アサート 290号(2001年1月26日)

【講演録】 「21世紀のグランドデザインをどう描くか」(その2)
      公立はこだて未来大学 複雑系科学科 小野 暸
<体制間対立から何を学ぶか>
 レジメの次の項目に「体制間対立から何を学ぶか」とありますが、社会主義と資本主義の間の思想的対立構造は、ほぼ百数十年間続いてきました。ソ連が成立して、体制間対立という様相を呈するようになってから7〜80年間です。その歴史から何を学ぶかという課題です。
 レジメに「同じ穴のムジナ」と書きましたが、私は資本主義も社会主義も、現実に存在した姿・形としては、同じルーツから派生したものと考えています。すなわち、近代という共通のルーツを持っているわけです。近代という時代が如何なる時代であったのかということですが、近代に入って以降、社会の隅々にまで「組織化」現象が及んでいった、そういう時代でありました。人々を「組織する」ということが素晴らしいことであり、社会や経済に効率をもたらし、前向きの方向へとリードしていく原動力となるのだとの考え方が圧倒的に支配的となった時代、それが「近代」でした。人々が社会的規律や秩序を学ぶ「学校」としての「組織」こそが、進歩の担い手であるという考え方、それが近代以降に世界大で蔓延した考え方であるわけです。
 社会主義・共産主義の側では、その理念をより純粋な形で実現しようとしました。「一国一工場」と表現されますように、国家全体を一元的に組織化するシステムが追求されました。それこそが経済的・社会的無秩序を克服する道であり、理性的計画に基づく国家全体の組織化=計画化が、恐慌や景気変動のない安定的発展を保証する唯一の方途であると考えられました。一方、資本主義陣営においては、一国全体という形では組織化されなかったけれども、社会の隅々・最末端に至るまでほとんどの人々が企業組織・政府機構・政党・学校・病院・組合等々の内部に囲い込まれることとなりました。その結果、経済や社会システムのあらゆるところで「ヒエラルヒー構造」が作り上げられていきました。「組織化」を至高の原理として尊ぶ時代の風潮の中で、どちらの側もそれを当然視しながらも、一方は一国レベル全体での組織化を考え、それがもっとも合理的・効率的だと考えた。他方は、法人企業への組織化とその巨大化を追求していきながらも、創業の自由・経済活動の自由を承認した……その違いが、結局、社会主義と資本主義の命運を分けた違いだったのではないか、と私は考えています。

<マルクスとアソシエーション>
 数年前に、田畑稔さん(現在、広島経済大学教授)が、『マルクスとアソシエーション』(新泉社)という本を出されました。お読みになった方もおられると思います。その中で何が言われていたかと言いますと、マルクスの基本的な考え方は、従来理解されてきた内容とは正反対に、徹底的に透徹した「個人大切主義」であったということです。田畑さんは、マルクスのアソシエーションという考え方のバックボーンになっているのは、個人一人ひとりが大切だという認識であり、徹底した個人的自由の追求を土台としていたことを、マルクスの全文献の徹底した渉猟によって明らかにされています。マルクスの「自由な生産者・諸個人の連合」=「アソシエーション」という考え方の土台には、個人的自由の徹底によって初めてそれが可能になるとの認識があったということです。私も同じようなことを考えておりましたので、本を見つけて読ませて頂いた時には大変感動致しました。現在、田畑さんには「はこだて未来大学」に非常勤講師として来て頂いています。
 けれども、田畑さんのおっしゃることはまったくその通りと思いますが、そうしたマルクスの基本思想がその後、「一国一工場」を追求するような方向へと何故に途方もなく歪められていったのか、について考えなければならないと思います。この点については、なお入念な検討が必要と思いますが、かいつまんで言ってしまえば、「組織化」を神聖視することが当時の時代の雰囲気でもあり、それに対してはどんな人間であっても抗い難かったのだと言うしかありません。
