【投稿】 思想の中じきり  --- 現代とは何か ---

池田
(1993年3月13日)

  <はじめに>
  <現在の特徴>
  <現在についての若干の注解>
  <マルクスの唯物史観>
  <現在の経済過程の到達点>
  <マルクスの構想の読解>
  <生産過程からみた共産主義の特徴付け    
  <終わりに>


    前編を、青年の旗( No.189 1993年8月15日)に掲載、
    後編を、青年の旗 (No.190 1993年9月15日)に掲載しました。

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<はじめに>
 思考において現在を把える事は、それが、どれ程の意味を持つかは別にして、そして、結論から言ってしまえば、そんな事はたいした意味がないというのが、まさに現在の可能性であると思っているが、ハードトレーニングが必要だ。また、この事は、現在を思考における現在として証明し、認識し、把えること。また、その唯一の方法でもある。これは、現在に到る全ての媒介を思考において一つづつ踏み固め、思考において現在を再構築するという作業でもあり、私としては、現在とてもその力量はない。
 しかし、便利な事に、私の意識(これは言語を媒介に社会的に規定された自己意識にすぎず、しかし、この自己意識は諸個人を介在してしか存在しえない)において世界は、現実は、所与のものとして存在しているということである。従って、その世界の存在が、その必然性において把握されるか否かにかかわらず存在するという事である。「もともと、現実の世界の状況は、その実相を手に触れることができないように仕組まれている。だからそこでは、想定される実相に対して、どのような認識の水準をあらかじめとろうとするかが問題となる」(吉本隆明は、現象学の立場をはなれない。私ははなれうると考える。しかし、思考を対象化せざるをえない限りは現象学的であらざるをえないが)
 そして、同時に、世界を把握するための方法、構想がすでに存在するとみなしたい。
 以下の主張は、マルクスの思考を媒介にすることによって獲得しようとする現在についてのオピニオンの意味をなすにすぎず、決して証明されたもの(証明したいと思ってはいるが)ではない。なさけない事に問題意識の開示にすぎない。端的にいえば、私にみえる現在の可能性であり、それを表現したいという衝動です。現在とは何か。どこへ行こうとするのか。現在の可能性とは何か。これを一言で表現すれば、資本制総体の克服としての、そして狭義の意味における”共産主義がやってくる”という事になる。
 これは、どのような世界のイメージとその可能性となるのか。

<現在の特徴>
@世界に関していえば、国民国家、民族国家が超えられつつあり、国家・民族国家が死滅に向かいつつあるという事。事実、世界は民族問題をはらんでおり、南北問題を生起し、解決されていないが、世界の最先端においては民族国家を超えつつあるということである。これは、以下に指摘する全ての問題が対立の中を進む事、すなわち逆の問題をはらんでいるが、世界の最先端においては、国家を超えつつあるということだ。これをイメージとして表現すれば、世界連邦と分権化された地域コンミューンすなわち自治体というイメージになる。

A私はPKOを非軍事、民主、文民に限定すべきであるという主張には欠陥、正確にいえば、不十分あるいは矛盾を含むものであると考えている。日本国憲法にみられる軍事における主権の制限が現実性をもちうるのは、世界連邦と国連軍の存在が担保された時である。冷戦前の第二次世界大戦後の世界情勢は、そのような可能性をはらむものであった。人類が初めて世界をコントロールしえる地点に到達したのは、第二次世界大戦を闘い抜いた結果であったと考えている。従って、この時点では日本国憲法は擬制ではなかった。また、当時から国連軍という構想は存在した。ごく単純化していえば、市民社会内部の階級間の闘争が、社会を破壊するのを防ぐために国家が必要である(スピノザやホッブス、ルソーが民主主義=国家を導出する論理)と同じように、国家間の闘争(戦争)を止揚するためには、国家間の一時的な妥協・協定などの恐怖の均衡によっては不可能であり(集団的安全保障が無意味だといっているのではない)、世界連邦と国連軍の存在が必要である。国家主権の制限に対応する「国際国家」(世界連邦)の存在が必要である。これが現実的な課題として登場したのが、冷戦後の世界情勢である。
従って、現在、軍縮が最大のテーマであるというだけでは不十分だ。同時に、世界連邦あるいは、国連軍と日本国家あるいは自衛隊の関係をどうするのかが問われている。
 従って、自衛隊に対応するシビリアンコントロールの徹底と軍縮は必要であり、世界連邦、国連軍が必要であり、同時に、戦争の原因は軍事力ではなく、この原因は軍事力以外の手段で解決しうる。そして日本は軍事以外でのあらゆる努力を行うというテーゼと現実的な構想を対置しない限り、PKOを非軍事、民主、文民に限定するという主張は一貫性をもちえない。

B日本の象徴天皇制をめぐる問題である。
 天皇制をめぐる論点は、吉本隆明や鷲田小弥太がのべつくしている。しかし、鷲田は象徴天皇制にこだわりすぎていると思う。私のイメージでは、スウェーデンの王室が市民と同じように街を歩き、マーストリヒト条約によってオランダの紙幣から王室の肖像が消え、イギリスの王室がスキャンダルで市民の批判にさらされたと同じように象徴天皇制は意味をなさなくなっていく。それはヨーロッパにおける王室よりも若干息が長い程度ではないか。鷲田の言い方を用いれば、象徴天皇制が戦後民主主義=「大衆の国家」に適合的であったように、逆に、国際化と、民主主義が徹底的に象徴天皇制に浸透する事によって天皇制は意味をなさなくなる。死滅する。

C中央集権制が限界を迎えており、国家は分権化へむかう。国家は、国際化(世界連邦)と分権化へ両極化する。分権化した地方自治体は成熟した市民社会(?)に最も適合的な国家の形態だ。中央集権制と分権を単純な対立によって把えることはできない。中央集権制の徹底の結果として分権に到るというイメージが必要だ。中央集権制が限界に達しつつあるということ。これは、コンピュータの高度化をめぐる論争の中で集権型(集中型)か分権型(分散型)かという論争と同じようなものである。(コンピュータの持つ意味については別に述べる)
 日本の中央集権制は、非常に効率的な国家の形態であったという程度の総括は必要だ。日本は戦後一貫して政府(自民党政府)主導の改革路線できた。そしてこのシステムが諸利害を調整する上で最大の力を発揮してきた。そしてこのシステムが現在機能不全に陥りつつあるということだ。
 いずれにしても、この分権化を如何に徹底的に、そして早く、効率的に進めるのかが現在の政治の最大のテーマである。

