ASSERT 286号(2001年9月22日)

【投稿】  テロ攻撃「報復戦争」の危険性
【投稿】 「対テロリスト報復戦」の展開と日本政府の対応
    ----アメリカによるアメリカのための戦争----
【座談会】 参議院選挙 その結果をどう考えるか(その2)
【書評】  『多文化主義社会の到来』

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【投稿】 テロ攻撃「報復戦争」の危険性

<<「第2の真珠湾」>>
 9/11、突如世界を震撼させた史上最悪、同時多発の自爆テロ攻撃が、憎悪と混迷の渦を巻き起こしている。アメリカ資本主義繁栄の象徴でもある世界貿易センタービルとアメリカ帝国主義の軍事的覇権の象徴でもあるペンタゴン攻撃と言う思いもよらぬ事態に、ブッシュ米大統領は、当初の驚愕から立ち直るや「草の根をかき分けても犯人を追い詰め、厳罰に処す」との共和党タカ派の本領を剥き出しにした第一声を発した。続く閣僚、ホワイトハウス要人の発言もことさらに「戦争状態」を強調、「悪魔」「ヒットラーの再現」「卑劣」「厳罰」等々、感情剥き出しの憎悪と「正義の報復戦争」にすべてが収斂されている。
 9/13、ブッシュ大統領が「この戦争に勝利することを目指しながらも、アラブ系米国人やイスラム教徒に相応の敬意を払うことを忘れないでおくべきだ」と述べたその後から、パウエル国務長官は「これは米国にたいする戦争ではなく、文明に対する戦争だ」と述べて、文明と非文明の対立を強調、非文明社会に対する戦争行為の正当性を主張。これに呼応するかのように、インターネット・リレー・チャット(IRC)上では、犠牲者の家族への弔辞、献血の呼びかけとは別に、激越な非難が飛び交い、『アラブを核攻撃せよ』(Nuke-the-arabs)や『アラブを殺せ』(kill-the-arabs)といった反アラブ的なチャンネルがいくつも現れている。
 9/12付ワシントン・タイムズは、1面に炎上する世界貿易センタービルの写真を掲載、その中に「汚辱(Infamy)」という1語だけの大見出しを掲げ、中面にはやはり日本軍の真珠湾攻撃によって炎上するパールハーバー奇襲の大写真を載せて、両者の同一性を浮き上がらせ、今回の攻撃を「第2の真珠湾」と形容している。これはアメリカの全メディアに共通する姿勢であり、「アメリカ本土が直接攻撃されたのは真珠湾以来」という歴史的事実、「奇襲」「自爆」「神風特攻隊」といった攻撃形態の共通性に言及、「戦争勃発」という非常事態に対する、そして「報復」攻撃に対する「挙国一致」の核に据えられている。同13日付けワシントン・タイムズのトップ社説の最後は「奴らはアメリカに1発かませた。それならやってやろうじゃないか」で締めくくられているという。

<<テロ攻撃促進政策>>
 事態の展開は、憎悪が憎悪を呼ぶ危険極まりない「戦争状態」に突き進もうとしているが、問題はそう単純ではないとも言えよう。9/12付けニューヨーク・タイムズは、「人の心に育つ憎しみがこのような事件の根元だけに、問題解決に単純な方程式はない」と述べているように、このような時にこそ冷静な判断と評価が必要とされている。同じく同日付の英紙フィナンシャル・タイムズのアメリカ版社説は、「ブッシュ大統領は中東政策を再考慮すべきであろう。アメリカ政府がイスラエル・シャロン首相の強引な政策を許容してきたことが、アメリカに対するテロ攻撃を促進したことは間違いない」と断言している。 民主党から共和党、クリントンからブッシュへの政権移行の顕著な変化は、「嫌いな相手との対話拒否」とまでいわれている。前政権の紛争仲介・介入政策の放棄は、イスラエル・パレスチナ問題、南北朝鮮の対話促進問題等に端的に現れている。むしろ紛争を激化させることに腐心してさえいる。9/3の国連人種差別反対会議の完全ボイコットは、ブッシュ大統領が「事前の準備や決議にイスラエル非難があり、これを撤回しない限りアメリカは参加しない」と繰り返し発言していた結果である。今回のテロ攻撃はいわば自らが招き寄せた側面があるともいえよう。事実、ブッシュ政権以降、「対イスラエル自爆テロ」が増大してきたのである。
 さらに今回の事態が明らかにしたことは、いかに重武装し、ハイテク兵器を展開し、がんじがらめの警戒体制をひいたとしても、すべての可能性を防ぎきることは決してできないという厳然たる事実であろう。対話ではなく、憎悪をあおる戦略の危険性は、むしろ今回の事態によってさらに高まったともいえよう。すでに多くのメディアで指摘されていることでもあるが、あの自爆攻撃が原子力発電所にかけられていたら、放射能汚染が地球規模で拡散し、世界は悲劇的な事態に遭遇していたであろう。「報復戦争」の遂行は、そのような事態をももたらしかねない危険性を内包しているとも言えよう。