 マルクスの思想の中にも、やはり「軍隊」思想と言いますか、革命のための軍備を整えよとか、労働組合は労働者のための学校だとか、あるいは学校とはすばらしい教育システムだとかの、一方で組織化を「時代を前に進める進歩的なもの」であり先進的性格のものと見なす傾向も同時に強く刻印されています。その傾向は、革命のための運動論の領域では、いっそう際立って現われてきます。おそらくこの、マルクスの個人性重視という根本思想のベースと、実際の時代の雰囲気に浸ったが故の組織性重視あるいは「組織の悲惨」への認識の弱さとの自家撞着と言いますか、矛盾と分裂がその後のマルクス主義運動の悲惨な結末をもたらしたと言えるのではないでしょうか。

<自由・平等・友愛>
 さらに遡って捉え直していくなら、近代という時代がまさに「個人と組織の相克の時代」でありました。近代市民革命は、それ以前の王侯・貴族のみの自由を否定し、市民個人の自由を掲げて闘われました。政治的自由のみならず、経済的自由をも掲げたという点が重要です。つまり、創業の自由です。近代以前の時代には、庶民の経済活動は強く規制され、王侯・貴族・寺社等の特別の許可を必要としていました。そうした経済活動に対する制約を打破して、市民の誰でもが自由な経済活動を如何なる形態でも起こし得る権利の獲得、その権利の市民すべてに対する保証、それを近代市民革命は明確に掲げていました。
 『自由・平等・友愛』というフランス革命及びアメリカ建国のスローガンに謳われた有名な三つの言葉は、フランス国旗の三色旗に端的に表現されていますように、当初はひとつの理念を形成する異なる三側面の表現だったのです。自由と平等と友愛とは、言葉では別の表現のようですが、理念的には決して分けられないひとつの理念であるとの思想です。それぞれ別々に追求することが可能だとは、当時の人は全く考えていなかったわけです。「自由で平等な友愛社会」を一体のものとして追求する中にこそ、近代市民革命の基本理念があるのだ、新しい時代はその基本理念に従って築かれなければならないのだと考えていたわけです。そんな考え方が、2〜300年前には当然の常識としてあったわけですね。
 けれどもその後、近代という時代が進展するにつれて、また資本主義つまり法人企業システムが成立・発展・拡大するに従って、自由と平等とは当初の一体性を失っていきます。近代市民革命の基本理念は、あっという間に三つに分裂してしまい、それぞれが別個に追及されることになります。要するに、近代市民革命によって歴史上初めて「個人一人ひとりの尊厳」という観念が出現するわけですが、市民の個人的自由の追求を土台とする「自由・平等・友愛」社会の建設という目標は、結局のところ、一方で組織というものを前向きなもの、先進的なものとして容認していった結果として死滅に向かい、市民個人はさまざまな組織に徹底的に囲い込まれていくわけです。その結果、自由主義と平等主義とは、完全な対立的構造に転化していきました。自由とは資本主義(=アメリカ)であって、平等とは社会主義・共産主義(=ソ連)であるという観念が支配的となり、自由と平等とは二律背反的概念であると考えられるようになりました。それが、19世紀後半以降の新たな常識となっていったのです。
 なお、「自由・平等・友愛」の理念は、完全に死に絶えてしまったわけではありません。それは政治的領域における「一人一票原則」として、辛うじて社会に根付いています。例えば選挙での投票権は、市民個人一人ひとり(自然人)にのみ容認され、「法人組織」には一切の権利を与えないこと、それが「一人一票原則」です。つまり、政治の領域では、「法人組織」という存在は原理的に否認されているのです。もちろん、それは名目的・形式的な否認であって、実際には政党という組織が政治を牛耳り、また企業や役所などが隠然たる影響力を発揮していることは言うまでもありませんが、原理上、否認されている点が重要です。他方、経済の領域では、法人企業に所有権などの法的諸権利が付与されており、「一人一票原則」は風前の灯火に近くなっています。言い換えれば、近代という時代は「自由・平等・友愛」との理想を、政治的領域では曲がりなりにも実現したけれども、経済の領域ではまったく反する事態を招来してしまったのです。ならば、経済領域における「一人一票原則」とは一体如何なることか、それが問題となりますが、その点については後ほど詳しくお話ししたいと思います。その他にも、お話ししたいことはいろいろありますが、続いて先に進ませていただきます。

