ASSERT 329号(2005年4月23日発行)

【投稿】 空襲の総括のために   吉村 励
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【投稿】 空襲の総括のために   吉村 励

    (参考図表 表1 、表1(簡略版)から表9<PDF51k> )

 敗戦後アメリカから輸入された映画に「心の旅路」という名画があった。記憶喪失者が周囲のあたたかい配慮と愛情によって、失われた記憶をとりもどしてゆくというストーリーであったが、若い青年であった当時の私は強い感動を受けた。記憶喪失者の存在を知ったのも初めてであった。最近は、テレビにもたびたび記憶喪失者が登場するようになり、珍しさはなくなったが、それでも私は、そのたびごとに「心の旅路」から受けた新鮮な感動を重ねあわせる。そしてその私の感動は、記憶喪失者が、過去の記憶をとりもどしてゆく過程は、実は主人公が「人間をとりもどしてゆく過程」そのものであることに由来する。記憶喪失は人間喪失であり、記憶恢復は人間恢復であったのだ。しかし、これは、私達人間がまず生物(生理的・生物学的存在)であり、ついで社会的存在であることに起因する。そして私達が「社会的存在」であることは、私達が社会における「関係の総体」であることを意味する。家族関係(血縁関係)・住居をめぐる近隣関係、友人関係、教育関係、職場関係や雇用関係を抜きにして、私達は自分を認識することはできない。そして、生まれてこの方のこれらの関係の変遷と歴史が、私達を形成しているのである。私達が、なんらかの行動をおこす前に、決断を下す材料は、私達の過去=歴史から引き出される。したがって、私達は社会的存在であることは歴史的存在であり、歴史を抜きにして私達は「無」なのである。もっというならば「心の旅路」の主人公と同じく記憶喪失者なのである。加藤周一氏は『朝日新聞』の05年2月22日の夕刊「夕陽妄語」で「年月が経つとわれわれの記憶の中で過去の出来事は次第にその姿をかえてゆく。---中略---もしも今の意味を持つ出来事をなお思い出さないとすれば、それは記憶喪失症---しばしば集団的なそれ----であろう」とのべている。私が本誌『アサート』の326号で、「1894年から1945年まで日本がかかわった戦争」の戦死傷者の数を追跡し、戦場となった太平洋地域の人的被害を検討したのも、また『アサート』327号で、日本が拉致したと推定される朝鮮人労務者72万4千人、中国人労務者3万8千人、泰緬鉄道建設のために拉致したと推量される英領マラヤ人、ジャワ人、中国人(タイ)、インドネシア人、ビルマ人計18万2千人を指摘したのも「集団的記憶喪失症」にたいする対症療法を企図したことにほかならない。
 私が『アサート』326号を送るさいに、かつての同僚柴田悦子さんに、私信で、ある女子高生が、真珠湾はどこにあるかという問いに対して「三重県にある」という迷答をしたという新聞記事に言及したところ、柴田さんから私達の共通の友人笹川儀三郎氏(故人)が某私立短大の臨時講師として太平洋戦争に言及し、戦った相手はアメリカであるとのべたところ、異口同音に「ウッソー」という返事が返ってきて絶句したと言われたことを紹介された。「集団的記憶喪失症」はここまで来たのである。そして、その理由の一端は、私達が21世紀にはいるに際して、参戦諸国、被占領諸国の国際会議を開催し、相互に資料をつきあわして、戦争被害の総決算をおこなうという20世紀の終幕の儀式を遂行しえなかった(あるいは、政府に圧力をかけてその作業を行うことを強制しえなかった)ことによるものであろう。それは、教育にたずさわった私達の全部の責任でもあろう。「教え子を再び戦場におくるな」というスローガンのもとで、教育にたずさわった私達の努力は、どこで空転したのであろうか。
