【講演録】「21世紀のグランドデザインをどう描くか」 

公立はこだて未来大学 複雑系科学科 小野 暸教授
「21世紀のグランドデザインをどう描くか」 (その1)
                          (その2)
                          (その3)
 No289  2001-12
 No290  2002-01
 No291  2002-02
目次:世界を観る、世界を創るということ/外化・疎外態の様相/カミの概念と宗教組織の成立/国家について/資本および資本主義とは何か/大転換期にある現代/キーワードは「法人組織」/対テロ世界戦争の意味するもの/アメリカによる世界一元支配/金ドル本位制の復活/パックス・アメリカーナとの対決/自衛隊を国連常備軍に/日本国憲法の反宗教的性格/世界金融センターとしての日本の役割 (以上、その1の内容です。)
「21世紀のグランドデザインをどう描くか」(その1)
      
 こんにちは。ご紹介頂きました小野暸です。函館から飛んで参りましたが、とにかく寒いのは苦手でして、函館を離れる口実にもなりますので、これからもどんどん呼んで頂きたいと思います。
 ご紹介頂きましたように、私は現在、公立はこだて未来大学の複雑系科学科というところにおります。この学科は、世界でも初めての、学部段階で複雑系科学を取り扱う新しい大学・学科です。私は自分自身では複雑系科学をやっているという意識はまったくなかったのですが、どういうわけか複雑系、特に理科系の人々から見ると、私の言っていることが複雑系に見えるようで、それで京都から函館に移ることになりました。今日は複雑系科学のことも織り込みながら、これからの日本、あるいは世界をどう見ていくべきなのか、若干考えていることをお話しさせていただきます。

 「21世紀のグランドデザインをどう描くか」というタイトルで話せと事務局の方から依頼されたわけですが、非常に大きなテーマです。どこまで迫っていけるか自信はないのですが、簡単に最近考えていることをお話ししていきたいと思います。
 お手元に、1枚ものと4枚のレジメとをお配りしています。4枚の方は、私がこれまで書いてきたものの端々を繋ぎ合わせてみたものです。全体で7つの大きな章立てから成っています。授業で1年間かけましても終わらないという内容ですが、2時間でどこまで行けるか、大急ぎでお話ししたいと思います。

世界を観る、世界を創るということ
 まず、最初に私がつけましたタイトルが「世界を観る、世界を創る」となっています。こういうタイトルにしたのは、第4章の「科学の大転換」と第5章の「内部観測とは何か」の内容に関連します。「内部観測」という言葉は、あまり目にされたことはないかもしれませんが、今、複雑系科学の最先端の分野で語られている事柄で、科学の基礎理論に革命をもたらす可能性を秘めた新たな考え方です。従来の哲学にしても科学の基礎理論にしても、唯物論と観念論とが対立するという構図が、ギリシャ・ローマ時代から2000年以上続いてきましたが、いずれに与するにせよモノとココロとを断絶的にとらえてきた我々の思考の基本的土台が、複雑系科学の最先端では足元から崩れ始めているとの様相を現した言葉です。「この私」が「世界を見る」ということが如何なることであるのかが、科学の世界で問い直されてきているわけです。

外化・疎外態の様相
 順番にお話してもいいのですが、先ず、昨夜作りました1枚ものをご覧いただきたいと思います。ここに、「外化・疎外態」と書かれています。私は哲学には疎い人間で、どちらかと言えば哲学嫌いの方なのですが、この問題が私の話の基本という事になりますので、急遽昨夜作ってきました。
 30年くらい前になりましょうか、森信成先生の「マルクス主義と自由」というお話を聞いたことがあります。疎外態には3つあり、第1に宗教、第2に国家、第3に資本である。これをどう乗り越えていくのか、それがマルクス主義思想の根幹をなすとの内容だったと理解しています。その時は、森先生の話をまったくその通りだと思って、非常に納得をして聞いた記憶があります。ただ、長じてからはいろいろな事を考えるようになりまして、その言葉は確かにその通りなのだけれど、言葉足らずではなかろうかと考えるようになりました。森先生が、というのではなく、マルクスその人の言葉足らずが、その後の、あるいはそれ以前からの長年にわたるマルクス主義・共産主義の運動に非常に大きな制約を課すことになったのではないかと思うようになったわけです。
 私の考えでは、宗教も国家も資本も、それが疎外態になるのは、いずれも位階的・階層的な「組織」として存在してきたが故ではないか、人々にとって当たり前の必要事である「カミ・協議・元手」…それらが「組織体」としての外皮を身にまとうからこそ「疎外態」に転化するのではないかということです。