<国家を超えて>
 次に、国家システムに関してです。近代が追求してきた「民族国家」というシステム、これも今、大きく揺らいでおります。EUが成立し、2002年1月1日からは共通通貨ユーロが現金として流通を始める一方、旧ソ連やユーゴ連邦がどんどん解体・分裂していく等々、この点に関しては皆さんも実感として感じておられるだろうと思います。これから起こってくること、恐らくそれは「中国の解体」でしょう。今でも鮮明に覚えておりますのは、1980年代の半ば過ぎ頃、ゴルバチョフが意気盛んな頃でしたが、私が「万人起業家社会論」の萌芽みたいなことをいろいろ考えていた頃です。中国におけるチベット問題を考えていた時に、突然、東ヨーロッパから日本海まで、ユーラシア大陸に連なる社会主義世界体制が西の端からメラメラと燃え上がって潰れていくというビジョンが頭の中に浮かんできました。ソ連・東欧社会主義圏の崩壊と、民族対立の激化を予感したわけです。とは言え、その頃はゴルバチョフが健在でして、ソ連も改革を続けていくことで、あと10〜20年はもつだろうと思っておりましたが、それから5〜6年くらいで、あっと言う間にそれが現実のものになったわけですね。おそらく今後、中国が解体していくプロセスの中で同じことが起こってくるだろうと思います。
 近代以降、国家を民族単位で組織すべきだということが、国家の基本的理念として叫ばれました。しかし、この考え方は一方では、大変な惨害を招くことになります。皆さんご承知のように、いわゆる「一民族一国家」とのスローガンは、ナチス・ドイツのスローガンでありました。「民族」を重視する国家理念は、当然にも民族排外主義を宣揚する結果をもたらします。一方、多民族の融合・統合を掲げて成立したソ連社会主義共和国連邦ですが、これがどうなったかということも今では言うまでもないことです。要するに民族単位で国家を組織するという近代の基本理念そのものが、あらゆる間違いの根源であって今後の基本理念とはなり得ないということは明らかでしょう。
 さらに、国家という形態が民族国家であるべきか否かを越えて、今後、マルクスが構想したように、国家それ自体が眠り込み死滅していくとは如何なる方向なのか、その具体的プロセスを展望していくべき時期に来ていると私は考えています。そう考えますと、昔、私の父がよく言っていたことですが、国家の公共的性格と権力的・階級的性格をきっちりと峻別して国家の機能・あり方を再考し直す、そこのところからもう一度考え直さなければならない。要するに、新しい形での集団全体での協議システム、秩序維持システム、安全確保互助システムがどういう形で展望されなければならないのか、具体的な話をもう始めるべきだと私は考えております。

<市場の失敗、政府の失敗、そして「組織の失敗」>
 当然のことながら、国家の権力的・階級的性格を徹底的に弱めつつ、サービス的公共的機能については、これを国家によらずして提供していく方法等々についても当然提示していく必要があります。その時に依拠すべき理論として、よく言われる「市場か政府か」という議論をもう一度根本から見直すべきだと私は主張しています。というのも「市場か政府か」という議論は伝統的に数十年続けられておりまして、今でも「市場対政府」という大部の本が出されたりしています。「政府が大事だ」という立場の人々は「市場は必ず失敗するのだ」「市場だけではうまくいかないのだ」という伝統的な議論を背景にしておりますし、「市場が大事だ」といういわゆる規制緩和論者の議論も、ハイエクやフリードマンが展開した「政府の失敗」という議論をベースにしてきましたが、決着は付いていません。
