アサート No.311(2003年10月25日)

【追悼】 全さんのこと    by 大木 透

最近、全さんにお会いする機会はありませんでしたが、昔は頻繁にお会いした。それは、少々形式張った会合の席であったり、下打ち合わせのような気楽な話し合いの場であった。一緒にめしやへも行った。
しかし、今、それらの場面を思い出してみて、これといってドラマティックな事柄が思い出せない。あれほどよく知っていて、その人柄に敬服していたのに、これは不思議なことである。つまり、それこそが全さんという人物の特質だったのだと思う。常に淡々としていて、どんな人にもおもねることなく、誰を蔑むこともない態度、その安定感というか透明性というか、そんな流れにこちらも包まれていて、興奮することもなく、緊迫した関係になることもなかった。
全さんのことを悪く言う人はおそらくひとりもいないと思う。全さんがいると頭でっかちの遣りようにブレーキがかかり、安心感を与えた。「ビラを撒こう」が口癖だった。「ビラはお前が書け、俺は撒きにいく」と言われたこともある。
全さんがその生涯をかけて希求してやまなかった、「普通の人の普通の幸せ」がますます失われていく。
全さんはとても安らかに眠ることなどできないであろうが、それはそれで全さんらしいことだと思う。(大木)

関連文書: 【追悼】 労働運動に生涯を貫いた人 by 巣張秀夫
                               (アサートNo.312)

(原全五さんは今年7月に永眠された。彼の著書『種子島から来た男--一旋盤職工の手記--』(1992年ウニタ書舗)の後書によると、「1912年種子島に生まれ、18歳から大阪で旋盤工に。1932年大阪砲兵工廠に入り、全協金属に加盟、同時期共産党入党。1933年検挙--起訴猶予、1934年多数派に参加。1935年検挙、1937年起訴猶予。1937年春日庄次郎らと共産主義者団結成、1938年検挙、1945年出獄。1946年共産党南大阪地区委員長、同府委員、1948年産別金属書記、1950年党分裂で国際派に所属、1958年共産党第7回大会で中央委員候補、1961年綱領論争で少数派となり離党。その後社会主義革新運動、労働者党、新・民主主義連合に所属」とある。70年代80年代にはいろいろな会合でお目にかかったことがあります。まさに大正・昭和・平成と人生を革新運動にささげた方であり、労働運動の大先輩でもあります。原さんを偲んで、来月号にも投稿を掲載する予定です。佐野秀夫)

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