内実・必要性 外化・疎外態
 宗教  カミ(世界の謎)
救済・解放への希求
排他性・独善性
教団・経典・位階制組織機構
 国家 協議・集団的秩序維持
安全確保・互助システム
軍隊・官僚機構
法律や規則体系
 資本 生活の元手・衣食住の基礎
自己能力の開発
法人企業・限定された市場
独占的構造・国家との癒着と融合

カミの概念と宗教組織の成立
 例えば宗教について考えて見ましょう。宗教とは、結局のところ「カミを信じる」ということです(私はカミ・ヒト・ココロ・モノなど、概念規定の困難あるいは不可能な概念はすべてカタカナで表記することにしています。漢字で書くと、固有のイメージが喚起されてしまうからです)。さしあたり皆が信じているカミは、宗教によって皆違うわけですが、この世界は科学者が考えているようにできたのではなくて、謎なる「神秘なる一撃」がそこにあったと。それが「カミによる創造」と言われていることですが、カミ・ホトケの姿形やその教えは宗教によって皆違ったとしても、とどのつまり、世界が謎である、神秘であるという考えですね。そういうものを想定し、すがるという形で、この世の苦しみと悲しみに満ちた現実から救済されたい、死に対する不安や恐怖から解放されたい、そうした救済と解放を乞い願う気持ち、そういうものが宗教心と呼ばれているものですね。
 こう考えると、宗教のコアをなす要素とは、人類にとって必要不可欠な要素だったのであって、人知を超えた存在を想定し救済・解放を願うことは人々の当たり前の願いです。宗教とは、そうした人々の自然な願いをまったく排他的・独善的に解釈・決定し、それに基づいて教団という組織内に人々を囲い込み、その教えとして経典という不可侵なる教説体系を作り、どのような教団・教会にしても、位階制的で官僚制的な組織機構を築き上げてきました。
 このように考えますと、宗教という概念とカミという概念は根本的に異なるものです。私が言う宗教とは組織宗教ということですが、それとカミという概念とは厳然と峻別しなければならないと考えています。カミとは、すなわち宇宙・世界の創世およびこの世の一切の現象の駆動因に関わる謎であるとすると、それは取りも直さず、科学的な探求の対象でもなければならないということです。カミを科学的に探求するとは如何なることか、その問題に関しては後ほど触れることになると思いますが、申し上げるまでもなく、従来の科学ではそうしたアプローチをとることが原理的に不可能です。
 そのように考えるならば、今後の科学の新たなあり方として、科学的なカミの謎への迫り方、アプローチの仕方を根本的に考え直さなければならないでしょうが、いずれにしても、科学がカミの謎の探求に本格的に乗り出すならば、その当然の結果として組織宗教は死滅に向かう他はありません。そうしなければ、第二・第三のオウム真理教や、諸々の宗教的原理主義あるいはカルト宗教が今後も多数現われて人々を痛め続けることでしょう。
 けれども、カミそのものは決して死滅しません。そこが重要な点で、例えばフォイエルバッハやマルクスはキリスト教を否認しましたが、そのために彼らは天上のカミをヒトの低みに引きずり降ろし(つまり「カミの本質は人間の本質」と片付けてオシマイ)、そうすることでカミをも葬り去ろうとしたのですが、そんなことでカミは否認できるものではありません。
 カミとは宇宙の謎、生命の不可思議そのものですから、例え上のように今後の新たな科学によってその内実への接近が為されていくとはしても、科学が宇宙の一切の謎を解き明かすことなど、金輪際、不可能です。千年後、1万年後、10万年後の科学であっても、その前にカミの謎は永遠に横たわり続けているはずです。だからこそ、宗教的妄信や狂信的組織が人類社会から消滅し去ることも決してないのでしょうが、科学が本格的に乗り出せば、そうした連中の社会的影響力は著しく低下していくはずです。
 言い換えれば、本来の科学あるいは徹底した唯物論の観点からするなら、カミは否定の対象ではなく、どこまで行っても判らない対象ではあるとしても、永遠の科学的研究の対象であるべきなのです。

