ASSERT 274号(2000年9月23日)
【投稿】 GDP2期連続成長の不安材料
【投稿】 国鉄「四党合意」問題と国労8.26続会大会
【投稿】 市町村合併の是非
【コラム】 ひとりごと  −労使協調ってなに?−
【書評】 野本寛一『庶民列伝--民俗の心をもとめて

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投稿 GDP2期連続成長の不安材料

<「統計上の癖」?>
 9/11に発表された国民所得統計速報は、昨年7-12月の二期連続マイナス成長から、今年1-6月期の二期連続プラス成長への転換を明らかにしている。本来なら政府・与党は、その成果を誇示し、胸を張るところだが、出てくる言葉は逆の様相を示している。堺屋・経企庁長官はこの日の記者会見で「今年度1.0%成長達成の可能性が非常に強くなった」と述べながら、同時に「統計上の癖や特殊要因などで伸び率が少し大きめに出た。消費も介護保険の導入など特殊事情があり、四月だけ伸びが高い。年度後半にかなり厳しい状況になるのではないか」といたって悲観的でさえある。自民党の亀井政調会長も「(景気は)回復軌道には入っているが、まだ自力反転の軌道に乗っているとは言えない」とこれまた冴えない。もちろんこうした発言の裏には、大型補正予算によって膨大な公共投資予算をふんだくろうという政治的意図が透けて見えている。
 もちろん、OECDやアメリカから指摘されている怪しげな統計上の癖や特殊要因があるのならば、詳細に情報開示すべきであろう。その時々のご都合主義によって数字をゆがめたり、恣意的な解釈を押し付けることは、事態をゆがめてしまう。しかしそうした前提の上に立って、冷静に発表された数字だけを見ても、この4-6月期GDP成長率1.0%は、前期比13.6%増という巨額の公共投資、成長率への寄与度1.0%によって達成されたものであることが一目瞭然である。民間設備投資はマイナスに転じ、個人消費は伸び悩んでいる、このことも事実である。

実質国内総生産・GDPの推移    2000年 (単位10億円)
         1999年度  1-3月期  4-6月期  寄与度
----------------------------------------------------------
実質国内総生産   482,433.6 486,401.7 491,444.0    1.0
 前期比成長率      0.5      2.5      1.0
   年率換算       6.3      10.3      4.2
民間最終消費支出 286,281.6 287,458.5 290,606.1
    前期比         1.2    1.7    1.1   0.6
民間住宅        19,090.7  19,278.0  19,131.0
    前期比        5.6    6.6   ▲0.8  ▲0.0
民間企業設備     79,501.9  83,185.6  80,406.7
    前期比       ▲2.3    4.8   ▲3.3  ▲0.6
民間在庫品増加    350.4   271.5   792.4
    前期比        −   ▲38.2   191.9   0.1
政府最終消費支出  46,302.2  46,651.6  46,029.3
    前期比        0.7    0.8    ▲1.3   0.1
公的固定資本形成  39,470.9  35,670.1  40,508.1
    前期比       ▲0.9   ▲7.5    13.6   1.0
公的在庫品増加    -29.9    90.5   179.4
    前期比     −    −    98.2   0.0
財貨サービス純輸出  11,465.8  13,795.9  13,791.0
    前期比         ▲6.0    41.4   ▲0.0  ▲0.0
財貨サービスの輸出  68,999.9  73,044.8  75,927.4
    前期比          6.0    5.7    3.9   0.6
財貨サービスの輸入  57,534.1  59,248.9  62,136.4
    前期比          8.8   ▲0.1    4.9  ▲0.6
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<<息巻く政調会長>>
 この間の事態の推移が示していることは、小渕―森両内閣を通じて、本予算の公共事業費を年度前半にむりやり前倒しして執行し、年度後半にはさらに大型補正予算で追加して、たとえだぶつき、消化し切れなくても、切れ目なく公共事業費をばら撒いて景気対策のほころびや矛盾を先延ばしするというパターンを取り続けてきたことである。98年の24兆円、99年の18兆円という大型補正はその典型であった。その結果、98年度から今年度末までに100兆円を超す新規国債が発行されるという事態に突入している。
 2000年度末での国・地方の債務残高は合計645兆円、GDPの130%にも達する。来年度予算の概算要求でも、50兆円前後の税収に対して85兆円前後の予算を組み、30数兆円の新規国債発行がすでに盛り込まれている。利払いや償還のための国債発行を含めると発行額は予算と同額の85兆円にもなる。もはや予算のよって立つ基盤が借金以外になくなってきたともいえるのである。こうして国債発行をめぐる事態はすでに危険水域に入ってきているといえよう。すでに国債価格は、下がりはじめており、8月に1.6%台だった長期金利は1.9%を超え、2%に近づいている。
米国の格付会社・ムーディーズが日本の国債をさらにワンランク格下げしたことに対して、亀井政調会長が「ムーディーズの判断にしたがって経済政策をやるつもりはない」と息巻いたが、亀井発言がさらに国債価格の下落・金利上昇に拍車をかけているのである。
 それでも政府・自民党は、亀井氏の言う「事業規模で10兆円超、国費ベースで5兆円」の補正予算を9月末からの臨時国会で成立させようとしている。もちろん財源は赤字国債の乱発である。たとえプラス成長に転じてきても、公共事業の息切れを防がなければマイナス成長に逆転してしまうという危機感、ここまでくれば巨額の赤字国債もなんのその額にかまっていられない、来年の参院選まではなんとしてもばら撒き政策で政権を維持し、その後に増税・インフレ政策でという無責任体制である。政府・与党の犯罪性は、空前絶後の赤字国債となって覆い被さってきている。

