アサート 291号(2002年2月16日)

 【講演録】 「21世紀のグランドデザインをどう描くか」(その3)
            公立はこだて未来大学 複雑系科学科 小野 暸
<リシュカの「社会的遺産」論>
 ハンガリーの経済学者にリシュカ・チボールと言う人がいます。ハンガリーは日本と同じ姓名表記なので、リシュカが姓です。もう相当の高齢でしょう。リシュカは1950年代から60年代にかけて、「社会主義的企業家」という考えを提唱していました。ハンガリー動乱の直後という時期に、社会主義の標準的考えと全く反することを言い続けることができたとは信じ難いことです。1960年代の半ば頃には、かなり体系的な形で私の「万人起業家社会論」に近い主張を展開しています。私は、80年代に入ってハンガリーで展開された「ハンガリー所有論争」を調べているうちに、リシュカの議論に出会いビックリ仰天しました。
 リシュカの思想は多岐に渉りますが、まず注目すべきは「社会的遺産」という考え方です。現在の遺産相続制度は個人的・家族的相続です。つまり、金持ちの息子は金持ちになるわけですが(相続税はかなりきついので、そうならない場合も多いですが)、親がたくさん残してくれたら息子・娘は遊んで暮らせることになります。今日の社会・経済システムにおいては、生まれた時点ですでに差がついているわけで、また相続財産の多寡に関わらず、親がどんな職業に就いていたか、どういう社会的ネットワーク・システム・人脈の中で生きていたか、それも大きな財産ですね。それをすんなりと相続できた子供は、よかったね、ということになるわけです。あらゆる意味で、オギャーと生まれた時点で、かなりの社会的格差が付いてしまっている。大多数の赤ん坊は、生まれた瞬間に大変なハンデを負っており、ごく一握りの赤ん坊だけが恵まれた生まれ方をしている、という構造はやっぱり個人一人ひとりが大切だという考え方からすればおかしいですね。
 リシュカの「社会的遺産」という考えは、資本的・資金的な意味ですが、人は生まれた瞬間に平等に一生涯生活していけるだけの「生涯生活必要ファンド」を保証されるべきだ、という主張です。つまり人生の出発点で、人間はどんな人間であろうと平等でなければならない。それを元手として使ってどう生きるか、ファンドをどのように増やそうが減らそうがそれは自由だというわけです。「自由・平等・友愛」という理念は、そこまで徹底してはじめて成立するというわけです。そしてまた、万人にそうしたファンドが保証されるなら、障害者や社会的弱者であっても、自律的に自己の経済生活を営み得ることになります。従って、国家や自治体の提供する社会保障システムや福祉制度に依存する必要はなくなり、すべてのサービスを市場で購入することも可能になります。こうして初めて、人類は国家・政府という形態を乗り越えていけるのだと、リシュカは主張しています。
 リシュカは触れていませんが、同じ論理から女性の完全な自律・自立も可能になります。出産と育児を抱える女性も、その間、男性の庇護や福祉制度の世話になる必要がなくなり、自己のファンドで子供に手が掛からなくなるまで、何年であろうと自活的に生活できるようになるでしょう。そうなれば、従来の家族制度それ自体が大きく変貌を遂げていくはずです。出産・育児期間の生活を保障するため、また財産の継承のための家族制度は必要がなくなり、女性も男性もはるかに自由な関係を取り結んでいくことになるのではないでしょうか。私はそれを「多夫多婦制社会」と呼んでいますが、固定的・束縛的でない自由な男女のあり方を展望する考え方です。

<多重輻輳的所有>
 次にリシュカの所有論を見ておきましょう。「すべての社会的資産の所有の社会化」と書いてありますが、「所有の社会化」というとすぐに国有化や協同組合所有等をお考えになると思いますが、ここで言う所有の社会化というのは、全く違うものです。つまり、土地・建物にしても、工場設備もレストランも商店でも、それがそこにあるということを何らかの機関に登記して、管理しているというだけのことです。登記された物件は直ちに、どのような人々に対しても利用可能な方法で社会に提供され、社会全体にとって最も効果的に活用されなければならない。「オークションによる占有的利用権者への経営譲渡」と書いていますが、社会的資産、工場設備、生産設備等々を一番うまく社会のために活用し、そこから社会のために利益を引き出す人の手に常にオープンにされていなければならない、というわけです。
