【投稿】「地方分権と政治改革」(by 依辺 瞬) 
【投稿】 地方分権と政治改革  総目次へ(ASSERT No205 1994-12
【投稿】 地方分権と政治改革(6)--Assert No.210 (1995-05)に掲載
3, 行政の果たす役割と地方分権(続き)
<市場メカニズム依存の問題点>
 福祉政策に関わる記述が長くなっているが、地方分権のあり方は「めざすべき政府像」と密接に関わる課題であると同時に、現在、戦後確立された福祉政策の枠組みを大きく転換する動きが進行中であるので、もう少し検討を続けさせていただきたい。
 特に、前々号から措置制度という日本の福祉制度の根幹をなす制度変革の動きに注目しているのは、この動きがこれまでの市場原理・自助努力原則の部分的具体化にとどまらない質を有しており、国(中央政府)や地方自治体(地方政府)の役割を規定してしまう重要な課題だと考えるからである。
 福祉サービス分野における市場メカニズム依存は、権利性や公平性、サービスの質の担保の観点から問題が多いということをこれまでに述べてきたが、その点についてさらに詳しく述べておきたい。
 前号で、「高齢者保健福祉推進十か年戦略(ゴールドプラン)」の策定と時を同じくする1989年、福祉分野での民間活力導入のために民間老後施設促進法(WAC法)という法律が制定されたことを紹介したが、この法律に基づく「WAC(ウエル・エイジング・コミュニティー)事業」のその後について、1994年7月28日付の朝日新聞は「民間中心の高齢者施設計画暗礁に」「民活で福祉やはり無理?」「大半、断念か見直し」「補助あっても採算がとれず」という見出しで、次のように伝えている。

「…『WAC事業』が、全国各地で暗礁に乗り上げている。『高額の入居金が必要な有料老人ホームへの入居者を集めるのは困難』と判断し、計画を見直す地方自治体が相次いでいるためだ。国の補助金で計画をつくった全国13カ所のうち10カ所が計画を断念したり、事業化のめどを立てられなかったしている。高齢者福祉分野への民活導入のあり方について改めて論議を呼びそうだ。」

 「WAC事業」の頓挫は、高齢者福祉において求められているサービスや、高齢者世帯の経済状況に対する理解不足に起因している。すなわち、高齢者福祉において求められているサービスは、一定水準の質が確保された基礎的・必需的サービスであって、選択性の高い、高度な質は持ってはいるが負担も大きいサービスではないということである。特化された採算性の高いサービス分野に民活を導入し、高齢者のニードをこうしたサービスで受けとめれば、全体としての公的負担を圧縮できると厚生省は考えたのかもしれない。しかし、バブルの崩壊による経済状況の変化もあって、そうした幻想は吹き飛ばされたといえよう。今日の社会保険制度としての介護保険制度導入の動きは、WAC法の反省を踏まえたものか、同じ市場メカニズムの活用を図るものでも、はるかに現状適合的ではある。しかし、市場メカニズムに対する「幻想」を抱えているという点では、WAC法の場合と同質であろう。
 さて、福祉サービス供給の市場メカニズムへの依存は、どんな問題点をはらんでいるだろうか。
  医療・福祉サービスを市場メカニズムによって供給しているアメリカにおける危機的状況や問題点は、阪南中央病院内科医長・岡本祐三氏(以下「岡本氏」と記す。)の著書「医療と福祉の新時代−−『寝たきり老人』はゼロにできる」(日本評論社、1993年)に詳しい。岡本氏はこの著書の中で、アメリカでは福祉サービスを市場メカニズムによって供給することで、莫大な個人負担の発生、中間層の貧困層への転落、北欧諸国では見られない「サービスの質の低下」などを招いており、結果的に総体としての社会的コストが膨大なものとなっていることを指摘し、その原因について次のように述べている。

「弊害(アメリカのナーシングホームの営利主義的弊害の意:引用者注)の根源はそうではなくて(営利方式でサービスを提供していることそのものの意:引用者注)、つねにサービスの需要が供給を超過しているために、市場原理の最大のメリットである競争原理が働かないことにある。そのために、サービスのレベルを最低限度まで落としても営業が可能になる。また、株式会社という投資家の利益を最優先する経営原理の欠陥が露骨に出てくる」( 128頁、第7章「失敗した福祉の商品化」)