 まえおきが長すぎたようである。本稿の目的はわが国の空襲被害の解明である。太平洋戦争の日本の死者は軍人・軍属240万人、民間人50万人というのがほぼ定説となっている。この民間人50万人の死者といえば、まず最初に思いうかぶのが空襲である。表1「全国の空襲被害」は、空襲被害を都道府県毎に、被害都市町村、空襲回数、死者数、損失家屋数、主要空襲年月日の項目毎に表示したものである。読者の皆さんは、まず全国で408都市町村が被害を受けていることに軽いショックを感じられたことと思う。まとめている私自身がそうであった。親戚・友人・知人の住んでいる町や村が、空襲被害地であることを知った時、私達は、空襲といえば、まず原爆被害都市広島・長崎を思い、大空襲を受けた東京、横浜、大阪、名古屋、神戸、福岡、北九州等を思いうかべ、あとは無関心でいた自分を恥ずかしく思う。まず周囲に焼夷弾をおとし、退路をふさいでおいてから、爆弾・焼夷弾を投下するという大量虐殺方式による火焔と焦熱の地獄の中で落命した大都市の多くの犠牲者を私達は忘れてはならないが、同時に全国的には著名ではない、ときには山村僻地といわれる町や村で、空襲のためにひっそりと命をおとした方々の一人ひとりの「いのち」を大切に思い、その冥福を祈るという鎮魂の願いが、408都市町村名にこめられている。その意味で、表1「全国の空襲被害」は、忘れられていた「いのち」にたいして、敗戦60年を機会に、私達が心の中にたてる透明な墓標ともいえるであろう。
 表1が示すもう一つのことは、戦争時に、日本全土が、すみずみまで、アメリカ空軍の支配下にあったということである。最初、私が依拠して分析を始めた「全国主要都市の空襲被害」(週刊朝日百科「日本の歴史」122頁「敗戦と原爆投下」)では、秋田県、石川県、奈良県、鳥取県、佐賀県の5県が、空襲被害ゼロとなっていた。しかし、本表が依拠した早乙女勝元著『東京大空襲』(河出書房新社、2003年)も、後出の表5でも、これら5県があきらかに他府県と比べると軽微であるが空襲被害を受けていることを示している。重ねて、戦時下において、日本全国がアメリカ空軍の支配下にあったということを強調するゆえんである。
 なお表1で、もう一つ注意していただきたいことは、死者が小数で、家屋消失を伴わない空襲は、殆んどが戦闘機による機銃掃射によるものであるということである。本来空襲といえば、(1)爆撃機による爆弾投下、(2)爆撃機からの爆弾・焼夷弾の投下(いわゆる混投といわれるもの.日本の都市爆撃の主流は、主としてこの混投であった).(3)爆撃機による焼夷弾の投下.(4)戦爆混合部隊による爆撃機からの爆撃と戦闘機の機銃掃射とを組み合わせたもの.(5)戦闘機だけの機銃掃射(単機からの編隊によるもの)<後に主力を形成したP51戦闘機はP51AからP51B、P51Dと改装されることで、225キロの爆弾2個の積載可能となり、爆撃もおこなうようになった>に分けられる。日本の空襲は、最初の(3)の爆撃機による混投が主流であったが、1945年の5月後半からは、(4)の戦爆混合型、(5)の戦闘機だけの機銃掃射(その最大のものは戦闘機2,000機の大編隊の空襲<1945年7月30日>ついで1,200機の大編隊の空襲<1945年7月10日>)で、6月後半から7月にかけて登場する(参照 後出表8「アメリカ空軍の出撃・爆撃状況」ならびに註参照のこと)。したがって、表1で、機銃掃射による空襲回数は1になっているが、戦闘機がたまたま被害を与えた空襲が1回という意味で、毎日頭上を戦闘機が飛来していたことを否定するものではない。この空襲回数1を、始めて飛行機が飛来して被害を与えたと誤解しないでほしい。連日戦闘機は頭上に飛来しており、たまたま、ある日に機銃掃射を行ったにすぎない。この点で、爆撃機による空襲回数と戦闘機(艦載機)による空襲回数の意味は異なるのである。
 なお、もう一つ、つけ加えておきたいことは、戦争被害をとりあつかいながら、痛感した人間の「いのち」の軽さである。統計表ごとに、数字はちがい、いずれの統計を採用するか迷うことは、いつものことである。戦争という異常な状態下で、戦争被害をとりあげる場合の宿命といえる。たとえば戦死するか空襲で死亡した人間の知人・友人が全員死亡するか、行方不明になった場合、その死亡者はおそらくゼロとして扱われるであろう。しかし、戦争関連の調査の困難さとは、私は、まず第一に「戦争の最初の犠牲者は真実である」ということに起因するように思われる。戦争遂行が至上目的となり、有利な情報は拡大され、不利な情報は縮小され、かくされる。人間の「いのち」は単なる消耗品としてとりあつかわれ、時には馬よりも軽んじられた。「大本営発表」がうそのかたまりであったことは周知の事実である。しかも、戦後の調査は、関係者が年とともに減少することによって困難さをます。そのような困難な情況のもとで、私達が利用できる統計を残してくれた先人達、またそのような条件のもとで、『東京大空襲』(岩波新書)(1971年)と『大阪大空襲』(東方出版)(1985年)の東西二つの金字塔をうちたてた早乙女勝元氏、小山仁示氏にあらためて深い敬意を表するものである。