国家について
 次に国家という概念についてです。元より、人類はたった一人では生きていけないわけで、なんらかの集団を作り、補い合って生きていかなければならない。マルクスによって「類的存在」として示されているとおりです。人類が生きていく上で、人々が多数集まって話し合いをして、それに基づいて集団の秩序と安全を維持していくために、相互の互助的なシステム・制度等々を考え出していかなければなりません。これは人類が人類として誕生して以来ずっと続いてきておりますし、未来永劫続いていくものです。
 それが民族単位で排他的な「国家」を形成し、行政機構や軍隊組織を持ち、法律や規則体系で人々を縛り付けていく、そうした形態でなければならないかどうかと言うと、別の形態も当然にあり得る話でして、それが「国際連合」で良いのか、あるいは世界連邦や世界政府なのか、またはまったく異なる地球大での協議システムであるのか、その未来形態を探求し続けていく必要がありましょう。
 ずっと以前に、ある方が「ソ連こそは、民族問題を最終的に解決した歴史上初めての国だ」と言われ、また「ユーゴスラビアこそは、多民族の融合の見本だ」と主張されていた著名な学者もいました。そうした主張がとんでもない誤認や妄想であったことは、今では誰の目にも明らかです。民族対立の問題は、
多くの場合同時に宗教対立という深刻な問題をもはらむものですが、その対立構造を超えていくことは、人類にとって至難の課題です。後にも触れますように、国家とは宗教の世俗化形態として生み出されました。だからこそ、そうした問題解決の方向を考えていくに際しては、単に政治的協議形態は如何にあるべきかとの議論だけでは不十分で、宗教的呪縛からの人類の解放をも視野に入れた検討が不可欠であると思います。

資本および資本主義とは何か
 3点目に資本とは何かに関してです。資本と聞いただけで、これは敵である、対抗しなければならないと、私個人としてもある時期まで無条件に自動反応みたいに対応し、パブロフの犬のように資本といえば悪であるというように思い込んできました。しかし、宗教の問題と同様に考えていきますと、同じ論理構造をしているのではないでしょうか。資本とは、有体に言えば、人間が生きていく上で無くてはならないものです。お金に限らず衣食住の基本と言いますか、それが無ければ人間のみならず、すべての生命は生きていくことができません。命にとっての必要不可欠なるもの、それが人類の場合には資本と呼ばれているわけで、お金だけではなく、それを使って自らの能力を最大限に開花させていく、そのための元手でもあるわけです。
 近代の産業革命以降、株式会社に代表される所謂「法人」企業という形態が出来てまいりまして、資本を一手に独占的に握っていく、従いましてマーケット(普通マーケットを市場「しじょう」と読みますが、私は「いちば」と読めと教えています。何故か、というのは後でお話いたします)の構造を見ましても、参加者は法人企業、大企業に制限され牛耳られている。そして、独占的構造の基に国家と癒着していくことになります。
 資本主義を一言で定義するなら、私の考えでは「株式会社主義」です。どの経済学辞典を開いても、そうした定義は載っていません。資本の機能やら、資本が利潤を生むメカニズムやらの説明はありますが、資本主義の「一言定義」はありません。資本という概念は、人類が道具を用いて自然の富を蓄えることが可能になった、その瞬間に生まれたのでありまして、自己の生存・人類増殖のための元手ということ以外の概念ではないのですが、それが「主義」になったのは、人類一般にとって当たり前の前提であった共有物としての経済的社会的資源・元手を一握りの会社が独占するようになって以降のことです。19世紀以降の世界で資本を独占的に占有し利用してきたのは株式会社ですし、それ以降の時代を資本主義と呼ぶわけですから、当然にも資本主義=株式会社主義と定義してよいし、そう定義すべきなのですが、残念ながら経済学の世界ではそうはなっておりません。そのことからも、資源・元手としての資本自体それ自体が悪の代名詞であるかのような幻想が醸成されてきたではないかと、私は考えています。
 要するに、資本それ自体が悪であるはずがないわけで、資本が会社組織によって独占され、普通の人々個人には近付くこともできず、大多数の人々が会社組織に縛り付けられているという構造こそが問題なのです。言い換えれば、資本それ自体には人格や感情などあるはずもないですが、資本に「人格」が付与されたこと、つまり資本が法人格を保持するに至ったことが、資本主義の矛盾の根源にあるのです。
 森先生は「宗教、国家、資本」を三つの疎外態であるとおっしゃいました。けれども、人類社会の必要性という観点からそのことをもう一度考え直してみるなら、それらがすべて「法人組織」になることによって人類にとっての疎外態と転じるに至ったのであって、それゆえ「宗教・国家・資本」のコアに存す
る「カミ・協議・元手」の非組織的なあり方をもう一度考えなければならないのではないでしょうか。そうした考えが、私のベースにあります。それをお心に留めて頂いて、これからのお話しを続けたいと思います。

