ASSERT 256号(1999年3月27日)
【投稿】 バブル破綻と日米経済
【レポート】  連合 3・6「生活危機突破」国民集会・99春季生活闘争総決起集会
          都知事候補鳩山氏の大胆演出登場にビックリ
【投稿】 世間にはびこる「トンデモ経済論」を暴く
【書評】 近代日本のイデオロギーの本質解明に迫る
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『フェミニズムが問う王権と仏教──近代日本の宗教とジェンダー』--

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(投稿) バブル破綻と日米経済

<拍手喝采のNY市場>
 3/16、ニューヨーク株式市場はダウ平均株価が一時1万ドルを突破、拍手喝采に沸いたが、その後1分足らずで9000ドル台に逆戻りした。しかし、その後3/19にも一時1万ドル台を更新、一進一退が繰り返されている。「バブル崩壊寸前」、「近い内にバブルがはじける」との警告もよそに、株高による資産の膨張に支えられて、米国の消費者は収入の伸びを上回る勢いで消費を増大させ、昨年10-12月期にはついに家計の貯蓄率がゼロになる極限とも言える状態となった。その後も消費は全く衰えず、99/2月には一般消費率がさらに伸び、前月比+0.9%、前年同月比では+7.3%もの上昇である。今や借入れオーバー、貯蓄率マイナスの状態とまでいわれている。
 こうした中で、ドル暴落説を声高に叫ぶものはいないかに見える。ところが実際には、米経済の持続的な高成長を支えてきたドルへの資金集中は終わりに近づいてきたという議論と現実の動きが静かに台頭してきている。引き金は、ドルからユーロ、あるいは円への雪崩を打ったような巨額の資金移動か、あるいは米国株価の下落か、支えきれなくなったヘッジファンドの破綻の連鎖か、いずれにしても結果はバブル崩壊への序曲である。
 現実に、すでに割高となってきた米国株から割安な日本株へ資金が移動する動きが東京市場の外人投資家主導の株高に表れてきており、NY市場が1万ドル台を記録した同じ日、東京株式市場は7ヶ月半ぶりに1万6000円台を回復している。「海外のあふれた資金が日本の株式市場に向かっている」結果でもある。足もとの危機を見ずに、これらを「日本株式会社の回復」(ウォールソトリート・ジャーナル)とか、「日本の回復への期待高まる」(ニューヨーク・タイムズ)、「日銀の超低金利が回復に貢献する」(ワシントン・ポスト)といった認識の甘さと希望的観測で糊塗していていいものであろうか。

<「破裂を待つバブル」>
 実のところ、ダウ平均が1万ドルを突破すること自体に特別な政治的経済的な意味があるわけではない。ダウ・ジョーンズ社が2年前に30社の採用銘柄の入れ替えを行った時に、ヒューレット・パッカードを加えたが、これがマイクロソフト社であればダウ平均はとっくに1万ドルを突破していたであろう、と指摘されている通りである。したがって1万ドルという株価は、これまでの株価からすれば未知の領域ではあるが、冷静に考えればバブルの頂点をどのレベルで画するかという象徴的な株価に過ぎないとも言えよう。ダウ平均は、単純平均ではないが、たった採用30銘柄の株価を合計して割ったものに過ぎないのである。
 問題は、「過去20年間で株価は最も割高な水準にある。現水準から10-20%下落しても不思議ではない」(3/18日経、メリルリンチのシニア・アナリストのW・マーフィー氏)というところにある。
 グリーンスパン連銀議長が、2/23米上院銀行委員会で証言しているように、「米経済の繁栄は、経済成長の急速な拡大でインフレが再発する可能性と、株価の値下がりもしくは世界の経済不況による脅威との間」のバランスの上に立っていること、そして「連銀の内部調査で、すでに株価は21%も高すぎるという結果が出ている」ことを明らかにし、さらに米国の貿易赤字の拡大について、「米国の国際経常赤字が支払不能になるのではないかと外国の投資家から懸念されるようになれば、ドル安が進行、米国の物価に圧力がかかる恐れがある」との見解を示している。それと関連して、外国の経済状態については、ロシアは危険状態にあり、ブラジルも前途不透明、日本に関しては「日本政府の不況は底を突いたという判断には賛成できない。むしろ日本経済の前途は悪化する可能性がある」との見解を示したことにこそ注目すべきであろう。
 3/11付けUSAトゥデー紙は「米経済は破裂を待つバブル」という見出しで、米経済を取巻く三つのバブルとして、貿易赤字の増加と株価の急騰、消費者の借入れ急増をあげ、バブルは結局は破裂し、リセッション(景気後退)が起きると警告している。
 このところ論壇でも注目を浴びている米ヘッジファンド大手を率いるジョージ・ソロス氏までが、最近の著書や各紙への寄稿論文の中で「世界各地の経済危機は米国経済にプラスに働いている。安価な輸入品を享受する一方で、資本が危機の国から米国に流れ込んでいるからだ。その結果、米国の消費者は稼ぐ以上に消費できるようになっているが、健全でないし、長続きしない。」「80年代後半の日本とまったく同じ状況の資産バブルになっている」「バブルは自身の重さに耐えられなくなるまで大きくなり続ける。こんな状況だというのにクリントン大統領は一般教書演説で公的年金に株式投資を認める策を表明した。バカげた考えだし、それこそ弾劾に値する。」と遠慮会釈のない論陣を張っていることは周知の通りである。