 私はすこし脱線しすぎたようである。再び表1にもどって、表1の最大の欠陥は、市町村毎の死亡者数は記載したが、市町村毎の負傷者・行方不明者数は空白のままに残されたということである。註で指摘したように、府県毎の数字のみを記入した。府県別毎の負傷者は、表4にも記述されており、負傷者の府県別統計がある以上、市町村毎の負傷者の統計はある筈である。私が見つけだせなかっただけである。だれか有志の方が、この空白を埋めて下さることを期待している。
 ところで、表1で、私達は、北は北海道の襟裳岬の東西の入口、広尾や様似や流氷の街網走から、南は鑑真上陸の地といわれる鹿児島の坊津や俊寛で名高い喜界島(鬼界ヶ島)の喜界町まで、きっちり空襲されていることを知ったのであるが、表2では、個々の具体的な町や村をはなれて、府県毎の空襲の被害に直面する。表2は、空襲による死者が100人以下の県が、秋田、山形、長野、石川、滋賀、奈良、鳥取、島根の8県、100〜500人までの県が、埼玉、京都、佐賀の3県、500〜1000人までの県が、岩手、福島、栃木、愛媛、高知、熊本、大分、宮崎の8県、1000〜5000人までの県が、北海道、青森、宮城、群馬、茨城、千葉、新潟、福井、富山、岐阜、和歌山、岡山、香川、徳島、山口、鹿児島の16県、5000〜10,000人までの県は三重、神奈川、静岡、福岡の4県、10,000以上の県は東京、愛知、大阪、兵庫、広島、長崎の6都府県で、そのうち広島の262,425人、東京都の116,959人、長崎の75,380人が突出している。この3都県に愛知、大阪、兵庫の3府県の死者を加えた496,334人は、全国の空襲による死者562,708人の88%に達する。6都府県の空襲の激甚さが推量されるのである。ちなみに、広島・長崎の死者337,805人は、全国の空襲による死者の60%、広島・長崎・東京の死者454.764人は、全国の死者の80.8%である。
 ただ、ここで読者諸君にお願いしたいことは、この空襲被害だけで、戦争被害と混同ないでほしいということである。各都道府県、各市町村の戦争被害(とくに死者)を語る場合、われわれは、空襲による死者の他に、軍人・軍属の戦死者を加えなければならないからである。
 私事にわたって申し訳ないが、私は奈良県の小さな田舎の村で生れ育った。奈良県は空襲被害微少の県である。小学校は小規模校で、私の同級生は、男19人女21人計40人であった。この男子同級生のうち、戦死者は13人(うち戦病死1人)で、戦後に残った男子生徒の同級生は、わずかに6人であった。そして、戦死した同級生の一人、辻中勇君(あえて本名を書く)は、男兄弟4人で全員戦死であった。未亡人で、女手一人で子供を育ててきた母親は、兄弟4人の最後の戦死の公報が届いた後で、行方を絶った。今に至るまで消息は不明である。戦後、戦死した同級生の母親の一人に「拷問を受けたかもしれないけれど、ツトムさんは、治安維持法で牢屋の中にいてよかったね」といわれ、絶句した経験がある。
 戦争被害として、表1のように、都道府県の市町村毎に、空襲被害による死者とならべて、戦死者の数を表示することが課題として残されているように思われるのである。
 もう一つ、つけ加えていえば、戦争被害の階層性(=階級性)についてである。小学校の同級生では19人のうち13人が戦死であった。中学の同級生では、40人のうち5人が戦死であった。大学予科では同級生40人のうち、戦死は2人であった。そのかわりに治安維持法違反容疑で投獄中での獄死者1名が加わる。学歴が上昇するほど、戦死者は「減少するのである。
