ASSERT 243号(1998年2月21日発行)
【投稿】 金融危機とアジア的・日本的特殊性
【投稿】 98春闘を元気出して闘おう
【書評】 現代日本企業社会の暗部を衝くミステリー
         --高村薫『レディ・ジョーカー』--
【投稿】 戦後民主主義を問い直す(NO.4)

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(投稿) 金融危機とアジア的・日本的特殊性

<<「IMFに聞け」>>
 タイでは現在、「恋人と別れてどうすればいいの」、「IMFに聞け」という皮肉たっぷりのフォークソングがはやっているという。周知のように、巨額の対外債務を抱えるアジア諸国は軒並み事実上の「国家的不渡り」=デフォルト(債務不履行)に直面し、国際通貨基金(IMF)や世銀、日米欧の金融支援で事態を乗り切ることに必死である。そこには一昨年までの世界経済をリードするアジア・ニーズ、躍進する新興工業諸国といったイメージは消え失せてしまっている。
 中でも「四頭の虎」(韓国、台湾、香港、シンガポール)の先頭に立っていた韓国の事態の進展は象徴的である。
 昨年末の史上最大規模のIMF支援にもかかわらず、むしろIMFの融資条件順守(経常収支赤字を対GDP=国内総生産比1%以下、増税による財政の均衡と黒字維持、不良金融債権を抱える金融機関の整理)によって、今年に入って経済悪化がさらに急速に進み、信用収縮が一気に激化、預金引き出し、取り付け騒ぎ、優良銀行への移し替え、資金回収にともなう倒産が頻発、その中で財閥系マーチャントバンク14社が閉鎖に追い込まれている。
 事態の急迫にIMFも緊縮条件を緩和せざるをえず、急遽、短期債務250億ドルを政府保証の長期債務に振り替え、2/3には韓国政府が強く要望していた金利引下げにも合意、ようやく小康状態に入ったところである。
 しかしIMFはこうした一連の交渉過程で、債券市場の全面開放、敵対的M&Aの許容などを含めた外資の自由化を強く要求、外資を含めた合併・買収による金融機関の整理統合、さらには労働基本権に関わる解雇の自由化までを要求、事実上、欧米資本に、この機会に大幅に値下がりした優良企業や銀行を買いたたく絶好の機会を与えたともいえよう。まさに今後の事態の成り行きは「IMFに聞け」というわけである。

<<金大中新政権に立ちはだかるもの>>
 こうしたもっとも困難な最中に、金大中新政権が2/25に発足する。新政権は、金融情勢安定化のために、先進7カ国を中心とする80億ドルのさらなる追加融資、日米欧主要債権銀行との債務に関する個別交渉を提起している。国内的には、財閥と政権との癒着、保護主義の温床を断ち切ることに重点を移し、さらには財政経済院を頂点とする分野別縦割り機構を改革し、金融監督機能を財政から分離することを明らかにしている。
 こうした課題は、実に日本と共通するものを持っているが、はたして事態が改善されるであろうか。そう単純ではないし、基礎的条件がきわめて悪化させられていること、立ちはだかる分厚い壁はそう簡単には崩れるものではないであろう。
 なにしろ韓国の対外債務は96年末で1000億ドル程度にまで達していたのであるが、97年から98年にかけて通貨が50%強も暴落、ウォン建てで債務が80兆ウォンから170兆ウォンへと増大、90兆ウォンもの為替差損が発生しているのである。
 このウォン価値暴落の結果をGDPで見ると、96年のドル建てGDPは4800億ドル、これが今回の暴落レートで再計算すると、実に2300億ドルに激減している。国内総生産の半分近くにも達する対外債務はどのように努力したとしても返せるものではないであろう。韓国とIMFが支援条件に合意した昨年12月3日の直前には、韓国の外貨保有高はわずか37億ドルでしかなかった。にもかかわらず、これまで海外で調達した短期資金を直接東南アジアなどのリスクの高い案件に長期投資してきた結果、たとえばインドネシアへの債権は60億ドルを超えており、これ自身がもはや不良債権化しつつある。

