アサート 248号(1998年7月25日)
【書評】 「戦後50余年」--戦争=国家の「経済行為」と個人の関係を問う
   小澤眞人+NHK取材班『赤紙-男たちはこうして戦場へ送られた』(創元社、1997.7.10.発行、2200円)
   鬼内仙次『島の墓標──私の「戦艦大和」』(創元社、1997.7.10.発行、1800円)
 半世紀以上を経て「戦後」という言葉が何か遠いものとなり、50余年目の夏がめぐってくる。この時期に過去の日本における国家と戦争と国民について考えさせる書は貴重である、特に現今の「歴史論争」への冷静な眼を養うためには。
 『赤紙──男たちはこうして戦場へ送られた』は、あの戦争を行った国家の巨大な戦争遂行システムを、「動員」の基礎となった「赤紙(召集令状)」に焦点を合わせることで解き明かそうとする。本書は、富山県下のある村でほぼ完全に残されていた兵事資料にもとづいて、庶民にとって最も身近な運命の切符となった「赤紙」が、国家にとって持っていた意味を問う。
 われわれは本書を読むことで、「多くの場合、赤紙はすでに年度初めには作られており、各地域の警察署に保管」されていたこと、その場合に「特業」「分業」(自動車の運転、軍馬の治療、土木技術、無電など、部隊編成上必要な特殊な技能)についての身上調査書が各役場の兵事係によって日常的に作成提出されていて、「赤紙はあらかじめ軍隊に入ってからの役割が決められて、発行されていた」ことを知る。すなわち「ただ最前線に送る兵士を集めていたわけではなかった」のである。
 このことの根底には、本書の冒頭に載せられている陸軍中佐(陸軍省軍事課職員)の発言──「戦争というのは一つの経済行為です。人、もの、金があれば戦争はできる」──にあらわされた軍の認識がある。すなわち近代の総力戦は国家的大事業であり、すべての国民に必要な役割を与え、有限の資源で最大の効率を発揮させる必要がある。赤紙による軍動員は、このための不可欠の制度であった。
 そしてより一層重要な問題は、赤紙に負けず劣らず重視された、これと正反対の「召集延期制度」であった。「戦争が一つの経済行為だ」とする立場からは、軍需工場に携わる工場労働者に関して「いわゆる熟練工を確保し、軍需生産レベルを下げないこと」が必要不可欠であり、「召集延期制度は、国家総動員体制と軍の動員の調整のために生み出された」。しかし「平等を建前とした兵役の義務が、国家の事情のために歪められた例外措置」として、この制度の存在は当時の国民に説明されず、「軍と関係者の機密事項」とされた。ところがこの制度の対象となったのは、戦時中の在郷軍人500万人のうち、その五分の一以上の115万人以上であり、実に在郷軍人の五人に一人が召集延期となっていたのは驚くべき事実である。
 著者は、「召集延期制度は、国民感情からすれば兵役の不公平を招くものであるが、総動員の立場から見ると、避けては通れない重要な問題だった。赤紙と召集延期制度は、戦時経済を運営するために、高度なオペレーションを必要とした近代の総力戦の両輪でもあったのだ」と指摘し、同時に「国民が国家の前に命をさし出すことが当然とされ、赤紙は逃れることのできない国民の務めと信じさせられた大多数の人々。この人たちにとって、平等とされた兵役の義務が建前でしかなかったということをどのように感じるのであろうか」と鋭く批判する。
 『島の墓標──わたしの「戦艦大和」』は、上記の戦争遂行システムが崩壊する最後の断末魔を象徴する「戦艦大和」の沈没から始まる。その舞台は、トカラ列島諏訪之瀬島。この島に「戦艦大和」の戦死体が何日も漂着し、戸数12軒60人に充たない島の人たちが毎日流木を積んでその屍体を焼いたという話から、「大和」から「泳いだ人」(生還者)の聞き取りに及び、「大和」の特攻作戦がいかに悲惨な経過を辿ったかが跡づけられる。その主人公は、最下級、最前線の兵士たちであり、彼らの話から、どこにでもいるような普通の生活人が否応なしに戦争と死に巻き込まれていく状況が淡々と描かれる。この種の本では、吉田満の『戦艦大和』が知られているが、本書は視点を下に据えたところにこれまでとは異なる「戦艦大和」像を提出したと言えよう。
 本書で、実際に戦った兵士たちの姿にも増して心を打たれるのは、漂着した屍体を焼いて弔った島の人たちの姿であろう。そこには次のような光景さえ見られる。 「そのようにして三十体も焼いただろうか、しまいには総代から、『あまり浜に回って探してくれるな』と小言が出た。
 『仕事がさばけんもんで、もう仕様はないで、そう言うたんです』 煙草が切れ、焼酎が底をつき、米も途絶えがちだった。島は島だけの考えで戦争遂行のため少しでも多くの作物を作らねばならぬ。総代の言うのも無理はなかった。そのくせ総代は気持がおさまらぬのか、みつけると、『ぐらしか(かわいそうに)、ぐらしか』と言いながら懸命になって焼いた」。
 そしてその焼かれた後の遺骨は、流木のラワン材で作られた箱に入れられて、桑の木で建てられた小さな「オテラさん」に納められ、供養された。しかしそれらの遺骨は家族の許に帰ることはなかった。というのも、この島は戦後占領軍軍政下に繰り入れられ、本土に復帰したのが昭和27年2月、そしてその年の7月にはじめて遺骨収集団が来たからであった。
 「その日、遺骨収集に立ち合うため懸庁や村役場から大勢の人がやってきて、(略)
それらの人は上陸すると、翌日オテラさんへの径をたどった。島の者は女子供もすべて出た。オテラさんに着くと、一人の男が遺骨を指差してしきりに何か言い、他の者はそれにいちいち頷いていた。(略)
 『収集団の衆が入ってみようやって入ってみち、ながい間オテラさんの中に額ずくようにして、一体一体風呂敷包みを運び出したが、オテラさんの骨箱はみな白蟻に食われて、ばらばらになってたっち。柱は桑の木で造ってあったが、箱は駄目だっち。そいこさあ粉々になりおったち』 それを見て声にならない声が上がったという。島の女の人の中には目頭を押さえて泣き出す者もいた。収集団の人達も無念そうにしていたが、皮肉ではなく、それが戦士を七年間も放っておいてむくいであった。
 遺骨が島を離れる時、一人が泣き出すとつられるように他のみんなも泣いた」。 この情景にわれわれは、「戦争は経済行為だ」とする無機的な国家権力の構造と、素朴過ぎるぐらい素朴な島の人たちの人情との強烈な対比を見ることができるであろう。
 「赤紙」と「戦艦大和」との取り合わせは、庶民と、戦争=国家権力の事業との関係をわれわれに突きつけてくる。われわれはこの2冊の書物で、あのような時代が再び来る可能性の有無を今一度凝視する必要があるのではないかと考える。(R) 

No.248のTOPへ トップページに戻る