 同じことは、ある程度、自然災害についてもいえるのではないだろうか。これは、個人的経験の範囲に属するので一般化は危険であろうが、阪神・淡路大震災の時、酒造業をいとなむ灘の魚崎の友人に電話したところ、数年前に家を建て、ドコもいたんでないから安心してくれというノンビリした回答がかえってきた。戦争被害にしろ、災害にしろ、私達はそれがもつ階層性にどこまで切りこんだであろうか。かえりみて恥じ入るばかりである。次表「アメリカの人口と軍隊」は、この点で一つの示唆をわれわれに与える。 
 
 表 アメリカの人口と軍隊
  白人 マイノリティ
 総人口 75% 25%
 陸軍 55% 45%
 海軍 60% 40%
 海兵隊 65% 35%
 空軍 72% 28%
 (『朝日新聞』2003.4.17)
 
 アメリカの全人口では、白人とマイノリティの比率は75%と25%であるのに、陸軍では、 55%と45%であり、総人口で4分の1のマイノリティーが陸軍の約半分(45%)を占めているのである。このマイノリティーの比率は、海軍・海兵隊とだんだん低くなるが最低の空軍でも28%で、人口比率より3%多い。現在イラクに出兵中のアメリカ軍隊において、最前線の陸軍歩兵のマイノリティの比率は、もっと高いのではないかと想像される。
 わが国の場合でも、現在の自衛隊員の出身家族の収入階層別分布や、戦前の軍隊の兵士、下士官、下級将校、上級将校の出身家族の、収入階層別分布や職業別分布、所属階級別分布、戦死者・空襲による被害者の同じく収入階層別、職業別分布が明らかになれば、空襲の被害分析は、一層ヴィヴィッドなものとなるであろう。その意味で、府県別空襲被害の表は、空襲被害分析のいわば第一段階であり、この第一段階をステップとして、後来の諸君が一層の分析を進めてくれることを期待している。
 また脱線したようである。本論にもどろう。表3は、既存の経済安定本部の調査、建設省の調査、朝日新聞の調査と私の表とを比較したものである。詳しい註をつけたので、それを参照してくだされば幸である。
 表4は、鶴見俊輔『日本の百年』(3「果てしなき戦線」)(筑摩書房)よりそのまま引用したものである。原典は不詳。註でも指摘したように、私達は経済安定本部の1948年調査ではないかと推測している。表3の統計項目が30都市である(なぜ、この30都市を項目として選定したかの理由は分からない)のに対し、表4は、全国の府県別統計であり、私達が府県別統計として、利用しうる有力な統計である。表5は、表4と私達の作製した表とを比較したものである。死者数、負傷者の項目では、私達の表が改善されているように思われる。その理由は、私達の依拠した統計が、表4の推定作製年の1948年よりおそく作製されたからである。しかし、損失家屋数(表4の全焼壊+半焼壊)では、私達の表よりも、表4の表がくわしく、われわれの表が空白である京都、奈良、滋賀、鳥取、徳島、香川、愛媛、宮崎、鹿児島、秋田、山形の損失家屋が表示されている。ただ、われわれの表が依拠した表が1948年以降のものであるから、記入された府県では改善されている。しかし、決定的な点は、われわれの表には、罹災者の項目が欠除している点である。今後罹災者の統計が必要とされる場合、われわれは、表4にたよらざるをえないことを、表5は示している。
 表6「艦砲射撃による被害」は、いままで私達が問題にしてきたのは、空襲による被害であったが、その他に直接軍艦から陸地の市町村にむかって大砲をうちこむ艦砲射撃による被害があったことを思い出させるものである。被害のあった府県は、太平洋沿岸の北海道、岩手、福島、宮城、千葉、静岡、和歌山の1道6県であり、死者は1107人、負傷者は629人であった。アメリカの軍艦が陸地に接近して砲撃するということは、日本が制空権、制海権ともにアメリカに握られたことを意味し、事実上の敗北状態にあったことを意味する。
 空襲による被害、艦砲射撃による被害とともに忘れてならないものは、民間の船舶の被害である。表7 太平洋戦争中の船員死亡者と民間船舶の沈没原因と沈没海域はこれを示す。沈没した民間の船舶数は2,394隻、船員の死亡者は62,692人である。大阪府であれば四条畷市の全人口に匹敵する。船舶の沈没原因の56.5%は雷襲(主として潜水艦からの魚雷攻撃)によるものであり、次に航空機による爆撃がこれに続く。この統計では、10トン以下の小型船舶はふくまれていないので、私達は62,692人の死者に更に10トン以下の小型船舶の犠牲者アルファを付加しなければならないのであるが、必要な資料を入手することができなかった。漁船もこの10トン以下の民間船の中に入ると思われるが、必要な資料は発見できなかった。他日を期したい。