<<現代版徳政令の必要性>>
 さらにその借り手であるインドネシアの場合を見ると、事態はもっと劣悪である。対ドル為替相場が80%強も暴落した結果、ドル建てGDPが2300億ドルから何と400億ドルにも急減し、これに対する対外債務が実に1400億ドルにも達しているのである。国内総生産の3倍以上もの債務など返せるはずもなかろう。韓国、インドネシア、タイ、フィリピンの5カ国でGDPは1兆1000億ドルから4600億ドルへと半分以下に縮小したことになる。
 これら諸国においては、少々の飢餓輸出、低賃金労働による貿易黒字程度では金利さえ払えなくなっているのが実態である。事態の本質的な解決のためには、債務負担を大幅に軽減し、為替レートの回復をはかるより他に再生への処方箋がなく、そのためには大規模な現代版徳政令、巨額の債務の棚上げ、棒引き、債権放棄が必要なのである。最大の貸し手としての日米欧資本の過剰で無責任な投融資のツケが、相手国の債務危機という形で自分たちに跳ね返ってきたのである。
 米国自身が96年末時点でも経常収支赤字が1480億ドルを超え、現状放置すれば米経常赤字が国内総生産GDP比2%程度から3%程度に増えることは間違いがない。他国にはGDP比1%以下を要求しながら、自らは基軸通貨の特権を悪用して赤字のドルを全世界に垂れ流して、他国の犠牲の上に我が世の春を謳歌するという構図がすでに受け入れ難い段階に達しつつあるとも言えよう。
 このことは、そのことによって日本的特殊性やアジア的特殊性として主張される情報秘匿の慣行、財閥と政権の密接な癒着構造、閉鎖的な独占的系列支配構造、政・官・財の腐敗構造が免罪されるものではないし、金大中政権の登場やスハルト政権の危機に見られるようにそれぞれの諸国においてもはや許し難い課題になってきていることをも明らかにしている。

<<「セッタイ」「ノーパンしゃぶしゃぶ」>>
 その日本的特殊性をまたもや全世界にさらけ出したのが、またかとうんざりするほど出てくる大蔵省と金融機関の癒着・汚職・腐敗記事の連続である。今や、「セッタイ」がそのまま新聞に使われる事態になった。「銀行や金融業界の重役による公僕セッタイは日本に充満している」(1/20付けUSAトゥデイ)と報じられ、この2/4付けウォールストリートジャーナル社説では、「官僚がノーパンしゃぶしゃぶで接待漬けになり、逮捕者、自殺者、辞任者が続出する日本最強の役所」=大蔵省という役所そのものの有り様が問われており、小手先の改造では問題解決など不可能であり、新たに就任した松永蔵相には「腐敗体質是正・金融危機救済を期待できない」とまで断言されている。
 さらに1/29付けロサンゼルスタイムズ社説は、橋本首相自身がすでに蔵相辞任の経歴を有しており、その「91年には今回と同様な省内の銀行・証券業界との不祥疑惑にまみれたものだが、そこから今回までどのような改革や学習を得たのであろうか」と指摘、橋本首相は「世界第2位の経済大国にもかかわらず、二流の政策しか取れないのであれば、それはこれまで権力を握ってきた自民党政府の責任が問われねばならないし、同党は政治的にもそのツケを払うべきである」と手厳しい。
 大蔵省の検査官が相手先からゴルフ、料亭で豪勢な接待をうけ、しゃぶしゃぶを食いながら、ノーパン女性を侍らせ、懐中電灯で覗きまくり、卑猥な行為に没頭している姿は、腐敗・癒着構造の末期的症状を示すものであろう。接待漬けにあっていたのは大蔵省ばかりか、日銀現職幹部にも及んでおり、あわてて当局は、金融関連部局の在職経験者550人を対象に、過去5年間に受けたゴルフや宴会などの接待の日時、場所、相手などを自己申告させているが、お互いに隠し合うことは眼に見えており、そんな結果報告など誰にも信じられないであろう。
 大蔵省は事態を糊塗するために急遽、金融検査官を監査する「金融服務監査官」を新設したが、またもや腐敗の重層化をしかもたらさない身内による監視態勢であり、いったいこの監査官の不正は誰が監査するのであろうか。

