アサート 237号(1997年8月23日)
【書評】 『ロシア・ソヴィエト哲学史』
    (ルネ・ザパタ、原田佳彦訳、クセジュ文庫、白水社、1997.4.25.発行)
 ソ連の崩壊とマルクス・レーニン主義の権威失墜が認知された後、社会主義についての関心は急速に薄れたとはいえ、人類社会の本来目指すべき社会主義については、過去の批判的検討を踏まえて、地味ながら新たな研究と運動が進められている。それは従来の社会主義観の伝統と権威抜きに、自らの力で進んでいく運動でもある。
 本書は、そのような状況下に提出された旧ソ連(=ロシア)の簡潔な哲学史であり、小冊子ながら第一部「ロシア哲学」と第二部「ソヴィエト哲学」から構成されている。その3分の2を占めるのが、1920年代までを扱う「ロシア哲学」である。
 著者の立場は、「そもそもロシア哲学は初めから、国家と民族としてのロシアの本質、そしてロシアの歴史的使命、さらには、西欧に対するロシアの任務に関する、情熱的な問いを巡って展開されているということも思い起しておかなければならない」というものである。
 すなわちロシアにおけるヨーロッパ哲学は、長期にわたって「借用と批判の対象」であったことにより、ロシアの独特な現実を考察する研ぎ澄まされたカテゴリーをつくり出し、またこの現実に関する論争的で激烈な性格は、ロシアの思想家たちに事態の改変への貢献をうながしたのである。さらにはロシアにおいては「文学言語の形成と文学の隆盛と哲学の誕生が、ロシア民族意識の出現という、いっそう広範な歴史的文脈のなかで同時的に起った」こと、しかもそれが過酷な検閲を前にしたことで、ロシアでは、文学作品・批評によって哲学的信念を表明するという慎重な態度が形成された。「したがって、プーシキン、ゴーゴリ、ドストエフスキー、トルストイの作品が、ロシアの多くの思想家たちにとって、西欧の大哲学者たちの作品と、少なくとも同じくらい重要な典拠の眼目となった」。
 このことはソヴィエト時代のイデオロギーにも流れているとされる。
 「チェルイヌイシェフスキーからレーニンまで、そこには明らかに血縁関係があるのだ。また、ボリシェヴィズムは・・・ロシアの具体的現実へのマルクス主義の《適用》の単なる政治的表現だったというにはほど遠い。それはむしろ、ロシア・インテリゲンツィアの批判的・革命的伝統、1840年代から1880年代にかけて強化された伝統の延長なのである」。
 この著者の評価が当たっているかどうかは論議の必要があるが、すくなくともロシア哲学の一定の特徴を突いているであろう。
 さて本書は、ロシアにおける哲学の始まりから、エカテリーナ・世により啓蒙哲学を概観し、19世紀の諸論争を検討する。それは1825年のデカブリストの失敗で始められるが、その意義は、「ロシア人に欠けていたもの、それは自由主義的傾向でも悪弊の自覚でもなかったのだ。自分たちに率先して行動する熱意を示してくれるような前例が、ロシア人に欠けていたのである」と総括するゲルツェンの言葉で示される。
 また19世紀半ばのインテリゲンツィア内部での、ロシアの西欧化をめぐる二つの流れ──スラヴ派(キレーエフスキーなど)と西欧派(ベリンスキー、バクーニン、ゲルツェンなど)──の対立(西ヨーロッパにおける1848年の革命の挫折の評価=そこに西ヨーロッパの衰退を見るか、それとも政治姿勢の急進化に移るか)についても、 「スラヴ派が1848年の革命を、ヨーロッパ社会が出口[解決策]のない道に入り込んだという事実を確証したにすぎない、と考えたに対して、ゲルツェンはそこに新たな革命戦略を引き出す可能性を見て取った。すなわち、この新たな革命戦略は、ロシアの特殊性を考慮に入れることと同時に、新しいタイプの革命家を必要とするものなのである」と評価する。
 そしてこの後、1860年代の新世代──人民主義者(ナロードニキ)と虚無主義者(ニヒリスト)──の中で、チェルヌイシェフスキー、ドブロリューボフ、ピーサレフが紹介され、プレハーノフの登場となる。しかしプレハーノフと彼が組織した組織(労働解放団)についての評価は、「無視できるほどのものにすぎない。非合法活動のために[プレハーノフの《労働解放団》より]よく組織され、とりわけまた、まさしくロシアの地に[亡命地ではなく]よく根づいた政治的諸潮流──そのなかに、レーニンに率いられた一派もあった──が登場してくる」とされる。
