ASSERT 276号(2000年11月25日)

【投稿】 政局転換の挫折と森「死に体内閣」
【コラム】 ひとりごと---不信任案否決に思うこと----
【投稿】 安保闘争の裏?話
【書評】  『「学校」が教えてくれたこと』
【書評】  上高森遺跡捏造問題と『日本』という国名を問いなおすこと

【報告】 小野義彦先生没後10周年墓参会

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【投稿】 政局転換の挫折と森「死に体内閣」

<<政界の暴力団抗争>>
 またもや多くの人々の期待は裏切られたといえよう。「優柔不断」、「貴公子」と言われ続け、次期総理へのにんじんをぶら下げられては「禅譲」を期待しつづけてきた加藤・自民党元幹事長、その行動はこれまでそれ程注目を浴びるものではなかった。しかしその加藤氏が、森・自公保連立政権に対して明確な不信任を表明し、野党が提案する森内閣不信任決議案に対して賛成投票をするという、これまでにない展開は、政局を大きく揺り動かし、一挙に日本の政治の劇的変化を期待させるものであったし、事実これまでにない多数の人々が期待を表明し、加藤氏のホームページには一日に5万件ものアクセス、数多くの激励メールが寄せられるという新しい事態を引き起こした。このこと自体は大きく評価されてしかるべきであろう。
 ところが、土壇場になって自民党内の内向きの論理によって、「幕引き」、「手打ち」が行われた。まるで政界の暴力団抗争である。元締め役の野中幹事長は不信任決議案の上程、採決の前から、これに賛成するものには離党勧告・除名、選挙区では対立候補を広言し、主流派の橋本派では加藤氏に対して「熱い鉄板の上で猫踊りをやらせてやる」と息巻く始末である。戦前の治安維持法、予防検束の思想そのままである。思わず、共産党が核実験停止条約に賛成投票する意向を表明した当時の鈴木市蔵参議院議員に対して党から除名し、悪質極まりない個人攻撃、罵詈雑言をあびせた過去を思い出させるものであった。いまだに反省、自己批判すら出来ない、追及されると多数決原理でしか答えられない。数の暴力が問われているときに、情報公開と公開論議を否定し、上意下達の決定服従のみを求める。いずれも民主主義というものの基本的ルールをわきまえない、お恥ずかしい限りの知的レベル、政治的未熟さを示すものである。

<<「大人の解決」>>
 加藤派は、野中幹事長らの恐喝と恫喝の前にその半数前後が切り崩され、「多くの犠牲を伴う」事態を避け、「名誉ある撤退」を選択したという。主流派は「いい落としどころ」に持ちこみ、「大人の解決」をしたと自賛する。密室協議で全く不明朗な形で誕生した森政権は、ここで再びその崩壊の危機を密室協議で葬り去り、次の政権たらい回しに向けた密室取引が始まるのであろう。
 ここで加藤氏の最大の危機は、数的に切り崩されたことが問題なのではなく、党内はもちろん、党外においても新聞、テレビ、インターネットなどを通じて広くオープンに訴えかけ、そのことによって広範な論議を巻き起こし、支持を獲得してきた、民主主義的政治の本来あるべき姿をみずから断ち切ったことにあるといえよう。情報公開とオープンな議論という、民主主義にとって本質的な基本的政治姿勢と相反する密室決着・裏取引は、よりいっそう大きな失望感、政治への不信感を増大させたともいえよう。
 すでに森政権は、自民党内の多数がどうであろうと、もはや見離されているのである。森首相は言うにコト欠いて「加藤がこういうことをするから支持率が下がるんだ」と最低限の政治的自覚さえ示し得ない無責任さである。その結果、森内閣の支持率はついに12%(11/19テレビ朝日調査)などという急落ぶりである。もはや森内閣は「死に体内閣」、存続の余地など限られており、今や世論の圧倒的多数は森政権よりもむしろそれを支えている自民党に愛想を尽かし、主流派でさえ支えきれない、彼らと手を組んでいる公明・保守にまで存亡の危機が迫っているのである。今回期待されたことは、加藤派が多数を握るかどうかよりも、加藤派が山崎派とともに自民党の多数派の現状維持の姿勢と手を切り、野党と連携してでも森政権打倒の姿勢を明確に示し、政局を大きく転換させることが出来るかどうか、それが貫徹されるかどうかにかかっていたのである。不明朗な「手打ち」は、彼らの政治的無責任さを浮き彫りにし、もはや期待されざる存在へと追い込むものである。