 今まで、私達が検討してきた表(表1〜7)は、被害者の側からの空襲被害であった。これに対して、表8「アメリカ空軍の出撃・爆撃状況」は、加害者=アメリカ空襲対象、空襲主体の機種、参加機数、空襲年月日を表示したものである。周知のように1942年4月19日のドーリットル大佐のひきいるB25ボーイング双発爆撃による東京空襲が日本最初の空襲といわれるが、空襲が本格化したのは1944年の11月からであり、表もまた1944年11月からの空襲状況を表示している。爆撃機の主体は、B25の双発機でもなければ「空の要塞」といわれたB17でもなく、もっぱら「超空の要塞」といわれたB29である。援護戦闘機は、P38,、P41、P47、グラマンFと登場するが主力はP51ムスタングである。B29、P51については、註を参照されたい。空襲は、1944年の11月では、B29主体の爆撃空襲が6回であったのに対し、12月に入ると、倍増して12回になり、5月6月7月と回数、参加機数とも増大していることがわかる。またP51ムスタングやグラマンの戦闘機数だけの空襲は1945年が最初で、その後、回数を増していることがわかる。この空からと海からの攻撃の前に、無防備のままによこたわる日本本土のあわれな情況を、表8は示している。そして、この空襲の最後の仕上げが広島、長崎の原撃投下であった。8月15日の敗戦は、おそすぎる位であった。しかも、この8月15日に、秋田、小田原、高崎、熊谷、伊勢崎の5都市が爆撃され、376人の死者と3,231人の負傷者と6,479の消失家屋を出しているのである。表9「8月15日の空襲被害」は、そのことを示している。伊勢崎市に疎開中、8月15日の空襲体験を経験した奥津嘉久栄さんは次のように述べている。「焼け跡はまた余燼がくすぶっていました。もちろん停電のため玉音放送は聞けませんでしたが、午後一時頃だったでしょうか、敗戦を知りました。焼け跡の杭にはられた新聞を見た時の、何とも名伏しがたい複雑な気持ち、敗戦が一日早かったらという口惜しさ、虚しさ、苦々しさを噛みしめました。喉元から突き上げてくるような感じ・・・・。今でもすぐ思い出せますよ」(小学館『昭和』第7巻、廃墟からの出発、110頁)
 しかし、私は、この奥津嘉久栄さんの「敗戦が一日早かったら」という口惜しさは、ドイツが敗北した1945年5月7日以降のすべての日本人にいえることではないかと考えている。ドイツの降伏によって、ヨーロッパは、戦勝気分によっていた。残るは日本だけ。だれが見ても日本の敗北は明白であった。5月14日、日本の最高指導会議の構成員は、国体護持(=天皇制護持)を条件に、対ソ交渉=終戦工作を始めた。1938年39年張鼓峰事件で戦火をかわし、独ソ戦争開始以降は、ソ満国境に大軍を集結して、ソ連を牽制しつづけ、1945年5月30日には、「大本営が第17方面軍、関東軍、中国派遣軍に対ソ作戦準備を発令」している日本の要求をソ連がまともに受け入れる筈がなかった(通説では、ソ連が一方的に日ソ条約を破棄して、ヤルタ協定にもとづき日本に参戦したといわれているが、この5月30日の大本営の発令は、日本が事実上、日ソ条約を破棄していたことを示している)。かくして「国体護持=天皇制護持」のために、万策つきて日本政府が「無条件降伏」を8月15日におこなうまで、日本人民は、爆弾の雨の下に放置されていたのである。5月8日に、無条件降伏を申し入れておれば、5月8日以後に落命した多くの人命が救われた筈である。
 ところで、私が今まで述べてきたのは、いわゆる内地の空襲被害であった。しかし、私達が忘れてならないのは、ある意味で内地の楯となって、全土が戦場になった沖縄である。そこでは、空襲・艦砲射撃、銃撃戦、火炎放射器の使用、肉弾戦のすべてがあった。そこでの戦いの中で軍隊は住民を守らなかった。軍隊はむしろ住民を自分達の「タマの楯」としたのである。「軍隊が国民を守る」という伝説が、いかに虚妄であり、白々しいものであるかは、沖縄の当時の住民が、きびしい戦場の経験をとおして骨肉に銘記したものである。相前後して、関東軍におきざりにされ、旧満州からの引きあげで、辛酸をなめた引き揚げ者も、「軍隊は国民を守る」という幻想を、涙と汗とともに破棄した筈である。いな、沖縄では軍隊は住民を守るどころか、自分達の安全のために、住民を安全な壕や空洞から銃剣で追い出した。
