アサート No.495(2019年2月23日)

【書評】 『餓死(うえじに)した英霊たち』
   
(藤原彰、ちくま学芸文庫、2018年7月発行、1,100円+税) 

 本書は2001年に刊行され、昨年7月に文庫化されたものである。かなり以前の書であるとはいえ、語られる事実は、今なお生々しい。
 「第二次世界大戦(日本にとってはアジア太平洋戦争)」について、本書は述べる。
 「この戦争で特徴的なことは、日本軍の戦没者の過半数が戦闘行動による死者、いわゆる名誉の戦死ではなく、餓死であったという事実である。『靖国の英霊』の実態は、華々しい戦闘の中での名誉の戦死ではなく、飢餓地獄の中での野垂れ死にだったのである」。
 ところで飢餓には「完全飢餓」(食物を全く摂取しないで起こる飢餓)と「不完全飢餓」(栄養の不足や失調によって起こる飢餓)があるが、「この戦争における日本軍の戦闘状況の特徴は、補給の途絶、現地で採取できる食物の不足から、膨大な不完全飢餓を発生させたことである」。この結果病気に対する抵抗力の低下から、マラリア、アメーバ赤痢、デング熱等による多数の死者を出した。
 「この栄養失調に基づく病死者も、広い意味で餓死といえる。そしてこの戦病死者の数が、戦死者や戦傷死者の数を上回っているのである」。
 「戦死よりも戦病死の方が多い。それが一局面の特殊な状況ではなく、戦場の全体にわたって発生したことが、この戦争の特徴であり、そこに何よりも日本軍の特質を見ることができる」。
 本書はこの視点から、アジア太平洋戦争での餓死の実態に迫る。本書で取り上げられる地域は、ガダルカナル島作戦、ニューギニアのポートモレスビー攻略戦およびアイタベ作戦、インパール作戦、敗戦局面でのフィリピン戦、さらにはアメリカ軍の後方に取り残されたメレヨン島やウェーク島の飢餓地獄、そして中国での「大陸打通作戦」である。
 その個々の作戦の悲惨な実態は本書に詳細に述べられているが、本書はこれらの諸作戦を通して「何が大量餓死をもたらしたのか」と問う。そしてその原因3点を指摘する。
 それらは、@補給無視の作戦計画(=作戦が他のすべてに優先する作戦第一主義と情報の軽視)、A兵站軽視の作戦指導(=兵要地誌の調査不足と現地自活主義)、B作戦参謀の独善横暴(=幕僚が人間性を欠いた作戦も決めた)である。この結果もたらされた凄惨な状況はもろに最前線の兵士たちに降りかかってきた。その状況は辛うじて生還した兵士たちからの証言が物語っている。
 そして本書は、こうした事態を招くに至った日本軍隊そのものの特質に迫る。
 これについての項目を上げれば、「精神主義への過信」(=白兵主義への固執)、「兵士の人権の無視」(=厳正な軍紀への絶対服従)、「兵站部門の軽視」(=輜重兵科、経理部、軍医部への差別)、「幹部教育の偏向」(=精神教育の重視と陸軍幼年学校出身者の要職独占)等々である。
 さらに「戦陣訓」の「生きて虜囚の辱めを受けるな」という「日本軍の捕虜の否定、降伏の禁止というきびしい方針は、戦況不利の場合に日本軍にたいし悲劇的な結末を強制することになった。餓死か玉砕かという選択を、いやがおうなしに迫られることになったのである」。
 これについて本書は厳しく批判する。
 「尽くすべきことをすべて尽くし、抵抗の手段がまったくなくなっても、捕虜となることを認めない思想、万策尽きた指揮官が部下の生命を守るために降伏という道を選ぶことを許さない方針が、どれだけ多くの日本軍人の生命を無駄な犠牲にしたかわからない。どんな状況の下でも捕虜を許さず、降伏を認めないという日本軍の考え方が、大量な餓死と玉砕の原因となったのである」。
 「そもそも無茶苦茶な戦争を始めたこと自体が、非合理な精神主義、独善的な攻勢主義にかたまった陸海エリート軍人たちの仕業であった。そして補給輸送を無視した作戦第一主義で戦闘を指導し、大量の餓死者を発生させたことも彼らの責任である。無限の可能性を秘めた有為の青年たちを、野垂れ死にとしかいいようのない無残な飢え死に追いやった責任は明らかである」。
 まさしくこのような戦争を遂行できた構造を明らかにし、その根底的な批判へと導く必読書であると言えよう。

 なお兵站部門について付記すれば、本書では、対米英戦争を開始するにあたっても、日本陸軍は基本的には馬編成であったことが指摘されている。そして開戦時までに自動車編成になったのはわずか3個師団のみで(36年度の動員計画では全軍30個師団、人員148万人、馬35万頭であった)、他のすべての部隊に、乗馬、輓馬(ばんば、砲や車をひく馬)、駄馬(荷物を背負う馬)が配属されていた。この事実だけでも、戦車や牽引車や自動車を全面採用していた欧米諸国の軍隊との差は歴然としているが、これは国内の自動車工業の未発達と関係があった。
 戦争が拡大するにつれて多数の馬が徴発されたが、軍需品としての馬は戦地に送られて死ぬまで使われた。戦争の全期間を通じて、どれだけの馬が犠牲になったのかは明らかでない。しかし41年開戦当時の陸軍の兵員は228万人、馬は39.4万頭という数字から推定すれば、敗戦時の陸軍総兵力は547万人であったから、100万頭近い馬がいたことになる。
 本書は述べる。「日中戦争いらいの損害、とくに戦争末期の大陸打通作戦や南方諸地域での犠牲と、敗戦のさい外地に置きざりにされた数を加えると、戦争による馬の犠牲は、100万頭に近い数に達するはずである。少なくとも生きて還った馬は一頭もいない」と。
 「補給の軽視と地誌調査の不足」という日本陸軍の方針がもたらした結果の一端がここにも垣間見える。(R)

No495のTOPへ トップページに戻る