D政治のウェートが低下する。これは、イコールではないので少し、慎重ないい方が必要だが、オルタナティブ(対案や解決策)といったレベルの問題ではなく、政治のウェートが低下する。より正確にいえば、政治の概念、利害の概念が変化するという事。

E労働運動あるいは、労働者階級の解放運動という次元では、前衛主義の解体ということだ。「知識と労働」といういい方も含めて、右も左も含めてあらゆる形での前衛主義・啓蒙主義は不毛であり無効だ。日本共産党が無効ならば、あの鼻もちならない「保守主義者」西部 邁のようなエリート主義も無効だ。西部個人の人格が無効だといっているのではない。念の為。知識人と大衆、エリートとノンエリート、党と大衆、前衛と大衆という全ての対立は無効だ。この事を可能ならしめる本源的な規定は、資本であり、今日的にいえば、自由時間の拡大と情報化である。

Fイデオロギーの領域では、この文章の全体が、いわば、イデオロギーに関するものであり、この点は繰り返し主張することになる。
 私の感心についていうと、これまでのイデオロギー、わかりやすくいうと「価値観」といわれるものの崩壊家庭が進行しているように思える。例えば、「会社人間」「ぬれ落ち葉」「セクハラ」等々。また、「グローカル」などというおもしろい言葉も生まれている。このイメージをうまく表現できるかどうか分からないが、金丸批判の中で現れているのは、「政治家は特権でない」という批判ともう一つ、「政治家の権力志向と本質的な能力主義に対して、なぜあんな無意味なことをするのか」という批判が含まれているように思われる。少しまとめると80年代以降、フェミニズム、エコロジー、ノーマライゼンションというような思想が日本に登場しているが、イデオロギーの準位、レベルでいうとノーマライゼイションというイデオロギーは、差別を超える、もう少しいえば、能力主義や競争主義さえ超える、さらに踏む込めば、経済の分配における「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という原理と等価なイデオロギーである。端的にいえば共産主義のイデオロギーだと考えている。吉本隆明の「重層的な非決定」というイデオロギーについての包括的な規定も、これに照応するものだと考えている。

G経済の領域についていえば
 (1)所有形態からいうと法人資本主義の次に来るものは何なのかという事。日本では企業の自社株保有が認められていないがバブルの崩壊を機にこれを部分的に解除する動きがみられる。アメリカでは、企業の乗っ取り、買収が日常化しており、企業が買収に対抗して自社株を所有するケースが多いという。このような企業をどのように規定すればいいのか。
 日本では、敗戦に伴う、財閥解体の結果@企業が安定株主対策としてA系列化としてB資本市場での資金調達の手段として企業が相互に網の目のように株式を所有し合うという法人資本主義といわれる所有形態を形成してきた。ここからは、経済学を専門とする人に教えてほしいと思っているが、このような所有形態を消極的には、オーナー的な、排他的な私的所有に対立する所有形態があると一応は規定しうる。では積極的にどのように規定しうるのか。また、法人資本主義の次にやってくるものは何なのか。

 (2)連合白書や労働白書は、21世紀へ向けて労働力不足を指摘している。構造的な人手不足にまといつかれた資本主義とは何なのか。また、現在の資本の人口「法則」とは何なのか。さらに、家族の形態の変遷がなぜ生じるのか。労働力供給面で高度成長を支えた、農地改革の意義など、様々な根本的な問題がある。
 今後予測される労働力不足に対して、もちろんそれ以外の対応策は可能であるが想定されるケースとして@女性の労働力化率を更に高めることA高齢者の労働化率を更に高めることB外国人雇用の拡大という事になる。これらは、いづれも社会の改革を伴い、また、もたらすものである。例えば、女性の労働力化率を高めるためには、男が会社人間であることをやめ、同時に時短を促進し、休暇、休業、さらに保育所や教育条件の整備、税制や年金制度の改革、生活の分担を含めたイデオロギーや習慣の改革抜きには、1.53という出生率が更に低下するという結果となり、高齢社会問題をより深刻にする。ちなみに、女性の労働力化率の高まりと出生率の低下、高齢化問題をテコに、日本の現在の人口動態とスウェーデンの歴史的経験をふまえ、「共同的生活手段」の比重の高まりから国民の税負担率の変化と分権化への流れを後づけようとする岡沢憲芙の構想は、日本の近未来(岡沢は、現在の日本が、スウェーデンの30年前の状況と類似していると断じる)を描くものとしておもしろいし、参考になる。彼の主張を踏まえれば、高齢者福祉計画や育児休業法、パート労働法など厚生省や労働省が大衆の風圧を受けながら、従来の政策の大転換を政府内におけるクーデターに近い形で進めざるをえない理由がよく解る。また、消費税導入の勝利者は厚生省であった。岩波新書で「スウェーデンの挑戦」が出版されている。また、「自治労通信」という組合の機関誌に「高齢化の時代における豊かさの政治選択」という講演録がある。一読を薦めたい。
 女性の社会参加(経済的視点からすれば、労働力の価値分割)と出産率の低下、高齢化社会に伴う、核家族の解体と新たな家族形態の再生のドラマ。この過程で、生涯労働時間の短縮と多様で質の高い「共同的生活手段」の役割・比重が高まらざるを得ないこと。そして、この事が、国民の税負担を高め、税についての意識を変え、そして、分権化を促進するという論点は、非常におもしろい。確かに、「共同的生活手段」の欠除、未整備による社会的不安に対して貯金で対応せざるを得ない社会が豊かであるとはとてもいえない。唯、税の問題に限定すれば、日本の企業の実態からすれば配当と税を含めた実質的な負担率の強化が行われなければならない。現状で言うと、法人資本主義とは、企業がオールマイティーの社会だ。税制を含めた、企業に対する社会的規制の強化は必ず必要だ。
 労働力不足は、もう一つ別の論点を提起する。それは、労働市場の逼迫による労働組合機能の高まり、これを通じた法人資本主義への労働組合(労働者団体)による規制という論点である。この点は労働組合運動の展望、未来にかかわる部分でもあるが、書くと長くなるのでおいておく。
(3)第3は、経済のサービス化という問題だ。これについては、より厳密な経済学的な規定が必要だ。端的にいって、マルクスが資本論の中で対象としたのは、まず、人間の物質的実存諸条件の生産、すなわち、物質的生産であり、これに照応する剰余価値(利潤?)を生み出す生産的労働である。従って、経済のサービス化という問題を積極的に展開する場合、少なくとも、物質的生産に対立する非物質的生産として、そして、不生産的労働を含み、精神的労働をも含むものとして展開されなければならないと考える。もちろん、非物質的労働と不生産的労働と精神的労働とサービス労働は、概念や対象をイコールの関係で結ぶことはできないから、この関係の整理が先だ。そして、この構想の中には、マルクスの経済学批判の体系がそうであったように、国家を含む、但し、上部構造としての、すなわち国家としての国家ではなく、生産過程に含まれる国家である。すなわち、市民社会の総括としての国家である。
 ここでは、このようなややこしい問題を言いたいのではない。従って、逆に、消極的に問題を立ててみる。経済のサービス化という現象を一応、非物質的富の生産の拡大と規定するとサービス業に従事する就業人口が6割を超えるという現象は、少なくとも、物質的な富の生産に従事する就業者、労働者の割合が低下しているという事。すなわち、物質的富の生産力が飛躍的に高まっている事を意味する。これは、どこまで高まりうるのか、また、この現象がどのような意味を持つのか。
 この問題については、吉本隆明が「ハイ・イメージ論」の中で、高度情報化革命(エレクトロニクス技術革命)の生産への適用とそこで得られる可能性について語っている。
 ここで得られるイメージは、鉄腕アトムで育った私達の世代には別に難しい話ではなくて、又、これが意味ある事かどうかも別にして、可能性としては、社会の全ての生産工程をコンピューターシステムで制御することが可能だという事である。すなわち、物質的富の生産力を無限に高め、又、この生産に従事する労働力を無限に小さくする可能性をもったという事だ。これが何を意味するのか。
(4)この問題に直接的に関連するが、労働時間の短縮と自由時間の拡大である。現在、日本は年間1800労働時間をめざしているが、ドイツやフランスでは1500時間から1600時間台である。これがどこまで短縮可能なのか。1500時間台になれば、ほぼ、週休3日制に相当し、生涯を83年とし、定年を60才として、18才以降、睡眠時間を除く全生活時間に占める労働拘束時間の割合は、2割程度になる。これをどこまで短縮しえるのか。又、この事の意味は何なのか。