大転換期にある現代
 4枚のレジメの方に移りましょう。第1に、「大転換期にある現代」と書いています。これは、私が5〜6年、もう少し前からでしょうか、何か論文を書く度にまず冒頭に持ってくる話です。20世紀の終わり頃から今に至る現代、世界全体が5つの意味で根本的な大転換のステージを迎えていると私は考えてお
ります。
 第1に、「戦後の秩序」が終わったこと。これはもう論証の必要すらないことですね。第2の「体制間の思想対立」は、旧ソ連、東欧の社会主義世界体制と呼ばれてきたものが突然、自ら崩壊したことによって、あっという間に終わってしまいました。けれども、この対立構造をそのままひきずっている人々は、まだまだ数多いですね。思想的な場面でみております限り、この事の意味を世界史的な視野で受け止めて将来展望を描き出し得ている人は、世界全体を見てもまだ一人もいないのではないかと思います。それから第3の「近代的な価値観の終焉」については、300年、人によっては500年という人もいますが、数百年にわたって続いてきた価値観・考え方が崩れ去ろうとしています。
 因みに戦後秩序は50年ですね、体制間の思想対立については、幅がありますが100年から150年のタイムスパンの事柄です。近代という時代は、長く見て500年の間続いてきました。それから、今、皆さんも感じておられると思いますが、国家というシステムも揺らいでおります。国家という組織形態がいつ頃
から存在したか、これも議論のあるところですが、シュメールの都市国家の成立は、大体6000年から7000年前ですか。古代エジプト王朝の成立を考えても5000年程前ですね。
 さらに、宗教の成立はずっと古い。何をもって宗教とみなすかは議論のあるところですが、例えばイラクのシャニダール洞窟から、ネアンデルタール人の子供の墓が発掘されたという有名な話があります。弔いの跡が明確に残っていて、死者に花を大量に添えていたということで世界的に有名ですね。おそらく死後の世界というものを想定して、その死後の世界にはカミが居られるという観念が、既にネアンデルタール人の頃には存在していた、そして何らかの宗教的な行為を伴っていたのではないか、と言われています。ネアンデルタール人の時代は、大体10万年前から3万年前頃までで、一説にはクロマニヨン人とも共存していたと言われています。宗教も世界大で消滅の過程に入っていると私は捉えておりますが、そう考えますと数万年単位で起こることが現在起こっている。
 数万年、あるいは数千年、数百年、百年、50年、それぞれタイムスパンも違い、それぞれ意味内容の違う大転換が同時輻輳的に、しかも世界大で起こっていると私は捉えています。つまり、従来、私たちが社会主義であろうが共産主義であろうが、あるいは資本主義であろうが自由主義・民主主義であろうが、従来の人々が何らかの形で正しいと考えてきた思想やシステムあるいは秩序が、世界大で同時的かつ連鎖的に崩壊する過程に突入しつつある、それが今日の世界であると考えております。

キーワードは「法人組織」
 この事態の「キーワード」と書いておりますが、結局のところそれら異質の現象に何らかの共通要因が見出せるとすれば、すべて「法人組織」の成立とそれへの人々の全面的従属という事柄に関わっている。この数千年、あるいは数万年かもしれませんが、最古の組織である宗教が成立して以降、人間個人一人ひとりの価値よりも、全然次元の違う崇高な価値が「組織」にこそあるという認識が人間社会の中に蔓延してきました。そうした「組織第一主義」「組織絶対主義」の成立と定着の歴史を考えていきますと、まず組織宗教が人間社会の中に成立して、それが世界大で広がり、その影響下に如何なる形態であろうと人々は組織されなければならず、全く同じ価値観を持つこと自体が素晴らしいことであるとの考えが常識化するに至りました。組織されない個人一人ひとりには何の価値も無いという考え方が、仏様が孫悟空の頭に嵌めた輪ッカのように人々の頭を締め付け続けてきたのです。
 組織宗教の世俗化としての国家も、その後に成立して参りますが、その国家の枠組みも当然にも宗教組織の組織化原則に準ずるものでなければならないのであって、必ず軍隊や官僚機構というものをもたなければならないと考えられてきました。そうした考えが、さらに近代以降になりますと経済の分野にまで広がっていきます。組織された一枚岩の会社こそが、もっとも経済活動を効率的に行えるのだとの観念が一般化し、時代をリードしていく理念・理想は会社の中でのみ構築可能であるのであって、個人には不可能だとの思い込みが人々を支配していきます。そんな考え方が、あっさりと成立し世界大で完全に広がり、完璧にできあがっているわけです。
 こうした思考は、言うまでもなく倒錯しています。ヒトでない組織がヒトを支配し、生身のヒトは組織内ロボットと化しているのですから。人類社会の歩みについてもう一度考え直してみますと、これからの基本的な方向性とは、人間個人ひとり一人こそに価値があり、組織に価値があるのではなくて、個人一人が生きているという事の中に本来の価値を見出し、積極的に伸ばし展開していくという方向性があらゆる考え方のベースになければならないのではないでしょうか。

