ASSERT 352号 (2007年3月17日発行)

【投稿】 フセイン元大統領の死刑についての断想 (その2) 吉村励
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【書評】 『産軍複合体のアメリカ』(宮田律著)

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【投稿】 フセイン元大統領の死刑についての断想 (その2)  吉村励
                            <(その1)は、こちらから>
 4、死刑問題に関する日本の最近の思想情況
 ところで、本論にたちかえって、私が拙文を書こうとした本来の目的は、現在の日本において、死刑に関して、ある種の逆流現象が生じ、かつ強まっていることに危機感をいだいたからに他ならない。
 まず第1の理由は、ここ数年来、1年間に自殺者が3万人の大台を持続しているということである。2006年5月10日の『毎日新聞』は、1998年より2004年まで連続7年間、自殺者の数は、3万人の大台を維持し、とくに2004年では、警察庁の発表によれば3万2325人。厚生労働省の発表によれば3万0247人であったと報じている。7年間で21万人以上自殺者があったということは、たとえば大阪府では7年毎に岸和田市が一つ消滅するのと同然である。
 さきに、私は「汝 殺すなかれ」という基本命題を論じた。「汝 殺すなかれ」という命題は、対象を他者に限定するものではなく、自己にもむけられている。自殺は、他殺に通じるのである。それは、命の重さを重視するという点では共通なのである。
 自殺だけではなく、殺人・放火・交通事故等の事件による死者も増加しており、とくに子供にたいする殺人事件は、世間を震撼させた。このような事情を背景として、2000年代にはいると「加害者の人権よりも被害者の心情が重んじられるべきだ」という「報復刑」としての死刑という考えがひろまったといえよう。「光市母子殺人事件」の被害者家族が加害者への死刑を求める運動を展開し、多くの同情と理解を集めたこと、殺人事件裁判の死刑判決が出されるたびに、テレビは大々的にこれを報道して、殺人被害者の家族が「これで被害者も冥福するでしょう」と涙にむせびながら発言する情景をうつしだすことは「報復刑」としての死刑容認の感情と思想を一層増幅しているといえよう。
 個人的な報復=「仇討ち」よりも「報復刑」としての死刑は、それを裁判を通じる公的な報復として実現したとして、一歩前進であったといえる。しかし、その根底には報復の思想が重く存在している。
 報復の思想には「目には目を、歯には歯を」という命題が横たわっている。「目には目を、歯には歯を」という命題の延長には「死には、死を」という暗黙の前提が存在する。
 はずかしながら、血気盛んな青年期には、私も「報復刑」としての死刑の積極的な賛成論者であった。それ以上に、徳川幕府時代に存在したといわれる「三犯以上の累犯者はいかなる犯罪であろうとも死刑」という考え方にも賛成であった。しかし、あの十五年戦争の過程で、兄や多数の友人を戦争で失い、戦争それ自身が、国家権力による大量殺人であることを痛感した。平和とは、国家による大量殺人の否定でなければならないとしたら、国家による個人報復の代替として死刑=国家による殺人がみとめられるのかということが私の最初の疑問であった。一方で平和を強調しながら、他方で「報復刑」としての、死刑を容認するのは、矛盾しているのではないか。一貫して、この矛盾に関する疑問はたえることなく、私の心の中を流れ続けている。
 だが、また一方で、現実にもどれば殺人被害者の家族の悲しみといかりは、この世がさけて、くだけても良いと思う位の深く、大きなものであろう。報復の情念の焔は、消しても消しても燃えあがる強烈な焔であろう。この情念の焔を鎮静させ、弱め、次第に消火させるための方策は、理論的に説得するというのではなく(理論的説得は一蹴されるであろう)情念にうったえる方策が準備されなければならないであろう。それは、時間をかけて、心から被害者家族の悲しみによりそい、その悲しみと悩みに耳をかたむけ、慰め、おりにふれて「目には目を、歯には歯を」という報復の思想の空しさを、理解させてゆくことではあるまいか。
 そして、我が国は、社会は、われわれ庶民は、殺人被害者の家族に、どれだけの配慮を行ったであろうか。また殺人被害者が家計の主柱であった場合は、家族がたちまち路頭に迷うことになる。殺人被害者に対する国家の経済的補償も必要であろう。このような経済的配慮をふくめて、国家は、ほとんど、なんの支援も行なわず、悲しみのどん底に放置してきたのではないだろうか。遺族が、加害者の死刑を求め、その支援を求める運動を展開したのも、その支援の輪が広まったのも当然といえる。
 このような情況のもとにおいて、「報復刑」としての死刑が、存在感をもつのは当然であるといえよう。

 <表8> 死刑制度に関しての世論調査(2004年)
「死刑制度に関してこのような意見がありますが、あなたはどちらの意見に賛成ですか」
(ア)どんな場合でも死刑は廃止すべきである ・・・6. 0%
(イ)場合によっては死刑もやむを得ない ・・・・・・ 81. 4%
(ウ)わからない・一概に言えない ・・・・・・・・・・・ 12. 5%
(注)内閣府により2004年『基本的法制度に関する世論調査』による。