<<大蔵省の解体>>
 不良資産隠しや不正融資、癒着行政維持のためには手段を選ばぬ企業体質、接待工作と買収、これらには問題の野村証券や日本興業銀行にとどまらず、第一勧銀からあさひ、三和をはじめ、大手銀行、大手証券会社のほとんどがすべて関与、率先していたことが明らかになっている。
 大蔵省の監督下に、独占的保護行政のもとで、不良債権がどれだけ膨らもうと情報を互いに隠し通し、問題解決を先送りし、バブルが崩壊しそれでも隠しきれなくなると国民の負担に転嫁し、税金を投入する、なおそれでも情報公開にはかたくなに抵抗する、こうした護送船団方式がもはや通用しなくなってきたにもかかわらず、こうした構造の維持に固執する勢力が厳然として存在しているのである。
 橋本内閣の行革は、明らかに大蔵省の財政・金融の権限集中にだけは決して手を触れさせないように仕組んでいる。そこには予算配分から税制、金融行政まで絶大な権限が集中していることに政治的利益を見出し、権力の甘い汁を吸い取ろうとする政府・自民党と大蔵官僚の利害の一致が集中しているとも言えよう。腐敗の構図の最大の温床でもあり、原点でもある。財政と金融行政との完全分離、国税庁の分離・独立、第三者機関による監査・監督体制、大蔵省の解体こそが再度現実的な政治日程に上らせられなければならいのである。
 もともとこの点については、一昨年の暮れの自民、社民、さきがけの与党3党合意で「財政と金融の分離を明確にする」とされていた課題である。ところがセッタイ疑惑表面化の直前に、目先の金融不安の拡大を絶好の根拠にして、「当面の金融不安に拍車をかける」として分離に反対する方向が社民、さきがけを巻き込んで確認されてしまった。野党各党も同じ土俵に引きずり込まれ、音無しである。一体、自民党以外の政党の存在意義はどこに行ってしまったのであろうか。3党合意の復活と野党の存在を賭けた奮起を望みたいところであるが、むなしい願望であろうか。
(生駒 敬)



(投稿) 98春闘を元気出して闘おう!

98春闘がいよいよ本番だ。大幅な賃上げと減税など制度政策要求の前進を実現して、労働者の生活を守るとともに、経済低迷を打破していくことが労働側に求められている。以下では98春闘を取り巻く情勢の特徴と連合の方針、春闘全体を貫く課題について整理をしてみたい。

<実質賃金低下が生み出した消費不況>
98春闘の特徴の第1は、各種の統計が示しているように、勤労者の賃金が実質的に低下している中で闘われることだ。97年度は所得税特別減税が廃止され(98年2月に補正予算化されたが)、これにより手取り賃金は2%減少したと言われている。さらに健保2割負担化(97年9月)・厚生年金UP(96年10月)など社会保険負担が増し、合わせて3%は手取り賃金が減少したことになる。
この点をまず確認しておくことが重要だ。減税ストップと消費税のアップと医療費負担増で約9兆円が国民全体から奪われた。試算によると国民一人あたりの年間負担増額は8万9千円になり、標準4人世帯では年間36万円と言われている。
相次ぐ金融機関の倒産・廃業などの先行き不安から消費が低迷している、とのマスコミ報道が盛んで、「日本経済の先行き不安と消費税2%アップ」が消費不況の原因のように言われているが、本当の原因は実質賃金の低下にある、という認識が大切である。
消費税アップ等により消費者物価は昨年の4月以降、2%を超える上昇をしており、昨年の賃上げ(加重平均8727円、2.9%)は赤字補填にもならず、今年3%程度の賃上げなら、昨年並みの生活以下ということになるわけだ。
消費不況と言われる状況は深刻で、昨年5月に家計消費支出が前年比5.8% 減になるなど、昨年度の個人消費は戦後初めてのマイナスになるのは確実と言われている。百貨店等の販売額も昨年は3月に消費税アップ前の駆け込み購入による前年比増があった以外は、2%から4%の前年比減となっている。