<<「スーツケース核弾頭」>>
 さらに危険なのは、テロ攻撃の形態には核弾頭さえ含まれる可能性さえ指摘されていることである。ブッシュ政権は、クリントン政権時代の「ゴア=チェルノムイルジン合意」を「高くつきすぎる」との理由で破棄しているが、この合意はゴア副大統領とロシアのチェルノムイルジン首相との間で「現在、世界における最大の脅威は米ロおよび旧ソ連から分離した旧共和国に存在する合計20万発近い核弾頭で、特にロシアにおける不完全な管理態勢が脅威だ」として、その核弾頭の段階的解体と厳重な管理への資金援助について合意に達していたものである。それはいわゆる「スーツケース核弾頭」にも適用されるものであった。問題は、すでにこの「スーツケース・サイズの核弾頭100個のうち、半分近くが行方不明だ」との驚くべき実態が報道されていることである。
 すでに世界のどこかで闇取引されている可能性のあるこの核弾頭は、無線起爆装置によって広島原爆の10倍以上となる破壊力を持っている。以前から「ドイツ諜報部は、巨大なスーツケースを背負った人間が五月雨式にカイバル峠を通過した事実を確認している」とのニュースが流されている。カイバル峠の先は、中東諸国であり、アメリカが再び叫び出した「ごろつき国家」群である。今騒がれているオサマ・ビン・ラディンのグループであれば、すでに入手している可能性さえあるであろう。まさに「報復戦争」の当事者でもあり、それをかくまう当事国でもある。緊急に必要とされている措置を放棄し、こうしたずさんな実態を野放しにすることからどのような利益が得られるというのであろうか。
 ブッシュ政権はさらに、ロシアとの弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約の一方的破棄を宣言し、途方もない幻想的なミサイル防衛構想に巨額の予算を配分しようとしている。この夏には「中国の核ミサイルの拡張にあえて目くじらを立てない」と示唆し始め、米各紙は「新たな世界的核軍拡を容認するもの」と批判したばかりであった。
 こうしたブッシュ政権の一方的軍拡と覇権主義、対立をあおる緊張激化政策が、その深刻なツケを払わねばならない事態を迎えているとも言えよう。

<<「テロリストに救われた」>>
 テロ攻撃は憎悪を増すばかりであり、事態をより悪化させることは言うまでもない。「報復」もしかりである。すれすれで大統領の座を確保したブッシュにとって、今回のテロ攻撃は全国民的支持を取り付ける絶好の機会ともなった。しかしこの「報復戦争」は自らの政策が招き寄せた国家的テロルとしての軍拡と緊張激化政策の結果でもあり、際限のない泥沼化の道でもある。
 小泉首相も事件後ただちにブッシュ大統領に「アメリカに全面的に協力する。日本のできることは何でもやる」と伝え、「民主主義社会への重大な挑戦であり、わが国は米国を強く支持し、必要な援助と協力をおしまない」と強調し、ことさらに「米国と一体になって闘う」決意を表明した。それはあたかも自らへの攻撃として米国とともに戦争を決意し、はせ参じる「特攻隊精神」の表明でもある。そして自衛隊法改定による自衛隊の米軍基地警備実現や有事立法の制定、集団的自衛権の行使の合憲解釈などへの動きをこの際一機に実現しようとあわただしい動きを見せている。
 株価暴落では打つ手を何も提起できず、ただただ傍観していた小泉首相にとって、刻々と近づいていた株価1万円割れが自らの責任ではなく、米国の同時多発テロの影響による全世界的な株価下落に責任を転嫁できたのである。9/12の東京市場は実に17年ぶりに1万円を割り込み、開始後わずか6分で1万円台を割り、終値は前日比682円安の9610円。小泉政権登場以来、株価は政権を見放すかのように下落を重ね、8/29に11000円台を割ってからは、連日株価は急落し、直前の9/10には10195円にまで下落、その後数日で1万円台割れが確実視されていたのである。そこにふってわいたテロ攻撃、まさに「テロリストに救われた」わけである。しかし責任逃れが可能なのは当面のことにしかすぎない。ブッシュ路線に入れ揚げていけばいくほど、日本発の世界的大恐慌への道を先導しかねない事態へと日本を引きずり込むのではないだろうか。
(生駒 敬)