<現在についての若干の注解>
 このようなイメージを結ぶ現在をどのように把えればいいのか。このような現在を認識する方法や構想、思考が存在するのかがテーマである。
 このイメージを抽象化し、簡単にいうと諸個人の自立の可能性が飛躍的に高まったということ。同時に、人間が人間を支配することが困難な地点に到達したということだ。このことは、ここでいう支配が被支配者にとって無自覚だという含意を超えている。なぜなら一般的にいえば、常に支配とは、被支配者の無自覚な、あるいは自覚的な同意なしには成立しない。これは、対立を含む相互関係であるにすぎないから。
 ここで、2つの問題について注を入れる。第1に、私は、現在の否定面、より正確にいえば、現在の対立のもう一つ逆の側面を意識的に描いていない。だから、私のイメージは一面的であり、楽観的なものにすぎないという点に対してである。
 例えば、現在の日本の生活が環境問題や「会社人間」等々「貧しく」みえるのは、現在の「豊かさ」に到達しなければ不可能だということ。一つの原理は、それをとことん行かさなければ(展開されつくさなければ)その限界が明らかにならないという事。もう一つは、新しい現実が、過去のイデオロギーとの関連において、そして人間の思考とはすべからくこのようなイデオロギーにまといつかれているのだが、このイデオロギーとの関連において困難に見えるという事。そして私の主張からいえば、このイデオロギーの組み替えと新しいイデオロギーの創出がまさに現在の一つの課題であるということになる。また、これと類似することだが、一つの現象だけを把え、現実の全体、主要な傾向を否定する事をしたくないために。必要な事は、このような現象を現象として全体の中に位置づけることにある。同じ事だが現実の具体的な形態を、思考において再構築することが課題であるのに、これを抽象的な一般に還元し、この抽象的なものを再確認するだけで満足し、思考において一歩も前進しないこと。このような思考に不満なのだ。
 第2の注は、これは、イデオロギーや政治過程という上部構造にかかわる課題について表現した方が正確と思うが、日本の場合、変革の課題が、二重、三重に重層的にそして同時に出現していることである。これを原理的にいえば、ブルジョア民主主義の徹底の課題と「社会主義段階の課題」、そして、狭義の共産主義段階の課題が、同時的に、重層的にそして相互に関連しあって出現しているということである。こんな表現が古いかどうか、あるいは、有効か無効か解らないが、旧来の方法でもって、現在の日本の革命戦略を規定すれば、ブルジョア民主主義の徹底の課題を部分的に含み、社会主義的任務を負う、狭義の共産主義革命ということになる。
 どういうことか。政治の領域では、1票の投票価値の平等を求める課題。この1票の格差が米価と公共事業を通じて地方の都市に対する「独裁」を可能としてきた。この「独裁」とは、あくまでヒユ的なものだ。また、この都市と農村(地方)というテーマに触れるとなぜ、都市の賃労働者、サラリーマンが、自立しないかというテーマになるが、この点については、プロレタリアートは、3代を経て一人前になるという学生時代に何かの講演で聞いた話があたっていると思う。ほぼ団塊の世代の子供達からプロレタリアートの三代目が始まっている。ついでにいっておくと、プロレタリアートとは、経済的には賃労働者という規定でいい。これを例えば、工場労働者といった具合に特定に生産、労働の形態と結びつける必要はない。
 この1票の投票価値の平等を求める課題と現在主要なテーマだといわれる政権交替をめぐる課題と分権化やPKOといった課題は、レベル、準位、原理が違う。また、イデオロギーの領域についても、エコロジーやフェミニズムとノーマライゼーションでは、その準位や原理が違っている。ひつこいようだが、これらの対象課題や対象領域が違っているということを指摘しているのではない。
 