<「IT」関連予算>
 さすがに亀井発言に対しては異論が続出している。加藤・自民元幹事長は「格付機関とか市場が反応し、長期金利が上がって国の借金返しの金が増える。責任を感じてもらいたい。10兆円補正はやってはいけない」とテレビ番組で広言。山崎・自民元政調会長は「公共事業見直しを表明したばかりなのに、一般公共事業中心の補正では方針が一貫しない」と指摘。宮沢蔵相も「何でもかんでも国債を出したらいいという状況ではなくなってきた。財源を考えなければならない」とクギを刺している。そしてついに小泉・森派会長までが「借金をしまくって景気が回復するかといえばそうではない。借金財政から脱却するかどうかの転換点にきている」と、大型補正予算反対の姿勢を明瞭にし始めている。
 それにもかかわらず一時の森政権交代論は影をひそめ、加藤氏までが来年の参院選を森首相で闘うことを明言する始末である。「森では参院選は闘えない」と見限られ、最低の支持率で「年末までが命」と見られ、「政権に恋々とするものではない」と意気消沈していた森首相、がぜん息を吹き返し、大型補正予算、来年度予算編成でお得意の利益誘導・ばら撒き政策に政権の吸引力をかけている。
 来年度、2001年度予算の概算要求を見ればその無責任さはあきれるばかりである。森首相は政策指導能力のなさを「日本独自のIT国家戦略の構築が不可欠だ」とブチ上げることによって目先を変えさせようとしているのであろう。しかしそれでも馬脚が現れるというものである。概算要求84兆8300億円の中身は、「IT」という御旗のもとに、多少でもパソコンやコンピューターの部品を使う施設、それどころか「電気」、「電線」を使う施設であればむりやり「IT」関連と称して予算要求することがまかり通っているという。たとえば、ダム工事や各種ハコモノ施設も、パソコンを設置、インターネット回線を引いただけで"ITダム"や"インテリジェントビル"、池や水路監視に光ファイバー構想、といった具合である。本来の情報技術(IT)ではなく、まさに利益誘導にまつわるその筋(It's イット)関連である。
なんでもかんでも「IT」関連公共事業に早変わりするわけである。しかも建設省、運輸省、農水省がそれぞれ独自の"光ファイバー敷設"事業を計画するというずさんさである。現実の通信インフラ整備は、NTTや新電電各社がすでに先行しているにもかかわらず、それらとの関連や接続問題は利権がらみで放置されている。

<「せいぜい1兆円」>
 問題は、こうした無責任な政策がすでに限界にきているにもかかわらず、居座りつづけ、ごく近い将来への過大な負担と矛盾を拡大しつづけていることである。たとえ景気回復が軌道にのったとしても、税収入の自然増で解消できるような水準ではなくなってしまっている。宮沢蔵相ですら、「バブル期並みの好況となっても、せいぜい1兆円がいいところ」と言っている。こんな発言をしながらよくも蔵相の地位にとどまり、無責任な政策を追認できるものである。いずれにしてもこの推計でいくと、今年度末の国の国債発行残高だけで500兆円と見積もられており、来年度からたとえ発行をゼロにしたとしても、単純計算でも500年はかかるのである。残る手は、ひたすら消費税を増税させ、ハイパーインフレで借金を減価させることである。うがって言えば、現在の無責任な赤字国債発行は、近々そうした事態をむりやりにでも引き寄せるための最大の近道ともいえよう。GDP指標が回復してきても、不安を極力強調する所以もまたここにあろう。
 他の景気指標が回復軌道に乗ってきても、個人消費がなかなか回復しない最大の理由は、すでに現実に見え始めているこうした将来不安への懸念からきているといえよう。政権与党はもちろん、野党も含めて、現在の政治担当諸勢力がいずれもこうした財政的破綻を回避する政治的意思を明瞭に示し得ていないところに問題が集約されてきているのではないだろうか。
(生駒 敬)