【投稿】「対テロリスト報復戦」の展開と日本政府の対応
----アメリカによるアメリカのための戦争----
9月11日にニューヨーク、ワシントンを襲った同時多発テロは、アメリカのみならず、世界中を震撼させた。
ブッシュ大統領をはじめとする合衆国指導部は、このテロを「アメリカに対する戦争であるのみならず、民主主義、文明に対する挑戦である」と位置づけ、首謀者、およびそれを庇護する勢力、国家「大規模、長期的な報復を行うこと」を明言している。
これに対して、日本政府、NATO諸国など同盟国はもちろん、ロシア、中国などもアメリカの報復措置について、基本的な支持を表明した。
今回のテロは、ハイジャックした民間機での「特攻」というその手段、5千人にのぼる死者という結果において、過去に類例を見ないものであり、とりわけ世界貿易センター突入については、はじめから多数の非戦闘員の生命を狙ったものであり、許されるものではない。
一部には今回のテロは、グローバリズムや中東政策など「アメリカ帝国主義の侵略」に対する報復であり、テロを収束させるにはアメリカの政策転換が必要との主張もある。
確かに、ブッシュ政権は、京都議定書の批准拒否、ABM条約やCTBTなどの軍縮条約破壊、反差別国際会議のボイコット、パレスチナ和平への消極性など、それこそ先進国の中でも突出して「民主主義や文明」に背を向ける姿勢をとり続けてきたことは事実であり、アメリカはそうした姿勢を変えなければならない。
しかし、9月11日の出来事は、そうしたアメリカによる悪行、なかでも中東政策(これまでの「秘密政策」も含めた)への「報復」の側面は持つものの、「正当な反逆」ではない。つまり今回の事件の首謀者とされるウサマ・ビンラディンとその私兵「アル・カイーダ」は、どう大目に見ても正義の使徒ではないし、民族解放勢力とはいえないのである。
 もちろんソ連のアフガン侵攻に反対し、イスラム義勇兵に志願した当時のビンラディンは、純真な金持ちの坊ちゃんであり、敬虔なイスラム教徒であっただろう。
しかし、冷戦終結、湾岸戦争以降の「アメリカの裏切り」にあってからの彼らは、単なる破壊を目的とするカルトでありテロリストへと変貌してしまってたのであり、いかに正当な主張を展開しようとも、そうした行動をとり続ける限り、全く説得力を持ち得ない。
 テロによってアメリカの政策が変わることはないのである。
アメリカを中心とする先進国のグローバリズムによる発展途上国や、マイノリティへの抑圧に対しての異議申し立ては、この間WTO総会やG8(サミット)を包囲したような、国際的、市民的な行動こそが、正当性を持ち、かつもっとも効果的であるのは言うまでもない。
 とりわけ「我々は60億、おまえらは8人」のスローガンが突きつけられ、壮大な儀式のために犠牲者を出したジェノバの事態は、少なくとも西欧の指導者に動揺をもたらし、反対派との対話を打ち出さざるを得なくなった。
しかしアメリカは「我が道を行く」の姿勢を崩さず、建設的対話の埒外に去ろうとしていた。
 その意味で近いうちに始まるであろう戦争は、ビンラディンという怪物を生み出した責任も含めて、アメリカ対一部のテロリストという世界から浮き上がったもの同士の戦いともいえるのである。
現在アメリカはこうした構図が浮かび上がることを押さえ、「文明対一部テロリストの戦争」の枠組み作るため、これまでの一国主義から手のひらを返したように国際主義を唱え、「アメとムチ」を駆使した工作を進めている。
テロ根絶のためにはあらゆる手段が必要であり、その選択肢の一つに武力行使もあり得るだろう。しかし今回の場合は、「同盟国」は無条件にアメリカの報復戦を支持するのではなく、アメリカのダブルスタンダードを指摘し、他の問題についても国際協力を尊重するよう求めねばならないのである。
お調子者のダンス
このような観点から見れば、日本政府の対応は最悪である。今後開始される戦争がどうした展開を見せるかを考えもせず、小泉首相をはじめとする首脳の言葉、決意が先行し、ピントはずれの政策が立案されようとしている。
その最たるものが「有事法制」である。与党は来年1月からの通常国会で法案の成立を図るとしているが、その主な内容は「緊急移動時の民有地通行」「陣地構築のための海岸や森林の形状変更」すなわち自衛隊の戦車が田畑を走行したり、塹壕を掘るのに所有者の許可を得なくてもよくする、というものである。
「有事法制」冷戦時代にソ連軍が北海道や本州に上陸してくるのを想定して考えられたものだ。現在さらには近い将来において、そのような可能性はなく、また「周辺事態」にも対応できないにもかかわらずホコリをかぶった法案を引っ張り出してくるのは、防衛官僚、一部制服幹部、国防族議員が権限の拡大を自己目的としているからに他ならない。
こんなものが、今回のようなテロには何の役にも立たないことは一目瞭然であるにも関わらず、テロ対策の如く説明し、あたふたと成立させようとするのは、国民を欺くものであり、火事場泥棒と言われても仕方がないだろう。
また、今回の事態に即した対策としての自衛隊法改正についても、的はずれな論議が行われている。
9月11日以降米軍基地、関連施設の警備が強化されたが、通常の警察力だけでは限界があるのは明らかであることから、自衛隊による警備が検討されている。しかし、米軍基地の警備は米軍が行うのが最も効果的であり、武器の使用基準も曖昧な自衛隊ではポーズにしかならないし、テロが起これば、米軍が自衛隊を守ることになってしまう可能性がある。
さらにアメリカの報復戦に対する支援策についても、第2次朝鮮戦争を想定した周辺事態法の適用などという主張が一部にある。これについてはさすがに官邸サイドも無理があると判断し、「後方支援新法」の制定に動いている。要はインド洋の赤道と南回帰線のほぼ中間の島(環礁)にある備蓄基地(船)まで輸送船を中心とする自衛艦隊を出せ、ということである。
しかし長期戦に必要な大量の物資の集積地はパキスタンが想定されているのであって、海上輸送の場合、カラチに入港しなければ意味がないのである。
ところが、そうなるとインド洋上でも「戦闘地域に近い」との認識であるのに、アラビア海などに入っていけるはずがないのであり、立ち消えになる可能性がある。
 いずれにしても現時点での日本政府の対応は、テロ対策を口実とした戦略なき彌縫策としか言いようがいのである。(大阪 O)