 これとやや意味合い的に似ていますのは、アメリカで極めて盛んに行われている「M&A」(企業の吸収・合併)というものです。M&Aは、ある面では出来上がっている安定的構造を破壊する、あるいは会社をバラバラに切り売りしてその利益を独占する等の、社会的に見た場合、極めて否定的な意味合いで受け取られることが多いですね。当然ながら、それによって大量の人員が解雇されることも起こる、だから社会的にマイナスであるという評価が、特に日本では強いと思われますけれど、別の角度から見ますと、どのような社会的資産であれ(M&Aの場合は会社という資産)、その所有・経営権が誰にでも開かれている、所有権へのアクセスが社会的に開かれているということです。アメリカでは、「レバレッジド・バイアウト」等の資本入手・利用形態が非常に発達していますので資本力すら不要で、自分自身の信用のみによって、M&Aをやるからと言って巨額の投資を引き出すことができます。つまり、社会的資産の「所有の社会化」の方向に向かっての、カリカチュア的ミニチュアモデルとでも名付けるべきものが、アメリカのM&Aであると私は考えております。
 所有することには必ず、他者からの不当な干渉・介入を排除する「排他性」が付きまといます。個人の自由とは、所有が排他的であるからこそ担保されるのです。けれども、その排他性が絶対的性格を持つ社会では、所有は絶対的な「神聖にして不可侵の権利」となり、所有対象をどのように扱っても所有者の完全な自由に委ねられることになります。言い換えれば、社会的に利用価値の高い土地等であっても、何も利用せずにペンペン草が生えるにまかせても、それに対して社会は何も言うことができないという事態も日常的に起こるということです。従って、社会的資産の利用・活用のためには、所有の排他性はある程度「相対的」なものである方が望ましいのです。よく「所有から利用へ」と叫ばれる由縁も、こうした文脈から了解できましょう。こうした「アクセスの自由を通じた所有の社会化」は、所有の排他性の絶対的性格を弱めることで、どのような資産であれ社会的に最も効果的に活用していくための前提を提供します。
 以上のような所有形態を、私は「多重輻輳的所有」と呼んでおります。所有の原権限者は社会的に登記・管理されているという意味で「社会」にありますが、社会的資産の利用・運用・活用・経営は、それを委ねられた個人あるいは何らかのグループに全面的に属することになります。この考えは、リシュカを知る以前から、私も同様に構想していましたが、それは石母田正という著名な歴史学者の『中世的世界の形成』からヒントを得たものです。貴族や大寺社等の古代的権力者たちの荘園所有から、中世武士たちへと所有権が移行していくプロセスを丹念に描き出した書物ですが、その過程では同じ土地に対して貴族・寺社と武士たちとの同時的・多面的で入り組んだ所有構造が現出していたことが明らかにされています。
 時代が大きく変動していく転換期には、いつの時代にも同様の所有権の変化過程が現われてきます。それまでの所有者が不在化し、名目化していくと同時に、実際に現場を支配する新たな占有者・利用者たちが彼らに代わって所有権を握っていく過程で、そうした所有の同時多重化が生じるのです。現代においても、資本制法人企業の所有構造は、所有と経営の分離を引き起こし、株主の所有・支配から経営者支配へ、さらに現場を支配する労働者たちへと移っていくことは必然です。その果てに、社会が原権限を持ち人々個人がそれを占有的に利用する、新たな形態での「多重輻輳的所有」へと移行していくという展望を私は持っています。
リシュカが主張し、また私も同様に構想する上の二つのシステムが、今後どのような形で具体化し現実化していくか、私もよくわかりませんけれど、世界全体を眺めて見ますと、着実に世界がその方向に進んでいるということはまず確実に言えるところなわけです。

<個体的所有の再建>