<政策不況・政府企業の責任を追及する春闘>
特徴の第2は、大型減税要求・労働法制規制緩和に反対するなどの政策・制度要求を一層強く打ち出す必要がある春闘だということ。消費不況は、実質賃金の低下が根底にあるわけだが、緊縮予算と金融政策の誤りによる政策不況という側面も存在している。
低金利政策で国民から利子収入を減少させる一方で、自ら招いた不良債権に喘ぐ金融機関のみを救済し、さらに消費税アップ・減税を廃止するという政府の政策の貧困が生み出したものであることだ。昨年秋のアジアバブルの崩壊・通貨危機に端を発した金融不安の深刻化・大蔵省官僚の金融機関との癒着、所謂護送船団方式を続けてきた自民党政府の責任を追及する必要がある。勤労国民は怒りの声を挙げなければならない。
昨年秋以降の「日本沈没」的状況の中で、2兆円の特別減税を決めるなど財政構造改革路線との矛盾を生み出しつつも、財政出動なしには危機的状況を招く事態となり、自民党内部にも、野中副幹事長の6兆円景気対策などの路線の揺らぎが起こってきている。参議院選挙の年であること、さらに3月期決算対策もあり、自民党幹部は盛んに「口先介入」を行っているが、大型減税の継続実施をこの春闘で実現しなければならないし、その可能性は十分にある。

<経営側は相変わらず賃上げゼロ主張>
日経連は1月末に労働問題研究会報告を発表したが、相変わらずのベア=ゼロを主張し、雇用か賃上げかと主張している。今年の中心は、むしろ構造改革問題に割かれて労働法制の規制緩和などを強調している。労働法制の規制緩和の動きについては、すでにアサート1月号で民守氏から詳しいレポートが出ているの詳しくは触れないが、中央労働基準審議会からの答申を受け、政府による法案づくり・国会審議という段階になっている。時間外・深夜業の女子保護規定の撤廃、裁量労働制の適用拡大・変形労働制の要件緩和・労働契約期間の上限延長などいずれをとっても、労働者に不利益をもたらし、企業側の利益第一の論理の貫徹を許すものである。連合は国会対策を強めるとともに、「怒りの行動」として大衆行動の強化を決めているが、連合の存在意義そのものが問われている。

<企業・産業に格差・ばらつく可能性>
さらに、企業業績という点で、産業間・企業間に二極化の動きのあることは懸念材料である。製造業では4年連続・非製造業でも3年連続の経常利益の増益が見込まれているのに対して、製造業大企業と非製造業中小企業では、はっきりと二極化の傾向となり、企業規模による賃金・労働条件の格差はこの3年間で一層拡大している傾向にある。
格差解消へと「連合中小共闘センター」がスタートし、大企業の労使に対して「下請け価格」のアップを要請するなどの取組みが行われているが、まだまだ緒に就いたばかりという印象は否めない。

<問われる連合のたたかい方>
2月12日には自動車総連の大手組合が賃上げ要求書を提出し、13日には造船重機、19日には電機連合といよいよ98春闘も本番を迎えている。しかし、自動車総連の中でも、好調なトヨタ・本田に対して、経営不振の日産・三菱などと要求にバラツキが生まれているし、電機関連も消費不況の影響を受けて昨年来の大量の在庫を抱え、一時帰休を実施する企業もある中での交渉本番という事態は、先行きが案じられる。
連合は賃金要求15000円(4%)、生活維持向上8900円+定昇2%6100円=15000円と個別賃金要求として、高卒35才勤続17年316700円を要求、公正分配と積極政策で生活改善と景気回復、雇用分野でのワークルールづくり、個別賃金要求で格差是正・1800労働時間・未組織労働者への波及などの春闘要求と減税など制度政策要求の春闘方針を決定している。
成長率2%には、4%の賃上げが必要という要求根拠の一つになっているが、これら大企業労組でさえ、連合の要求基準、昨年より2千円アップの15000円要求以下の1万3千円という低額要求に留まっているのは大きな問題だ。
さらに、大企業労使の責任は重大であり、労働分配率も大企業ほど93年を境に大きく低下している。賃上げ余力がない、などの議論は論外で逆に民間主要50社の別途積立て金はどんどん増えているのが実態だからだ。昨年秋以来の円安も輸出関連製造業には大きなプラス要因でもある。
格差是正という意味で、連合が打ち出した「個別賃金要求」方式もまだまだ定着していない。年齢別最低保障や初任給から定年前までの賃金ラインの一致、また同一産業間での統一要求という段階には程遠いものがある。しかし、経営側は逆に労働法制の規制緩和に見られるように「個人賃金」化の方向を強めており、個別賃金方式の徹底した展開が求められていると考えられる。