<5期15ヵ月連続のマイナス成長>
 対照的に、バブルの後遺症からいまだに脱しきれない日本経済の現状に関して、昨年来、しきりに軽自動車の売れ行きが好調だとか、マンションが売れはじめ、白モノ家電の買い替え需要が出てきたとか、還元セールがにぎわったとか、消費の復調をにおわすキャンペーンが盛んに展開されてきたことは周知の通りである。しかしその結果は惨めなものであった。98/10-12月期の実質経済成長率は、前期比マイナス0.8%、前年同期比マイナス2.8%であった。公的資本形成は前期比実質10.6%の増加となったが、消費は前期比実質マイナス0.1%、設備投資は同マイナス5.7%と軒並み減少となったのである。住宅投資についても、低金利効果で下げ止まってきたとか、持ち家に回復の兆しが見られるとか、やはり期待先行の発言が相次いでいたが、住宅投資は前期比実質マイナス7.0%、前年同期比同マイナス10.7%という大幅な落ち込みであった。実質国民総生産が5期15ヵ月連続のマイナス成長というのは戦後来初めての記録的な最悪の事態である。

実質国内総生産 10-12月期(前期比)  1998年(前年比)
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国内総支出    473,664(▲ 0.8) 478,265(▲ 2.8)
年率換算成長率      (▲ 3.2)
民間最終消費支出 281,663(▲ 0.1) 282,103(▲ 1.1)
民間住宅      17,103(▲ 7.0)  18,554(▲13.7)
民間企業設備    73,366(▲ 5.7)  78,717(▲11.4)
民間在庫品増加   1,650( 28.3)  1,669(▲25.3)
政府最終消費支出  45,318(▲ 0.6)  45,306(  0.7)
公的固定資本形成  42,635( 10.6)  39,470(▲ 0.3)
公的在庫品増加   −584        −69(▲171.1)
財貨サービス純輸出 12,510(▲10.7)  12,513( 29.7)
財貨サービスの輸出 64,302(▲ 3.4)  65,738(▲ 2.3)
財貨サービスの輸入 51,702(▲ 1.5)  53,225(▲ 7.7)
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国民総支出    481,050(▲ 1.0) 485,273(▲ 2.0)
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           単位10億円、四半期数値は年率換算

 確かに、景気指標に微妙な動きが現れてきているのは事実である。株価は少し戻し、生産指数や機械受注、消費などの各指標も落ち込み幅は縮小する傾向にある。鍵を握る個人消費は、全世帯の消費支出は昨年11月に前年比+1.3%と増加に転じたが、12月−0.6%、99年1月+1.4%と交錯している。住宅ローン減税の拡大によって一戸建て住宅、マンションが売れはじめ、住宅展示場を訪れる人が増え、これらに「変化の胎動」(堺屋経企庁長官)が感じられるというわけである。しかしこれらの住宅需要のほとんどは結婚や転居に伴う新規需要だという。買い替え需要の方は元の買い値で売ること自体が困難でむしろ売却差損が拡大し、自己破産が年間10万件を超え、その中でも住宅ローン返済不能者が急増しているのが現実である。

<「リストラ予備軍」>
 しかし、雇用所得が前期比実質マイナス1.1%、前年同期比実質マイナス2.0%といった具合に、所得が減少し続けている状態でマクロレベルの消費増を期待するのはそもそも無理というものであろう。今年はさらに減税と銘打った増税によって、年収794万円以下の世帯は、98年度より所得税、住民税の負担が約1兆円増大する。これによって給与所得者の内6割は税負担が増えるのである。
 2/26労働省発表の毎月勤労統計調査結果速報(99/1月分)によると、従業員5人以上の事業所が労働者に支払った現金給与総額は前年同月比2.0%減の31万2387円となり、2ヵ月連続の減少、実質賃金指数は同2.3%減で18ヵ月連続のマイナスとなっている。
 おまけに今年の企業の3月期決算は、史上空前の赤字ラッシュになることが確実な情勢となっている。銀行が不良債権償却のために軒並み巨額の赤字を計上し(住友7500億、第一勧銀6500億、高吟3500億、あさひ2150億等々)、すでに日立が3750億、NECが2200億という巨額の赤字転落、東芝も23年ぶりの赤字転落(単独で200億円)三菱電機900億円、富士通200億円、富士電機120億円、沖電気500億円、王子製紙、コマツ、日本精工、等々、続々と赤字を計上しようとしている。この際黒字企業まで不良資産を上積みして赤字決算を続出させているという。「法人税減税以前に、法人税そのものが入ってこない」のではと揶揄される所以でもある。これらの赤字決算と同時に人員整理が空前の規模になろうとしている。すでに大手銀行で2万人、NECが1万5000人(内、6000人強制解雇)、三越1000人、といった具合である。ベアゼロどころか、三井造船やコスモ石油のように賃金一律10%カットの企業が続出してもいる。
 朝日生命が2月にまとめた雇用動向予測調査によると日本企業が抱える「リストラ予備軍」はサービス業で173万人、卸・小売業で124万人、建設業105万人など、全産業で約446万人に上り、そのすべてが失業した場合、失業率は10.7%に達すると予測している。
 「変化の胎動」などと浮かれている事態とは裏腹に、雇用情勢がより悪化し、消費がより冷え込みかねない事態が進行しているといえよう。

