アサート No.394(2010年9月25日)

 【人権ひとりごと】  私の人権考

 私は、中学校時代から部落問題の出会いを契機に、今日に至るまで部落解放運動をはじめ、何らかの人権課題と関わってきたし、また仕事でも深く関わってきた経験がある。

 その永い経験の中には、自分自身の内面的成長に役立ってきた反面、「人権」を唱えながら、自分自身の中にある差別性に気がつかず、結果として「人権侵害」の誹りを受けざるを得ない経験もある。

 そのように「人権」と向かい合い、悩み、葛藤してきた中で、今の自分が思う「人権考」を徒然したい。

{「完全なる人権者」はいない}

 この見出しを見ると、おおよそ二つの感想を抱かれるのではないか?一つは「当然のことではないか」、もう一つは「己の中にある差別性の開き直りではないか」。

 私が言いたいのは、人権感覚の極めて優れている人もいれば、極めて鈍感な人もいる。大体においてではあるが、人権感覚の優れている人は、自分の価値観に固執しない人であり、「もし、それが自分の立場であったならー」と想像力の働く人であり、人権感覚の鈍感な人は、その逆である。しかしながら、それはかなりの幅はあるものの、要は程度の差であり、「いつ、いかなるときも、どのような課題にも、常に完全無欠に考え行動できる」人はいない。

{「人権」被害者=「正義者」ではない}

 従って、相手の差別性や誤った認識に出遭ったとき、また人権被害にあったとき、その問題指摘のあり方も、その鋭さ、語気の強さはともあれ、その本質的な対応は相互啓発なものでなければならず、ましてや、相手に対し全面否定し、独善的、報復的であってはいけないと考える。

 何故なら、その独善的、報復的な問題指摘が、結果的に嫌悪と憎悪を生み出し、より一層、「人権」に対する認識をより後退と膠着化を招くだけだと思うのである。

 しかし、だからと言って「人権」被害者が、その被害に対し抗議し問題指摘すること自体を何ら否定するものではない。むしろ被害者だからこそ、最もその抗議と問題指摘する立場にあることは言うまでもない。言いたいことは、要するに問題指摘する立場・資格者であることが、加害者を一方的に裁くこともできる「正義者」であるかのような思い上がりは許されず、それが高い「人権」意識の持ち主である者であればあるほど、戒めて自覚すべきことだと思う。

 突き詰まるところ大事な事は、不完全なる者が不完全な者に対し、互いに思いやりと互恵の念をもって、「気づき」を与え合い、また問題指摘を認め合うこと⇒即ち、そのことが「人権」の相互切磋琢磨だと思う。

{今、「人権」で思う世相的問題意識}

 一つは、近年の競争原理と自己責任論に基づく保守ムード、右翼的思想傾向の流れもある中で、「人権」と言えば、何故かしら左翼イデオロギーの表象のような見方である。例えば「人権教育よりは道徳教育だ」とか、「何かと(犯罪者の人権や死刑廃止論など)人権派の連中はうるさい」とか「人権の名を借りた自己中心主義」とかーー。

 こうした保守イデオロギーによる「人権」に対する攻撃・誤解の一つひとつを今、反論するつもりがないが、ただ包括的に批判するとするならば、まさに前述したとおり、物事に具体的・科学的に思考せず、ただ自己の保守的価値観に頑迷であること、特にマイノリティーの問題には無頓着あるいは軽視的であること、そして何よりも決定的に異なるのは、国家や全体利益のためには、一部少数・個人の存在も否定しても已む無しとする考えがベースにあることである。

 二つ目は、「人権」という言葉の概念の混乱である。近年の労働相談統計を見ても「パワハラ・セクハラ」のハラスメント系の相談が増加している。その多くの相談内容は「なるほど、それはひどい!」というものであるが、その一方で「それは感情的に行き違い、対立的であったとしても、とてもハラスメント(人権侵害)というものではないだろう」というものも少なからずある。

 特に「パワハラ」の場合、「上司から強い叱責をされた」ことは、マネージメントの拙さはあったとしても「ハラスメント(人権侵害)」というには、いささか無理があり、逆にそのレッテル貼りの方が、人権的に問題ではないかと感じる場合もある。例えば「パワハラ」の概念規定には、そこに「無視、人格否定の発言、差別・侮蔑発言、排斥行為、暴行、等」の具体的事象があったか、どうかが判断要素になる。

 こうした具体的判断要素の上に「ハラスメント批判」がなされるべきであって、カタカナ用語の一人歩きにより、不正確な理解の蔓延・使用こそが人権意識の普及に阻害となるのではないかと危惧するのである。

{21世紀の「人権」とは}

 「20世紀が戦争の時代であったのに対し、21世紀の時代は「人権」の時代である」と言う。しかし、真に「21世紀を人権の時代」とするためには、「人権」に対する発想の転換とイメージチェンジを図らなければならない。

「20世紀の人権」は、「反差別」「反権力」という概念・意識が優っていたと思う。そしてそこには階級的史観も入り混って、あげくの果ては人権の花咲く社会が「社会主義の展望」まで夢みる者もいたのではないかと思う。それはそれで「20世紀という時代背景としては、進歩的で、反差別抵抗闘争としての歴史的意義はあったと評価すべきことだと考える。

しかし、21世紀に「人権」は、反差別抵抗闘争から脱却し、より豊かなコミュニケーションの高まり、コミュニティの形成、ネットワーク型人権組織の構築が求められているのであり、そのことは「人権」という言葉を使わずしても結果的に中身としては「人権」の具体性を意味することができるのではないか。

即ち「人権」には反差別という「ネガティブ人権」から双方のコミュニケーション・交流・活性化というポジティブ思考の人権意識への変革が求められているのではないか。

「21世紀への人権課題」は、「ネガティブ人権」から「ポジティブ人権」への転換が何よりも求められているのではないか。

小生の無責任・徒然なるままの思いに異論批判があっても、小生の「人権ひとりごと」として許されたい。(民守 正義)
 

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