アサート 304号(2003年3月22日)

【投稿】 小泉構造改革の経済学批判
     
--竹中平蔵「あしたの経済学」を読んで--
                         
井本 実
<はじめに>
 「構造改革」という旗を掲げて颯爽と登場し、多くの国民からも期待を持って迎えられた小泉内閣も2年間の歳月の中で、すっかりメッキが剥げ落ち、結局、「無為無策」内閣として批判を浴びつつある。
 しかし、その政策のバックボーンである経済学についてはまだ十分批判されていない。ここでは最近発表された竹中経済財政担当大臣の『あしたの経済学』を中心にいくつかの論点を整理しておきたい。
 (注)「」は『あしたの経済学』からの引用である。

<なぜ構造改革が必要なのか>
 本書は「今の日本の経済はよくない。・・・なぜ今日の日本の経済はこれほどまで暗くなってしまったのでしょうか」で始まっている。これについては構造改革との関連ですぐにでも答えが聞きたいのだが、「日本人の生活水準が100年間に30倍になった」とか「日本経済は80年代からすでに弱体化しはじめていた」という長期で、一般的な説明があるばかりである。
 いいたいのは「企業であっても国であっても・・・無駄なことばかりやっていて」国際的な競争力が弱まり、90年代に世界で起きた新しい変化である「グローバリゼーション」と「TT(情報技術)革命」に対応出来なかったというところであろう。
 したがって、今後については「無駄をなくして効率的なシステムをつくり生産性を高めること、生産性の高いところに資源(資本や人材など)を集まりやすくすること、そして、結果的に日本全体の競争力を高めることが重要です。」そうすることによって「2%の成長ができる」というものである。
 ここで、小泉構造改革のバックボーンがサッチャー、レーガン流の『供給サイドの経済学』にあることは察せられるが、詳しく述べられている「稼ぐ力(供給)」と「使う力(需要)」のどちらが大切かという論理とはだいぶ違うはずである。
 経済学の基礎からいえば、供給と需要は裏腹の関係であり、形の上では一致しているが、生産力の発達した資本主義の下では供給が先行しやすく(バブルが発生しやすく)、最終需要との間に大きなギャップを起こす傾向にある(供給と需要の矛盾)。そしてそれが時々、突然、爆発的な崩壊をひきおこす。これが恐慌であり、90年末に日本でおこったバブル崩壊はまさにそれだった。しかもその崩壊の規模が太平洋戦争をはるかに上回るものだったところに深刻さがある。
 したがって、供給力(稼ぐ力)が不足だったからではなく、過剰すぎたので大きなバブル崩壊となったのであった。その処理には本格的な構造改革が必要であったが、体制の危機にまで発展しかねないということで先延ばしされ、10年たった今でも処理が終わっていないところが根本問題である。
 このような体制的な危機に対しては、従来は国家の金融・財政出動によって有効需要をつくりだそうというのが『ケインズ政策』であったが、供給面から思い切った手術をしようというのが『供給サイドの経済学』である。小泉構造改革が後者の立場であるとすれば、これには大量の出血の覚悟が必要で、結局は強いものが勝ち残るという厳しい世界となるはずのものである。
 それらの問題を一切ふせたままで、「無駄をなくしましょう」「2%の成長を目指しましょう」といわれても、なぜ今構造改革なのか、何を構造改革しようとしているのか、構造改革には何を覚悟しなければならないのかがまったくわからない。

<先送りされる不良債権処理>
掛け声だけで明確なビジョンを示せない構造改革であるが、その試金石として最初からあったのは不良債権の問題であった。
この点については「本当の実力を出せないようにしている無駄の1つが不良債権です。不良債権とはなにかといえば国民の大事なお金が「稼げない産業や企業」(つまり生産性の低いところ)に貸し出されていて・・・塩漬けになっているものです。・・・これでは経済はいつまでたってもよくなりません。さらにもう1つ、金融部門が不良債権を抱えていると、それに対して企業や個人が不安感を抱いてしまい、それが心理面から投資や消費を」きわめて薄く押さえ込んでしまうという面もあります。」
ということで、自己資本査定の厳格化、公的資金の注入策の検討、ペイオフ制度の導入、金融機関の合併や増資による経営力強化の指導などの様々な手段が講じられたが、肝心の大手過剰債務・業績不振企業に手がつけられないこと、景気の悪化・株式市場の低迷で新たな不良債権が浮かび上がり不良債権がなかなか減らないという問題を抱えたままになっている。
そうした中で、昨年10月「金融再生プログラム」が発表され、貸し出しに対する不良債権の比率を現在の8.1%から2年半で4%程度にしようとの方針が出された。
しかし、根本問題に手をつけず、目標指導や査定の厳格化、経営責任追及の脅しなどの政策を続けている限り、金融機関としてはますます自己保全と形式上の取り繕いに走らざるを得ず、産業の育成などには目を向ける余裕がなくなってしまう。それらの結果、日銀がいくら資金緩和しても、産業界に資金が回らず、経済全体の活気が失われることになっているのである。

<甘いデフレの認識>
 今、最も問題となっているデフレについては「単に物価が下がるという意味だけではなく、物価が下がることと経済が悪化することとが一体になっている状態」を区別すべきだとした上で、現状は厳しいが後者ではないとしている。
 一般的にみると、別のところで記述されているように、「(需要の不足によって)モノの値段が下がることによって、企業の利潤が減り、さらに従業員の賃金が下がり、消費が悪化してモノが売れなくなって価格がさらに下がり、ますます企業の利潤が減る」という現象がおこっていると思うのだが、それらが短期的、劇的にはおこっていないという理由で、楽観視されているものと思われる。
 もちろん「短期的にデフレスパイラルのリスクがある場合には、柔軟かつ大胆にお金を使う方針を政府は一貫して示しています」と述べている。これはこれで重要な決意だと思われるが、現在の経済の実態に対しては、せいぜい日銀による金融緩和以外には結局何もしないとも聞こえる。

<構造改革としては何も出来ない>
 以上のような根本問題を棚上げにしておいて、構造改革としては何をするのかということになるが、正直をいうと経済全体に対しては何も出来ないというのが本音ではないだろうか。それどころか、むしろ、政府自体の財布のほうが気にかかるということであろう。
 「いまに相当な金額の借金がある中で、今年の景気をよくするために財政の資金を使う(公共投資や減税など)ならさらに借金をしなくてはなりません。・・・しかし、その借金を返す時にはどうするのでしょうか。・・・今借金をしてお金を使ったら、いつか誰かが払わなくてはならなくなります。それを視野に入れて、節操のない無限の借金はやめようという小泉内閣の路線です。」
 ということで、「歳出を抑え、役10年間でプライマリーバランスを回復させる」橋や道路などの公共投資はお金がかかるし、効果もわからないから抑制する、年金もパンク状態なので出来るだけ積み立て方式にして高齢者の負担を重くする、地方交付金を削減する、など、公共・福祉政策は極力切り捨てるということである。
 これは行政の構造改革ではあっても、経済全体に対しては計り知れないマイナスとなる。これは金融機関や企業が縮小均衡に走り、自己保全しているのと同じ行動であり、結果としては経済全体の活力を奪っていくことになる。

<求められる「真の構造改革」>
 以上見てきたように、小泉構造改革の中味は薄っぺらであり、経済全体に対しては何も問題は深刻であり、真の意味での構造改革が求められている。
 野党や知識人も含めて、日本経済にとっての真の構造改革とは何で、何を具体的にどのようにする必要があるのかを明確にすることが緊急に求められているといえよう。(了)

 

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