アサート No.476(2017年7月22日)

 【書評】『フクシマの荒廃──フランス人特派員が見た原発棄民たち』
         (アルノー・ヴォレラン著、緑風出版、2016年11月発刊、2,200円+税) 

 「民家は空っぽだ。窓は開きっぱなしか、ガラスが割れているかだ。色褪せてしまったカーテンが風に吹かれている。国道沿いのDIYショップは閉ざされたままで、棚の道具類、肥料や種の袋は崩れ落ち、そこから草木が芽を出している。コンビニは施錠する間もなく、ベニヤ板で封鎖されている。(略)色褪せ、半分開いたままのゴミ袋が無人の家の玄関に置かれたまま化石のように固まっている。地震が破壊したものを放射性物質が化石化し、この田舎の小さな美しい村、手作りと商いの人里から人の姿を消してしまった」。
 本書は、フランスの日刊紙『リベラシオン』の特派員が、福島第一原発(1F、通称、イチエフ)事故の除染・廃炉作業に従事する労働者、元地元住民、「原子力ムラ」の広報担当者等々に迫ったルポルタージュである。
 上記の描写は、1Fへの途中の光景であることはいうまでもないが、「自然や植物相を制御し型にはめ込む傾向が顕著な日本」ではあるが、「この地方では野生が実権を取り戻した」----水田のあぜ道が崩れていたり、木々が異常に枝を張って街路にはみ出したり、野生の竹が民家の居間の畳やアスファルトから出ていたり----といった光景に著者は衝撃を受ける。
 さてその1Fでは、「物音一つしない無人の田園地帯からやって来て、地の果てに出現したこの人を寄せつけぬ人間蟻塚を前にすると唖然とさせられる。この腫れ物を、放射能汚染水あるいは一部は除染水を貯蔵するために急遽建設された数百のタンク群が彩っている」。「バスは進み、巨大な鉄板の上を走り、ゆれながら凸凹の通路を抜ける。座席から見える、無数のパイプ、排水管、ありとあらゆる種類のケーブルが斜面をびっしり覆っていて、壮観である」。そして「計器、タンク、センサーなどと連動して複雑に入り組んだ緻密なエンジニアリングの配管を見ると、原発がまるで点滴治療中で人工呼吸を受けているような印象を受ける」。
 免震重要棟の「入口で靴カバーを脱いで大きな屑入れに捨てるように指示される。東電の連絡担当者はよく働く。非常に有能で、安全基準、ミスの防止、指差確認を怠らない。質問に答え、万全の体制が整っており、何の心配もありませんと執拗に繰り返す。『発電所の状況はここ数ヶ月で大いに向上しました』。信頼と忍耐、冷静さと笑顔、訓練は行き届いている」。
 ところが新しいタンクの陸揚げ準備中の見学時、「(略)電気技師助手二名が見学に同行した。彼らは背後で規則的に線量数値を報告してくる。〈 太平洋岸、毎時一・五マイクロシーベルト、丸太の前、五、青色貯水槽沿い高台上、十五・六〉 という具合だ。それから、海岸に向かって再び下って行くと、彼らの線量計の数値が坂の途中でパニック状態になったのがわかった。表示カウンターは七五・四を示し、それから9の数字が十個くらい並んだのが見えた。すると助手の一人が計器盤を手で隠した。彼は鳩が豆鉄砲を食らったように目をまん丸くして、同じようにたまげて唖然としている同僚の顔を見た。二人の若手は何を思ったか線量計をあわててカバンにしまった。おかしな反応をするものだ。次の段階で放射能照射レベルは、われわれが履いていたニッケルシューズも放射線防護効果をふれ込み通りに発揮できる数値まで戻った。東電の広報活動とガラス張り運営には限界があると見た」。
 東電のこうした小細工的な対応は、さもありなんというところだろうが、観察の鋭さと表現(人間蟻塚、原発は点滴治療・人工呼吸中等々)のユニークさはアジア各地の民主化を取材してきた賜物であろうか。
 さて原発の現状に続いて、その現場で働く労働者にアプローチしようとするが、これがなかなか厄介であり、そしてようやく話を聞くことのできる労働者を見つけることができたとしても、ここで筆者は、日本社会の特異性にぶつかることになる。つまり底に流れる「組織への帰属意識」の強さである。
 「私が出会った人物たちは、犠牲になるのではなくて、現状に対応し、原発の解体に献身することを選択している。だが私は、集団の及ぼす力がいかに強いかを思い知った。日本では、集団が個人を凌駕する。この点はまったく旧態依然である」。
 筆者の出会った原発労働者の日常を支配している「服従、上下関係の尊重、義務感、隷属といったものに類似した空気」、諺で表せば、「出る杭は打たれる」について筆者はこう書く。
「要するに神聖なる調和の精神、ニッポン人の金科玉条『みんな一緒』を乱す者は叩かれる、のである。私は、あまりにもよく使われるこの諺は言葉の上だけだと思っていたが、『使い捨て人間』のリサーチをする過程で何度も耳にした」と。
 東ゼン労組(全国一般東京ゼネラルユニオン----日本初の外国籍の代表者による他民族、多国籍合同労組)の委員長とのインタビューでの言葉を借りれば、「原発で働く者にとってノーと声を上げることはほぼ不可能である。なぜならば、拒絶すれば会社を辞めなければならないからである。仕事を失くし、特に会社そのものまで仕事場を失い、契約を打ち切られ、仲間たちも仕事を失くすことなる」からである。「だから、彼らは黙る。そして我慢するのだ」。
 「私はこの日、この業界の人たちがなぜ何も言わないのかが理解できた。(略)家族の次に大切な、否、いざという緊急時には家族よりも大切な会社の力、階層社会の重圧がよくわかった。こうした会社はまた、従業員に向けて秘密厳守の厳しい規則を定め、遵守させてきた。社員は会社の現状に関する情報(秘密ではない)を外部にもらしてはならない。私が会った人たちは皆、自分は話す権限を持たない。それは雇用契約で明確に禁止されていると言った。会社に迷惑をかけてはいけないのだ」。
 そしてこの状況を究極的に支配している「原子力ムラ」(産業界、政界、高級官僚の馴れ合い体質=「利権のトライアングル」と表されている)への消耗するインタビューを終えて、著者はこう語る。
 「それにしても、日本という国は不思議な民主主義国家だ。フクシマ以降、有権者には三度にわたる国会議員選挙でこの問題に関して意思表示する機会があった。そして、明らかに原発推進派である自民党が、毎回圧倒的な差で投票をかっさらった。これには驚かされる。確かに、選挙は民間原子力だけに関する住民投票ではないのかもしれない。しかし、一九四五年に核の烈火を浴び、二〇一一年から放射能の毒に襲われているこの国がなぜ、やみくもに核の道を進もうとする者たちを唯諾々と許すのか?」。
 本書が炙り出した状況は、われわれ自身が無意識に脇に追いやっている問題に関わる。これに関連して著者は、一つのエピソードを紹介している。
 「私の広島の友人、ミチコは子どもの頃、学校の社会見学で原子力平和利用の展示を見に行ったことがあった。ところで、この展示会はどこで行われたのか? それは、一九四五年八月六日に原爆が投下されたドームのすぐそばにある平和記念資料館前の広場だった。今ミチコは、厳粛な悲しみに包まれて原爆犠牲者の慰霊碑を囲む芝生の広場を手で指し示す。一体何が、主催者をしてこの場所で原子力平和利用の催し物を開くという発想をさせたのか」。
 日本社会の中で考える原発問題の前提を問う視点を与えてくれる書である。(R)

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