<<既得権益と“お出迎え”>>
 自民主流派は今回の事態の幕引きによってほくそえんでいるのであろうが、事態は彼らにとってより深刻となったというべきであろう。彼らの強権的で反民主主義的な政治姿勢は、どのように弁解しようとも、崩れ落ちようとする政治的特権、既得権益確保にしがみつく時代遅れの亡霊でしかない。
 自民党主流派にとって、今回の事態乗り切りの報償金は、来月の内閣改造である。省庁再編に伴って新たに生まれる利権の争奪戦、新大臣、副大臣、政務官など70人の入閣、さらに党の役員や部会のポスト、これらをめぐっての分捕り合戦、派閥割り当て、要するに既得権益分配合戦である。加藤派を切り崩したえさでもあり、報復でもある。
 しかしこんな薄汚い政治は、今や神通力をなくし、ますます愛想をつかされている。つい先日行われた長野知事選がそのことを端的に示している。共産党を除く県議会のすべての会派から支持・推薦を確保し、県下120市町村の首長も押さえ、出陣式には、国会議員や県議、市町村長1000人がはせ参じ、候補者の池田氏は行く先々で首長や県議からうやうやしく“お出迎え”を受け、思いつく限りの公共事業を次から次へと列挙、関係企業をひざまずかせ、悪代官よろしく横柄に命令しても人が群がるほど集まる。誰も敗北など予想していなかった。それが11万6千票以上の大差で敗北したのである。
 森内閣不信任決議案が上程される前日、11/19の栃木県知事選挙でも、同じく共産党を除くオール与党が推薦する現職の知事が落選し、無所属新人が当選。保守王国の神通力はここでも作用しなかったのである。
 明らかに事態は大きく変化してきているといえよう。加藤氏が言うようにまさに「自民党は存亡の危機」に直面しているのである。中途半端で、あいまいで、既得権益に未練を残し、住民参加と情報公開を拒否し、オープンな民主主義的政治手法を取らないような政党は、さらにいえば労働組合でさえも、すべて拒否される時代が到来しつつあるとも言えよう。民主党や野党がこれらの選挙で自民党に加担し、国会でいくら対決を叫んでも、迫力は乏しく、共産党も含めて、森内閣退陣を要求する広範な大衆運動さえ組織し得ていない、しようともしていない現状が、今回のような不明朗な結末、失望感をもたらしたのではないだろうか。
(生駒 敬)