 この指摘を踏まえると、福祉サービス分野において市場メカニズムが適正に機能するには、次の条件が必要だということになる。それは、第一に、需要に対して供給が超過する「成熟した」市場であること、第二に、供給主体の経営原理が福祉サービスという人権保障の実現のためのサービス提供組織として適合的であること。そして私は、第三に、第一の点に関連して、サービスの購入者(例えば高齢者)が市場の中で本人の意に沿った「選択」を真に可能とする条件が存在するかどうかを付け加えたいと考えている。
 第一の点に関して、現状は「論外」である。高齢者保健福祉計画も具体化が開始されたばかりで、介護基盤の現状が極めて脆弱であるとの現状認識に異論はなかろう。こうした介護基盤は、言わば「福祉インフラストラクチュア」と位置づけられるような社会資本として公的に整備されなければならないものである。だとすれば、介護保険制度は基盤整備の促進にどう寄与するのだろうか。
 この点について、大森彌・東京大学教養学部教授を座長とし、岡本氏も委員をつとめた高齢者介護・自立支援システム研究会が1995年12月に発表した「新たな高齢者介護システムの構築を目指して」という報告書(基本的な考え方は前号で紹介した厚生省研究会報告と同趣旨である)は、次のように述べている。
 すなわち、一方で「…現状では、在宅サービス・施設サービス双方ともに、サービスの絶対量が不足しているほか、市町村間で大きな格差があり、さらに、都市部では施設整備の立ち遅れ、過疎地では専門的な人材の不足等の問題がみられる」「(市町村において)なお一層の基盤整備に取り組むことが強く望まれる」と指摘しながら、続けて「また、社会保険方式に基礎を置いた新介護システムの実現により、サービス提供体制の急速な進展が図られ、全ての高齢者にとってサービス利用の公平性が確保されるようになることが期待される」(「6.介護基盤の整備」、21頁)としているのである。
 「社会保険方式に基礎を置く」ことで、なぜ「サービス供給体制の急速な進展」が期待できるのか、唐突な感が否めないが、それはどうやら「市場メカニズムを活用したシステムは、多様な資金調達の途を開き、サービス基盤整備を促進することにもつながると期待される」(19頁)からであるらしい。しかし、先行した社会保険制度である医療保険制度の創設時に、「保険あって医療なし」と言われ、今なお、過疎地医療の問題など医療資源の偏在に頭を悩ませていることを踏まえるならば、あまりにも楽観的に過ぎる見通しだと言えよう。
(※注:この点に関して岡本氏は「国民皆保険制度の発展の過程での『無医地区』解消や国保直営の診療所や病院が普及した歴史をみれば、強いサービス供給促進の仕組みとしても機能し、…」<「社会保険旬報 No1860,1995.1.1>と正反対の評価をされている。しかし、仮に医療保険制度がサービス供給促進に寄与したとしても、医療保険制度の「何が」サービス供給促進に寄与したのかは検証されなければならないだろう。私は「薬価差」により利潤確保が可能になる仕組みの存在が医療供給を促進したのではないかと見ている)
 第二の点に関しては、日本の場合、社会福祉サービスの多くは社会福祉法人によって提供されている。こうした法人は営利を追求することを目的としていないとはいうものの、施設運営における「経済効率」からは決して自由ではない。一方、医療法人の場合、その多くが経済的利益の追求に走っていることは、誰もが知っているところである。福祉サービスの質は、結局のところ投入できるマンパワーの質と量で決まる。ところが、これは「経済効率」を著しく低下させる。現在の医療保険制度の下で、乱脈診療や老人病院(入院医療管理病院)における老人の非人間的処遇をどれだけ是正させ得たか。社会保険制度の導入は、福祉サービスを公的に給付すると位置づけている現在に比べて民間法人に対する公的関与を低下させることになるから、大きな不安が残る。考えてみれば、「サービスの質は競争原理で維持する」とは、現実的には「悪いサービスを供給したところは評判が悪くなり、利用者に敬遠されることで淘汰される」という意だろう。しかし、非人間的処遇により一人の高齢者の人権がひとたび侵害されれば、仮に競争原理で次の侵害が防止できたとしても、すでに侵害された人の人権は取り戻しようがないのである。社会保険制度の導入に際しては、併せて第三者的な評価機関や苦情処理機関の設置が検討されているようだが、市場メカニズムに委ねるという選択の上で強固な「規制」を設定するというスタイルには大きな疑問が残る。一方で進んでいる「規制緩和」の流れとの間にあつれきを生じ、なし崩しにされる危険があるからである。
 第三点に関する問題は特に重要である。選択当事者たる高齢者やその家族はサービスの提供者に対して真に対等な契約当事者たり得るだろうか。この点では、私は前号で紹介した村田氏の批判に考え方を同じくする。現実の福祉現場で直面しているケースを想起すると、本人の選択や自己決定を実現するためには、提供する選択肢の多様さのみならず、自己決定を支える多くの関与が必要な場合が多い。また、要介護者の状態は千差万別で、手がかかる要介護者ほどサービス提供者側の「効率」を損なうことから、本人やその家族の立場は弱くなっている。実際、重度の介護を要する高齢者が、ある施設で非人間的処遇を受けたからといって、契約をさっさと解除して別の施設に移るということなど事実上できない。もちろん、介護保険システムの導入に併せて、「ケアチーム」によるサービスの総合的提供や「ケアマネジメントシステム」の導入、例外的な行政による緊急的保護措置などが提言されている。しかし、こうした機能は福祉サービスを公的に給付する現行制度の改革方向として位置づけてこそ、より実効性を持つものではないだろうか。
 結論的に言って、私には、日本の現状の中で、高齢者介護に対して社会保険制度を導入することにより、基盤整備が促進され、競争原理が有効に働き、適正な市場メカニズムが機能して、高齢者の「権利性」が高まるとは到底思えない。
 むしろ私は、現行制度がかくも否定的に総括されるのはなぜなのかという点を突き詰めねばならないように思う。具体的には、先の高齢者介護・自立支援システム研究会などが現行システムを否定的に総括する際に持ち出す、次の議論の検討が必要であろう。