 表8「死刑制度に関しての世論調査」は、内閣府によって2004年12月に実施されたものである。その設問設定には、(ア)が積極的廃止を意味するのに対し、(イ)には積極的賛成と消極的賛成がふくまれているという問題があるにしても、死刑容認派が81.4%という高率であること、積極的死刑廃止論は、わずかに6.0%、「わからない・一概に言えない」が12.5%であることを示している。
 さきに示した表1「世界における死刑制度廃止国と存置国数」では、廃止国が64.9%、存置国が35.0%であった。世界の趨勢と日本とでは、死刑存続と廃止の比重が逆転しているのである。世界と日本の距離の遠さ、日本の孤立が、切実に感じられるのである。私がさきに「逆流現象」
がおこっていると述べたのも、このことにもとづいている。

 ところで私が殺人被害者への社会の配慮と、報復=復讐の情念(報復主義といっても良い)との関係に思いいたったのも、次にのべる二つの文献に接したからに他ならない。その一つは「新約聖書」であり、いま一つは菊池寛「恩讐の彼方に」である。
 まず、新約聖書の「山上の垂訓」の著名な一節は、次のようである。やや長いがそのまま引用する。
 「<目には目を、歯には歯を>といえることあるを汝らは聞けり。されどわれ、汝らに告ぐ。悪しき者に抵抗する(あらがう)ことなかれ。人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ。汝を訴えて下衣(したぎ)を取らんとする者には、上衣をも取らせよ。人もし汝に一里ゆくことを強いなば、共に二里を歩め。汝に請う者には与え、借らんとする者を拒むなかれ。また<汝の隣を愛し、汝の敵を憎め>といえることあるを、汝らは聞けり。されど、われ、汝らに告ぐ。汝らの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈れと。これ天にいます汝らの父の、子とならんが為なり。天の父は、その太陽を、悪しき者のうえにも、善き者の上にも昇らせ、その雨を、正しき者にも、正しからざる者にも降らせ給う。汝ら、己を愛する者を愛するとも何の報をか得べき。取税人も、然するにあらずや。兄弟にのみ挨拶するとも何の勝ることかある。異邦人も然するにあらずや。されば、天の父の全きがごとく、汝も全かれ」(マタイ伝、第5章第38節→第48節)
 この文章については、詳説は不要であろう。ただ、ここに、全文を引用したのは、キリストが批判の対象としてとりあげた<目には目を、歯には歯を>という言葉が、あたかもキリストの言葉であるかのような曲解が一部に流布されているからに他ならない。
 次には、菊池寛「恩讐の彼方に」である。この作品は、菊池寛が、いわゆる大衆小説家として活躍(その出発点は「眞珠夫人」1920年)する以前の初期の作品で、彼の初期の作品にはすぐれたものが多い。中でもこの「恩讐の彼方に」は、卓越した作品と私は考えている。
 この作品を読まれた方は多い(一時期、中・高の教科書にも採用されたことがあると聞いている)と思うが、その内容を簡単に要約すると次のようである。
 現在の九州大分県耶馬渓の山国川の急流の横には昔、絶壁にかけられた桟道のみがあり、それが住民の通行路であった。その桟道は毎年何人かの犠牲者を生み出していた。この犠牲者をなくするために、この絶壁の岩に、単身独力でトンネルを掘るという難事業を始めたのが了海(俗名市九郎)であった。了海の仕事を住民は、始めは無視しているが、次第に力をかすものがあらわれる。難事業が開始されてから19年後、市九郎を父の仇としておい続けてきた実之助があらわれる。了海の仕事と了海の仕事を続けさせたい住民の願いに、実之助は、仇討ちを一時とりやめ、洞門の開通が完成すれば、仇討ちを行うという諒解のもとに、二人で洞門をほりはじめる。いわゆる「青の洞門」の物語りである。仇を討つ者と討たれる者は、了海が作業を始めてから21年目、実之助が了海と遭遇してから1年6ヶ月目に、青の洞門は貫通する。しかし、この1年半の共同作業の中で、実之助は、「報復主義」を克服するのである。そのプロセスの一部を原文から引用する。
 まず、仇討があきらめられず、実之助がひそかに了海の作業現場に訪れる場面から。
 