 私はどちらも間違っていると、十数年前から同じことを言い続けてきました。私の提示する主張は、新しい概念としての「組織の失敗」という議論です。市場も政府も、「組織」されてしまったが故に失敗するのです。市場に関して言えば、「組織」されない市場とは人々の取引の場というだけの意味しかありません。従いまして、私は学生たちに、「市場」を「しじょう」と読むな、「いちば」と読めと言っております。「いちば」とは単なる交易の場所であり、取引の場ということです。交易の場としての「いちば」は、人間の経済活動・日常の暮らしに必要不可欠なものでありまして、それなしに人々は生きていくことはできません。「いちば」が人格的な意味で失敗するなどということは有り得ないわけです。
 にも関わらず、我々は「しじょう」という言葉を使った瞬間に、価格成立のメカニズムですとか、株式市場制度であるとか、企業間の競争戦や駆け引きでありますとか、そういうことを連想してしまい勝ちです。現行の経済学も、市場を価格メカニズムと捉えて、そこにどんな参加者がいるのか、参加者の間での約束事がどうなっているのか等々についてはまったく等閑視してきました。現実に存在する市場は、市場参加者が法人企業にほぼ限定され、庶民は単に生活物資の消費者として振舞うことしかできません。市場が「組織」されているという意味は、そうした意味です。これまでの経済学は、そうした市場の基本的枠組みを一切無視して、市場ではあたかも自動的・非人格的に価格が決定され、需給量や取引数量も決まっていくのだと見なしてきたのです。その一方では、よく「マーケットの意向は」とか、ニュースでも「マーケットは拒否しました」とか、「マーケットは政府に追随しているようです」とか、あたかもマーケットそれ自体が人格を持っているような表現を使います。市場から排除されている生身の人格的諸条件(つまり、人々の思い)をまったく無視する一方で、単なる「場」をあたかも擬人的に取り扱う、こうした現行の経済学は二重の意味で錯誤に陥っています。マーケットを「いちば」と言ってしまえば、いずれも論理として成り立ち得ないわけで、だからこそ私は市場を「いちば」と読めと言っております。
 他方、「政府の失敗」という議論も、ハイエクやフリードマンらの主張によれば、彼らが擁護する「市場の自由」という概念の中には「法人企業の自由」しか存在しないのでありまして、企業内部に囚われている大多数の人々の存在は完全に無視され、あるいは単なるロボットとしか見なされてこなかったのです。経済活動に対する政府規制の緩和・撤廃さらに自由化という議論には私も基本的に賛成ですし、政府が歴史的に見てもロクなことをしてこなかったことを見れば、また「国家の眠り込み」というマルクスの展望からしても、政府規制に何らかでも期待することは歴史に逆行することだと考えています。
 けれども、規制緩和・撤廃という議論は、多くの人々が主張するような企業活動に対しての緩和だけでなく、人々個人の自由な諸活動に対してこそ徹底的に緩和・撤廃されるべきなのです。とくに緊急に必要な「規制撤廃」としては、企業内個人の情報発信の自由を保証する措置でしょう。組織内個人に課せられた情報の守秘義務こそは、組織を組織たらしめる土台であり、個人よりも組織を上位に置く思想の具体的表現なのですから。
 ハイエクらの徹底した個人的自由主義は、大陸ヨーロッパ(ハプスブルグ帝国!)における貴族的自由主義の伝統を濃厚に受け継いでいます(ハイエクは貴族の出自でした)。ですから、下々の人々のことなど、彼らにとっては視野の外にあったのですが、今後の個人的自由の拡大を展望していく上では、大陸欧州の王侯・貴族たちが謳歌した自由を、すべての人々の自由にまで拡大・拡張していくとの観点が不可欠であると思います。