<「やけっぱち政策」>
 今月3日、日銀は日々の金利調節の誘導対象としている「無担保コール翌日物金利」を0.02%に誘導し、実質ゼロ金利を容認することとなった。先進国で金利をつけずに資金取引をするのは事実上初めてのことである。悪夢の国債引受を呑む代わりに最後の金利カードを切ったというわけである。だがゼロ金利による副作用が早くも出てきた。こうした金融資本間のコール市場では、投資信託や生命保険会社が、運用の旨みがなくなったコール市場からこれらの巨額の資金を流出しはじめたのである。無担保コール翌日物による資金調達額は「上位都銀の場合、3兆円にも上る」といわれ、国内資産の1割にも相当する資金を「その日暮らし」でしのいでいるのが日本の金融機関の実態である。これらの資金を融通してきた出し手のコール市場からの逃避によって、信用力の乏しい銀行の決済リスクが俄然高まりかねない危険性を招来しているのである。
 たしかに今回の日銀による「実質ゼロ金利」容認後、長期金利は数日で0.2%以上も低下、日経平均株価は1000円近く上昇、一段の金融緩和はとりあえずは金融・資本市場からは評価された格好である。しかし、英フィナンシャル・タイムズ紙が3/4付けの社説で「日本は金融政策の極限に挑戦しはじめたが、”デスパレート(やけっぱち)”の政策が経済状態を改善に向かわせる可能性は小さい」と断じている通りであろう。
 すでに日銀の資産悪化が同時に進んでいるために、こうした強引な緩和策は将来に様々なツケを残すことになろう。すでに日銀の預金保険機構向け貸出は、昨年3月末に1兆円台だったが、長銀と日債銀の破綻・国有化などで年末には8兆円弱に急増、今回の公的資金7兆4500億円注入の大部分も日銀からの借入金でまかなう見通しであり、すでに国債引受と同じ現象がすでに始まっている。ゼロ金利が招来する新たな銀行破綻、すでに破綻の危機がささやかれている投資信託や生命保険会社の信用崩壊は、またもや新たな公的資金導入を拡大させることとなろう。ここでも再び、国債の日銀引受という「禁じ手」議論が台頭するであろう。
 こうした破れかぶれの金融政策が長引けば、その行き着く先はとめどもない貨幣価値の下落かもしれないし、それは正真正銘の「日本発の世界恐慌」をもたらす危険性を内包しているとも言えよう。小渕首相の「鈍牛」どころか、日本の政府・与党、野党ともにこうした事態の進展に何とも鈍感なことは、一体何をもたらすのか、真剣な検討が必要なのではないだろうか。
(生駒 敬)

(レポート)
連合 3・6「生活危機突破」国民集会・99春季生活闘争総決起集会
都知事候補鳩山氏の大胆演出登場にビックリ


 3月6日、春一番が吹き荒れるなか東京代々木公園において連合・連合東京・NPO(市民団体)の共催による「生活危機突破」国民集会・99春季生活闘争総決起集会が開催された。「賃上げ、雇用・景気回復、社会保障改革で日本全部を元気に!」というスローガン、久々に結集した5万人(掛け値なく)の参加者の多くが「何とかならないものか」という期待感をにじませていたようである。
 今回の集会は、連合がNPO団体にも広く参加を呼びかけて開催されたことも特徴で、障害者や介護福祉の団や退職者組合、派遣労働者ネット、コミュニティユニオンネットなど様々な参加団体からもきちんとひとことアピールが行われた。連合組織を代表しては金属部門を代表して草野自動車総連会長、化学繊維・中小部門を代表して高木ゼンセン同盟会長のあいさつがあったのみである。また地方自治体選挙を前に各党代表の挨拶も行われた。民主党の菅代表、公明党の神崎代表、自由党の塩田団体渉外委員長、社民党の淵上幹事長、改革クラブの小沢代表からそれぞれ連合との連帯の挨拶が述べられた。やはり菅代表をひとめ見ようと集会場前方は自然ににぎわっていたのは印象的であった。菅氏は「春闘集会に集まられたみなさん。どうか民主党とともにこの東京を動かしましょう。世の中を変えましょう!」と連合会長以上に熱っぽく語っていた。
 そして突如、巨大な音楽とともに壇上に登場したのは、都知事候補の鳩山邦夫氏であった。集会次第にも案内されていなかったし、進行の議長団からの案内がなかったため、このプロレス会場並みの演出音による鳩山氏の登壇には、ちょっとシラケた雰囲気がただよった。壇上での鷲尾連合会長をはじめとする役員のはしゃぎぶりをみてよけいにシーンとなってしまったようであった。鳩山氏は「わたしは顔は悪いが、人情だけは誰にも負けずあたたかいのです」と切り出し、持ち前の「友愛」論をひとしきりしゃべると、東京都知事選の応援を5万人の参加者に訴えていた。