<ひとりごと>---不信任案否決に思うこと----

 久しぶりに、何とも古くさくて、つまらないのだけれど、見ようによれば実に面白いドラマを堪能した。くだんの「加藤政変」である。マスメディア(本号での生駒論文もだが)は、加藤氏の倒閣行動の挫折を、国民に対する裏切りだの、政治不信を増幅させるだの、やけに厳しく批判しているが、私はそんな風には感じていない。
 そもそも国民は、加藤氏に対してそんな大きな期待をしていたのだろうか。何か面白くなるかもしれないなと関心を強めてはいても、案外、こうした結末は予測の範囲内で、「ああ、やっぱりな」というのが実際のところではなかろうか。
 むしろ、今回の騒動は、日本の国会や政治がどんな状況にあるのか、実に正確に映し出したところに価値がある。矢野前公明党書記長がニュースステーションで、「加藤さんも、喜劇のピエロになるくらいなら、負けても何人かを引き連れて不信任案に賛成し、自民党を除名されて悲劇の殉教者になったほうがよかったのに」と評していたが、とんでもないことだ。殉教者なんかが生まれていたら、ドラマとしてはカタルシスを提供できたかもしれないが、日本社会にとっては中途半端で、決して好ましいことではなかったと思う。ここは、あくまでもブレヒト劇のような結末がふさわしかった。
 不信任案が否決されて、実にうれしそうな森首相の笑顔。自分のためにこんな状況になっているのに、悲壮感や苦渋のかけらも見あたらない。ああ、この人は、自分が首相の座にいることにだけに満足している人なんだということが、本当によくわかる。
 大見得を切ってきたのに、すごすごと敗北を認めて、泣き顔の加藤さん。何とも頼りない彼を、「あんたが、大将なんだからと」これまた泣き顔でいさめている加藤派の各議員。ああ、この人たちは、自分の選挙も自分の力ではできなくて、議席を失うことが何しろこわい人たちなんだということがよくわかる。
 締め付けと、切り崩しに威勢良く走り回る主流派幹部。ああ、この人たちは、政権与党でいることが何よりも大事なんだということが、ひしひしと伝わってくるのである。
 そして、ついでに言えば、自民党に舞台だけを用意して「たなボタ」を狙ったものの肩すかしをくらい、最後に松波議員に水をかけられて抗議の声を張り上げていた野党議員たちは、まさにエキストラそのものであった。
 日本の国会に「パワーゲーム」はあっても、「統治」のための政治は存在しないという現実を国民はまざまざと見せつけられた。けれども、その日も、明くる日も、社会が正常に機能していることに間違いはない。
 だとすれば、国民の中で、国会や国会議員が有力なリストラ候補に上げられたとしても、何の不思議もないのである。(大阪:依辺 瞬)

(投稿)安保闘争の裏?話

この4月から新しい職場になり、早7ヶ月を迎えた。
自分の所属する部署だけではなく、多くの人とも顔見知りになり、帰りに飲みに行く機会が増えてきた。私自身も飲むのが好きなので、誘われれば、よほどのことがない限り必ず誘いに応じている。そんなお誘いで、年配のお二人からお声がかかった。もうお二人とも定年退職をして、その後の仕事として現在働いておられる。数日後に行く約束して近所の飲み屋で飲むことにした。
以前から、お二人はちょくちょく飲みに行かれていたらしい。お互いに良く知らないまま同席しているのであるが、お二人のことを知るために今までの仕事を尋ねると、お一人は警察官、それも幹部であったらしい。そして、もうお一人は自衛官であった。なんという組み合わせであろうか。思わずほほ笑むでしまった。学生時代に運動をして、警察のブラックリストに載り、公安の刑事がわざわざ家にまで来て調査された私が、こともあろうに警察官、それも元幹部、そして元自衛官と一緒にお酒を酌み交わしているのである。こんなことがあろうとは思いもよらなかった。
しかし、年端のなせる技であろう。そのような過去を全くとまではいかないが、ほとんど気にすることもなく、いろいろと話することができた。そんな中、もっぱら私が聞き役に回っていたのであるが、酒も進んできたとき、突然であったが、話題が安保闘争の話になった。それも第1次安保闘争の話である。その話によると、その方が就職したその年に、安保闘争の警備のために動員され東京に派遣されたそうである。国会の正門で警備についており、樺美智子さんが亡くなったその日も警備についていた。次の日、樺さんの死に怒るデモ隊が、正門から遠くではあるが対峙しているとき、門の中にいたにも関わらず、そのうねりの迫力に恐怖を感じたそうである。そして、ほとんど眠れない日が続き、2週間の動員の間で10キロも痩せてしまったそうである。
同じ時、自衛官の方は、レンジャー部隊に配属されていたそうである。レンジャー部隊は特殊訓練と言えば聞こえがいいが、要するにいかに人を殺るかという訓練ばかりしていたそうである。そして、国会にデモ隊が押し寄せた山場の日、自衛隊には待機命令がかかり、いつでも出撃できる体制で待機していたそうである。結局は出動命令は出なかったが、心の中では武器でもってデモ隊を排除する決意を持っていたそうである。このように、その時、政府側も緊迫した状況に陥ってたらしいことが伝わってきて、私には大変興味深い話であった。聞きながら、「これはアサートに投稿できるな」とも考えていた。
そして余談になるが、そのとき動員された警官は、特別手当への期待がその苦しみに耐える糧であったらしく、休憩する車の中での話題はいくら特別手当が支給されるかという話ばかりであったらしい。(実際支給された金額は予想の半分程度であったそうである)