 結局のところ、人間的な意味で望ましい財の交換と取引のシステム、人々の暮らしを律する望ましい協議システム・秩序維持システムではなく、限定的・排他的・独裁的な形で市場そして政府の形態が作られ、そのような形態で近代的に「組織」されてしまったが故の「失敗」ということではなかったか。どちらの議論も、「組織の失敗」という観点を入れて根本的に見直すべきではないか、というのが私の提起しております「組織の失敗」という議論です。この「組織の失敗」という議論は、私のオリジナルでございまして、もしお使いになる場合は、必ずクレジットを入れてくださいますようにお願いします
(笑)。

<宗教について>
 次に宗教の問題です。先ほど、カミとは「宇宙の謎」「世界の謎」「生命の謎」だと理解するならば、カミに対して宗教的・独善的な解釈を与えてはならない、と申しましたが、言い換えればカミとは科学の基本的な探求の対象であるべきなんですね。けれども従来の科学は、デカルト以降、宗教と平和共存してきました。それは、当時のローマ教会からの干渉・介入・異端審問を真剣に恐れるが故でした。カミの世界はココロの世界であって、その領域ではキリスト教が自由に支配することを容認する一方、モノの領域に関しては科学の領域であると主張して、ローマ教会からの過剰な口出しを封じようとしたのです。
それゆえ、宗教については何も言わない、宗教世界に一切介入しない、カミが何かということについても物質的な意味でしか追及しない、という態度を厳格に貫いてきたわけです。それがデカルトの「精神/物質二元論」「意識/身体二元論」の根底にあった考えででした。
 しかし、そろそろ、科学的営みの中からヒトのココロの領域を厳格に排除した、こうした極めて中途半端な科学主義を捨て去り、カミそのものを科学的検討の対象にする時期がきているのではないでしょうか。もし、人類が早期にそれを進め、少しでもカミの謎に迫っていくことができたら、その時こそ宗教は最終的に乗り超えられていくことでしょうし、それは可能だと私は考えております。宗教を超えていく道とは、旧ソ連のスターリン時代に行われたような教会への暴力的な弾圧であって良いはずはありません。戦前の日本でも、大本教や様々な新宗教に対する弾圧が行われましたが、そういう形で宗教を乗り超えることは絶対にできません。私たちのココロが世界を認識する構造そのものが、基本的に科学をベースとするものに変っていかない限り、絶対に宗教が無くなることはありません。宗教成立以来、数千年あるいは数万年を経てようやく、宗教を死滅させ眠り込ませるプロセスが、科学の世界において始まりつつあるという認識を私は持っているわけです。

<「万人起業家社会論」とは>
 さて、大きな3点目ですが、ようやく、私のアドバルーンであります「万人起業家社会論」に入っていくことができます。誰でもが社長、誰でもが起業家、誰でもが例えば大学の教師、誰でもがミュージシャン、つまりどんなものにでも誰でもが成り得るような社会と経済のあり方を、私は「万人起業家社会論」の中で主張しています。この用語は十数年使ってきたのですが、あまり誰もこの言葉を広めてくれません。ネーミングが悪いのかとも思います。もっと一般受けするような、カッコいいネーミングがあれば教えて頂きたいのですが…。
 要するに、現在の企業は法人として組織されており、この人間でない法人という存在が例えば権利主体・所有主体になる一方で、企業の中にいる生身の人間は、その中にいる限り主体にはなれないという転倒した状況を、如何にすれば再転置し得るのかということです。あるいは、わかりやすい話として、企業組織の中で何らかの発明をしたとします。その発明・発見の権利が誰に帰属するかと言いますと、全面的に企業に所属するわけです。特に日本での状況はひどいもので、実際に発明・発見した人には金一封、せいぜい数万円、場合によっては数千円というお涙金でお茶を濁されています。