 そんなことを言っておりますと、何を夢のようなことを言っているのか、とすぐに言われます。私はこういう考え方を持ちましてすでに十数年になりますが、十数年前の頃に私がどういう扱いを受けていたかと言いますと全くの孤立無援でありました。まだ当時はソ連・東欧社会主義体制が元気であった頃でし
て、ゴルバチョフが消えてしまうなど想像もできなかった時代です。私にとって先輩でもあり友人でもあり、日本における複雑系経済学の第一人者と見なされている大阪市立大学の塩澤由典さんという方がおられますが、その当時、私の「万人起業家社会論」の議論に対して「小野さんの考えは分からないわけで
はないが、300年から500年は早いんじゃないの?」と揶揄するように言われたことがあります。
 ところが世の中変わるのは早いもので、それからあっという間にベンチャービジネスが日本においても大々的に持て囃されるようになり、インキュベーターとかインキュベーターシステムなどがあちこちで騒がれるようになりました。日経新聞でもベンチャーとか起業家と言う言葉を見ない日は無いほどになりましたね。300年早かったのではなくて、高々10年位は早かったということでしょうか。

対テロ世界戦争の意味するもの
 さて、どんどん次に進みますが、現在緊急の課題になっております対テロ世界戦争についてです。私は9月11日にあの事件が起きた時に、瞬間的にこれは戦争だと思いました。皆さんもそう思われたと思いますが、私は同時に、これはアメリカが引き起こした戦争だと瞬間的に思いました。どういうことかと言いますと、これはアメリカが事前に知っていてやらせたに違いないと感じたわけです。その事は、翌日早くも証明されました。翌日には、実行犯グループが特定されたわけです。早々とアメリカ政府あるいはFBIは、あの段階ですでに30数名の犯人グループを特定し、名指しで発表しております。それができたということは、前々から目をつけて動静を把握していたことの結果以外の何ものでもないでしょう。2〜3日して流れてきた情報によれば、6月か7月でしたか、そのグループが在外米軍基地でテロを引き起こす計画があるとの通知が日本政府に対してあり、ところが日本の外務省はそれを外相に報告せずに握りつぶしたとか報告しなかったとかの報道がありました。それ以外にも、さまざまな形で長期にわたってアメリカが対テロ戦争に臨戦態勢で臨んできたことががわかってきました。
 結局のところ、アメリカの建国以来の戦争を考えてみますと全部そうなのですね。一番古い例では「リメンバー・アラモ」です。19世紀の前半だったと思いますが、テキサス州がまだメキシコ領だった頃、西へ西へと版図を広げようとしていた当時のアメリカは、国境を越えてテキサスに大量のアメリカ人移民を送り込み、彼らにメキシコからの分離独立闘争をやらせました。このアメリカ人独立部隊が、ジョン・ウエインの映画で有名なアラモ砦に立てこもり全滅しました。虐殺をされたわけです。アメリカ政府は「リンメンバー・アラモ」を合言葉にして国民を煽りたてて、それをきっかけにアメリカは「対メキシコ戦争」を引き起こし、テキサスをメキシコから奪い取ることに成功しました。
 次にアメリカがやったのは「米西戦争」ですね。この時も、キューバのハバナ港に停泊していたメイン号というアメリカの軍艦が、何者かによって爆破されます。これをスペインが爆薬をしかけたと言いまして、「リメンバー・メイン」との合言葉であっという間に開戦に踏み切ります。その次は第一次大戦です。これはイギリスがアメリカを参戦させるためにやらせたと言われていますが、多数のアメリカ人が乗っていたイギリス客船をドイツに攻撃させて多数の民間人の犠牲者を出しました。その結果、アメリカは参戦に踏み切ることとなりました。
 その次が、かの「パールハーバー」です。パールバーバーについては、最近専門的な研究書がたくさん出てきていますが、アメリカがすべてを知っていた上で、大日本帝国海軍の機動艦隊に襲わせたということが明らかになってきております。次は、トンキン湾事件ですね。トンキン湾事件以降、北ベトナムへの北爆に踏み切るわけで、その材料に使われます。その次は湾岸戦争です。湾岸戦争の時もイラクによる軍事行動を容認するかのような発言を当時の在中東アメリカ大使が繰り返します。当時のブッシュ大統領も、あえてイラクを持ち上げるような発言を繰り返していました。今回も、まったく同じ構図が見て取れるわけです。
 いずれの場合にも、アメリカ人は伝統的にモンロー主義的な考えが主流で、対外戦争を嫌う風潮が支配的であったのですが、民主主義国家であるが故に、アメリカ政府としてはそういう世論を一夜にしてひっくり返すために、そうした事件を引き起こす必要があったのです。民主主義も、それが国家という外皮をまとうと、国民を欺く世論誘導を常套手段とするに至るという、その見本のような事態ですね。