自民の混迷で不透明な99都知事選突入へ

 3月25日告示、4月11日投票の都知事選挙は、すでにテレビ・マスコミ・インターネットとあらゆるメディアを通じて戦われている。6人の候補者が出そろうまでの自民党の混迷ぶりが今でも続いており、しかしながらこれに民主・鳩山氏や共産・三上氏がいまひとつ食い込めないという現状だろう。
 まず、これまでの自民党の混迷ぶりの経過は以下のとおりである。

3月10日 石原慎太郎出馬表明
3月10日 舛添要一、栗本慎一郎選挙対策本部長を解任
3月 8日 柿沢弘治の自民党除名を決定
3月 6日 野末陳平出馬取り止め、舛添要一を全面支援
3月 2日 鳩山邦夫支持を民主党が決定
2月25日 明石康支持を自民党が決定
2月23日 ドクター中松出馬表明
2月19日 自民党森幹事長及び小渕首相の説得で明石康出馬表明
2月17日 柿沢弘治出馬正式表明
2月14日 柿沢弘治、「サンデープロジェクト」で突然の出馬表明
2月12日 鳩山邦夫、舛添要一出馬表明
2月10日 自民党、明石康擁立を決定
2月10日 柿沢弘治、森幹事長の要請を受け、出馬断念を表明
2月 3日 野末陳平出馬表明
2月 1日 青島幸男都知事不出馬表明
1月26日 自民党都議団、柿沢弘治擁立で最終調整
1月23日 自民党、舛添要一擁立を断念
1月21日 自民党都連幹部会、舛添要一擁立で合意
11月11日 三上満出馬表明

 自民党の混迷はいくつもでた。森幹事長の説得工作を振り切って立候補表明し、自民党を除名された柿沢氏、一度自民党推薦候補から漏れた舛添氏も自民党離反組と目されており、無党派を標榜する舛添氏としても、組織票が期待できるとしてもイメージダウンのデメリットが大きく、簡単に支持は受けられない、また、亀井氏等の自民党非主流派に近い石原氏も支持できない。最後に鳩山氏であるが、民主党の推薦がほぼ決定している現在、既に手遅れ状態。そして今回の明石氏の降ろしの動きである(明石氏は否定)。
 そこで、当然の帰結として、3月16日付けの毎日新聞朝刊で有権者の電話世論調査の結果が発表での結果は以下のとおりである。

順位 候 補 者 比率
 1 石原  慎太郎 25%
 2 舛添  要一 13%
 3 柿沢 弘治  8%
 4 鳩山 邦夫  8%
 5 明石 康  6%
 6 三上 満  6%
 7 ドクター中松  1%

 テレビに出ればでるほど人気を失ってゆく明石氏に自民党は業を煮やしているといわれている。万一、自民党がこの首都都知事選で負けることは、その後の地方選での惨敗を決定的にすることは疑いないからである。しまいには世論調査報道の規制まで自民党は言及している。選挙でキャスティングボードとなってくるのが公明であるが、一度は自主投票の構えを見せていたが、ここにきて特定候補支持を打ち出すポーズを漂わせているようである。

東京を変えれば日本が変わる

 これは青島都知事誕生の時もそういわれたが、青島都政は結果として鈴木都政の後始末も何もできなかった。またその結果この4年間で東京の財政を逼迫させ、「財政再建団体」に転落予想の都民向け「緊急アピール」を発表したのが98年10月13日である。「財政再建団体」とは民間会社における「会社更生法」ともいえる制度で、財政難に陥った自治体が国の管理の下で財政再建を目指す制度である。東京の域内の国内総生産(GDP)は約80兆円、これは日本全体の18%にあたり、カナダ1国分に匹敵するのである。東京は世界で最も「裕福」な都市といわれる。こんな大都市が、もはや財政的にはどうにもならなくなってしまっている。そしてこれは東京だけでなく、大阪、神奈川、愛知をはじめわが国自治体の実に6割がこの財政危機に直面して、警戒ラインを突破しているのである。国会でいくら前代未聞の膨大な公共事業費をくもうと、地方にはその余裕はないのである。破綻に破綻を上塗りするのが顛末であることがこの4年間の推移であったはずである。以前なら「中央との太いパイプ」が候補者の判断材料であったが、いまやこれでは通用しない。
 このことは明石氏と柿沢氏以外ははっきりと言及している。明石氏と柿沢氏はよりいっそうこの事業を推進すべきという立場だ。石原氏は立場は違うが徹底した規制緩和と行革の推進という点では明石氏と柿沢氏よりも過激で、「クーデターをおこすくらいの気持ち」だと相変わらず暴言をはいている。鳩山氏はこの中でハト派的にいい立場であるのだが、それをうまく器用にマスコミむけにアピールできないのが残念である。
 さらに来年から実施予定の介護保険のあり方については残念ながら具体的議論がみえてこない。「ハコもの」行政からの脱却とともにめざすべき市民参加・参画型の行政のありかたについては誰も希薄である。その具体的なあらわれとして介護保険はまっさきに問われているはずである。しかし希薄なのは東京という都市があまりにも大きすぎるからであり、もうすこし目に見える形(区部・市部)での議論を組み立てる必要がある。(R.I)


