アサート 242号(1998年1月24日)
【書評】 近代日本社会の検討--機能・倫理・美をセットとする人工空間(コスモス)
      
成沢光『現代日本の社会秩序──歴史的起源を求めて』(岩波書店、1997.11.21.発行、2400円)
 「これまで一般に明治以降の日本の社会秩序は、政治的に『創られた伝統』を中心に考察されてきた。例えば天皇制や家族制度が、一見前近代的遺産を引きずるように見えながら、その実、維新以後の新たな身分・階級支配の秩序として構成された過程が明らかにされてきた。(略)/しかし、戦後の高度成長期以降、これらの旧制度が着実に衰退したのとは裏腹に、ここで言うコスモスは地域・階級・年齢・性の差異を超えて、なおいっそう強固にますます全面的に日本社会に浸透しつつある。それによって『近代化』という名の過剰が、人間の制御しきれない悪を生み出す構造が現われてきた。コスモスの外部(不潔で混乱した世界)は、ますます差別・侮蔑・恐怖の対象となっている」。
 本書は、「近代化」の名の下に形成された日本社会(コスモス)が、著しく速い速度で、かつ「伝統的」社会からの抵抗が弱いままに形成されたことに着目し、これの形成にあたって、軍隊と学校の果たした役割が大きかったこと、「秩序化が目的合理性の範囲をこえる傾向があったこと」(過剰秩序)、そして「日本では過剰秩序のための規律化に従うことが倫理的義務となり、さらにそうして実現される秩序は、美的秩序として意識されるか、あるいは無自覚のうちに浸透した」ことを指摘する。そしてこの結果として、この秩序(コスモス)は、「今日まで生き延びて、それとして意識されることもほとんどない程定着している」とされる。著者によれば、この制度に比べれば「いわゆる国民道徳や家族国家観など天皇制イデオロギーは、この『制度』を補強する役割を果たしたに過ぎない」。
 かかるコスモスはいかにして形成されたのか。著者はこれを、「時間・空間・身体・人間関係」という軸から考察(第一部「近代的社会秩序の形成」)し、さらにはその起源を、武家社会、近世都市社会および禅宗寺院との関連で探ろうとする(第二部「起源」)。
 このうち「時間」の軸からは、明治維新以降の社会秩序の骨組みとして、「時間の秩序」(太陽暦への切り替えによる人工的時間を日常倫理として啓蒙すること)、「時間割による行動規律」(定時に集団での一斉行動の組織──軍隊、官庁、学校など)、「速度にかかわる」時間秩序(成員の任務や行動が「速ヤカニ」「遅滞ナク」遂行されること)、さらには「全国統一祝祭日の新設」(「聖別された国家の時間即ち天皇の時間」の創設)等による人工的単一時間の秩序の形成過程が考察される。
 また本書の中心の一つをなす空間秩序に関しては、次のような秩序がなされたとする。すなわち「整理」「整頓」そして「清潔」という言葉に表わされているような「空間の人工的秩序化が身体の秩序と連動するものとして新たに認識された」ことが、大きな変化とされる。しかもこの場合、「自然の秩序が身体の秩序をも貫くのではない。人為的に構成された空間の中においてのみ、身体の秩序は維持されるという論理が誕生したこと」が重要なのである。このことから明治以降、「汚穢、悪臭等『混沌』『混乱』の要素をできる限り中心から排除することが、空間の政治学となり美学となる」。端的に言えば、「見た目にキレイで、水のヨゴレ、空気のヨゴレを衛生的に処理した世俗空間を拡大することが、近代的秩序の論理となる」。このため中心から排除されたヨゴレは、周辺に移動することになったが、これを外部に隔離し管理することで内部・中心への侵入を防ぐことが国家の政策とされた。かくしてハンセン病患者や精神病者の隔離が進められていく。
 このような空間秩序は、さらに「開放性と閉鎖性の二重構造」(開放され広がった世界の中での島的存在──軍隊の内務班、寄宿制学校、監獄等の拡大)をその特徴とし、「明るい空間」(これは「清潔」の色である白に通じる)、「空間の人工化」(すき間、路地、空地、野原等の縮小)を招くこととなった。
 次に身体の秩序が問題になる。これは、「身体の規律化」(軍全体を機械として動かすための個々の身体の部品化と、健康への強制をその内容とする)としてあらわれる。そしてこの際には、「力によって精神を覚醒させ、純化強化できるとする観念の働きも見てとれる」──これが体罰につながることは明らかであろう──とされる。
 人間関係の秩序では、上下関係の秩序における「下位者の全人格的『服従』が常に強調され」、「命令内容の不言実行も『服従』の基本とされた」こと、および「何らかの自発性を喚起するために、内面倫理が強調された」ことが指摘される。
 かくして著者は、近代日本の社会秩序について、「時間・空間と身体の中に刻みこまれた規律こそ秩序を支えていた」、そして秩序に従うことが生理的快感、美意識のレベルでの満足をもたらしたことから、「〈秩序への衝動〉〈秩序へ向かう美的感性〉こそ体制の固い地盤となっていた」と指摘する。この結果として、美的なものが倫理よりも高く評価され(=礼儀とその形式が道徳よりも上にくる)、秩序の過剰性が現出せざるを得ない」とされる。これは、「異物、ヨゴレ、臭い、暗がり、ゆっくりしたもの、不揃いなもの、総じて秩序自身の副産物(あるいは排除したもの)に対する不寛容の度が、ほとんど無意識のうちに昂進する」と同義である。そしてわれわれは、この延長上に現代をとらえることができるであろう。
 以上本書の「第一部」を中心に紹介したが、このコスモスは、今なお現代を取り巻いている過剰な秩序感覚そのものである(形・色の揃った洗浄野菜の販売、学校での一糸乱れぬ集団行動の強制等々)。著者は、その起源をさらに探究するが、ただしこちらの記述はかなり読みづらい。しかし本書は、小著ながら、日本社会論で見落とされがちであったポイントを衝く書である。(R) 

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