この話を懐かしそうに語っておられるお二人の顔に、歴史にページを残す出来事に自らが直接かかわってきた満足感、充実感みたいのものが表情として現れているのが印象的であった。多分、デモ隊として安保闘争に参加してこられた方も同じ表情でデモの様子を語るのであろう。
最近の私は、右や左にあまりこだわらなくなってしまっている。「人は人がら」という思いが年々強くなっている。安保闘争も、今や昔になってしまったのだろうか。
(大江 和)

 書評  『「学校」が教えてくれたこと』
  ──山田洋次著、PHP研究所、2000.4.27.発行、1,300円

 著者は、『男はつらいよ』シリーズで有名な映画監督である。監督作品としては、他に『家族』『幸福の黄色いハンカチ』等があるが、また周知のように、『学校』シリーズによって、現代日本の教育のあり方を考えていく話題作品を提供している点でもユニークな存在である。
 本書は、その『学校』シリーズ制作にあたっての体験と視点をまとめたものである。
映画制作過程に即しての語り口であるだけに、表現は平易かつ簡潔であるが、その内容は興味深い。
 『学校』第1作目を制作するきっかけとなった「夜間中学」との出会いの中で、著者は、普通の昼間の中学校には見られない特徴を発見する。そのひとつは、生徒はみんな何らかの事情で義務教育を受けられず、そのことでさまざまな差別を受けて生きたこと、もうひとつは、「夜間中学には競争がない」ということである。つまりこの学校に集まってくる生徒たちは、それまでの人生や現在の生活において苦難を抱えているが、しかしそれぞれが、学校に来る「高い志」とでもいうべき目的を明確にもっている。そして彼らにとって「夜間中学」が、「ひとつの家庭であり地域であり社会」である存在となっていること、ここにこそ本来の学校の姿があるのではないかと著者は確信する。そしてこの視点は、「夜間中学」誕生までの歴史の認識と重なって、教育の現状、あるいはもっと根源的に、「教える」ということを考える挺子となって、さまざまな問題を浮き彫りにする。
 『学校V』は、知的障害をもった主人公の在学する高等養護学校が舞台であるが、この映画を撮るにあたって助言を受けた教員の言葉を、著者はこう語る。
 「知的障害の場合は子どもの心を理解することがとても難しい。障害のあらわれ方が一人ひとりみんな違うわけだから、子どもを一生懸命みつめて、それぞれの子どもたちから、その子がどのような障害をもっているかを学びとるしかない。子どもたちから教えてもらうという気持ち。この子がどんなふうに悩み、どんなことに怒り、何に喜ぶかということを一生懸命に学ぶ。そのために教師はなるべく目立たない存在でなければいけない。」
 このような姿勢が大切なことは言うまでもなく、これを抜きにした権威の絶対視や怠惰な現状肯定の認識にもとづく行動が、学校不信、教育崩壊の底にあるのではないか、と著者は指摘する。
 そして著者は、学校の問題について考える中で、「教えるとか学ぶとかいう問題は、ぼくたちの映画創造の現場の悩みや苦しみと深く関わりがありこと」に気づき、著者のバイブルともいうべき、伊丹万作の『演技指導論草案』(『伊丹万作全集2』所収、筑摩書房)との比較を試みる。伊丹万作は、亡くなった伊丹十三の父親にあたり、戦前の脚本家・監督として有名な人物である。
 ここでは演出者として俳優をどう見、どう指導していくかが、具体的な心構えとして説かれている。たとえば次のようにである。