<問われる労組の存在意義>
特徴的な情勢と連合の課題を述べてきたが、加えて、労働組合の存在すら問われかねない問題がある。まず、失業率は戦後最悪の3.5%(97年5月以来)となった。失業者数では、93年度175万人、94年度194万人、95年度216万人、96年度225万人と増え続け、97年10月には236万人(連合調査)となっており、企業スリム化進行・倒産などの事態の進行が予測されるなか、今後の回復は一層不透明と言わざるをえない。
さらに低下し続ける「労働組合組織率」の問題がある。昨年12月に発表された「平成9年労働組合基礎調査結果速報」によれば、労働組合員数は1228.5万人で前年より16万6千人減少し、3年連続の減少となった。推定組織率は22.6%。団体別では連合が8万5千人減の757万5千人(組織労働者全体の61.6%)、全労連が1万5千人減で84万4千人(6.9%)、全労協が7千人減の27万5千人(2.2%)となっている。
産別組合で見ると、自動車総連(ー14000人)、電機連合(-25000人)、生保労連(-14000人) 、日教組(-5000人)、CGS連合(-7000人)、金属機械(-3000人) など軒並み減少しているのが分かる。増えたのは、ゼンセン同盟の+10000人くらいだ。もはや繊維産別から複合産別化して、商業系などパート労働者の組織化を進めるゼンセンの健闘のみが目立っている。
しかし、総体として、雇用労働者数が増えているなかで、労働組合員の総数が減少する事態はまさに労組の存在意義そのものが問われていると言える。、
確かに連合は毎年のような組合員の減少に「組織拡大実行計画」を打ち出し、構成産別に組織拡大を昨年から呼びかけている。けれど、未組織労働者の組織化は具体的には地域の中、工場の外でしか組織化はできない。産別よりも基礎組織である、県連合、地域連合の課題と言えるのだが、一番大事なところで、まだ「寄合所帯」という状況では、組織拡大は課題が多いといわなければならない。

<とにかく元気を出して>
私自身も労働組合の現場役員として、労働組合の存在が問われる98春闘、また98年の労働運動を闘い抜きたいと考えている。「厳しい・厳しい」というだけが能ではなく、そこからどう抜け出すか、智恵を出し、組合員参加で状況をどう突破するかを考えなければならない。とにかく元気を出して98春闘を闘いたいと思っている。( 98ー02ー17 H)

書評
 現代日本企業社会の暗部を衝くミステリー
 ──高村薫『レディ・ジョーカー』
(毎日新聞社、1997.12.5.発行、上・下巻と   もに1700円)