 土壇場になると「軍隊は住民の敵になる」というのが、沖縄における歴史の教訓である。
 沖縄出身の私のゼミナリストS君の仲人をつとめた際、S君のお母さんから、壕から日本軍兵士におい出され、アメリカ兵に救出されたといういきさつを聞き、声を失った。沖縄は、軍が呼号していた本土決戦の縮図であったのである。
 表6 沖縄戦における死亡者数は、この苛烈な状況のもとでの犠牲者数である。軍人・軍属の死亡者数は94,138人、住民の死亡者は94,000人、計188,136人で、当時の沖縄人口59万人の約3分の1である。沖縄決戦が、本土決戦のシュミレーションであったとするならば、日本は本土決戦において、当時の人口の7,200万人の3分の1、約1,400万人を失ったであろう。
 なお、沖縄住民の死者9万4千人に、さきに指摘した内地の空襲による死者52万2千人、艦砲射撃による死者1千人、船員死亡者6万2千人の計58万5千人を加えると、67万9千人になる。私達が『アサート』326号、327号に掲載した表1の太平洋戦争での戦死者200万人〜240万人の数字はさておき、市民の死亡者は68万人と訂正すべきと考えている。
 最後に私の結論にかえて、本日(05年2月24日)の『朝日新聞』の夕刊所収のオーバービー博士のメッセージ「<九条の会>は手遅れではない」を引用する。読者の皆さんの寛恕を乞う次第である。
 
 ★「九条の会は手遅れではない」
 「九条の会のメンバーは、これまで九条を熱心に擁護してこなかった日本人の多くを、この問題に深くかかわらせる力を持っている。米軍の軍事的な破壊力を(日本政府が)やむなく支持することに反発を覚える日本人はいる。これらの人たちを勇気づけることにもつながるだろう。
 多くの日本人は「私たちは九条の崇高さを壊すのではなく、復権させたい」というメッセージを日米の指導者たちに発信することができる立場にいると思う。
 「九条の会」が各地に広がる動きが、もはや手遅れだとは思わない。戦争と破壊を好む政府に対して真実を告げる役目を負う私たちにとって、遅すぎることは何もない。
 9条は日本だけの宝ではない。世界中の人たちのものだ。戦争という低俗で支配的で男性的な構造を終わらせたいという人間の叫びだ。九条破棄を食い止められるのは、日本人しかいない。
 実は私は(今の政治状況に)意気消沈し、苦悩している。そんなとき、日本の人々が九条の崇高さを復権させるために動いていると知り、希望がわいた。
   (オハイオ大学名誉教授 チャールズ・オーバービー博士)
 
 追記 今回もまた貴重な資料や激励をいただいたことを深く感謝しています。とくに森山弘毅さんからいただいた貴重な資料の一部は、本文の表5として利用させていただきました。有難うございました。川上憲一さんからは、「おしつけ憲法論」にたいする反論の資料として。植木枝盛を起点とする民主憲法論の流れを考えるべきとの指摘とともに、植木枝盛の憲法草案をいただきました。友永健三さんからは、資料と貴重な意見をいただきました。また、大津静夫さん、宝樹文彦さん、大賀正行さん、岡本弥八さん、伍賀偕子さん、上原清さん、玉井金五さん、里見賢治さん、樋口紀子さんからはあたたかい激励の便りをいただきました。深く感謝しています。とくに樋口さんからは、コピー90枚を友人・知人に送ったと知らされ感動しました。
 この3月で83歳になった私が、『アサート』に連続して拙文を掲載しえたのも、編集者の生駒敬さん、佐野秀夫さんを始めとする皆さんの援助と激励によるものと深く感謝しています。ある意味で、文責は当然私にありますが、拙文は、私は皆さんとの合作と思っております。ありがとうございました。課題は本文中に指摘したとおり、いくつか残りましたが、機会をえて、また一緒に検討したいと思っています。さらに、本稿で、利用できなかった貴重な送付資料につきましては、編集者生駒・佐野さんと相談して善処するつもりです。最後にもう一度ありがとうございました。(2005年3月29日)