 「俳優の演技を必要以上に酷評するな。それは必要以上に賞讃することよりももっと悪い。」
 「演出者は演技指導中はできるだけ俳優の神経を傷つけないように努めなければならぬ。そのためには文字どおりはれものにさわるような繊細な心づかいを要する。なかんずく俳優が自信を喪失する要因になるような言動は絶対に慎まなければならない。/演技指導とは俳優を侮辱することだと思っている演出者がいるのは驚くべきことだ。」
 これらの指摘と、子どもの心になって考えることとの共通性には注目すべきものがある。演出者という権威で俳優を萎縮させてしまう姿と、教師という権威に寄りすがって子どもを叱っている姿とが二重写しになるのではなかろうか。(ちなみに著者は、学校の教師がお互い同士を「先生」と呼び合っているのは、自分たちが特別な枠組みの中にいるということをひけらかしているのではないか、と批判的である。)
 また、俳優の可能性については、こう述べている。
 「ある時間内の訓練が失敗に終わったとしてもあきらめてしまうのはまだ早い。その次に我々が試みなければならぬことは、さらに多くの時間と、そしてさらに熱烈な精神的努力をはらうことである。たとえばめんどりのごとき自信と執拗さをもって俳優を温め温めて、ついに彼が孵化するまで待つだけの精神的強靭さをもたねばならぬ。」
 今日の学校には、この雌鳥のような自信への障害が多い。しかしあきらめることなく、というのが著者のメッセージであろう。 そして著者が結論的にこだわるのは、「品性の高さ」というわれわれ自身の問題となる。これは、映画のセットについての次の戒めとなる。
 「セットはたえず掃除せよ。しかし掃除していることが目立ってはいけない。/つつましやかにいつもセットを掃除していてくれるような働き手を演出者は見つけるべきである。そういう人が見つからないときは自分で掃くがよい。それほどこれは肝腎な仕事なのだ。セットがきたないことは仕事の神聖感を傷つけ、緊張をそこね、そこで働く人たちを容易に倦怠に導く。(略)/通例照明部の人たちは泥のついたコードを曳きずり、泥靴をはいたままで、殿様の書院でも江戸城の大広間でも平気で蹂躙してまわる。その後から白足袋で歩いていく大名や旗本は、演技にかかるまえにもうその神経を傷つけられてしまうのである。(略)」
 この「品性の高さ」と前述の「高い志」という視点こそが著者の眼目であり、この点に「この四十年もの間に日本人が失ってきた大切なもの」があるとされる。それ故、「なんとかしてあの時代の精神に、あるいはあの時代の慎ましい暮し方にもう一度立ちかえることはできないのか」と問いかけ、「三十年から四十年の年月をかけてぼくたちが大切なものを失い続けたとすれば、それをもういちど拾いあつめるためには、同じように三十年も四十年もかけるしかない。その覚悟をぼくたちはできるのだろうか」という決意にも似た気持ちを述べることに、著者の監督としての姿勢があらわれている。
 以上のような著者の視点と姿勢は、現代社会、特に教育の現状に憂慮と関心をもつ多くの人びとから共鳴を寄せられている。しかし同時に考えなければならないことは、著者が、三十年前、四十年前云々と語るとき、その時代に闘われた歴史からの教訓と、著者の現在の姿勢のもつ意味を冷静かつ客観的に比較考察する必要が、われわれにはあるということであろう。この問題を絶えず念頭に置くのであれば、著者の説く内容には学ぶべき多くの事柄があり、本書は、小冊子ながら、現代社会の教育に対する理解と打開の道の一端を担うものとなるであろう。(R)