<マルクスの唯物史観>
マルクスの思考を媒介にして現在についてのオピニオン展開するという限り、マルクスの思考、より限定すれば、マルクスの唯物史観=歴史の「学」の構想がどのようなものかを明らかにしなければならない。
 マルクスは、歴史を諸個人の生活の生産過程として総体把握する。そして、これは「物質的生活の生産過程」「政治的生活の生産過程」と「精神的生活の生産過程」に分割される。マルクスは、歴史と社会を三軸で把える。これに照応するのが、階級闘争の三形態、経済闘争、政治闘争、イデオロギー闘争となる。しかし、この3つの生産過程はこれまで考えられてきたようにピラミッド型に土台があり、上部構造があり、社会的意識形態があるというように3つの社会、あるいは3つの別々の領域があるというのではなく、この3つの生産過程が3層あるいは3重に相重なる関係にあり、領域を画された別々の領域、社会があるというのではない。
 例えば、イデオロギー的生産過程の対象領域は全世界である。しかし、イデオロギー(社会的意識)の生産過程は、独自の様式をもっている。端的にいえば、記号=言語を生み出し、これに媒介されるのである。
 マルクスがドイツイデオロギーの中でいっているように、「意識は生まれながら物質−−この場合は運動する空気層、音、要するに言語の形式であらわされるのであるが−−につきまとわれるという呪いがかかっている」「言語は、意識と同じだけ古い。言語とは、実践的な、現実的な意識である。」「諸観念、諸表象、意識の生産は−−ある民族の政治・法・道徳、宗教・形而上学などの言語で語られうる精神的生活の生産に関しても同じことがあてはまる。」
 精神的生活、あるいは、社会的意識の生産過程、生産様式は、脳の産物、属性だというだけでは不十分なのだ。言語を生み出し、媒介されるという関係が不可欠なのだ。いわば、構造主義は、この欠陥を突いたのだ。大脳生理学だけで人間の精神生活の生産様式は解けない。解りやすいイメージを得るために、コンピュータとの対比でいえば、システムとプログラムと入力項目が必要なのだ。従って「反映論」というが、この反映の関係と、その様式は結構「複雑」なのだ。しかも、人間の精神的生活の生産過程においては、言語を生み出すのみならず、イデオロギーを生み出し、学的な認識形態等々をも生み出す。そして、これが、人間の意識を通じて形成され、これが流通するのだが、個々人の意識からは独立して形成される。諸個人からみれば、これは所与なのだ。コンピュータとの対比でいえば、プログラムやシステムのようなものだ。赤ちゃんは生まれながら言語やイデオロギーを受容する能力をもって生まれてこない。但し、言語やイデオロギーをもって、フォイエルバッハ的にいえば、自己を二重化する能力をもって生まれてくる。
 同時にもう一つ言っておかなければならないことは、ここから唯物論がはじまるのだが、精神的生活の対象はあくまでも、精神的生活の生産物であり、現実ではないのだ。現実との関係は、媒介関係になる。従って、現実を生み出すことはできないのだ。もっといえば精神的生活の生産はその本質において受動的なのだ。すなわち、その最も主体的・実践的・生産的な形態において受動的なのだ。
 これは、精神的生産物である「理論」が、あるいは、「学」が、未来を予測しうるか否かという問題とは別だ。この場合、理論が現実の運動を反映しているから未来と合致しうる可能性をもつのであり、その逆ではない。
 確かに、革命には、意識の革命が先行する。意識革命なしには、現実の革命は起こり得ない。しかし、この意識の革命、イデオロギーの変革は現実的な根拠をもって遂行されるのだ。
 総じていえば、「物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的な生産諸過程一般を制約する」ということになる。
 このような、マルクスの構想を前提とした上で、現在につながるマルクスの思考が存在するか否かが問題となる。

<現在の経済過程の到達点>
 現在の経済過程・物質的生活の生産過程(そして、この生産過程に照応する生産関係の総体こそ経済的構造からみた社会であり、これが、下部構造であり、土台である)、この生産過程の到達点を一言で表現すれば、国際化、サービス化、高度情報化(マイクロエレクトロニクス技術革命を含めて)と一応は規定しうる。もちろん、現在の経済過程の到達点の様々な現象をこれに対応するコンセプトで無限に結びつけることは可能である。その意味で、この一応の規定が十分な規定であるとはいえない。
 このような現在の経済過程の到達点を解く鍵は存在するのか。これが問いである。
もちろん、マルクスは、現在の経済過程の到達点を知らなかった。しかし、マルクスの思考の中に、現在に到る、あるいは、現在につながる、また現在をこえる思考は存在するし、また、その言明もある。
 唯、マルクスは、これを学的な形式において証明しなかったと思う。このような言い方が正しいのか、私には、解らないが、マルクスが獲得した資本の概念の延長あるいは自己展開の中に、現在に到る言明は存在する。
 そしてこの直接的な言明は、私の知る限り、少なくとも4つある。
 第1は、経済学批判要綱である。このうち、引用するのは、「固定資本と社会の生産諸力の発展」の中の1節。
 第2は、資本論、この内、引用するのは第3巻第48章、「三位一体的定式」の一部分。
 第3は、ゴーダ綱領の第1章第3節の評注の部分である。
 第4は、剰余価値学説史である。この中の第4章「生産的及び不生産的労働に関する諸学説」と第21章「経済学者に対する反対論(リカードの理論を基礎とする)」が重要である。この第4章をふまえ、サービス労働論を書きたいと思っている。これは、マルクスが、資本論の主要な対象とした物質的生活の生産に対立する非物質的生活の生産に対応した精神労働をも含むものとして構想したい。この中には、経済過程からみて、あるいは、この過程に照応する国家も含まれる。但し、吉本隆明がいう「幻想的共同体」としての国家、すなわち、国家としての国家は含まない。これは、対象領域が違うはずであり、政治的生活の生産過程として取り扱われなければならないはずだ。
 しかし、現在の状況に到る構想としては、既にアリストテレスが、2000年以上も前に指摘していることがある。
 「管理者が部下を必要とせず、主人が奴隷を必要としないことを想定しうるただ一つの状態がある。この状態とは、『命のない道具』が、命令の言葉ひとつで、あるいは、自ら状況を判断して作業する場合である。」(アリストテレス「政治学」)
 また、このような経済過程の到達点については、アメリカのマルクス主義者達が強調していた点でもある。むしろ、私の感心なり、疑問は経済過程の到達点においては非常に近い、というのは、1960年代には、既にスウェーデンとスイスが国民1人当たりのGNPでアメリカを追い越していた。このように生産の到達点において、世界の最先端を走っていたアメリカと北欧諸国において、イデオロギーや国家、社会のあり方になぜこれ程大きな違いがあるのかという点にこそ感心がある。アメリカは偉大ではあるが、同時に十分恐ろしい国家であり、社会だ。問題が大きくそれるが、第1は、冷戦に伴う国家のあり方である。第2は経済的富の大きな部分が軍事力に費やされたという事。第3は、これとは対立をなす、社会保障や福祉など、「共同的生活手段」に対する国家のあり方と関与の相違、国家のウェートが少さく、同時に、国家が非常に非効率であるということ。第4は、これとも関連するが、国家が、恐ろしいこと。国家が過剰にイデオロギー的であったということ。社会主義国家も恐ろしいが、アメリカという国家も十分に特異なイデオロギーを国民に強制した。(但し、国民が一方的に強制された、という事ではなく、国民も自覚的、あるいは無自覚的にこれを支持した。)「自由と民主主義」というイデオロギーは、他国も、アメリカと同じようにあるべきだという事で、他国への主権の侵害、軍事による介入、侵略を合理化してきたし、(アメリカでは外務省のことを国務省と呼ぶ)また国家と諸個人、あるいは、諸個人相互の関係においては、個人主義というより、能力主義、競争主義、差別的ですらある。イメージとしていえば、アメリカが生まれたばかりの開拓史の時代の、独立自営農民の当時の自由と民主主義、すなわちブルジョアイデオロギーが生のままで存在しているキツイ社会というイメージとなる。
 また、アメリカのラジカルエコノミストがアファマティブアクション(差別克服のための積極的活動)(累種的差別に対する特別措置:吉村励)というイデオロギを生み出したがこれとアメリカの能力主義、競争主義が接合しない。外的な強制というイメージが得られる。諸個人の自立を支援するというイメージにつながらない。個人の人格を傷つける、抑制するというイメージが強い。この事は、アファマティブアクションが、有効か無効か、また、必要か、不必要かということを争点にしていない。積極的にいえば、アファマティブアクションをも包括しうるノーマライゼーションこそが、より適合的だということだ。