(投稿) 国鉄「四党合意」問題と国労8.26続会大会

<大会で問われた課題は組合内民主主義の保障と苦肉の策の全員投票>
 7月1日に開催された国労第60回臨時大会は定刻より5時間遅れ開催されたが、混乱のため休会とされた。それをうけて、8.26の続会大会が開催された。続会大会では解雇された1047人の今後の処遇を巡っての四党(自・保・公・社)合意(ア 『JRに法的責任はない』ことを国労が明確に表明する、イ 解雇されたものについては人道的な見地から解決する)を国労が大会で承認することが執行部側から求められたが、結局は高橋委員長の提案によって、4党合意の承認を全員投票で決着をつけることになった。また、予想された執行部の辞職はなされず、次回定期大会にて表明するとのこと。
 今回の続会大会で最も杞憂された、執行部による中央突破=強行採決は回避され、とりあえず国労の分裂、闘争団と国労執行部との乖離は避けられた。規約にない全員投票を提起した国労執行部の『苦渋の選択』は、理解できないでもない。反主流派も規約のミスをつくことなく、概ね混乱なく続会大会は終了した。

<四党合意は妥協策>
 そもそもなぜ4党合意がなされたのか、その論議経過は明らかではない。しかし、国労をめぐる状況を考えると、国鉄の分割・民営化からすでに13年、解雇者=闘争団も多大な犠牲を強いられてきている。組合員は3万にもみたず、国労のJR内での発言権はかつての面影すらない。分割民営化を巡っての修善寺大会から情勢は大きく変化した。1989年には連合が結成され、JR総連、JR連合も連合に加盟した。政治も、政党再編成がなされ、社会党は解党し、民主党が野党第1党になり、4党合意の当事者である社民党は衆議院でわずか20名しかいない少数党になっている。
 また、JR総連との確執がJR内部で大きな課題にもなってきた。そして、そのJR総連との対決から、JR連合との再統一も視野に上っている。分割・民営化の結果生じた問題を乗り越え、今の課題を解決する体制が求められている。
 そんな状況で4党合意が出てきた。この合意はいわば政治決着である。政府・JRにしても、昨年のILO勧告、それに同意した連合、「国労組合員の解雇はJRによる不当労働行為」との各地での地労委決定など相次ぎ、政府にしたらいよいよ最後的な決着を迫られる状況と反主流派はいうが、問題は簡単ではない。地労委決定を覆す高裁判決もでている。むしろ、状況は膠着状況といったほうがいいだろう。今後どれだけの時間がかかるのか不明だ。「完全勝利」の確信が持てない状況で、しかも時間がかかるとすれば、妥協はありうる。ただ、国労執行部は拙速であってはならない。修善寺大会のもたらしたものは組織分裂であった。これ以上再分裂しては運動路線以上に意味をなさない。栄光ある国鉄闘争の歴史を誇る国労の分裂は避けなければならない。そういう意味で今回の「全員投票」は問題の先延ばしではあるが、意味はある。定期大会の10月までの間、執行部は反対派への説得に最大限努力することが求められる。(立花 豊)

投稿 市町村合併の是非

<いよいよ合併!?>
 地方分権一括法が施行されて半年がたった。明治維新、戦後の民主化に次ぐ第3の改革という当事者たちの意気込みとは裏腹に、日常生活も含めて表面上は何ら変わらない状況に、マスコミにも近頃はほとんど話題にのぼらない。税財源の移譲など多くの課題を残してのスタートだったわけで、このような状況も大方予想されていたことではある。未だ地方分権の意味を理解せず、相変わらずのトップダウン型の主従行政を行っている中央政府にも原因があるだろう。
 さて、地方分権そのものの議論が停滞する中で、急浮上しているのが市町村合併の話題である。本誌3月号でもレポートしたように、地方分権一括法において即日施行された合併特例法に基づき、地方交付税や地方債の特例や住民発議制度の拡充など、「自主的な市町村合併」を推進するための様々な「アメ」施策が打ち出されている。その一環として、自治省は昨年8月に「指針」を示し、各都道府県に合併パターンも含めた「合併推進要綱」の作成を要請したのであるが、2000年内を期限とされていることから、作業は急ピッチに進められている。私の住む大阪府においても、さる9月1日、合併要綱素案が発表され、大阪市、東大阪市を除く42市町村の合併パターンが示され、行政関係者をはじめ、大きな話題となっている。