(投稿)世間にはびこる「トンデモ経済論」を暴く

<間違いだらけの経済論にだまされるな>
 世間に「トンデモ本」がはびこっている。トンデモ本とは「著者のおおぼけや、無知、カン違い、妄想などにより、常識とはかけ離れたおかしな内容になってしまった本」(トンデモ学会編『トンデモ本の世界』)のことを言う。
『経済対立は誰が起こすのかー国際経済学の正しい使い方』(ちくま新書・98年)『間違いだらけの経済論ー天動説に等しいトンデモ論にだまされるな』(ごま書房・99年)の著者、野口 旭氏(専修大学経済学部教授)はその著作の中で切々と訴えている。
「長引く不況の中で書店には、世界恐慌論や日本経済の再生策を提案する本などが溢れている。ベストセラーになっている本もたくさんある。その中でタチが悪いのは、一見まじめそうでいて、実は百害あって一利もないトンデモ本である。著者はマスコミにもよく出てくる有名なエコノミストであったり、有名大学の教授であったりするので、読者はなんとなく納得してしまう。それこそとんでもないことだ」と。そして「トンデモナイ」国際経済論の典型として、今はやりのエコノミストや経済学者の名前をあげて、根本的な批判を展開している。
 野口氏が、ヤリ玉にあげている著者と著作をざっと挙げてみる。リチャード・クー(野村総合研究所)『投機の円安 実需の円高』(東洋経済新社・96年)やレスター・サロー(MIT大学教授)『資本主義の未来』(TBSブリタニカ・96年)をはじめ、最近話題になっている石原慎太郎『宣戦布告「NO」と言える日本経済ーアメリカの金融奴隷からの開放』(光文社・98年)や吉川元忠(神奈川大学教授)『マネー敗戦』(文春新書・98年)などは、国際経済学の基本中の基本すら踏まえていないトンデモ本だと、批判している。そして、「今、経済学という分野で怪しげな理論や政策を吹聴する人々は、古今東西あとをたたず、そういった人達のおかしな理論や政策が、世間一般の世論形成に大きな影響を与えたり、さらにそれが実際の政治の中に反映されたりする事が、社会にとって迷惑千万である」と強く主張している。

 <間違った経済論を見分けるのは難しい>
 この野口氏の著作は、私を多いに刺激させてくれた。今日の激しく動く国際経済、日本の経済をどう認識したらいいのか、書店に氾濫している経済に関する書物を、自分なりに選別して乱読しても解ったようで解らない。「トンデモ本」とそうでない本とを見分けることなど到底できなかった。どれを読んでもそれなりに解ったつもりになったり、しばらく経つとそれと反対の事が書いてある本を読んで納得してしまうのである。なぜそうなってしまうのかが、この書物を読む中ではっきりと理解できたように思う。経済学を基本からきっちりと勉強したことのない者にとって、いろいろな経済論議のうち、どれが経済学的に正しくどれが間違っているのかを見分けろといっても不可能なのである。ましてや経済ジャーナリストや経済評論家と言われる多くの人が、経済学の基本とは無縁な「手軽に実感できるトンデモ知識」を、マスコミで盛んに撒き散らしている中では。ほとんどが言いぱなしである。自分がいままで主張してきた事が、今日正しかったのか、間違っていたのか全く自己検証もせず、新たな国際・国内経済状況にたいして、かつて自らが主張した事とまったく違うことを平気で言い出す。経済論議にはこんな現象が特に多いと思う。

<貿易黒字・赤字についての間違い>
 一つ例を挙げれば、つい最近まで「日米貿易摩擦問題」が焦点化していた時、日米両方の経済評論家は、日米二国間における日本の貿易黒字の拡大とアメリカの貿易赤字の拡大を前にして、日本の黒字減らしの為にはとにかく輸入拡大が必要だとして、日本の市場開放とか規制緩和などが主張され、アメリカからは、自国製品の日本への輸出を増やす為に、日本に「輸入数値目標」を要求し、それが出来なければ制裁を加えるべきだとする日米包括協議などが繰り返されてきた。
 野口氏は、これらの日米貿易収支の不均衡にたいする捉え方が、トンデモ的な考え方であると強く批判している。このとらえ方がおかしい為に、結果として見当違いの的外れを長々と展開している経済論が非常に多いと言っている。その典型が、日米の貿易収支の不均衡が拡大しつつあった1986年に出された「前川リポート」で、不均衡を日本が自ら縮小することが必要だとする観点から、内需拡大と市場開放に向けた規制緩和の「黒字減らし」を提言し、これには著名な経済学者が何人も関わっていたと言う。
 このトンデモ的な見方とは何かといえば「貿易収支(経常収支)をもっぱら輸出と輸入の差額としてとらえ、その輸出入に影響を与えると信じられている諸要因(市場の開放性・閉鎖性、国際競争力、為替レート等々)にのみ注目する見方」という事になる。市場開放も規制緩和も多いに結構なことだが、そこをいじったところで日本の貿易黒字それ自体が減るという保証はまったくないと、野口氏は言う。貿易黒字・赤字の問題は基本的に一国全体のマクロ的な貯蓄・投資バランスの問題であり、そこが変化しない限り、何をやったところで貿易黒字・赤字は増えもしない。貿易収支、経常収支の決定メカニズムは、(民間貯蓄ー民間国内投資)+(政府収入ー政府支出)=(輸出ー輸入)であり、これこそが、貿易収支問題を考える場合、すべての議論の出発点となる枠組みである。