書評2 上高森遺跡捏造問題と『日本』という国名を問いなおすこと
       「『日本』とは何か」 網野善彦著   講談社  1500円

東北旧石器文化研究所の藤村新一副理事長による宮城県上高森遺跡等の旧石器時代遺跡の捏造問題で考古学会はゆれにゆれている。

東京大学総合研究博物館の西秋良宏助教授は上高森遺跡“発見”(?)の意義を、インターネット「デジタルミュージアム2000」上で、「日本列島人のルーツ、あるいは縄文人、現代人の起源の研究にとって格好の資料を提供している」とし、「北京原人が活躍したのと同じ頃、人類が日本列島にやってきた…縄文時代まで子孫を残し続けたのかどうか…彼らの文化伝統がその後もとぎれることなく続いたかどうか…60〜70万年前から3万年前くらいまでのあいだ連続していたことは、ほぼ証明されている。一方、3万年前以降の後期旧石器文化が、途中いくどか大陸からの新しい文化の流入があったにせよ、縄文時代にまで何とかつながっていることも明らかにされている。」「石器を調べて、彼らの文化伝統がその後もとぎれることなく続いたかどうかを見定めることが一つの手がかりとなる。」と述べていた。

60万年前から現代まで連綿と続く“日本人”という発想は、5000年前の夏王朝兎の時代から連綿と続く中国と比べても見劣りするものではないという、「国家」感を導き出し、「日本人のアイデンティティー」「日本文化論」へと繋がっていく。藤村氏がなぜ捏造したかは、本人の口から語ってもらうしかないが、「北京原人をしのぐ=中国5000年の歴史をしのぐ」という思考が根底にあったのではないだろうか。

こうした思考は何も藤村氏や西秋氏の特有の考えではなく、「戦後歴史学」、「近代歴史学」自体の「特徴ないしは欠陥」であると網野氏は指摘する。「アジア大陸の北と南を結ぶ懸け橋であるこの列島で営まれた人類社会の深く長い歴史を背景に、日本列島にはたやすく同一視することのできない個性的な社会集団、地域社会が形成されてきた。それを頭から追究可能なアイデンティティーを持つ『日本人』としてとらえ、その文化、歴史を追究し、その特質を論じようとする試みは、『日本国』――国家に引きずられた架空の議論であり、本質的に成り立ちえない。」「『日本』が国名であることを意識せず、頭から地名として扱い、弥生人、縄文人はもとより旧石器時代人にまで『日本』を遡らせて『日本人』『日本文化』を論ずることも、ふつうに行われているが、これは『日本』が始めもあれば終わりもあり、またその範囲も固定していない歴史的存在であることを意識の外に置くことによって、現代日本人の自己認識を著しくゆがめ、曖昧模糊たるものにしている」と述べる。

網野氏は『日本』が地名ではなく、中国の『清』や『明』と同様の王朝の『国名』であり、60万年前に遡ることは無論、2000年前にも遡ることはできないものであり、1300年前「壬申の乱」に勝利した天武の朝廷から使われ始めたものであることを論証している。さらに、この『日本』という国号は、「日の本」、「日出づる処」を意味しており、「けっして特定の地名でも、王朝の創始者の姓でもなく、東の方向をさす意味であり、しかも中国大陸に視点を置いた国名であり…中国の大帝国を強く意識しつつ、自らを小帝国として対抗しようとしたヤマトの支配者の姿勢をよくうかがうことができるが、反面、それは唐帝国にとらわれた国号であり、真の意味で自らの足で立った自立とはいい難い…この国号はまさしく『分裂症』的であり、中国大陸から見た国名」なのである。

藤村氏の捏造はこうした「自らを小帝国として対抗しようとした」「真の意味で自らの足で立った自立とはいい難い」現代日本人の歴史認識の中で発生したものであり、実際に捏造を行うかどうかは別として、捏造行為へと突き動かす原動力であったことは否定できない。歴史認識が「足で立って」いないからこそ(考古)「学」としても「足で立つ」ことができず、相互批判ができず、捏造をはびこらせる土壌となっているのである。