【書評】『多文化主義社会の到来』
      (関根政美著、2000.4.25.発行、朝日新聞社、1200円)

グローバリゼーションがありふれた名詞となり、またこれに対応して国内では、多文化社会化・多民族社会化が促進されていることは否定できぬ事実のようである。しかし他方、全世界的な規模で民族間のあつれき、紛争も激発し、国内においては、多文化社会の限界が絶えず問われていることも事実である。本書はこの、グローバリゼーションと多文化社会化との関係(「グローバリゼーションは、各地域、各国間の共通性を高めると同時に異質性をも強める複雑な社会変動を引き起こす」)、限界と問題点を、解明しようとする。

グローバリゼーションとは多面的な次元をもつ現象である。すなわち(1)経済(多国籍企業、企業家の国際的ネットワークなどによる「大競争の時代」)、(2)人口移動(移民、難民、外国人労働者)、(3)メディア・コミュ二ヶーション(CNN、BBCなどの放送ネット、インターネットの普及)、(4)思想・イデオロギー(人権意識、民族自決・ナショナリズムなどの価値観の普及)、(5)工業化、脱工業化(先進諸国の脱工業化とNIES〔新興工業経済地域〕による技術革新)などの面におけるグローバリゼーションが、その内容を構成している。

本書は、この各方面からのグローバリゼーションが、近代国家システムに影響を与えざるを得ず、しかもその影響は、国民国家の形成原理への根本的な問いかけをも含んでいる、と指摘する。というのも「人種、民族、エスニシティ概念が世界的に普及したのはそれほど古いことではない」、「人種概念は十五世紀からの大航海時代にヨーロッパ人と有色人との接触が増え、人口集団の肉体的相違が大いに注目されるようになってから使用されはじめ」、「民族という概念も、(中略)十八,十九世紀の近代民族国家形成期から頻繁に使われるようになった」からであり、「また、民族そのものは、国民国家形成が盛んになった時代に民族自決権とともに成立したに過ぎない」からである。すなわち「それは、単なる文化、言語、生活習慣、祖先同一意識をもつ文化集団という普遍的な存在を意味するのではなく、(中略)きわめて政治的な概念であり、いいかえれば、むしろ国民国家形成を企図する人口集団を意味する」のである。