 この後の大事件は1905年の革命であるが、これに関連して、急進的知識人の多くが、この革命を自分たちの分析と政治機構の新しい形態(ソヴィエト)の実験場と見なしたのに対して、これを惨めな敗北、「ロシアの後進性、暴力性、偏狭性がすべて露になってしまった」と見る一部インテリゲンツィア──ストルーヴェとプルガーコフ──が、急進的インテリゲンツィアに対する批判とともに、もっと徹底して政治参加するために立憲民主党(カデット)を結成して行動したという話も興味深い。
 また1905年の革命後、「ボリシェヴィキは深刻な危機に見舞われ、その影響は1930年に到るまで及んでいる」とされる。そしてこの中で、プレハーノフが「社会変革における主観的要素[歴史における個人の役割]の絶対的役割を否定し、とりわけ歴史法則の不可避性を強調した」のに対して、経験批判論者たちは、「個人の創造的可能性に重要な場を与える人間的個性に関する総体的なヴィジョンを維持しなければならない」とし、そしてボグダーノフが、マルクス主義は社会生活に関する自然科学的な科学=学問であるとしてマルクス主義に組織的かつ実践的な性格を与えたいと考えていたと評価する。
 なおこのボグダーノフに対してのレーニンの『唯物論と経験批判論』による批判は、「経験批判論者たちの《新しい》哲学がマルクス主義の基本原理と──認識論の問題についても、歴史にかかわる問題についても──両立しない、ということを立証するためでもあった」とされるが、このレーニンの介入についての評価はなされていない。
 次に、ソヴィエト哲学については、「ソヴィエト哲学(決定的な特徴をもったソヴィエト哲学なるものは、1930年から31年になってようやく出現する)の形成過程は、長期にわたる──とりわけ、1920年代をつうじて──陥穽に満ちた道程であった」とされ、20年代の動き(ボグダーノフと「プロレトクルト」、「弁証法論者」(デボーリンら)と「機械論者」の対立、哲学のボリシェヴィキ化」(ミーチン、ユーじんら)が語られる。
 そして上のようなソヴィエト哲学の形成によって、「1930年代以降、ソ連には《もはや哲学は存在しない。哲学ではなく、国家イデオロギーの哲学的機能しか存在しない》と断言する」と著者は主張する。著者によれば、この国家イデオロギーの目的は、(1)「党の路線にいかなる変換や転換があろうと、そうした党路線の理論的保証の役目を果たすこと」、(2)第三インター加盟の「それぞれ雑多な要素からなる各国共産党の統一を──イデオロギー的に──強固なものにすること」であるとされる。
 この後、「ミーチンやジュダーノフの10年」、スターリンの『弁証法的唯物論と史的唯物論』の出版が続くが、スターリンの著作は「哲学への歴史のきわめて特異な従属──適用という従属」とされ、その弁証法的方法と唯物論的理論の区別と不均衡が指摘される。そしてスターリンによる支配の下での、ルイセンコ派の勝利、反コスモポリタニズム・キャンペーン、ケドローフ一派の追放などの、恐怖の雰囲気の結果として、「スターリンが死んだとき、ソヴィエト哲学界はまったくの事なかれ状態に陥っていた」。
 ここから現在にいたるまでの素描は、本書ではゴルバチョフのペレストロイカ時代までであるが、著者の眼から見ればこれも「ソヴィエトのイデオロギー体制に占める哲学機構の際立った地位が、ソ連における哲学研究が短期間のうちに深部にまで達するほどの変化を遂げる可能性をすでに疑がわせうることに変わりはないのだ」とされる。本書の原出版が1988年であり、その後のソ連崩壊を経た現在から考えると、この指摘通りになったといえよう。
 以上本書は、「ロシアの特殊性=独自性、ロシアの運命といった問題意識の統一性」という視点から「ロシアにおいて、哲学的諸問題に与えられる並みはずれた重要性」を軸に叙述された哲学史である。小冊子故の説明不十分な箇所もあるにはあるが、ソヴィエト哲学のコンパクトな歴史としては手頃なものであろう。(R) 

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