<貯蓄・投資バランス論が貿易収支問題の基本>
 これを「貯蓄・投資バランス論」と言う。この式の左辺全体は、民間と政府を合わせた一国全体の資金供給と資金需要の差額、すなわち貯蓄・投資バランスを示している。一国全体の資金余剰ないしは不足と言いかえる事もできる。一国全体が資金余剰を持つとすれば、その分だけ海外に資金を供給、すなわち海外純投資をしていることを意味する。一国の輸出入差額、すなわち経常収支は、常にその貯蓄投資差額に等しく、かつその海外純投資額に等しく、その所得(GNP)と支出の差額に等しいのである。
 この事は何を意味するか。貿易黒字・赤字とは、海外投資、すなわち国際的な資金貸借にともなって生じる現象だと言う事である。逆に言えば、海外投資が存在しなければ、経済収支(貿易収支)の不均衡は決して起こらない。海外から資金を借り入れる事無くしては、どの国も貿易赤字を出す事はできないし、逆に海外に資金を供給している国は貿易黒字にならざるを得ない。日本が貿易黒字を持つには、海外投資の結果として日本の貯蓄が国内投資を上回るからであり、アメリカが貿易赤字を持つのは、海外投資を受け入れた結果としてアメリカの貯蓄が国内投資を下回るからである。
 これを踏まえると、貿易黒字が得で、貿易赤字が損だと言う見方は基本的に間違っている。日本に今貿易黒字が増えているのは、日本の経済が不況で国内の投資先が少なく、海外に投資する方が得だからである。アメリカに貿易赤字が増えているのは、アメリカ経済が好況で、新しい産業がどんどん起きているから、そこに海外資金が集まってきているからである。これは、日本とアメリカの両方が得をしていることに他ならない。

<妄想のアメリカ金融陰謀説>
 もう一つの例を挙げよう。「世界最大の債権国=金持ち日本が不況にあえぎ、世界最大の債務国=貧乏国アメリカが好景気に沸いている。こんな事はどう考えてもおかしい。日本が輸出で稼いだお金が、アメリカ国債を買うことでアメリカに還流してしまう。アメリカは日本にアメリカ国債を保有させ・・・いったん貸しているという形をとりながら、その後基軸通貨であるドルを垂れ流しドルを減価させる政策を取る。日本の持っている米国債はドル建てだから、それが目減りしていく形で借金を棒引きする事をアメリカは狙っている」と言うわけである。すなわち「金融戦争」」である。
 野口氏は、貿易や資金貸借などの経済取引を戦争と同じ様に考えるのは間違いだと述べている。経済取引は、戦争でも競争でもなく、対立ですらないと言っている。要するに、損得を考えて、お互いに得だと考えて行っているに過ぎないと言う。もちろん投資にはリスクがつきものである。特に海外投資となれば、為替リスクを十分考慮しておかなければならない。そのリスクを計算した上で、国内で資金運用するよりも海外投資の方が有利だと判断したからこそ、海外投資を行うのである。
 ところが、今はやりの経済論調は、かつてアメリカでジャパンバッシャーと呼ばれた人達がアメリカ経済は日本に侵略されて駄目になったと論じていたように、「アメリカの金融謀略によって、日本の経済はやられてしまっている。」といった「アメリカの金融覇権論」や「ドル帝国主義論」が主流となっている。その背後にあるのが、1997年7月のタイにおけるバーツ暴落に始まるアジア通貨危機であり、その後のロシアの経済危機である。こうした事態を招いた最大の原因は、アメリカの金融・資本市場の自由化をグローバル・スタンダードと称して各国に押し付け、その結果ヘッジ・ファンドを尖兵とするアメリカの投機資本が、アジア経済、ロシア経済をハイエナのようにむさぼり始めた・・・。と言うような構図に基づいて、このところの世界的な経済混乱を説明するわけである。
 野口氏は、アジア通貨危機も、ロシア通貨危機にしてもその本質は極めて単純なものであり、「グローバル資本主義の危機」でも「アメリカの陰謀」でもないと言う。アジア通貨危機の真の原因は、アジア各国が、ドルにリンクした固定レート制、すなわちドル・ペッグ制を採用していた事にあるのだと。固定レート制を取った国は、金融政策の独立性を放棄しなければならないからである。そこに破壊的な投機資金移動が発生するのであり、変動レート制においてはめったに起こらない。もちろん為替の乱高下は日常的に生じるが、決して破壊的なものにはならないと言う。実際、アジアの国の中でも、台湾やシンガポールのように為替の変動制を取っていた国では何も問題は起こらなかったのである。