<「雰囲気づくり」は進む>
 この合併パターンというもの、自治省や大阪府の説明では、「あくまで合併を議論するための参考や目安となるタタキ台」であるとのことで、「合併案」や「勧告」といった類のものではない、と極めて慎重な言い回しとなっている。ただ、いくらそう言ってみたところで、具体的な市町村の名前まで含めて大々的に報道されれば、世間では実質的な「合併案」と捉えられても仕方のない状況であり、また、それが狙いだったとも言える。着実に合併に向けた世論喚起や環境は整えられ、合併に消極的だった首長からも「避けられない課題」であるとのコメントも飛び出してきている。職(あるいは利権)が奪われることにつながり、元々は合併に消極的だった議会からも、合併必要論が多数を占めつつあり、「総論賛成」の様相を呈しつつある。
 いよいよ合併も本格化するかのような雰囲気ではあるが、各論に入ってくるといろんな問題・課題が浮かび上がり、遅々として進まないのが現実である。2005年3月の合併特例法の期限切れまでに何らかの成果が上げられるよう、国も必至であるが、そんな状況に業を煮やしてか、「代議制の根幹をゆるがす」とあれほど否定していた「住民投票制度」を、合併促進のために採り入れることを自治省が検討中との報道もなされている。

<分かりにくいメリット>
 1950年代の「昭和の大合併」で現在の枠組みがほぼ出来上がってから数十年、住民や行政において定着している状況にある中で、合併のメリット、とくに住民におけるメリットが分かりにくいのも、盛り上がりに欠ける要因の一つであろう。これまでの議論が、「分権の受け皿」としての合併であり、行財政体制の効率化・強化の観点からなされ、住民としてのメリットが「住民票が近隣でもとれる」程度のものでしかなかったのである。その程度のメリットならば、別に合併せずとも、一部事務組合や広域連合など従来の制度による広域行政で十分にニーズに対応できる。そもそも、住民の生活行動や意識は、モータリゼーションの成熟はもとより、情報通信手段の飛躍的発達により、行政区域の枠をとっくに跳び越しているのである。

<合併議論の前に>
 地方分権が聞いてあきれる、国あるいは国の出先機関と化した都道府県の「合併圧力」であるが、住民が真に求めているのは何なのか、そのことを真っ先に分析し、対応すべきである。都市部と農村部に違いはあるだろうが、住民が求めているのは、少なくとも「市町村合併」ではなく、少子高齢社会への不安の解消であり、国と同様に公共事業とバラマキの大盤振る舞いで借金漬けになっている地方財政の将来への不安の解消のはずである。それらが解決できる市町村合併ならば意味もあるのだろうが、今の地方自治体の「土建体質」のままではより大きな利権に結びつき、ミニ田中・ミニ竹下を生み出すだけである。それら癒着を断ち切るきっかけとなり、あくまで住民意思によって行われるのであれば、市町村合併は極めて有用な手段であると言えるだろう。(大阪 江川 明)