 高村薫が3年ぶりに出した評判のミステリーである。その評にいわく「多視点から『現代』を描いた試みの鮮やかな成果」(毎日)、「現代日本描く『全体小説』」(朝日)等々。いずれも好意的な評価を寄せるだけに、その筋書は面白く、描写は綿密かつ膨大である。
 本書の中心をなしている犯罪は、日本一のビール会社「日之出麦酒」の社長・城山の誘拐と、製品を「人質」にした脅迫である。明らかにグリコ・森永事件にヒントを得ていると思われるが、事件は、最初にこの犯人たちが目論んだ予想を越えて、彼らの手には負えない社会の闇の構造をあぶり出していく。
 犯人グループは、それぞれの境遇から現代社会に向けての不満を表現しようとし、それが競馬という機会を通して、犯罪というかたちで具体化、実現することになる。従ってその結び付きは偶然であり、動機も、狙う目的も、ある意味では偶然であり、彼らがすべて同一レースに賭けたこと自体、偶然的である(=日常的にはどこにでも存在するもの)という意味をもつ。
 「日之出麦酒」の就職差別の問題に絡んで娘婿と孫を失った薬局店主・物井、障害児の娘と情緒不安定の妻をもつ元自衛隊員のトラック運転手・布川、在日朝鮮人の信用金庫職員・高、警察官でありながら下積みの視点から上層部の混乱を夢見る刑事・半田。こうしたメンバーが、ある時、それぞれの特技を寄せ集めて、「レディ・ジョーカー」を名のり、「日之出麦酒」社長誘拐と脅迫を行うのである。
 この事件は周到に計画され、成功する。表向き6億、裏取り引き20億の身代金の要求とその受け渡しについての詳細は、本書を繙かれたい。そもそも犯人たちの誰もが金の奪取を第一にしていなかったということから、捜査は困難を極める。そしてそれなりの大事件として存在するこの事件を一つの契機にして、企業社会を取り巻く大きな腐敗構造が顔を出すことになる。
 それは、この事件の以前になされた大手都市銀行の絡む不正融資事件であり、その絡まった糸は、永田町、保守党の大物国会議員・酒田へと続いていく。そしてまたその糸は、総会屋へも、闇の仕手筋、韓国の闇組織にもつながることになる。このような腐蝕の構造が、ある時には対立抗争、またある時には妥協と取り引きというかたちで活動を続けるのであるが、著者はこれらの複雑な動きを、脅迫する犯人たち、脅かされる社長を中心とする企業側、これらの事件を捜査する警察組織、その警察組織と張り合う検察庁、これらとは独自に事件を追う事件記者と新聞社組
織、そして以上のどの部分にも多かれ少なかれ触手を伸ばしてくる闇の組織等、というさまざまな視点から多角的に描こうと試みる。それはこの小説の一つの重要な背景をなしている競馬レースに類似している。すべての馬がゴールを目指して疾走しているが、ゴールの先には何もなく、またそれぞれの馬がジョッキーによって操欲望の構造が全篇を包んでいるのである。
 本書をどのように読み、本書から何を汲み取るか──社会に対する怒りか、やり場のない嘆きか、息つく暇もないほどの面白さか、等々──は読者によって異なるであろうが、本書の底深く流れている怒りと行き詰まりの感情を無視することはできないであろう。例えば、誘拐事件の犯人の一人、物井は、事件が拡大してもはや自分にはての届かないものとなった時期に、こう考える。
 「物井清三は一日じゅう新聞を読み返し、読み返し、この浮世に棲む人間の本性は、七十歳の自分が見てきた以上の何ものかだと考え続けた。(略)自分は悪鬼だと勝手に納得していたが、世の中には、自分のこの黒い腹よりはるかに黒い腹の持ち主たちがおり、はるかに大きな悪意をもって、社会を動かしていくのだ。その前では自分はやはり小さな虫けらに過ぎず、精一杯知恵を絞ったつもりだったレディ・ジョーカーまで、案の定カモにされて、高笑いしているのは結局、自分たちではないどこかの悪党なのだった」。
 これに対して、警察組織の中で事件の捜査に従事していながら、その体質による締め付けに辟易している警部補・合田(彼は、高村のこれまでの作品『マークスの山』『照柿』にも主要な登場人物として現われている)は、次のように感じる。
 「一兆円企業の社長を逮捕監禁し、(略)商品へ異物を混入して世間をパニックに陥れた凶悪犯レディ・ジョーカーが、こうして今、もっと大きな構造的な不正をめぐる動きに呑み込まれようとしているのだった。もちろん、レディ・ジョーカーの犯行自体は、増えも減りもしない事実として残っていたが、それはまるで、大きな濁流のただ中に取り残された中州のように感じられた。(略)そう思うと、今ある所在なさには、一抹の虚しさや、もうどうにもならないという諦めも含まれていたかもしれない」。
 また闇の組織の事件を追い続ける途中で失踪した先輩記者を調査している記者・大久保は、事件についてこう感想を述べる。
 「この一年の間に、誘拐や恐喝、強請、詐欺、殺人、自殺といった形で表に現われた多くの事件も同じだった。表面的な因果関係は明らかになったが、そこにはほんとうの発生源はなかったのだ。巨大証券と大手都市銀行の商法違反事件も、解きあかされたのは個別の事犯の個別のメカニズムだけであり、そのメカニズムを動かしている真の駆動装置は見えず、どこに、どんな形で存在しているのかも分からない。辿っても辿っても道はどこかで途絶え、決して発生源に行き着くことがない」。
 このように登場人物のそれぞれ──これは、誘拐事件の被害者である城山とて例外ではない──に漂う感情が、全体として現代日本社会の虚無性を示している。
 本書は、ミステリーとはいえ、多角的な視点から社会を描き出して、われわれに問題を突きつけている小説であり、筋の複雑さ、多様な面を見せる展開など、エンターテイメントとしても第一級であろう。ただし本書で触れられ、伏線として取り上げられる諸問題(部落差別問題、在日朝鮮人問題、障害者問題、老人問題等)についての掘り下げ方には中途半端さが感じられる。著者が現代日本社会に対して真正面から取り組む姿勢を見せているだけに心残りと言えよう。読後に少々切れの味の悪さが残るのも、現代のわれわれが、どこまで行っても真の解決に至らない社会的諸問題について感じている矛盾と共通するものを含んでいる。(R)