<国際資本移動は「なだめすかす」ことである!>
 国際資本移動と言うのは、お金の貸し借りを単に国境をはさんで行っているに過ぎない。もちろん国境をはさむということで、為替の取引が必要になり、そこに為替リスクというのが問題になって通貨危機という現象が生じる。この為替の面さえ除外すれば、それは基本的には我々が国内で行っているお金の貸し借りに過ぎないと野口氏は言うのである。世界の中には、日本のようにお金があまって困っている国もあれば、逆にお金がなくて困っている国もある。国際資本移動の本来の機能とは、こうした世界的資金の効率的配分を実現させるというところにあり、問題は資本移動そのものにあるのではなく、この資本移動本来の機能を歪めてしまうような通貨システムのありかたにあるのだと。
 そもそも、国内であろうと国外であろうと、お金の貸し借りには常にリスクが伴う。海外投資にも、債務不履行は一定の確率で必ず生じる。確かに、これまでの歴史上、恐慌によって金融システムが崩壊した事は何度もあった。こうした問題をなくす為には、借金を禁止するしかない。借金を禁止したら経済は成り立たない。一定の確率で債務不履行が発生するのは仕方がない事であり、それをどこまで許容していくかと言う事であり、経済システムとしては、それをうまくなだめすかしながらやっていくしかない。その「なだめすかす」と言う事が、経済政策の一つの大きな目的であると、野口氏は冷静に主張する。
 IMFは、国際収支危機やあ流動性危機が発生した国にたいしての融資や支援をその大きな目的とする国際機関であり、いわば「なだめすかす」ための機関であると言う。問題は、今回のアジア危機の教訓をどう生かすかであり、IMFは今後、その機能を強化する事が必要であり、逆に国際的な資本移動の方を規制してしまうのは最悪の選択だと言う。

<アジア円構想は間違い>
 いま「アジア円構想」が「ドル覇権の奪取」論と合わせて議論されているが、アジア通貨危機の原因は、ペッグ制をとっていた事それ自体にあるのであり、ペッグする通貨がドルだったからではないのである。アメリカのグローバルスタンダードと対抗する為にアジアと手を組み「アジア円構想」などと言うブロック経済圏じみた論議は、戦前の「ブロック経済」につながる極めて危険な論議であると、野口氏は警告する。貿易取引や資本取引の際に、それを円建てでするのかどうかと言う判断には、円の利便性いかんに大きく関わっているものであり、日本の金融・資本市場の環境整備や規制緩和を進めればいいのである。そして、円が実際に経済取引の決済手段としてアジアを始め諸外国でどの程度使われるかと言う事は、各国民間経済主体なり各国通貨当局の判断の結果に過ぎないのであり、日本の政策当局が関与すべき事でも、できるはずの事でもない。つまり目標はあくまでも円の利便性を高めて世界経済の拡大・発展に資することであり、「ドルに対抗する円圏」などというブロック経済じみたものを作り出す事ではないと、野口氏は力説している。

<冷静で公平な国際経済論議を!>
 以上、野口氏の著作から主な論点の要旨を、私なりにまとめてみた。この2冊の書物によって、初めて国際経済の基本的見方を教えてもらった。世間には、いたずらに危機感、国家間対立だけをことさら煽る無責任な経済論調がいかに多い事か。経済学の基本的な考え方を学ぶ必要性を痛感する。いま、『貿易黒字・赤字の経済学』小宮隆太郎著(東洋経済新社・94年)、『経済政策を売り渡す人々』P・グルーグマン著(日本経済新聞社・95年)『クルーグマン教授の経済学入門』P・クルーグマン著(メディアワークス・99年)など、野口氏が紹介する経済書を読み始めている。その著作の中で書かれている経済論争は実に面白い。いま国際経済においても、冷静で公平な論議が求められている。
(1999・3 織田 功)


(書評) 近代日本のイデオロギーの本質解明に迫る
 『フェミニズムが問う王権と仏教──近代日本の宗教とジェンダー』

             (源淳子著、1998.7.31.発行、三一書房、2,300円)