「さらに、その財源(『措置制度』を基本とする老人福祉制度の財源の意:引用者注)は基本的に租税を財源とする一般財源に依存しているため、財政的なコントロールが強くなりがちで結果として予算の伸びは抑制される傾向が強い。我が国においては、社会保障給付費で見ても、医療と年金が9割を占め、福祉分野は低いシェアにとどまっているが、その背景の一つには、このような福祉制度自体の制度的な限界をあげることができる」(報告書「2.現行システムによる対応」、8頁、下線は引用者)

 「租税を財源とするから」「予算の伸びが抑制される」→だから「福祉制度が拡充できない」→これは、「制度的な限界」である・・この論理には、とてつもない飛躍がある。一言で表現するなら、現在の措置制度見直しの議論は、予算編成上の、換言すれば硬直的な予算編成を続ける現在の「政治の怠慢」を「制度的な限界」へすり替えることから、ないしは、日本の政治風土や政治勢力に対する「あきらめ」を前提に行われているように思われる。

<「分権自治型福祉」の必要性>
 厚生省はゴールドプランの策定の頃から「福祉の一般化」という考え方を打ち出してきた。すなわち、これまで限定された所得階層に対する救貧対策としての福祉を、所得の多寡にかからずサービスを必要とする誰もが適切なサービスが受けられるようにすることである(図3)。

 ここで注意しなくてはならないのは、一般化し、拡大されたサービス領域では、当然のことながら負担能力に応じた一部負担制度が導入されており、必ずしも全額を公費でまかなっている訳ではないことだ。しかし、この路線を採用し、なおかつ現状の社会福祉制度を変えないと、厚生省の社会福祉関係予算は膨張の一途をたどることになる。しかし、それでは現在の硬直した予算配分シェアと厳しいシーリング規制の下で予算対応ができなくなる。そこで、「福祉の一般化」は放棄し、「福祉」は縮小再規定、拡大必要領域は脱福祉化した一般政策(国庫負担が義務的ではなく、財政状況に応じて柔軟に対応できる)で対応しようとする路線に転換したものと思われるのである(図4)。

 この考え方の整理には、次の考え方が大きなポイントとなっている。すなわち、いかなるニーズまで公的に保障するのがそもそも合理的なのかについて、一定の基準設定を国(厚生省)が「論理性」に基づいて行ったということである。それは、おおむね次のようなものだと推測できる(下表1)。