 これからは、恐らく大学の中での発明発見もどんどん行われていくことになりましょうが、このままで行きますと独立行政法人になろうがなるまいが、結局のところ発明発見の権利は大学に帰属することになるでしょう。あるいは、統括的に管理するTLOや何らかの新組織に帰属するということになりそうですね。つまり、法人が人に成り代わって生身の人を支配する、このような構造は人間が大切だ、一人ひとりの個人が大切だという考え方からしますと、完全に倒立・転倒した考え方であるわけです。そうした構造を、我々自身、唯々諾々と当たり前のように受け入れてきたわけですが、我々をそのように思い込ませてきた過去の社会・経済は、根本からおかしかったのではないでしょうか。法人を権利主体としてきた従来の社会・経済のあり方は、まず否定されなければならない。生身の人が行った発明・発見の権利は、当然、発明・発見した人個人にこそ帰属することを承認すべきでしょうし、他方では発明・発見者がその利益を独占したり過度に利益を享受したりすることがないよう、知的進歩の成果を社会が広く享受できるような、既存の特許権や知的所有権に関わる制度の全面的な見直しが必要だと考えています。
 「万人起業家社会論」の話をしますと、我々の頭の大部分には組織こそ効率の源泉であるという考え方がこびりついていますから、すぐにそんなことはできるはずがない、空想的な夢のまた夢、夢物語だという反応がすぐに返ってきます。いろんな所で講演をし、しゃべっているわけですが、どこでもそんな感想が返ってきます。もちろん私も、今すぐそんなことが可能とは考えていません。ただ、新しい社会の基本理念として、そうした方向性が時代の流れの基本潮流となっていることを理解して頂ければと思っております。現実にも、事態はその方向へと、急速に雪崩を打って世界大で展開をしております。例えば、私のカミサンも私の考え方に乗せられて、それまで勤めていた結構大きな会社をあっさりと辞めて、独立開業しました。そういう形で、今まで所属していた大企業を見切って、どんどん自分から転職をし、あるいは事業を起こす、あるいは仲間とリトルカンパニーのようなものを創る、またカンパニーを作らないで人々のネットワークという形で非常に柔軟に仕事をしている、皆さんの周りにもそんな人がどんどん増えてきていると思います。
 これは日本だけではなく、欧米諸国では戦後50年ずっと続いていることです。とりわけアメリカでは、優秀な学生は大企業には絶対に入りません。優秀であればある程、大学を出るとすぐに自分で事業を起こしていく、学部生の頃から人々を引き付けるだけの魅力ある具体的な事業プランを一生懸命考え、プレゼンテーションを創り、全米を飛行機で飛び回っていわゆるエンジェル(投資家)を探し回っている。投資家の方も、日本とは比べ物にならない程に厚い層をなして存在しているわけでして、彼らも組織を見るのではなくて人を見る、提案の中身と本人自身が信頼できるか否かを見て、信頼できるとなれば数万ドル〜数十万ドルをポンと出すわけです。そういう構造が、ずいぶん以前からできあがっております。
 日本でも、最近ようやくそうなってきております。これは世界大でのことです。ヨーロッパもそうですし、アジア諸国もそうです。とりわけ韓国とか台湾とかシンガポールなどは、日本よりはるかに急ピッチで起業家を輩出しています。最近は中国ですね。中国でも雪崩を打って、起業家が雨後の筍の如くに現われ始めています。80年代後半の、いわゆる「郷鎮企業」設立ラッシュが皮切りとなり、郷鎮企業の場合には資金提供者は基本的には共産党か自治体だったのですが、それ以降の動きはそれに止まらず、上海や北京等の中国の大都市ではいわゆる「起業家」が無数に誕生しています。従って、もう私は「万人起業家社会論」と叫ぶことを止めようかなとも思い始めていまして、もっと新しいことを言わなければとも思う程、そう考えざるを得ない程に当たり前のことになってきているわけですね。
 今後考えるべきは、インターネット等々のIT技術を通じて、技術的にもそういったことがますます可能になってきているわけですが、そうした下で出来上がってくる集団的協業と分業の未来形が具体的にどんなものになっていくのか、そのプロセスの中で「法人企業」がどのように死滅していくのか、それを描き出していく時期が来ていると私は考えています。(続く:次号2月号で完結の予定です) 

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