 「この国の近代思想の歴史は、(略)つねにその時代社会の権力に迎合する営みを繰り返してきた。近代日本の著名な思想家の仕事は、現実の意味づけに腐心し、その営みのために自己を保ち続けてきた。そして、そのような多くの思想家が、かつて天皇制にまつろうてきた自らの思想を、『終戦』に転嫁し、自らの責任を放棄し、新たな民主主義(現実)のなかに安住したのである。彼らの無責任な生き方は、近代天皇制国家の特徴である」。
 「それはまた同時代を生きた知識人女性も無関係ではない。日本のフェミニズムも、戦争責任の問題を自らの文化や思想の課題として担ってきたとは残念ながらいえない。フェミニズムが自らの文化や思想との対峙をしてこなかったからである」。
 このような問題意識から著者は、「思想のモラル」を天皇制と宗教の関係から明らかにしようして、その中で、天皇制とジェンダーの関係を位置づける。そして本書はこの点を、これまで問題にされることの少なかった、近代仏教に焦点を合わせて展開する。
 著者によれば、「かつて真宗教団は、幕藩体制で『真俗二諦論』で仏法(真)と王法(俗)を使い分けた。その理由は、権力としての共存を計るための政治的な政教分離論であり、教義的には政教一致論をもって信者教化した。それが近代になって、幕府への随順が国家への随順に変更しただけであった。仏教は、『護法論』で『国体』に追順することになっていくのである」。
 著者は、日本における仏教教団が、絶えずその時代の権力に迎合して自分の生き延びる道をはかってきたことを鋭く突く。このことは近代において、仏教が「新たな教学を生むことができなかった」こと、「仏教は仏教として自立することができなかった」(信教の自由=権力からの自由、が確立されなかった)こと、近代天皇制国家という「国家の宗教政策の前にひれ伏すことになってしまった」ことに示される。すなわち「反権力の鎮め役を仏教は果たしたのである」。
 この仏教のあり方を政治的に徹底的に利用して、天皇制国家は、祖先崇拝と家族制度を近代的に完成させたさまざまな制度を構築する。すなわち「宗教が祖先崇拝を担い家族制度を補完しているということである。さらにその構造が、天皇制国家を支えるのである」。そしてこの究極の思想が「国体」となる。
 「『天皇の下に同一血族・同一精神』の国民の帰一するところは『祖先』だという。これは国民に二重のよりどころをもたせることになる。ひとつは『天皇』(『国家』)、これが公的領域におけるよりどころである。そして、私的よりどころが『祖先』である。その両者が密接なつながりをもって国民を呪縛していく。天皇制の万世一系の徹底化である」。
 こうした「国体」の思想は、個々人にとっては「個』を越える存在である「家」とこれを基盤とする「戸籍」制度による呪縛として現前し、「国体」の中心思想である「和」とは、その具体化として「それぞれが『分を守る』こととされる。夫婦の間においては、夫は夫の『分」を、妻は妻の『分』を守る」性別分業によって「美しき和」が成立し美化されるのである。すなわち近代天皇制のイデオロギーは、「個人の人権、とりわけ女性の役割を軽視する」構造を有する。このことは、女性が結婚して夫の家の氏に変えることではじめて夫の戸籍に入れてもらうことができ、離婚した女性が「戸籍を汚す」といわれた社会意識(=これは、個々の女性にとっては、「どんなことがあっても離婚してはならない」という意識の内面化となる)などに示される。著者は、「このような戸籍制度は、天皇制国家の狭隘な精神と同質である。天皇制と戸籍制度と家制度はまったく別のもののようにみえるが、相互に密接な関係をもって支え合っている」と指摘する。
 さらにここで重要なことは、この「国体」によって軽視され抑圧された女性が、逆にその「国体」を支える最も強力な基盤とされたことである。この点については、次のように述べられる。
 「ジェンダーの視点から『国体』を分析すると、『国体』の頂点に立つ存在は、天皇である。そして、その天皇からもっとも遠く底辺にあって、『没我と献身、慈悲と忍辱』(略)によって天皇にまつろい、そして天皇制を補完する役割を担わされたのが、『日本の母』である」。
 そしてこの場合に、皇国史観に仏教的言説が重ねられる。すなわち「『母』とは(略)『み国の御恩』につかえる皇国の母であり、軍国の母である。その母に要求されたのが(略)『仮令身をもろもろの苦毒の中におくとも、(略)忍んでつひに悔いじ』という『仏』への信仰であった」。これは真俗二諦論を女性に適応させた教化であり、「母」と「仏」が「国体」によって結合され、「聖戦」と美化した戦争に加担する論理として機能した。そしてその本質は、「『国体』のなかで女性が『工場』として、つまり出産機能としての役割で認められるということ」であり、「その機能を『国体』は『母性』と捉える」(=「お国に捧げる子の母たる自覚と信念」をもつ母)と著者は指摘する。
 このような「日本の母」が戦争中にプロパガンダとして利用され、それに対して当の人々のみならず、知識人女性でさえも有効な批判をなし得なかったことを著者は重大な戦争責任として批判する。
 「戦後、(略)多くの『日本の母』は、戦争犠牲者として『日本遺族会』に吸収されていく。そして、その多くの母は、夫や息子がどのような戦争を戦ったかを知ることもなく、軍人恩給を受け取っている。15年に及んだアジア・太平洋戦争中、軍靴で踏みにじったアジア諸国への加害の事実を自らの問題として考えるという戦争責任に及ぶこともなかっただろう」。
 そして、かつての「日本の母」に対する反省のないままに戦後日本の急速な経済成長の中で、新たな「日本の母」=「企業戦士の母」が存在することになる。本書はこのように近代天皇制国家のイデオロギーが、仏教を根底に置きながらいかにして形成され、それがまたジェンダー・「性」をいかに利用してきたかを問う。現代日本社会のあり方と深くかかわる問題を、日本人自身に即して内在的に批判する書である。(R)

(追記:本書の出版元・三一書房が労働争議のために出版活動を停止している。このた
め本書については入手困難な状況となっているが、機会があれば一読を要請する次第で
ある。)