保・保部分連合」の口実をつくった責任の一端は、社民党にもあるという側面は否めないのである。
 昨年の総選挙の結果として社民党に与えられた任務は、自民・保守勢力ヘのチェック機能であり、過半数への「キャスティングボード」を握ることだったが、今回の部分連合が、それを無意味にしてしまったのである。
 これまで述べてきた私の感想的な文書の流れからでてくるのは、おそらく自民・新進を貫いて、保守の分裂ないし再編は必死だろう。それに対抗する「民主的部分」の大同団結を準備することが、政権の中にいようが、野党にいようが必要だ、ということだ。「民主リベラル勢力の大同団結」を準備し、旧公明・旧民社も視野に入れた政策論議が必要だと考えるのだが。(佐野)

書評 ヤクザの視点から見た日本人論
  ヤコブ・ラズ著/高井宏子訳
『ヤクザの文化人類学−ウラから見た日本』(岩波書店、1996・11・20・発行、2987円)

 日本人とは何か、日本社会の本質とは何か、について数多くの日本人論・日本社会論が出されている。本書もそのうちの一冊といえよう。ただ本書のユニークさは、その手がかりとして、日本社会の中心から排除されて周縁を形成している集団とされるヤクザを取り上げたことにある。そしてそこにかえって日本社会の本質的特徴が逆照射されているとする。
 著者によれば、ハイデガー同様、「他者とは所与の出会いにおいて暫定的に捉えられた自己の一形態」「自己の変形」であるとされる。「したがって他者であると規定し、その性質、つまりイメージをそれと指し示すとき、その規定の仕方は規定する本人の状況と深く関わっている」。それ故この前提を本書の主題にあてはめるとき、著者の主張があらわれる。すなわち

「ヤウザは日本人の中心的自我の−つの変形であり、逆もまた真なりと言える」。
「私の考えでは、ヤクザは伝統的社会から排除され拒絶されてはいるが、多くの点で日本人の文化的な自己の一部であって、しかも周縁とは言い切れない一部である。二つの社会が似ているからこそ排除や拒絶が起るのである」。

 このことを著者は、ヤクザにかかわるアイデンティティとその呈示の仕方を検討することで解明しようとする。
 ヤクザのイメージが、一方では、ヤクザ映画のヒーローや寅さん現象によってつくられる美学的放浪者であり、他方では、ヤクザジャーナリズム(実話誌)や極道文学によって宣伝きれる暴力的な集団というものであるように、ヤクザのアイデンティティとその呈示の仕方は、「排他性と包含性の二極間を往復して」いて、「どちらも一貫性に欠け恒常的でもない」とされる。
 すなわちヤクザの「自己の呈示とはあるアイデンティティがあってそれが呈示されるというだけでなく、呈示そのものがアイデンティティに含みこまれる」のである。したがって「ヤクザの歩き方、話し方、服装などの自己呈示は、「完結し確定したヤクザ」という自我を表わしてなどいない」ということなのである。
 換言すれば、「生得的なヤクザという人格などありえない。新参者はヤクザという人格を外見的な行動様式によって形作り、そしてそれを内在化するのである。つまりヤクザという人格は外見から始まって、内面へと広がっていくのであり、それゆえに後得的に獲
得される人格といえる。その意味ではそれは人格というより、獲得された(外的な)行動様式である」ということである。
 そしてこのときに重要な役割を果たすのが、「ヤクザという烙印」であり、「逸脱」である。しかしこの「烙印」と「逸脱」は、一般社会(中心社会)との関係を抜きにしてはあり得ず、「中心社会の貼るレッテルの多くは、他者を作らずにはいられない必要性に基づいており、またそこから生じる次の必要性--中心社会の成員はこれらの他者とは異なっていて、その行動や振る舞いは別だと証明する必要性−に基づいている」。つまり中心社会の裏返しとしての周縁は、まさしく中心社会そのものによって形作られるのであり、しかもその周縁に位置する「ヤクザは、自らすすんでヤクザの烙印とイメージを自己のアイデンティティの中心にしている。一般の社会で用いられる言葉に劣らず強い言葉を使って自分たちをヤクザだと宣言する。実際カタギの人々が自己をカタギであると宣言するのと
同じようにヤクザは自分がヤクザであると宣言する」。このような逆転したメカニズムの中に、ヤクザは自己の存在を正当化する理由づけを確立していくのである。この意味で「ヤクザは日本人の中心的自裁の一つの変形」である、と著者は述べる。
 そしてこのような中心/周縁関係は、日本社会において地域社会が存在していたことによってその関係・境界がある程度明確なものとされてきたとされる。
 ところが1980年代の中頃から、そして1992年の暴力団対策法の施行によって、上記の関係は決定的に変化した、と著者は見る。すなわちその結果は、ヤクザの活動が暴力化し、警察の対応が厳しさを増し、また社会の方でもヤクザに対して逸脱性や犯罪の概念が先鋭化したことなどである。ヤクザに対して「暴力団」という呼称を与えてひとからげにレッテルを貼ったことも、この一つの例といえよう。かくして昔風のヤクザ
は姿を消し、ヤクザは、ますます暴力化していく「新しい日本のギャング派」か、あるいは合法または非合法の「ビジネス派」か、の対照的な二つの方向に分かれてきている。
 そして著者は、「ヤクザが日本社会でこのまま許容され続けるか否かは、最終的には、警察が決めることではなく高度の政治的判断によって決定されることである。組織的犯罪を完全になくすためには膨大な資金とはるかに強力な法の制定が必要である」と締めくくる。
 以上のように著者は、ヤクザについてのフィールドワークを通じて、「『カタギ』とヤクザの間に、腐敗企業などに関するレベルよりはるかに深い類似性がある」ことを明らかにしようとした。この点でわれわれ一般の市民の眠から見たヤクザ像よりもはるかに多面的かつ現実的なヤクザ像を提供し、それが通常の世界を補うもう一つの世界であることをかなり鮮明に示したといえよう。このことは日本人論としても特異な位置を占めるものであろう。また個々のケースにも興味深いものがある。
 しかしながら、本書において決定的に不十分な諸点も存在する。それはまず、ヤクザが「日本的」なものをあらわしているというとき、「日本的」という言葉の意味する内容そのものの不定義、曖昧さである。また用語の問題でいえば、ヤクザの意味する内容(博徒、テキヤ、極道、暴力団、遊び人、右翼等々の区別と関連の問題)の曖昧さであり、著者がいう「ヤクザは心の一つの状態であり、一つの役割である」ということを認めるにしても、日本社会でのこれらそれぞれの位置が異なり/重なっていることの解明が不可欠であろう。
 次に、著者の知り合ったヤクザの親分個人への共感・思い入れは理解できるが、ヤクザは、例外的に一匹狼であってもヤクザという集団に属し、ましてや圧倒的多数は組織に属しているという事実が存在する。
従ってヤクザ理解は、現代では組織の問題を抜きにしてはあり得ない。儀式・因習のかたちをとるとはいえ、ヤクザ組織は近代化せざるを得ず、組織暴力もこの視点からしか見ることができないのではないか。ギャング派にせよビジネス派にせよ事情はそれほど変わらないと思うが、本書においては組織への言及はない。
 さらにはヤクザをも含むもっと大きな権力との問題が存在する。ヤクザと権力がウラの世界でつながっていることは社会周知の事柄である。ヤクザの活動資金の大きな部分を占めるこの世界との関連は、しかし本書の手に余ることかもしれない。ただ本書の中で法の強化について引用されている阪大法学部本間教授の次の発言が象徴的である。