☆ ひとりごと−労使協調ってなに?−

◆最近、労働組合に関して、二つの事件を通して感じたことがある。一つは、雪印乳業の食中毒事件であり、もう一つは「そごう」の経営破綻である◆雪印乳業の食中毒事件では、新聞の投書欄でも見たが、会社の衛生管理責任もさることながら、なぜ労働組合のチェック機能も働かなかったのかとの批判がされている。事件の中では、腐敗した脱脂粉乳を加熱処理しただけで再利用したり、賞味期限の切れた牛乳を再生利用していた等の事が明らかにされている。食品製造に関わる従業員が、これらを全く知らなかったとは言い難く、「ちょっと、やばいんじゃないか?」と思っても、「仕事なんだから。業務命令だから」と目を瞑ってきたことが、こうした事態を招いたと言えなくもないのではないか。もちろん、だからといって、一人一人の従業員の責任を問うわけではない。やはり一人一人の従業員にしてみれば、作業工程を批判し、業務命令を拒否することは、社内での様々な待遇・立場を悪くするし、場合によっては、自らの雇用自体も危うくしかねない、相当の勇気のいるものである。大事なことは、そういった疑問を呈したときに、そのことが取り上げられる社内システムになっているのか、労働組合もそのシステムに位置付けられているかである。そして労働組合が、そのチェックシステムの役割を果たすためには、その問題提起した組合員に、不利益にならないように対応できるのか−組合員との関係において、その信頼関係が形成されていることが求められるだろうし、そして、こうしたことの大前提として、会社に対して堂々と問題指摘できる真に対等平等な労使関係になっていることが重要である◆雪印乳業労組は、食品連合傘下で伝統的に労使協調であるが、労使協調は、何も会社の不利となること一切を取り組まないということではない。むしろ労使協調とは、労使が立場上の対置関係にありながらも、双方が経営上の応分の責任を担い合うという意味では、対置関係からくる適度な緊張関係の下、対等平等に双方が指摘・議論・交渉できる関係のことを言うのではないか。連合傘下の組合を中心に、よく「うちの組合(会社)は労使強調」と唱え、極力、会社との摩擦・対立することを避ける組合が見られるが、それは結果として労使協調ではなく、労使依存関係と言うべきものになろう。筆者は、その意味で、世俗的に言う「労使協調」とは区別して、真に自立的で対等平等に基づく双方の責任関係として「労使共同」と言うようにしている◆もう一つの「そごう」経営破綻では、水島前会長の経営責任と合わせ、前中央執行委員長の経営側との癒着・会社資金の不正流用が問題となっている。全そごう労組は、前中央執行委員長体制の人事を刷新すると共に、その責任も追及することを大会で決定した。「そごう」の労使癒着・依存関係は、雪印乳業と同様で、論述するまでもないが、いずれにしても、ここで感じるのは、こうした不健全なる労使関係を防ぐための組合資質の保障の問題である。労働組合も大きくなればなるほど、本来意義が薄れ、管理的な側面が、強くなるのではないかと思う。特にユニオンショップの場合、組合はこれを存続・維持するために会社と一定、妥協的になり、またそれだけに第二労務的な役割を果たす傾向にある。また会社は、組合をコントロールするために、組合幹部に一定の処遇を保障しようとするし、組合幹部も日常的に接するのは、一般組合員より会社側との方が多くなり、一般組合員の不満・意見より会社の主張の方が、理解しがちになる。これらの事柄は、ある程度、やむを得ない側面もあるとは思うが、それだけに労使依存関係に陥らない措置制度を考える必要があろう。例えば組合幹部が特権的なものにならぬよう、一定の年限までとするとか、幹部の交際費等、組合予算の執行について、会計監査とは別に、常に組合員に閲覧・公開されること(組合オンブズマン)とか、通常の執行機関ルートとは別に、直接全体に意見・疑問が提起できる意見公開制度の導入だとかーー。とにかくは労働組合も改革が求められているとき、公開・参加を具体化した措置を、なんでもできるところから、やっていくべきだと思う◆話は若干、変わるが、過日の朝日新聞特集記事で、ある大手会社の中間管理職社員が、リストラリストに自分の名前が載っているのを知り、企業内労組に相談したが、組合が何も取り組んでくれず、やむなく、一人でも入れる労働組合−合同労組に加入し交渉したところ、あっさりリストから外されたとの事が掲載されていた。記事は、このことを通して、今日の企業内労組が十分に、その本来機能を果たしていないと批判していたが、確かに最近の失業者の増大を見るとき、もちろん、残酷なまでリストラ整理する企業も悪いが、安易にそれを許してしまっている労組にも責任は大きいと言わざるを得ない。特に労組組織率が年々、致命的なほど低下し、「なんとか組織拡大を!」と、そのことの問題意識を持っている組合幹部も多くはいるが、先ずは日常の取り組み自体を問い直さなければ、未組織労働者や失業者からの信頼・回帰は有り得ないのではないだろうか◆一方、最近のちょっとした動きとして、合同労組が取り組む争議は増加傾向にあり、また合同労組の組織率は、全体の低下とは別に、恒常的な組織化とは言えないが、微増傾向にある。また失業者は、失業者なりに「自らの雇用は、自ら創り出す」と、失業者ユニオンをはじめとして、あちこちで共同して事業を起こす動きも見られる。まだ多少の変化で、新たな流れとまでもいかないが、目に見えないところで、何かを変えようと模索していることだけは確かだ。世の中、IT革命にグローバル化等々、凄まじく時代が変化するとき、従来の労働組合も、足下からの改革を怠っては、その存在がなくならないまでも、井戸の中の蛙ならぬ井戸の中の大将のままであることだけは言えるだろう。(民)