<マルクスの構想の読解>
 以下、マルクスの三つの文章からの引用と若干の注釈を記して、中途半端なオピニオンを終えることとする。
 この引用文から読み取りたいと思っているのは、マルクスが、経済過程=生産様式に限定しての話だが、しかも経済学批判という学の構想において、資本制総体の克服すなわち、資本の自己否定をどのように構想していたのかという点だ。端的にいうとこの三つの引用文章の中では、これをつなぐと「交換価値に基づく生産様式の崩壊」=(価値法則の死滅)=「自由の王国」=「それ自身の土台のうえに発達した共産主義社会」という関係になる。
そして、このような転換を可能とする基礎について、「生産が万人の富の生産を目的にしたものであるにもかかわらず、富の尺度が、労働時間ではなく、万人が自由に処分できる時間になる程、科学が直接的に生産に転化する程、生産が発展した段階」(要綱)と特徴づけている。また、同じように、労働時間の短縮、自由時間の拡大とこれの結果として「個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、精神労働と肉体労働の対立がなくなった後、労働そのものが、第一の生活要求になった後」というような特徴付けも与えている。また、要綱の別の箇所では、この段階の諸個人と社会関係について「諸個人の普遍的な発展のうえにきづかれた、また、諸個人の共同体的、社会的生産性を諸個人の社会的力能として服属させることの上にきづかれた自由な個体性」と規定している。これは、共産党宣言の「各人の自由な発展が、万人の自由な発展のための条件であるような一つの共同社会」という構想に直結するものである。
 私個人についていえば、このような構想をマルクスの経済学批判の全体との関連において再構成したいと思っている。第2は、このマルクスの構想と現在の経済過程の到達点は、その現象において、非常に接近している。端的にいえば、まるで、マルクスの学の構想、予測が的中したかのようだ。このことに伴う重大な保留があるが、ここではふれない。従って、第1で述べたマルクスの経済学批判の体系を含め、あるいは、媒介にして、現在の経済過程の到達点を把握したい。また、これが、政治的生活の生産過程や精神的生活の生産過程、これは、イデオロギーや思想、理論といったもののみならず、人間の思考の様式や形態も含めてどのような変革をもたらし、また、もたらしているのかを把えたい。これは、証明も根拠もなしにいうのだが、弁証法が意味をなさなくなるのではないかとひそかに思っている。このことをライフワークにしてとことん考え抜きたいと思っている。
 第4に、しかし、同時に、こんな事は大したことではないとも思っている。なぜか。簡単な話だが、たとえばマルクスの構想あるいは学が、上部構造やイデオロギー諸形態を含めた資本制総体の発生から死滅への過程をそして、現在をも思考において再構築、認識する可能性をもつという事は、大したものだ。マルクスの思考が、資本制総体の発生から死滅までを再構成しうる。すなわち、思考において、現実をわがものとしうる可能性をもつという事は偉大なことだ。これは、単に、書かれたものの帰結、結論や予測がどうであるかということのみならず、書かれたものすなわち書物の中には、潜在的にマルクスの思考のスタイルや構想が生きているということも含めて。そしてこれは、お化けのように場所と機会があればいつでも蘇ってくる。思考とはすべからくそういったものだ。
 ただ、しかし、マルクスの構想や思考が如何に生産的であっても、思考にすぎないという本質的な限界を越えることはできない。どういうことか。簡単なことだが、マルクスの思考が、現実、資本を創造したのではないということだ。従って、また、資本制の否定、止揚は、反マルクスや、非マルクスといった政治やイデオロギーによって遂行される可能性があるし、その可能性の方が、多分に高いのだ。例えば、ノーマライゼーションやフェミニズム・エコロジーといったイデオロギーは、たぶん、というのは、誰がはじめに言い出したのか知らないからだが、マルクスの思考とは直接的にも間接的にも関係なしに、生まれてきたのだろう。こんなことについて、マルクスが言ったとかいわなかったというセンサクは、無意味だ。
 第5の問題は、だが、しかし、反マルクスや非マルクスを掲げる思考が、結果的にマルクスの思考や構想に依拠しながら、あるいは、経済現象の一部分を拡大し、強調し、これをマルクスの全体に対置することによって、マルクスの思考に意味がないとする程度の批判が多い事も事実だ。しかし、こんなことによっては、マルクスの思考は死なないのだ。
 例えば、経済学の領域に限っても、レオンチェフの「産業関連表」 バーリーとミーンズの所有と経営の分離 「経営者革命論」、国家の経済過程への介入の拡大を主張したケインズ、 「独占理論」等々。このような調子でかけば、福祉国家論、共同的生活手段の拡大、サービス経済論、高齢化問題と現在の人口法則、高度情報化社会論、コンピュータ論、「環境問題」などによって、マルクス批判はいくらでも書くことができるが、新しい、経済的現象をマルクスの思考に対置することによっては、マルクスの思考は死なない。
 第6は、従って、正確にいうとマルクスの思考、もちろん、マルクスの思考だけではなくすべての思考についてもそうだが、思考の克服なり、否定をいう限り、マルクスの思考を正当に評価し、これを正当に処遇するすなわち、理解し、消費しつくし、止揚するという方法以外にはないのだ。大変な作業だ。これが、思考をするという事だ。思考の価値、意義と限界をふまえ、やりたい人間がこれをやればいいのだ。もう1つ大切なことは、こういった思考に関する限り、これは他の誰の問題、責任でもなく個人が生活の他の領域においてもその言動と行動に責任をもたなければならないのと同様に、思考する個人の責任である。資本制は、この程度には「進歩的」なのだ。
 また、思考の生産性という事でいえば、対立する思考、例えば、反マルクスの思考からは相手の思考が自己の鏡となり、たくさんの事を学びうるのだ。
 第7に、本質において個人の思考、思想的な課題が、過去においてそうであったように、これが、イデオロギーとして、自立し、これが、真理を所有する党として自立し、国家と結託するというようなアホなことがあってはならない。現在においては、その可能性はないし、こういった思考は殺さなければならない。
 真理を所有する党というのは、真理が多数決で決まるという事と同程度におかしい。無意味だ。このような思考は、気持ちが悪いし、グロテスクだ。
 こういった前衛主義、啓蒙主義が生み出す帰結は、不毛であり、無効だ。
 マルクスの精神労働と肉体労働の対立がなくなるという構想からしても、また、大衆の自立の時代が急速に出現しつつある現在において前衛主義は無効なのだ。