アメリカによる世界一元支配
 そうするとなぜアメリカはそんな事をしたのか、という疑問が当然出てきます。父ブッシュと息子のブッシュは、毎日電話で連絡を取っているらしいですね。父ブッシュ以来の共和党戦略は、ソ連東欧社会主義世界体制が自らズッコケて以降、アメリカによる一極的な世界支配(パックス・アメリカーナという「世界新秩序」)をどのように作り出すか、に腐心してきたわけです。クリントン時代は経済が好調でしたから、そういう戦争行為は必要ではなかったわけですが、ITバブルが見事に弾けて、どんどん株価が下落するという事態になりますと、好戦的なブッシュが選ばれて一挙に戦争モードに切り替わったということだと思います。
 アメリカが世界一元支配を実現するために考えた大きな狙いとは、中国はまだ社会主義そのものでありますから、先ずは中国の取り込みと弱体化を図る、次にロシアを取り込むことであったはずです。そして弱小国家であってもアメリカの言いなりにならない、例えばイラクやリビアとか、またシリア・ソマリア・スーダン・イエメンなどを強圧的にアメリカの意向に沿わせる、そうした国際世論を一夜の内に作り上げるための戦略を練りに練ったに違いないと思います。
 この戦争は10年〜20年は続くと、ブッシュやパウエルやラムズフェルドなどが繰り返し言っております。これはどういう事かといいますと、これからずっと戦争モードが続くということです。景気が悪くなり、貧しくなる人が大量に出る一方で、ガバガバと儲ける人はたくさんいるわけです。今後、ボーイングやロッキードなど、一時は倒産の危機に瀕していた軍需企業が一気に息を吹き返すことになります。また、アメリカは恐らく、無人偵察・攻撃機やデイジー・カッターや燃料気化爆弾などの目に見える軍事技術以外にも、想像を絶するような未来型兵器を極秘にテストしているに違いないと私は考えていますが、そうした技術を総動員することで、最終的に中国や北朝鮮などの「目の上のタンコブ」的国家の殲滅ないし弱体化を追求していくはずです。

