アサート No.402(2011年5月28日)

【本の紹介】 レーニンの墓---ソ連帝国最後の日々---(上・下)
      白水社 デイヴィッド・レムニック著 2011年2月刊 
      
 20年前の1991年8月17日、ソ連モスクワで「クーデター」が起こった。1985年のゴルバチョフ書記長誕生以来、進められてきた「ペレストロイカ」「グラスノスチ」などの「社会主義の再生」の流れは、このクーデターによって頓挫・破綻し、ゴルバチョフは生き延びたが事実上失脚することになった。そして、翌年11月、ロシア憲法裁判所は「全国統一組織としての共産党は違法である」と判決を下し、ソ連共産党はその姿を消したのである。
 本書は、書名のとおり、ゴルバチョフ書記長誕生からソ連共産党消滅まで、ワシントンポストのモスクワ駐在員として、多くの人々にインタビューを重ねた内容を中心に、まさに「ソ連帝国最後の日々」を描き出している。アメリカで出版されたのは1993年、ピューリツアー賞を受賞した作品でもある。上下800Pを越える本を2週間ぐらいで読み終えた。細部の紹介などは、他の方に譲るとして、感想を中心に紹介してみたい。
 
 <保守派に妥協を重ねたゴルバチョフ>
 本書を読んで気が付くのが、ゴルバチョフが、最後まで党内保守派・KGB・軍などの保守勢力を甘く見ていたな、ということである。妥協に妥協を重ねていたわけだ。もっと言えば、ゴルバチョフ自身も、社会主義の再生ということについて、明確な展望を持ちえていかなったのだろうという事だろうか。グラスノスチによって、ソ連体制・歴史の影の部分、すなわち農業集団化の過程における飢餓と銃殺による数百万の農民犠牲者、30年代後半のスターリン粛清による赤軍・党幹部の抹殺、ポーランド・カチンの森での将兵殺戮などが暴かれる環境を彼が作り出したのであるが、その推進力となった民主派とは、結局最後までゴルバチョフは、手を結んでいない。1990年12月人民代表大会で、シュワルナゼが、「独裁が近づいている」と発して、外相を辞任したメッセージにもゴルバチョフは耳を貸していない。
 
 <スターリン秘密報告に影響を受けた世代>
 スターリンの死後、フルシショフは党書記長の犯罪を秘密報告ではあったが、暴いて見せた。所謂「雪解け」であった。しかし、その期間は長く続かず、彼は解任され、続くブレジネフが、再び歴史に蓋をした。近親者がスターリン粛清の犠牲になった世代は、1950年代の末、雲が晴れるのを経験したが、再び扉が閉じられると、「二重思考者」として生き延びたという。「ゴルバチョフ、私、それに我々全員が二重思考者だった。頭の中で常時、真実とプロパガンダのバランスをとらねばならなかった。・・・異議申し立てと屈服の中間の選択だった。」(シャフナザロフ)
 これら世代が、ペレストロイカによって、言論やジャーナリズムの場で発言の自由を得ることになった。ただ、それは共産党組織の外でのことだったのだろう。
 
 <特権層が、社会主義を葬った>
 党・軍・KGBが、すべての国だったように思える。プロレタリアートの独裁ではなく、党の独裁であったわけだ。レーニンがそれを望んだのかどうか、知るよしもないが、事実そうだったのだろう。ペレストロイカが始まって5年たっても、経済は一向に好転しなかった。好転しないどころか、悪化していた。全国の炭鉱労働者がストに立ちあがった時、スローガンは、石鹸をよこせだった。日常生活品まで不足していた。
 1989年7月、シベリアのショビコ炭鉱でストライキが始まり、ウクライナからサハリン島まで、全国の炭鉱労働者が立ち上がる。そしてストは炭鉱から都市労働者へと広がっていく。ゴルバチョフの「上からの革命」は、後景に退く。保守派との対立。残念ながらゴルバチョフは、指導者ではなくなっていった。労働者のストライキと民主派の台頭にいらだつ保守派。まさに独裁の危機が迫っていたのである。
 
 ソ連崩壊から20年。本書も20年前に書かれている。社会主義の崩壊から何を学ぶべきか。インタビューを中心に書かれた本書は、ソ連崩壊を生きた人々を描き出し、民主主義なき世界がどのようなものだったか、我々に教えてくれている。決して過去の話ではなく、我々が求める社会のために。(佐野秀夫) 

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