<生産過程からみた共産主義の特徴付け>
 マルクスからの引用は以下の通り。
 @第一は、経済学批判要綱の「固定資本と社会の生産諸力の発展」というタイトルの中の一節である。唯、手元に、要綱の全訳をもっていない。これは今年の3月18日に大月書店からメガ第2部、資本論草稿集2として経済学批判要綱の第2分冊が出版される予定で、その中にある。現在手元にあるのは、都留重人の訳文と高木幸二郎訳の部分引用のみであり、正確かどうか解らない部分もある。
 「生きた労働と対象化された労働との交換すなわち社会的労働を資本と賃労働の対立という形態に置くという事は価値関係と価値に基づく生産の最後の発展である。この生産の前提条件は、直接的な労働時間の分量、充当された労働の量であり、なおかつそうである」(資本の抽象的な規定、後の資本論からの引用では、この部分が少し長くなる。)
「だが、大工業が発展すればするほど、現実的な富の創造は、労働時間と消費された労働の量よりも、労働時間中に動員される諸作用因(機具類)の力に大きく依存するようになる。そして、これらの強力な諸作用因(機具類)の有効性は、それを生産するのに必要な直接的な労働時間と比例的な関係にはない。その有効性はむしろ科学と技術進歩の到達した水準に依存する。言い換えれば、当該科学の生産への応用に依存するのである。このような変換の中においては、生産と富の大黒柱(生産過程の主作用因)はもはや人間自身によってなされる直接的労働でも労働時間でもなく、かれら自身が身につけた全般的生産性、即ち、かれの知識とかれの社会的存在を通じて獲得された自然の支配である。一言でいえば社会的個人の発展である」「直接的な形態での人間の労働が富の偉大な源泉であることを止めるや否や労働時間は富の偉大な尺度であることをやめるであろうし必然的に止めざるをえない。また、そうなると交換価値は、必然的に使用価値の尺度であることを止めざるをえない。」「大衆の剰余労働は、一般的富の発展のための条件ではなくなっており、同時に小数者の非労働も人間の頭脳の一般的力の発展のための条件ではなくなっている。・・・・・諸個性の自由な発展、したがって剰余労働を生み出すための必要労働時間の短縮ではなくて、そもそも社会の(諸個人の生活に必要な物質的実在諸条件の生産に必要な)必要労働時間を最小限へ引き下げること。これが、全ての諸個人に充てられる時間とつくり出された諸手段による諸個人の芸術的、科学的などなどの教養に対応するのである」「・・・・交換価値に基づく生産様式は崩壊する」
 Aこれに、照応する資本論の一節は、資本論第3巻第7編第48章三位一体的定式の中にある。先ほど述べたように、この引用では、資本の抽象的な規定が長くなっている問題は後段である。
「すでにみたように、資本主義的生産過程は社会的生産過程一般の歴史的に規定された一形態である。この後者(社会的生産過程)は社会の成員の人間生活一般の物質的実存諸条件の生産過程であると同時に、また、独自な歴史的=経済的な生産諸関係において行われる。この生産諸関係そのものを−−−従ってこの過程の担い手たちを、彼らの物質的実存諸条件と彼らの相互の諸関係とを、すなわち彼らの一定の経済的社会形態を−−−生産し、再生産する一過程でもある。というのは、この生産の担い手たちがそこにおいて自然と結び相互に結び合うこれらの関連の全体、彼らがそこにおいて生産するこれらの関連の全体、この全体こそ、経済的構造から見ての社会だからである。資本主義的生産過程は、それに先行する生産過程と同様に一定の物質的諸条件の下で行われる。ただし、これらの諸条件は、同時に諸個人が生活の再生産過程で取り結ぶ一定の社会的諸関係の担い手でもある。これらの(一定の物質的)諸条件は、この(一定の社会的)諸関係と同じく資本主義的生産過程過程一方では前提であり、他方では結果であり創造物である。それらは、資本主義的生産過程によって生産され、再生産される。さらに、すでにみたように、資本は−−そして資本家は、人格化された資本にほかならず、生産過程では資本の担い手として機能するだけである。従って、資本は、それ(資本)に照応する社会的生産過程において直接的生産者たち、または労働者たちから一定分量の剰余労働をくみ出すのであり、この剰余労働は、資本が等価物なしで受け取るものであり、いかに、それが、自由な契約による合意の結果として現れようとも、その本質からみれば、依然としてやはり、強制労働である。
この剰余労働は、一つの剰余価値のうちに現れ、この剰余価値は一つの剰余生産物のうちに実存する。」(これに続く文章が、核心的な部分である)「剰余労働一般は、所与の欲求の程度をこえる労働として、つねに実存し続けなければならない。<しかし>剰余労働は、資本主義制度においては、奴隷制などと同じように、ただ敵対的形態をとるほかなく社会の一部分のまったくの無為によって補足される。一定分量の剰余労働は、不慮の出来事に対する保険のために必要であり、諸欲求の発達と人口の増加とに照応する再生産過程の必然的な累進的な拡張−−−この拡張は、資本主義的立場からは蓄積と呼ばれるものである−−−のために必要である。資本が、この剰余労働を奴隷制・農奴制などの以前の諸形態のもとでよりも生産諸力の発展にとって、社会的諸関係の発展にとって、またより高度の新たな社会形態のための諸要素の創造にとって、いっそう有利な様式と諸条件とのもとで強制するという事は、資本の文明化的側面の一つである。こうして資本は、一方では、社会の一部分による他の部分を犠牲にしての、強制と社会的発展(その物質的、および知的諸利益を含む)の独占化とがみられなくなる一段階をもたらす。他方では、この段階は、社会のいっそう高度な一形態において、この剰余労働を物質的労働一般にあてられる生産一般(時間)の大きな縮小と結びつけることを可能にする諸関係のための物質的諸手段およびその萌芽をつくり出す。というのは、剰余労働は、労働の生産力の発展しだいで総労働日が小さくても大でありうるし、総労働日が大きくても相対的に小でありうるからである。もし、必要労働時間が3時間で剰余労働が3時間ならば総労働日は6時間で剰余労働の率は100%である。必要労働が9時間で剰余労働が3時間ならば総労働日は12時間で剰余労働の率はわずかに33、1/3%である。しかし、次に、一定の時間に、従ってまた一定の剰余労働時間にどれだけの使用価値が生産されるかは労働の生産性に依存する。したがって、社会の現実的富と社会の再生産過程の恒常的な拡大の可能性とは剰余労働の長さに依存するのではなく剰余労働の生産性、および、剰余労働が行われる生産諸条件の多産性の大小に依存する。自由の王国は、事実、窮迫と外的な目的への適合性とによって規定される労働が存在しなくなるところではじめて始まる。従って、それは当然に、本来の物質的生産の領域の彼岸にある。野蛮人が、自分の諸欲求を満たすために、自分の生活を維持し再生産するために自然と格闘しなければならないように、文明人もそうしなければならず、しかも全ての社会諸形態において、ありうべき全ての生産諸様式のもとで彼(人)はそうした格闘をしなければならない。彼の発達とともに諸欲求が拡大するため自然的必然性のこの王国が拡大する。しかし同時にこの諸欲求を満たす生産諸力も拡大する。この領域における自由はただ、社会化された人間、結合された生産者たちが自分達と自然との物質代謝によって−−−盲目的な支配力としてのそれによって−−−支配されるのではなく、この自然との物質代謝を合理的に規制し、自分達の共同の管理のもとにおくこと。すなわち、最小の力の支出で自らの人間性にもっともふさわしい、もっとも適合した諸条件のもとでこの物質代謝を行うこと、この点だけにありうる。しかし、それでもこれはまだ、(自然的)必然性の王国である。」
 マルクスの主張を解りやすくするため、物質的生活の生産様式が、社会的・政治的・精神的諸過程を制約するという含意でイデオロギーとの照応関係からみるとこの生産過程の段階(社会主義)の規定は、エコロジーやフェミニズムの思想の領域の大部分を包括しうると考える。また、構造主義や物象化論という「説明概念」という規定を与えれば、ややひどいが、「哲学」というにはやや陳腐なもの射程をも対象領域に収めうると考えている。どういう事か。問題の焦点は、人間の対象化の到達点としての高度情報化とこの技術的骨格をなすコンピュータにある。その核心は、人間の脳はオンラインではないが、コンピュータはオンラインである。すなわち、世界が結びつき、連がる可能性をもったということ。