 例えば、高齢者介護というリスクは、不可避のリスクであるから、公的に保障する。しかし、子どもを保育所に預けて働くというのは、自己の選択によるリスクであるから、基本的には自己責任原則により契約で対応してもらう。ただし、低所得世帯で生活維持のために就労せざるを得ない場合は、偶発的なものであるので公的に措置するというような整理であろう。
 しかし、こうした考え方には、先に述べた市場メカニズムへの依存という危険性以外にも、次の問題が指摘できる。
 第一に、こうした再規定された「福祉」は前世紀的発想による「福祉」の質を持ってしまい、対象者に今以上の劣等感(=「stigma」スティグマ)を感じさせる恐れがある。「福祉のお世話になるのは嫌だ」と言っている人が、社会保険や契約でサービスを確保できるようになれば、それはそれで結構なことなのかもしれないが、その一方で、引き続いて「福祉」の対象となる人々にとって、制度改革はどのような影響を与える
のだろうか。例えば、同じ保育所の中に直接契約で入所する子どもと、公的に措置される年収 500万円以下の世帯の子どもができることは好ましいことなのだろうか。岡本氏は、現行の措置制度について、「圧倒的な財政制約のもとに、ニーズに対して社会資源が極端に不足し、ますます適用が制限的になり」、「世帯破綻に瀕した市民に対して、優先的に限られたサービスを給付せざるを得ないために」、「必然的に給付・サービス利用をスティグマ化(恥辱化)していった」(社会保険旬報No1860,1995.1.1 )と指摘するが、この場合の問題の核心は「社会資源の極端な不足」といういわば量的な問題である。しかし、新たな制度におけるスティグマ化はシステム上の問題であるだけに、更に根は深いというべきであろう(こうした点を含め、介護保険制度の批判的検討については、里見賢治・大阪府立大学教授の論文「高齢者介護政策の新展開−公的介護保障の課題と介護保険の問題点−」<「市政研究」95年春号、大阪市政調査会>に詳しい)。
第二に、そもそも「公共性」の基準というものは、いかに決定されるのかという点において疑問がある。つまり、国が、言い換えれば中央政府の行政官僚が、「論理的」に、公的保障が妥当なのはこの水準だということを設定できるものなのであろうか。
 そこで私は、ドイツの社会学者・ハーバーマスが指摘する「公共性の転換」という考え方に改めて注目したい。すなわち、公共性の付与とは天与のものではなく、市民合意に由来するというのである(「公共性の構造転換/市民社会の一カテゴリーについての探究」ユルゲン・ハーバーマス、未来社)。とすればこの問題は市民利害の調整機能としての「政治」、なかんずく市民生活に直接影響のある福祉政策を担うべき地方政治のあり方、すなわち「地方分権」の課題と関連させて考える必要があることが見えてこよう。現在、自治労が「分権自治型福祉制度の創造」を提唱しているが、まさにそうした観点が必要なのである。
 私は次のような概念図によって考え方を整理している(図5)。図4と比較すれば明らかなように、必要な福祉サービスの給付は公的に給付すること、その財源としては国税・地方税を含めた租税を前提にしている。ただ、基礎的・必需的サービスはナショナルミニマムとして財源の措置を含めて国がその実現に責任を持つこととし、それを超える部分については、地方自治体(地方政府)が拡充された財源と権限に基づいて公的に給付すべき福祉水準を確立するということにしている。もちろんナショナルミニマムとローカルオプティマムの境界は可変的なものであるし、最終的にはわざわざナショナルミニマム保障部分について別途の財源措置などを行う必要のない段階が来よう。だが、当面こうした措置を図らないと、憲法上の権利である生存権が住む地域によっては保障されないという事態になりかねないと、私は考えている。

 こうした役割を果たし得る地方自治体(地方政府)を確立するためには、税財源の配分をはじめとした地方財政制度、地方自治体行政の改革、そして何よりも重要な「市民合意」を形成するための地方政治の改革が重要である。
 政治改革の実現とは、こうした中央・地方を含めたマクロ的な視点で取り組むことが必要な課題なのである。
         (1995.5.12  大阪・依辺 瞬)
 続きへ(No211 1995-06)