(投稿) 戦後民主主義を問い直す(NO.4)

戦後民主主義の超克
ここ10年あまり、わたしは戦後民主主義について根本的に問い直さなければならないのではないかという気持ちが強まってきていた。部落解放教育を始めとする教育改革論争やフェミニズム論争、55年体制といわれた政治状況の解体、マルクス・レーニン主義への懐疑などを通じて、戦後50年の日本の思想状況を自らの関わりにおいて検討して見る必要性を実感するようになった。
そのきっかけとなったのが、当時言論界にデビューしてきた小浜逸郎の一連の家族論、学校論、女性論であった。(『学校の現象学のために』『可能性としての家族』『男がさばくアグネス論争』いずれも大和書房)
ここでは、これまで語られてきた戦後民主主義を前提とした枠を突き破り、地に足がしっかりとついた論理が展開されており、わたしは魅了され続けた。その後、続々と発刊されている氏の著作は、思想、哲学に及び、その時々の世相の嘘と実を具体的にとらえた幅広い批評活動を展開されている。小浜逸郎の基本モチーフのひとつは、「戦後民主主義の超克」ではないかと思う。氏の論を前にすると、これまで論じられてきた、そして今も盛んに論じられている巷の教育論、フェミニズム論、人権論、民主主義論の大慨が現実的根拠をもたない虚論であることがはっきりと認識できるからである。
小浜逸郎を通じて吉本隆明の著作に出会った。名前は以前から知ってはいたが、わたしの思想形成の成立ちからか、それまでは全く読む気の起こらなかった人であった。小浜逸郎の思想形成の根幹に吉本隆明が存在することを知ってから、今日に至る10年あまり吉本隆明の著作を読み続けている。自らの20代30代半ばまでの思想形成に吉本隆明の著作が全く無縁であったことを何度悔やんだことか。
ちょうどその時、鷲田小弥太の「吉本隆明論」(三一書房)が発刊されるのである。この著作で、戦後50年の日本の思想状況と吉本隆明の位置関係の輪郭が認識できたように思う。つづけて発刊された「天皇論」「昭和思想史60年」(三一書房)「現代思想」(潮出版社)などは、わたしのこれまでの進歩的左翼思想からの脱却に大きな影響を与えてくれた。それ以降、竹田青嗣、橋爪大三郎、西尾幹二、小林よしのり、坂本多加雄、小室直樹、呉智英など次々と未知の著者の著作に出会う中で、自らの中の戦後民主主義に対する疑問は確信へと変わっていったのである。
次の大きな転機は、1996年初夏に出会った「歴史ディベート 大東亜戦争は自衛戦争であった」という本である。そこから「自由主義史観研究会」を知り、「新しい歴史教科書をつくる会」を知り、そこに集まっている学者・研究者の著作を次々と読んでいった。(「新しい日本の歴史が始まる」幻冬社出版)
まだ、その枠に留まらない、その周りの様々な論者の著作、またそれと全く立場を異とする論者の著作も次々に読むはめになっていくのは当然の成行きであった。一昨年の12月に読んで、ほとほと参ったと思った立花隆の「僕はこんな本を読んできた」という本で語られている、一つの問題に対する立花氏の究明の姿勢に習ったわけではないけれど、この2年あまりは、久しぶりに知的に興奮する日々が続いている。
今のわたしの問題意識は、「戦後民主主義」を問い直すためには、明治維新以降の130年、そしてその前の江戸時代とは、世界史的に見てどんな位置づけができるのか、世界史の中に日本の歴史を位置づけなおして見なければならないのではないかと思うようになってきたことである。今行われている「従軍慰安婦」論争や「侵略・自衛戦争」論争も、世界史の中に日本の歴史を位置づけ直すという作業の中からしか発展的に止揚されないと思っている。その作業を「新しい歴史教科書をつくる会」は始めているのである。
産経新聞に今掲載されている「はじめて書かれる地球日本史」シリーズは、その走りである。また川勝平太の最近の著作『日本文明と近代西洋ー「鎖国再考」』(NHKブックス)や「文明の海洋史観」(中央公論社)、入江隆則著の「太平洋文明の興亡ーアジアと西洋・盛衰の500年」(PLP出版) などは日本史の根本的転換をうながす原動力になるだろうという予感がしてならない。
論争というのは、始めはそこに本当に大事な論点が内包されているにもかかわらず、お互いの主張の違いだけを際立たせ、最後は言い放しに終始し、お互いの立場性だけが変わらず残って終わるだけということになりがちである。しかし、今回の「新しい歴史教科書をつくる会」は、現在の歴史教科書を批判するだけでなく、自らが新しい教科書を作って世に問うというこれまでの批判勢力になかった画期的な取組みを開始しておられる。わたしはこの取組みに注目し期待している一人である。