 人間を含む自然は、類が直接的に個体であるという存在形式はない。すなわち、特殊は普遍、個別は類であるという命題で表される存在形式以外にはありえない。従って、人間は、精神的生活の生産過程、対象化においては言語を必要とし、これを外化し、これが構造として自立し、逆立するという疎外関係に立つ。この疎外関係は、物質的生活の生産過程(貨幣や資本)も、政治的生活の生産過程(法や国家)も同様の構造をもっている。この疎外関係は、人間的永遠であり、あっさりいってしまえば、この形態が歴史的に、あるいは歴史として発展するだけだ。しかし、コンピュータは、この疎外関係に終止符を打たないまでも、根本的な変様をもたらすものではないか。もちろん、コンピュータによって、個人と個人の脳がオンラインになるわけではない。
 マルクスの引用を続ける。
 「この王国の彼岸において、それ自体が目的であるとされる人間の力の発達が、真の自由の王国が−−−といっても、それはただ、自己の基礎としての右の必然性の王国の上にのみ開花しうるのであるが−−−始まる。労働日の短縮が土台である。」
 イデオロギーとの関連でいえば、ノーマライゼーション。そしてもっとも包括的なイデオロギーの規定でいえば、吉本隆明の「重層的な非決定」という概念が適合する段階であると考えられる。また、この段階において精神労働と肉体労働の対立が止揚される。
 これは、吉本隆明に聞かなければ解らないが、「重層的非決定」が、共産主義のイデオロギーのもっとも包括的な規定だといえば、吉本隆明はなんというであろうか。これは、私個人に関していえば、冗談ではなく本心から問い質したいと思っている。これは、鷲田小彌太が強く主張する事だが、吉本の思考は、マルクスの思考とスッポリと重なり合うものである。また、鷲田小彌太は、正確なマルクスの思考の解説者だ。ただ一言だけいえば、鷲田が三一書房から出版した「いま社会主義を考える・資本主義の臨界点としての社会主義」という規定は不充分だ。やはり、「資本主義の臨界点としての共産主義」というタイトルの方が正確だ。
 ついでに言ってしまうと、対象領域は違うが、同様の思考を展開している思考者がいる。法人資本主義とその超克をテーマにしている奥村宏、マルクスの経済学批判要綱をテコに自由時間論でもって現在を解こうとしている内田弘、そして反マルクス(主義)を掲げ、技術論だと自己限定しているが、実は、<マルクスの思考>と非常に近いところで現在に肉薄している飯尾要などがいる。構造主義は、構造を閉じ、固定してしまう。一言でいえば、ダイナミズムがないのだ。
 Bそして、最後は、これらに照応するのが、ゴーダ綱領批判の文章である。全文は長いので必要と思われる部分を引用する。
 「公正な分配とは何か。・・・・経済関係が法律概念によって規制されるのか。それとも反対に、法律関係が経済関係から発生するのではないのか」「生産手段の共有を土台とする協同組合的社会の内部では生産者は、その生産物を交換しない。同様にここでは生産物に費やされた労働が、この生産物の価値としてすなわち、その生産物の有する物的特性としてあらわれることもない。なぜなら、いまでは、資本主義社会とはちがって、ここの労働は、もはや間接にではなく直接に、総労働の構成部分として存在しているからである。」
 (誰か、経済学を学んでいる人は、クレジットカードをどのように規定しうるのか教えてほしい。また、コンピュータ論、高度情報化論を疎外や物象化の克服、止揚との関連において展開することができないのか教えてほしいと思っている。)
 「ここで問題にしているのは、それ自身の土台のうえに発展した共産主義社会ではなく、反対にいまようやく資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会である。したがってこの共産主義社会は、あらゆる点で、経済的にも道徳的にも、精神的にも、それが生まれでてきた母胎たる旧社会の母斑をまだおびている。したがって、個々の生産者は、彼が社会に与えたのと正確に同じものだけを−−−控除を行った上で−−−かえしてもらう。彼が社会に与えたものは彼の個人的労働量である。たとえば、社会的労働日は個人的労働時間の総和からなり、個々の生産者の個人的労働時間は社会的労働日のうちの彼の持分である。・・・・
 ここではあきらかに、商品交換が等価の交換である限り、この交換を規制する同じ原則が支配している。内容と形式は変わっている。・・・しかし、個人的消費資料が個々の生産者に分配されるときには、商品等価物の交換のときと同じ原則が支配し、一つの形の労働が、他の形の等しい量の労働と交換されるのである。それゆえ、平等な権利は、ここではまだやはり、ブルジョア的権利である。もっともここではもう原則と実際とが衝突することはないが。ところが、商品交換のもとでの等価物の交換は平均として存在するだけで一つ一つの場合には存在しないのである。 
 このような進歩があるにもかかわらず、この平等な権利はまだつねにブルジョア的な制限につきまとわれている。生産者の権利は彼の労働給付に比例する。平等は、ひとしい尺度で、すなわち、労働で測定される点にある。・・・・この平等な権利は、不平等な労働にとっては不平等な権利である。誰でも他の人と同じく労働者であるにすぎないから、この権利は何ら階級差別をも認めない。しかし、それは不平等な個人の天分と、したがってまた不平等な給付能力をうまれながらの特権として暗黙のうちに承認している。だからそれは、内容からいえば、すべての権利と同じように不平等の権利である。権利は、その性質上、ひとしい尺度をつかうばあいにだけなりたちうる。しかるに、不平等な諸個人(そしてもし不平等でなかったら別々の個人ではなかったろう)をひとしい尺度ではかることのできるのは、ただ彼らをひとしい視点のもとにおき、ある一つの特定の面だけからこれをみるかぎりである。たとえば、この場合には人々はただ労働者としてだけ観察され、彼らのそれ以外の点は認められず、ほかのことはいっさい無視される。
・・・・すべてこういう欠陥をさけるためには、権利は平等ではなく不平等でなければならないだろう。(マルクスのこの言い方を引きのばせば、この時、権利という概念はなくなるであろう)
 しかし、こうした欠陥は、長い苦しみの後にうまれたばかりの共産主義社会の第一段階では避けることができない。権利は、社会的構成および、それによって制約される文化の発展よりも高度にあることは、けっしてできない。
 共産主義社会のより高度の段階において、すなわち、個人が、分業に奴隷的な従属をすることがなくなり、それとともに、精神労働と肉体労働の対立がなくなったのち、(前衛と大衆、知識と労働という対立、分業が意味をなさなくなったのち)労働がたんに生活の手段たるのみならず、労働そのものが第一の生活欲求となったのち、個人の全面的な発展にともなって生産力も増大し、協同社会的富のあらゆる泉がいっそうゆたかにわきでるようになったのち(資本論の中の、自由の王国は本来の物質的生産の領域の彼岸にあると同義だ)−−−そのときはじめて、ブルジョア的権利の狭い限界を完全にふみこえることができ、社会は、その旗のうえにこう書くことができる。−−−各人はその能力に応じて、各人には、その必要に応じて」 この段階に適合的なイデオロギーがノーマライゼーションであり、より包括的なイデオロギーの規定が、吉本隆明の「重層的な非決定」である。そして、差別は死滅する。
 そして、この段階の社会的諸関係の原理は何か。資本主義の段階の原理が、「物象的依存にもとづく人格的独立」平たくいえば、相互無関心=エゴイズム=相互利用の関係である。ただ、このエゴイズムも、あまり、私たちがイメージとして描くように、倫理的に否定的に把える必要はない。なぜなら、民主主義の原理は、このエゴイズムに支えられている。
民主主義論=国家論は別途に、上部構造論、そして、吉本隆明のいう「共同幻想論」としての展開が必要であるが民主主義=デモスクラフト=大衆の力=大衆の支配=大衆の国家をこの相互に無関心なエゴイスト達(大衆)の集合力=アトムズクラフトというイメージで展開した方が解りやすい。
 この段階との対比において、マルクスは、自立した自由な社会的個性の相互豊饒化の社会関係として「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件」となるような社会的諸関係として特徴づけている。