 このような国民国家形成に深くかかわる政治的概念である人種、民族、エスニシティ(エスニック集団)は、その境界があいまいで流動的、かつ主観的要素(同類意識など)に満ちていながら、心理的経済的政治的理由によって正当化され、こだわり続けられる。つまり心理的には、文化的・言語的同一エスニック集団への帰属が自らのアイデンティティの源泉となること、経済的には、文化・言語が生活手段でもあること[主流国民の文化・言語を自由に使用できないと、経済的に不利益を被る]、政治的には、国民国家の主流国民が、独立・自由・平等をその領域内においてのみ享受できることがその理由となる。

 かくして本書によれば、「国民国家システムは、民族・エスニシティへのこだわりを前提としたシステム」であり、「民族にこだわって国民国家をつくって、はじめて人間が自由・平等となれるシステム」なのである。それ故「国民国家制度の確立が人種・民族・エスニシティ問題の究極的原因だといっても過言ではない」。そしてまたマジョリティ主流国民も、すべてが国民国家に縛り付けられ、「すべての人にとり、国民国家は『酷民国家』」となっているとされる。

 この視点から、多文化主義が検討されるのであるが、本書では、移民受け入れの長い歴史をもち、多文化主義政策を推進しているオーストラリアがモデルとして考察される。

 多文化主義には、中庸なもの(@シンボリック、Aリベラル、Bコーポレイト、C連邦制/地域分権の多文化主義)から、急進的なもの(D分断的、E分離・独立主義的多文化主義)まで存在するが、オーストラリアの場合、ほぼコーポレイト多文化主義と言える。これは、公的領域での多言語放送・多言語使用、多言語・多文化教育の発展、エスニック・コミュニティの活動への援助、またマイノリティの就職・教育機会適正化のためのアファーマティブ・アクションの実施などによって特徴づけられる。

 オーストラリアがこの多文化主義推進にいたるまでの歴史的経過や現況での政治的社会的諸問題については、本書を読んでいただきたいが、その中で明らかになってきた重要なことの一つが、「多文化主義のパラドックス」である。これは、「人種主義の否定からはじまった人種・民族・エスニック集団関係の改善過程のなかで、多文化主義が生まれ、さらに改善が進められたが、結局は人種主義的関係あるいは国民分裂を進めてしまう」という矛盾である。つまり多文化主義が、多文化の許容性の低いものから高いものへと充実してくると、異文化集団の存在が目立つようになる、これに対して主流国民の側では「逆差別」の感情が発生し、互いに対抗意識を高め、「文化戦争」状態、「分断的文化主義」が生じる。また文化的差異を強調する「新人種差別」という陰湿な差別もあらわれることになる。

 この「多文化主義のパラドックス」について、本書では、多文化主義そのものの問題点というよりも、むしろ多文化主義・人権意識が根付いたことで発生する問題であるとして、経済的コストの問題に言及するとともに(多文化主義の諸政策は「人権問題の視点から考えるべきで、経済的物差しでは計りきれないこと」)、これまでの文化主義・文化観(「伝統文化を伝統的な形のまま守らなければならない、あるいは、変えようにもその本質は変えられない」という考え方)の限界を指摘する。「伝統的民族文化というものは、国民国家の形成を急ぎ自らの独立を全うするために主張された政治的レトリックに過ぎないことが多い」、それ故「民族文化あるいはエスニック文化の純粋性や不変性」は、国民国家システムの存続を求めるための者でしかない。むしろ政治的民族文化も生活的民族文化も、「本来的には雑種であり、(中略)文化の境界もファジーなもの」であることが、確認されるべきなのである。

そしてこの「個性的な雑種文化状況」(ハイブリッド文化あるいはクレオール文化)が、「多文化主義のパラドックス」を克服する視点であり、「多文化主義」を「多・文化主義」や「多分化主義」とはせずに、「多文化・主義」へと向かわせる方途であるとされる。この視点にまた、

近代同質的国民国家システムの限界を克服していく展望も存在するのである。

以上のように本書は、グローバリゼーションの時代に多文化主義が突き当たっている諸問題を、その歴史的社会的起源から解明し、国民国家システムとの関係で解決を試みようとする。しかしそれにしても、日本の現況(上述の多文化主義の区分では、未だに@シンボリック文化主義──文化・言語の多様性を認めようとしない、ほとんど同化主義に近いもの──の段階にあるとされる)では、多文化主義への道は、遥かに遠いと言わざるを得ない。(R)