「そのようなことを成し遂げるには、まず日本の中枢部の中でヤクザを道具として容認ないし助長してきたー派と対決することから始めなければならないだろう」。

 本書は、現代のヤクザというよりも、少し前の古風なヤクザを分析検討した書という方が適切かもしれない。(著者自身も「あとがき」のなかで「その意味においては、本書で述べたことの多くがすでに過去の歴史となっている」としている。)しかし「日本では、法の道徳(厳密な法の世界)と共同体の道徳(社会的な共感の世界)の間に、一種の裂け目があるのだ」という指摘は的を射たものであり、この裂け目を埋める「顔の広い人」・調停者という意味でのヤクザの役割は、残念ながら現代においてもなお大きいと言わねばならない。(R)

(投稿) ごみ焼却場からダイオキシン・・問われる清掃行政

 先日衝撃的な調査結果を厚生省が発表した。発ガン性や催奇形性などの強い毒性が指摘され、今年2月に国際保健機構(WHO)も「発ガン性がある」と断定したダイオキシンについて、全国のごみ焼却施設の1150施設の排出濃度を公表したのである。その中には、厚生省の暫定基準を上回る施設が72(6.3%)もあったのである。
 厚生省は、調査結果の発表と共に72施設について改善を求め、改善できなければ廃止するよう求めている。
 今回の調査は、茨城県新利根町や埼玉県所沢市などの焼却場近くの住民が自らダイオキシン調査を行い、その力が厚生省と自治体による調査を実現し、また調査結果を公表させることとなった。容器包装リサイクル法が施行され、ごみ減量化がさけばれる中で、新た
に清掃・環境行政に課題を明らかにしたことになる。
 今回、改善を指示された施設は、いずれも1日の処理能力が100トン以下で、24時間連続稼動していない施設であって、小規模なものが多い。焼却機内の温度が900度を下回る場合、ダイオキシンが発生することは科学的に実証されているのである。
 さらに、今回の調査はあくまでも自治体の焼却施設を対象に行われたのであって、民間の廃棄物処理施設や民間の工場内の焼却施設は調査されていないのである。また、ごみ焼却場の新規建設は地元住民の反対などもあり、なかなか建設が難しくなっているため、た
とえ廃止をしたとしても、厚生省が求めている、広域の自治体が協同して大規模施設の建設も実際には中々進まない、という状況にある。
 また、これまで一部の自治体では、ごみ減量化ということで各家庭に小さな焼却機を配った経過もあるわけだが、これも900度にみたない温度で焼却する場合は、ダイオキシンが発生ということになるなど、混乱が予想されている。
 今回の調査結果の公表は、ことが重大なこととは言え、公開・改善廃止の指示が行われたことは評価できる。しかしながら、依然として大量のごみが焼却場に持ち込まれ、減量化が進んでいないこと。また、ペットボトルやアルミ缶、ビンなどの分別収集による資源化努力が、行政・住民ともに徹底されていないなど、日本の清掃・環境行政に新たな間道を提起している。(S)