金ドル本位制の復活
 次に、経済におけるアメリカの世界支配の構図と書いています。いろいろ流れてくる情報や状況証拠を勘案しますと、1972年のニクソンショックでドルと金とのリンクを断ち切ってフロート制に移行して以来30年を経て、金ドル本位制を復活させようとしているのではないかという声があちこちから聞こえてきますが、私は、それは恐らく真実であろうと思います。
 来年の1月1日から、欧州共通通貨・ユーロが名実ともに通貨として市場に流通します。貨幣論者や国際金融システムの学者やらが、これからの世界貨幣の動向という問題について、ドルは引き続き力を持つだろうけれども、これからはドルとユーロと円の三元バスケット制になるなどと言っていますが、私はそれはあり得ないと思います。述べてきましたようなアメリカの意図を勘案すると、当然ユーロだけに甘い汁は吸わせないとアメリカは考えるでしょう。欧州共通通貨という構想が出てきた当時から、アメリカが対抗戦略を練ってきたことは間違いが無い。様々な情報を聞いていますと、72年以降一時ドンと金価格が上がるわけですが、それからは長期低落傾向が続いています。その間に、アメリカ政府は民間に大量の金を国際市場で買い集めさせていたことが明らかになっています。イギリスに金を放出させ、オランダ、ロシアにも同様にさせて金価格を安値に誘導し、その時期にがっぽりと金を買い込んで、底値の時に金ドル本位制を復活させたら誰が儲かるだろうか。今ですら、ニューヨークの連邦準備銀行の地下金庫には9000トン近い金が眠っておりますし、それに民間の保有金を合わせますとダントツの金保有国です。金と再び結び付けられたドルは名実共に唯一の基軸通貨として復活し、今後には絶対的強大さを保持した世界貨幣権力として再登場することになりましょう。
 これからの10年20年を考えますと、政治・軍事・経済・金融・科学などありとあらゆる領域でのアメリカの得手勝手な専横的支配が強まり、至るところでアメリカの一元支配を追求するという動きがさらに強まっていくことが確実です。これはもうブッシュが大統領になる前から検討されていることで、例えば
京都議定書からの一方的な離脱、CTBT(包括的核実験禁止条約)やABM(戦略ミサイル迎撃網)制限条約を反故にし、核融合国際研究から一方的に引き上げるとか、そういう戦略を追求しているわけです。そういう戦略にどう対決していくのか、ということです。

パックス・アメリカーナとの対決
 そうしたパックス・アメリカーナ的な事態にそのように対抗していくのか、これは地球人の全体の課題だと思いますが、パックス・アメリカーナと対決していくパワーを多少とも持っており、対抗できる一定の思想的背景も持っているのは日本人しかないだろうと私は思っています。「近代」が終わったということをお話しましたが、近代西欧科学も終わりつつあります。そして今後の世界を引っ張っていく新しい科学がどこで登場しているかと言いますと、実は日本なんですね。日本における複雑系科学の中から、これからの時代を先導的にリードし得るだけの革命的な科学理論が登場してきています。日本には、科学革命を成し遂げる科学技術の力もマンパワーもありますし、資金もあります。そうした日本の知的・物的資源を集中していくことで、内向きに閉じこもるのではなくて、新しい考え方を世界に向かって提起し発信していくことが可能になると思います。
 これからの日本の世界的な貢献としては、第1に、それは国連改革ということから始まるでしょうし、それとワンセットの形で日本の自衛隊の問題を最終的に解決しなければなりません。私の考えている最終的解決案とは、平和憲法を厳格に擁護しながら自衛隊を世界平和のために徹底的に活用するという「三方一両得」のような構想で、憲法改正など全然必要がありません。それどころか、世界で唯一、厳格な平和憲法を持つ日本こそそれができる。日本の自衛隊は、憲法上の保証をなんら持っていない幽霊のような軍隊ですね。ところが、昨年出ましたストックホルム平和研究所(SIPRI)の報告書によりますと、日本の軍事力はアメリカに次いで世界第2位だというわけです。もちろん、核兵器はないわけですから、通常兵力と言う意味で世界第2位だそうです。それが幽霊なのですね。幽霊の如き自衛隊と平和憲法とを、どのようにすれば両立させることができるのでしょうか。

自衛隊を国連常備軍に
 国連の軍事・警察システムとしては、PKOやPKF等がありますが、国連軍については国連憲章に明確な規定がありながら、一度も組織されたことがありません。朝鮮戦争では国連軍を名乗りましたが、まやかしでした。その国連軍の常備部隊として、自衛隊をどうぞどうぞと差し上げてしまうというのが私の構想です。それができる国家は、世界に180余ケ国ある中で唯一、日本だけなんです。それが可能なのは、交戦権を放棄し戦力保持をも明確に禁止している絶対平和主義憲法を持っているからこそです。よく似た憲法を持っている国にコスタリカがありますが、自衛権までは否定していません。
 平和憲法ゆえに、自衛隊を持ちながらそれを「専守防衛」以外に使うことができないと歴代の政府は言い続けてきました。今回、中東地域に派遣することになりましたが、このような形でアメリカに追随して海外派兵をするのであれば、私は徹底して反対をしていきたい。同時に、アメリカに追随するのではなく、また自国のためだけでもなく、世界平和のために働く世界初の国連常備軍として自衛隊を活用すると言うのが私のプランです。日本以外の他国の軍隊は、幽霊ではありませんから、自国の政治的思惑や国家権益に左右されて、ソマリアから米軍が逃げ出したように、世界平和を最優先に任務を遂行することができません。憲法上の規定を欠いている幽霊の自衛隊だからこそ、それが可能なのです。もちろん、そうなれば自衛隊員は世界初の国籍を持たない「国連人」となり、平時には日本に駐留することになるでしょう。それこそ、如何なる他国の「国軍」にも真似のできない、最強・最善の自衛・安全保障策ともなるはずです。