ところで、『日本』という王朝が7世紀末に成立したという説は、何も網野氏独自の説ではない。すでに、1970年代始めから古田武彦氏は『邪馬台国はなかった』『失われた九州王朝』『古代は輝いていた』等の一連の著書の中で、『倭』と『日本』とは異なった王朝であり、『倭』は博多湾に中心を置き北九州と朝鮮半島南部の一部をも含む領域を支配し列島内の王朝の代表として中国と交渉していたとし、『日本』はその亜流「日本国は倭国の別種」(『旧唐書』日本国伝)として大和平野に侵入した王朝であり、『倭』が662年の「白村江の戦い」で唐・新羅連合軍から決定的な敗北を被った後、『日本』が列島内の王朝の主導権を握ったものであると主張されている。古田氏の説は網野氏の説よりもさらに論理は簡潔明快である。網野氏は本書において異端の歴史家といわれる古田氏の説について一言も触れていないが、近代歴史学がそして現代日本人の歴史認識が「自らの足で立つ」ためにも正当な評価と相互批判を望みたいところである。(福井:R)

(報告) 小野義彦先生没後10周年墓参会

 秋晴れの11月19日午前10時奈良県高安山霊園に約20名が集まり、1990年11月19日に亡くなられた小野義彦先生の墓前で、墓参会を行いました。参加者全員で黙祷ののち、それぞれが菊の花を献花し、先生のご冥福を祈るとともに、先生の遺志をいろいろな意味で引き継ぐ決意をしました。小野みどり夫人も85歳とは思えぬほどお元気で、ご家族共々にご参加いただきました。

 東京や広島からも参加があり、前日は交流会も兼ねて宿舎を確保。交流会には27名が参加いただき、懐かしい仲間との再会も実現しました。
 気楽な会合と言う趣旨でしたが、乾杯の音頭をお願いした吉村励先生、そして大賀さんはじめ、自己紹介や近況報告をいただいた皆さんからは、小野先生の思い出話が数多く飛び出し、食事終了後も交流会は、続きました。
 吉村先生からは、市大時代、お酒の飲めない森さんと吉村さんと小野先生が「会議」をする時は、小野先生もしょうがなく「コーヒー」会議になったお話や、吉村先生のお兄さんが小野先生と同年齢であったこと、そして亡くなった11月19日が吉村先生のご母堂の命日でもあることなど、11月19日は忘れることができないんだ、というお話をいただきました。
 大賀さんからは、亡くなる1990年の9月、来年は喜寿のお祝いをしましょうという小野先生とのお話の中で、先生が「やはり競争のない社会と言うのは問題でしょうね」という言葉があり、現在で言えば「市場」ということになるのだけれど、「競争」という問題をどう考えていくのか、それが私にとっての「先生の遺言」になってしまった、というお話をいただきました。学生時代に「新時代紙」に関わった教員の仲間は、ある時「三木内閣打倒」のスローガンをトップにした紙面が出来上がった時、小野先生から、自民党であっても「よりまし」な政府に対しては対応を注意すべきだと、叱られたことなど、それぞれと小野先生との思い出が語られました。
 交流会の最後には、小野みどり夫人がマイクを取られ、戦中に中野の奥多摩刑務所から宮城刑務所に先生が移送された後、終戦を迎えて政治犯釈放令を受けて、山口から宮城へ単身の旅に出た際のエピソードや、戦後、赤旗時代の東京での生活の一端をご披露いただきました。
 夜の交流を通じて、年に一度はこういう会合を開いては、という積極的な提案もありました。(さて、どうしましょうか?)

 こうして交流会も墓参会も、いろいろな意味で感慨深いものとなりました。いろいろな戦線でがんばっている仲間の再会を果たすことができましたし、この会合を契機にそれぞれが新たな刺激を感じ、小野先生から受けた指導を現在に生かしていく決意もまた固めあうことが出来ました。(佐野)

参考)小野義彦没後7年に寄せて(Assert No.241- 1997/12、 No.242-1998/1)