 私もリシュカとほとんど同じことを考えていたのですが、それが何処から出てきたかを、今少しご説明しましょう。学部時代から考え続けていたことですが、マルクスの『資本論』の中に、かの有名な「否定の否定」という有名な規定がございます。そこに「個体的所有の再建」と書いてあるわけです。どういうわけか、これに注目したのは日本人だけでした。世界のマルクス主義学者で注目した人はほとんどいなくて、日本の学界だけで問題になったわけです。平田清明さんらのいわゆる市民主義派の人々が、伝統的な共産党系の考えと根本的に対立する全く違う理解を提出しました。私は学部時代から、おかしな記述だと思ってはいましたが、当時は私も「所有の社会化」と言えば「国有化」と鸚鵡返しに信じていましたし、それが社会主義・共産主義であるはずなのに、「個体的所有」という言葉が何故出てくるのかと不思議に思って、当時から調べておりました。大阪市大の大学院に入ったのはずっと後なんですが、その頃、平田清明さんのお弟子さんにあたる山田鋭夫さん(今は名古屋大学)が、当時大阪市大におられましたので早速に聞いてみたのですが、よくわからないということでした。結局のところ、日本で二手に分かれて、喧喧諤諤の議論が行われたのですが、平田グループは「社会的にして同時に個人的所有」という魑魅魍魎のような概念を提出しただけでしたし、共産党の方は皆さんご存知のように「消費財は個人的所有で生産財は社会的所有」という陳腐な概念しか言っていません。平田グループは、実はかなりいい線を行っていたのですが、「社会的・個人的所有」の具体像が先述の「多重輻輳的所有」にあることを理解できなかったのです。
 私は、「個体的所有の再建」と言うからには、共産主義とは実は極めて個人主義的な方向を追究するものではないのか、と当時からチラチラと感じていたわけです。そうした方向がもし共産主義ならば、考えられる共産主義とは一体どういうものかと考え続ける中で、リシュカの「社会的遺産」あるいは「社会的資産と所有の社会化」という全く異なる解釈と出会い、「多重輻輳的所有」という自分の考えの正しさに確信を持ちました。けれども、そうした考えがすでに60年代から提唱されていたと知った時は、ちょっとショックでしたね。私よりもずっと先に、同じことを考えていた人がいたのですから。
 「自由な生産者・諸個人の連合」とか「諸個人の全面的解放」、「自発的計画に基づく生産の調整」等々の、マルクスが打ち出したそれらの概念に関して、田畑さんが明らかにされたように、その考え方の根本に徹底した個人性への志向があったとするならば、私の唱えております「万人起業家社会論」こそは、今後我々が追求すべき共産主義の一つの方向性なのではなかろうか、と考えております。
 私は学部4年の頃には「反マルクス」の立場になりまして、父とも話が全く合わなかったのですが、最近は論文等でも「私は共産主義者である」と名乗るようになっております。ただその意味合いは、従来理解されてきた共産主義とは正反対、180度違ったものではありますが。

<科学の大転換−「内部観測」とは何か>
 時間が余りありませんので、大きな4点目の「科学の大転換」に入っていきます。「内部観測」と書いておりますが、これは現在の複雑系科学の最先端と言いますか、縁(へり)と言いますか、そういうところにいる人々の主張です。どういうわけか「万人起業家社会論」の主張が、そうした新しい科学の理論的基礎・考え方と極めて整合的で親和的であると考えられたようで、京都を離れて寒い函館まで「都落ち」をすることになったわけです。
 「内部観測とは何か」からお話をさせていただきます。先ほど、デカルト以降の近代ヨーロッパの科学はキリスト教と平和共存してきた極めて中途半端な「弱い科学主義」であったという話をいたしましたが、実は近代西欧科学の根本には、科学が自ら徹底的に否定してきたはずの「神秘」ということが介在しております。どういうことかと言いますと、宇宙はビッグ・バンによって始まったと言いますが、それは何故かということは問うてはならないわけです。当然のことながら、それは神によって起こったのであろう、と唱える人々がいても全然おかしくないわけです。つまり宇宙の始まりという点からして、科学と宗教とは仲良く世界を二分してきたわけで、「神の一撃」を否定も肯定もできません。あるいは、ビッグ・バンの後に星が生まれ、太陽系が形成され、惑星の上に生命が誕生するわけですが、イノチなき世界から突然にイノチが生まれてくる。イノチなき世界からイノチが何故生まれてくるのか、これまた科学は問わないわけです。ある科学者は「神秘的な神の一撃があったと考えるしかない」と言い、「スーパー・システム」や「サムシング・グレイト」などの表現をしていますが、それこそ神秘そのものですね。
 あるいは、そのイノチが進化していった結果として、ヒトが生まれ、どういうわけかヒトにだけ「意識・ココロ」が宿る。猿や犬に意識があるかどうか、科学の世界では一生懸命検証しておりますが、取りあえず今のところは意識はヒトだけにしか存在しない、という考え方が圧倒的に主流です。ならば、意識なきものから何故に意識(ココロ)が生まれるのか、これまた全くの神秘であって、そこにも「神の一撃」があったとしか言いようがない。そのように、現行の欧米科学というものは、説明体系そのものからしても神秘と共存しているわけです。