日本国憲法の反宗教的性格
 日本国憲法は、注目すべき世界に冠たる特徴を、もう一つ持っています。それは反宗教ということです。他の欧米諸国の憲法には「神」という用語が出てきます。ブッシュ大統領は、どこでも「神のご加護を」と必ず言い、「神は我々についている」と常に強調しますが、イギリスでもフランスでも同じですね。憲法の中に神の概念や用語が出ておらず、しかもそういう要素がにじみ出てくることを二重三重に防止している憲法は日本国憲法しかありません。従いまして、宗教を超えていくことが今後の人類の基本課題だとすれば、それができる人々とはこの日本国憲法のもとに生きている、この日本列島に生きている人々しか有り得ないのではないか。そういう意味で、世界平和の建設をリードし、また宗教を超えた、そうした世界の基本的な将来像を考える上で、日本は先進的な、ある意味では革命的な役割を持ち得るだろうし持たなければならないと考えております。平和憲法と反宗教憲法ができたということは、世界で日本人だけが2発の核兵器の惨害を被ったことの直接の帰結として、そういう憲法条項が生まれてきたわけですから。

世界金融センターとしての日本の役割
 次に、今後の世界経済における日本の役割ということです。日本だけの役割というわけでは必ずしもありませんが、あえて日本の役割という意味で考えますと、日本が世界の金融センターにそろそろ成ってよい時期に来ているのではないでしょうか。バブル期までの巨大な金融資産は相当目減りしているとは思いますが、それでも民間の金融資産だけで千何百兆円もの資金が行き場を失っている状態です。それだけの巨大な資金がこれまでどこへ向かってきたかと言いますと、日本の金融機関を通じて相当部分がアメリカへと還流していたわけです。以前には、アメリカの国債の3割以上を日本が購入していた時期もありました。アメリカがドルを世界中に垂れ流す一方で、それを再びアメリカへカムバックさせる役割をダントツに引き受けていたのが日本だったわけです。ゼロに近い市中金利を上げられないという事態も、アメリカの金利よりも低い金利水準でなければならないとの対米従属的構造ゆえです。数年前に当時の橋本首相が、「何ならアメリカの国債を売ってもいいんだぞ」との脅しを一発かましただけでマーケットは大慌てになったことがありますが、そんなことをしたらアメリカ経済は一発でダウンするはずです。当然にもアメリカから強硬な抗議がきまして、橋本首相が慌てて「いやいや冗談です」とお茶を濁す一幕もありました。
 今後10年20年、アメリカが置かれている現状を勘案しますと、アメリカの資金の相当程度が軍事力に流れていくでしょう。そうすると、これまでそうであったような形でニューヨークが世界の金融センターであり続けることは相当困難になっていくでしょう。9月11日にワールド・トレードセンターが壊滅したこと、これは極めて象徴的だと思いますが、世界金融システムにおけるひとつの時代が終わりつつあると見るべきだと私は思います。要するに、世界中の資金をアメリカへと還流させ、そしてそれをアメリカが好き放題に使ってきたのが戦後50年の世界的金融の構図であったとしたら、これからは日本あるいはEUが世界の金融センターの中心にならなければならない。そんな役割を、日本が引き受けていかなければならない、そんな時期に来ているのではないか、と私は思います。
 もちろん、それはアメリカの経済的な弱体化をもたらします。お金というものは回りまわっていくものですから、金融センターに集まってもそこに滞蔵されることは全くありません。一旦日本に集まって、アメリカが世界の警察官として使ってきたような使い方ではなく、発展途上国への支援や平和のための科学技術研究など、良い意味で世界に還流されていく、最も資金を必要としている最底辺の人々にこそ資金を供与していく、そういう新しい世界大での金融の流れを、日本は大々的にひとつのプランとして打ち出していく必要があるのではないか。おそらく、これから戦争モードをずっと続けていくであろうアメリカにとって代わって、日本が日本にしか出来ないことを、これから積極的に世界に向かって引き受けていくという構図、それを我々自身アピールし、その具体的な中身というものを考え出していくことが必要ではないか、それが我々の研究課題、また学問上の課題ではないかと思います。(続く)

 続きへ(No290 2002-01