<読者の声(特別編)について>
「アサートNO242」の読者の声(特別編)読ませていただいた。大阪のSさんからの投書、並びに、編集委員(佐野)からの返信が掲載されている。わたしの「戦後民主主義を問い直す」シリーズのなかの「従軍慰安婦問題」「歴史観論争」について、読むに絶えない論だから「紙のむだであり、送付を止めよ」ということらしい。また、読者の反応として「こうした意見が載っていること自体が恥ずかしいことだ」という意見がある反面、「論争になってくれば、それは良いこと」という意見もあるらしい。
わたしにはその具体的内容について知る由もない。分かっているのは、この間「アサート」に掲載された田中・当麻・佐野・依辺論文のみである。田中さんよりのNO.238号に対して、わたしはNO239号で返答している。それに対して田中さんからも他からも意見を「アサート」紙上でいただいていない。私はだれのどんな論調に対して反論せよと編集子は言っておられるのだろうか。Sさんの投稿に対してだろうか。それは無理である。編集子も指摘しているように、Sさんからの「新しい視点からの」批判を是非いただきたい。そうでもなければ反論も共鳴もしようがない。
田中さんからのこの間の私へのストレートな批判には、「かなわんなあ。もっと僕の言っていることを冷静に読んでほしい。」とは思いはしつつも、いろんな意味で学んでいるのである。田中さんとは考えは違っても、その違う考えを「アサート」紙上で論争できるということ、その中からお互いが新たな何かを共通につかみとることができるために論争するのである。アサート編集部(とくに佐野氏は)は、これまでもそれを保障してきたし、それを常識化するために奮闘してこられたのである。Sさん。あなたからのご批判ほんとうに待っています。( 1998/2 織田)