 「内部観測」はそうではありません。「神の一撃」を必要としません。どういうことかと言いますと、「モノとココロ」を近代西欧科学が分けたようには分けないのです。つまり、「内部観測」の考え方に立ちますと、数千年に渡って続いてきた「唯物論対観念論」の対立の構造そのものが全くの無意味だ、ということになる。唯物論であれ観念論であれ、どちらも無根拠で言っていたことになります。もちろん、そうは言ってもビッグ・バンそのものは説明できません。これは、未来永劫残る宇宙の謎・世界の謎です。けれども「内部観測」によれば、ビッグ・バン(私はそれが本当にあったのか疑っていますが)以降、物質ができる〜星ができる〜イノチが生まれる〜イノチがココロを持つという一連のプロセスを、全く矛盾無しに連続的かつ一元的に説明・解釈することが可能になります。従来そうでなかったというのは、ただ単に近代西欧科学の成立当時に支配的であったローマ教会から攻撃されないように、科学者たちが「モノ」世界に立てこもり、「ココロ」世界を支配するキリスト教を温存しただけの結果です。しかし、今日の物質と意識、モノとココロを分ける考え方が成立した結果、私たちの頭は、モノとココロとは原理的にも全く異なる世界であるとの考えに縛りつけられてしまいました。
 そのクビキが無くなれば、二つを分ける必要は全くないわけです。モノの自発的な作用として(自発的と言った時すでに意識作用と同義ですが)、モノ自体の自律的なプロセスとしてイノチが生まれてくるという様相を、自然に関する新たな説明原理として取り入れていくことが可能になります。すでに実験的検証も多数行われていますが、一番進んでいるのは日本です。松野孝一郎さん(長岡技術科学大学;生物物理学)、郡司幸夫さん(神戸大学;理論生命科学)、角田秀一郎さん(奈良女子大学;数学)等々といった方々が「内部観測」の提唱者です。松野さんは、単なる物質プロセスからイノチの源が生まれてくることを実験的に明らかにし、その論文は2000年2月に「サイエンス」という権威ある科学雑誌に掲載されました。

<法則なき世界>
 そういう考えに立ちますと、物質の進化過程から生命の進化過程に至るまで、すんなりと連続的に捉えることができます。従来の考え方によりますと、神のごとき「法則」が世界を支配しており、物質はその法則に縛られ導かれて何らかの運動をしているだけだと捉えてきました。これも逆に見ることが可能になります。「法則」のように我々に見えている事態とは、物質それ自体が運動の結果として生み出している、こう見たって不思議ではないし、整然としている。
 力学の法則にしても重力の法則にしても、法則という名前が付いていますが、それを成り立たせているのは、すべてそれを構成している物質の自発的相互作用の結果であると、これからは考えなければならないわけです。このように考えていきますと、進化のプロセスに関して、物質であれ生命であれ、物質自身が進化していくプロセスとして描き出すことが可能です。そうなればどうなるか。法則などどこにも存在しないわけで、そこにあるのは、物質が常に新しい現象を創りだしているという様相です。つまり、世界は法則によって絶対的に支配される静態的で変化のない世界ではなくて、常に運動が起こり絶えざる変化・発展・進化を遂げていく「歴史過程」だということです。宇宙も進化しているとするならば、宇宙において同じことは二度と起こらないのです。同じことが二度と起こらない、そういうプロセスを進化というわけです。つまり、「内部観測」の考え方は、徹底的に動態的でダイナミックな考え方であって、従来の静態的で法則決定論的な考え方を徹底的に根本から覆していこうとしているわけです。
 今後の学問なり科学がどうなっていくかと言いますと、従来は、未知の自然の中に「法則性」や「規則性」を見出すことが科学・学問の役割とされてきました。しかし、絶えず変動しつつ常に個別一回限りの現象として起こってくるこの宇宙世界においては、絶えざる創発を起こしているプロセスに即して記述していく、つまり歴史記述と同じ方法を用いなければならないということになります。私は「内部観測」と巡り会うずっと以前から、経済・社会現象に「法則」など存在しないのだ、と言い続けてきました。以前は、そういう主張をしますと「あいつはおかしい」などと言われてきましたが、私はゴリゴリの科学主義者でして、近代西欧科学のように宗教と平和共存する不徹底な「弱い科学主義」でなく、宗教を根元的に超えていく方向を目指す「強い科学主義」だと言っています。私から見れば、宗教的な現象の解明に手も足も出ない・出せない科学こそ、神秘を容認するオカルトと言うに近いものです。