書評   『庶民列伝──民俗の心をもとめて』
  (野本寛一著、2000.4.10.発行、白水社、2,800円)

 現代社会の構造を厳密な理論によって分析し解明することの有効性は、現実の社会の動きによって確証される。しかしそれは絶えず現実との「隙間」を持つものであり、隅々にまで理論が到達することはあり得ないということも、われわれの経験の示すところである。この「隙間」に着目した著者は、次のように述べる。
 「いくら鋭い分析をしても、論理的な体系を構築しても、その分析や体系の間から血の通った人間を漏らしてしまうことがある。個人の人生や感情の襞(ひだ)を捨象していくのは、学問の宿命かもしれない。しかし、その補いをつけないというのは、あまりにも空しいし淋しい」。
 そこで著者は、自らの研究分野である民俗学で、これを克服することを試みる。その成果が本書である。本書では、個人を基点に「民俗事象」をその人生の中でとらえ、消えゆく仕事や職業に従事する庶民の実際を描くことで、「日本の近代」のある側面に光りを当てる。またもともとが雑誌連載の紀行性のある記事であるため、静岡県という地理的風土的特徴を浮かびあがらせている。
 本書に登場する「庶民」は、多岐にわたる。章の題名を書き連ねるだけでも、その仕事、職業の多様さは想像されるであろう。おおむね以下のようである。
 「第一章 漁る舟影(漁労の人生)」[漁師、海女、牡蠣とりなど]、「第二章 腕におぼえの幾年月(製造加工業と職人の人生)」[砂糖繰り、塩職人、紙漉き、杜氏、舟匠、茸師など]、「第三章 日々の旅路(歩き、運んだ人生)」[馬力屋、牛商い、湯の国ガイド、強力、臼造りなど]、「第四章 山川のあいだ(焼畑・狩猟・川工事)」[熊狩り、乳牛飼育など]、「第五章 田植ボッコのデロ(たくましい女たち)」[湿田農業、カシキ、とりあげ、郵便配達婦、糸ひきなど]。
 これ以外に実にさまざまな職業が登場し、またそれらの労働の際に歌われた唄も紹介されている。本書では、その委細、仕事の手順、道具なども図解されていて、大いに参考になる。
 そして本書を見渡して、著者は、「職業という語と、その実体の関係」について、ひとりの人間がひとつの職業についているものだという一般化された観念の見直しを発見する。すなわち本書に登場する人びとの「職業の複合性、重層性や、職業の複雑さはまことにはなはだしいものがある」ということ、それ故「ほとんどの人が複合的、重層的に仕事をしており、ひとつの職業でおのれを象徴させることはとても無理なありさまである」ことを認識する。そしてその転業には、個々人の仕事への修練のエネルギーとともに、「社会経済構造の変化や生活様式の変貌が強くかかわっている」ことを確認できるのである。過去のものとなり廃業に追い込まれていく職業の場合に、特にその感を強くする。
 さらには、これらの人びとに大きな影響を与えた、明治20〜30年代の初等教育の実態や戦争による本人および家族のメンバーに対する痛手なども、本書を語る上では不可欠の点であろう。ただこの点は、紙面の制約もあろうが、もう少し掘り下げてほしかったところである。庶民を組み込んでこそ、日本の近代化は可能となったのであるから、その痕跡は、庶民の生活の隅々にまで及んでいると推測されるからである。この意味で民俗学が重視する庶民の生活史にかかわる側面として、意識(イデオロギー)の問題が取り上げられねばならないであろう。しかしこの点を置くとしても、本書の庶民は、例外なく生活史そのものをあらわしている。
 ただし本書の旧版は1980年(昭和55年)で、今回発行されたものは、ほぼ当時のままであるため、いささか旧聞に属する内容もあることは否定できない。しかし全体として読んでみると、高度成長を経て、日本が「旧い」時代を本格的に忘れ去ろうとしている時期に本書が書かれていたことは、重要である。現在の日本社会が、ほとんど過去の日常生活的伝統から切り離されて、浮き草のように漂いながら、深刻な問題を提出し続けている時、本書は、庶民の生活の中にこそ、脈々と生き続けるものがあったことを示している点で、今日においてこそ価値あるものと言えるであろう。(R)