 <深夜、人去り、草木眠っている中に、ただ暗中に端座して鉄槌を振っている了海の姿が、墨のごとき闇にあってなお、実之助の心眼に、ありありとして映ってきた。それは、もはや人間の心ではなかった。喜怒哀楽の情の上にあって、ただ鉄槌を振っている勇猛精進の菩薩心であった。実之助は、握りしめた太刀の柄が、いつの間にか緩んでいるのを覚えた。彼はふと、われに返った。すでに仏心を得て、衆生のために、砕身の苦を嘗めている高徳の聖に対し、深夜の闇に乗じて、おひはぎのごとく、獣のごとく、瞋恚の剣を抜きそばめている自分を顧ると、彼は強い戦慄が身体を伝うて流れるのを感じた。
 洞窟を揺がせるその力強い槌の音と、悲壮な念仏の声とは、実之助の心を散々に打ち砕いてしまった。
・・・
 敵と敵とが、相並んで槌を下した。実之助は、本懐を達する日の一日でも早かれと、懸命に槌を振った。了海は実之助が出現してからは、一日も早く大願を成就して孝子の願いを叶えてやりたいと思ったのであろう。彼は、また更に精進の勇を振って、狂人のように岩壁を打ち砕いていた。>
 次に最終節から引用する。
< それは、了海が樋田の刳貫に第一の槌を下してから二十一年目、実之助が了海にめぐりあってから一年六カ月を経た、延享三年九月十日の夜であった。この夜も、石工どもはことごとく小屋に退いて、了海と実之助のみ、終日の疲労にめげず懸命に槌を振っていた。その夜九つに近き頃、了海が力を籠めて振り下した槌が、朽木を打つがごとくなんの手答えもなく力余って、槌を持った右の掌が岩に当ったので、彼は「あっ」と、思わず声を上げた。その時であった。了海の朦朧たる老眼にも、紛れなくその槌に破られたる小さき穴から、月の光に照らされたる山国川の姿が、ありありと映ったのである。了海は「おう」と、全身を震わせるような名状しがたき叫び声を上げたかと思うと、それにつづいて、狂したかと思われるような歓喜の泣笑が、洞窟をものすごく動揺めかしたのである。
「実之助どの。御覧なされい。二十一年の大誓願、端なくも今宵成就いたした」
 こういいながら、了海は実之助の手を取って、小さい穴から山国川の流れを見せた。その穴の真下に黒ずんだ土の見えるのは、岸に添う街道に紛れもなかった。敵と敵とは、そこに手を執り合うて、大歓喜の涙にむせんだのである。が、しばらくすると了海は身を退けて、
「いざ、実之助殿、約束の日じゃ。お切りなされい。かかる法悦の真ん中に往生いたすなれば、極楽浄土に生るること、必定疑いなしじゃ。いざお切りなされい。明日ともなれば、石工共が、妨げいたそう、いざお切りなされい」と、彼のしわがれた声が洞窟の夜の空気に響いた。が、実之助は、了海の前に手を拱いて座ったまま、涙にむせんでいるばかりであった。心の底から湧き出ずる歓喜に泣く凋びた老僧を見ていると、彼を敵として殺すことなどは、思い及ばぬことであった。敵を討つなどという心よりも、このかよわい人間の双の腕によって成し遂げられた偉業に対する驚異と感激の心とで、胸がいっぱいであった。彼はいざり寄りながら、再び老僧の手をとった。二人はそこにすべてを忘れて、感激の涙にむせび合うたのであった。>
 
 この最終節の文章を読むたびに、私は深い感動を覚える。「新約聖書」でキリストが一般的に呈示した「報復主義」の克服を、菊池寛は、了海と実之助という生身の人間の、迷い、悩み、苦痛を通して描き出したからである。了海と実之助は、時代こそ変われ、今の私達であり、私達のそばにいるAさんであり、Bさんでもある。違いは、努力と苦悩と労働を通じて、彼らは報復主義をこえた「恩讐の彼方」に到達したのに対し、私達は、今も「報復主義」のちりと泥にまみれてあがいているということであろう。
 そして私は、この菊池寛の作品の中に、親鸞上人の「善人なおもて成仏す。いわんや悪人においておや」という思想との連帯を見出すのである。
 
 むすび
 フセイン元大統領の死刑を契機として、死刑制度、その根底にある報復主義を通して、日本の現在の思想情況をうつしだそうとした本稿の目的が、どれだけ達成されたかについては、読者の皆さんの批判を待つのみである。死刑制度という本来、法律学の専門家の対象とすべき問題を、門外漢の一経済学徒である私があつかましくもとりあげたのは、現代の日本の思想情況が、菊池寛の「恩讐の彼方に」が発表された時代より、逆行したように思われたからにほかならない。読者の身さんの御教示を乞う次第である。
 なお、この拙文をまとめるにあたっては、『アサート』編集者の佐野秀夫・生駒敬の両氏の激励によるところが大きい。とくに資料面に関しては、圧倒的に生駒君に助けられた。彼の助力なくしては、拙稿は日の目を見ることはなかったであろう。2005年に『アサート』に連載し、幸いにも好評を得て『労働運動研究』に「六十年目のレクイエム」という評題で発表された拙文に関しても、資料的には生駒氏の努力によるところが大きかった。重ねて、生駒氏に謝意を表するものである。(2007年1月30日)