 そう思っていたところ、科学の世界の最前線で、同じように考える人々がいたことは嬉しいことでした。それから、社会科学の世界でも同じ主張をする方も現れました。吉田民人さんという方で、東大文学部におられた社会学の研究者です。東大の文学部長や日本社会学会の会長も長く務められ、現在は日本学術会議の副会長をしておられます。私から見れば雲の上の人ですが、どういうわけか同じ学会に所属して、ここ10年くらい、私が学会で何か報告をする度に励まして下さいます。なぜ励まされたかと言いますと、吉田さんも同じようなことを考えておられたからです。7年ほど前にミネルヴァ書房から本を出されて、その中で社会・経済現象には法則性などないという考えを打ち出されました。今、学術会議の中で、吉田先生が提出された「社会や経済には法則は無い、取りあえず社会や経済はプログラムに従って動くけれど、そのプログラム自身がどんどん変化する、そういう新しい学問のあり方を開拓しなければならない」との主張が、「フロンティア研究」として取り上げられ予算もついて進められています。ただ、吉田先生は物質は法則に従うと言われていますので、その点は承服できません。つい最近も学会がありまして、吉田先生とかなり議論をしたところです。

<科学革命を目指して>
 理科系の分野で複雑系科学が登場して20年近く経ちますが、今では複雑系科学そのものの中にこれまでの複雑系の見方が実は錯覚だったのではないか、という認識が広がりつつあります。つい先日、ある科学者と話をしていまして、「複雑系科学も、もうそろそろ終わりだ」「これからは不定形の科学あるいは主観性の科学だ」等々と言い始める人々が増えているという話になりました。要するに、従来の決定論的科学はすべからく「客観性」「再現可能性」「記述可能性」に立脚して、それを科学性の根拠としてきましたし、それ故に未来を予測することも可能だと言ってきましたが、不断に進化する世界にあっては、再現性を確保できず、客観的に観測もできず、法則的記述も不可能である以上、未来を確定的に予測することもできません。そうした不確定な絶えず変動する世界で、如何なる科学が可能かを真剣に考えなければならなくなりつつあるのです。モノ自体の自発性や自立的創発作用を前提するならば、モノに備わる意思とは何であるか、モノの自発的運動の目的とは何かと問い直さねばなりません。科学の世界に「目的」や「主観」を持ち込むことは、絶対的タブーとして厳格に排除されてきました。まさしく、「科学の大革命」が起こりつつあるのです。
 繰り返しになりますが、従来の科学が宗教と平和共存し、司祭や僧侶が「神仏」について独善的で排他的な解釈を振りまくことを容認してきたのに対し、「神仏」とは一体如何なることがらか?に関しても、これからの科学は真正面から取り上げ、本格的な検証を加えていくべきでしょう。
 私は、「万人起業家社会論」を学生に説明する時に、これは要するに、皆一人ひとりが「カミ」なんだよという思想だと説明しております。一人ひとりが「カミ」であり、私もあなたも「カミ」なのだと心底思えることができた時、その時初めて人類は差別や戦争から訣別することが出来るだろうと。結局、宗教とは、カミとヒトとの間に絶対的な区別・差別を設けたことによって、人類社会に差別構造を作り出し、それをベースに自分の信じていることだけが正しいと信じ込むことで他の宗教と敵対し、人類初めての戦争を引き起こしたに違いない。ですから、「万人起業家社会論」とは、そこまで見据えた上で宗教を根元的に乗り越えていく方向を目指す思想であり、また人々が「すべてのヒトがカミである」と思えるようにリードしていく思想、そのための社会的・経済的条件を世界大で創造していく思想、それが「万人起業家社会論」だということなんです。そして、社会科学の中にも、そして理科系の科学・学問の世界の中にも、同様の考え方に立つ人々の登場という形で、今、大きく展開しようとしているということでございます。
 まだまだ、お話ししたいことは山のようにあるのですが、質問にお答えする形で進めるということで、ここでいったん閉めさせて頂きます。ご静聴、有難うございました。(了) 

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