 一つだけ注を入れれば、マルクスが比喩的に「真に自由の王国」と表現しているが、これは、あくまでも比喩的なものだ。ここでいっているのは、本来の物質的生産の領域の彼岸に自由の王国がはじまるいう点ではなく、この点こそがマルクスの思想の核心だ。そこに到れば、全ての矛盾が解決する天国、あるいは、千年王国というイメージについてである。千年王国は存在しない。マルクスがいうように、「人間が立ち向かうのは、いつも自分が解決できる課題だけである」という唯物論についていっている。

<おわりに>
 マルクスの文章を現在についての私のオピニオンに無理に結びつけたような文章になっている。しかも二重の意味で実証ではなくオピニオンにすぎない。もっとハードトレーニングを積み重ねて具体的な課題に絞り込んでが、または、マルクスの構想について、厳密に、そして解りやすい文章を書きたいと思っている。
 しかし、現在を把えるには、ここにのべた構想以外には、ありえないと思い致している。
 どういう事かというと、このオピニオンは同時に、問題意識としては、ここ数年間の思考としては、大きな影響を受けてきた鷲田小彌太と吉本隆明への批判を含意している。もちろん、部分的なものだ。マルクスにおいて、学的に展開されなかった、上部構造論(政治的生活の生産過程と精神的生活の生産過程)は、ソシュールの言語理論とヘーゲルと吉本隆明と若干の構造主義者を集めれば、その大部分を書きうるはずだ。ここにおいて、マルクスの唯物史観の構想は学的な形態において一応の骨格を整えうる可能性をもったということだ。この上部構造論の領域での全体的でもっとも包括的な思考者は、ヘーゲルと日本では吉本隆明だろう。さらに、吉本隆明は、現在を解くために、下部構造を含めたほぼ全領域での発言を続けている。しかし、そして、吉本隆明は常に明確に保留をつけているが、「マルクス伝」以来、一貫して、「経済的範疇」についてのマルクスの思考をせばめていると思える。この点に関しては、鷲田小彌太についても同じだ。私は、直接的には、鷲田小彌太の「現代思想論」や「吉本隆明論」を通して「重層的な非決定へ」の中にある「・・・
それは、先進資本主義国の賃労働者が週休3日制を超えたときからだと思います。そのとき、消費としての賃労働者と生産としての賃労働者とは、自己対立を媒介にして、・・・自分達を解放する方位を確定していく・・・」という文章を通して初めて吉本隆明の思考に近づいた。以来、「大状況論」「超西欧的まで」「ハイ・イメージ論」「マルクス伝」「マルクス紀行」などを読んだ。読むことと理解することは別だという批判を覚悟の上でこの文章を書いている。この中でも吉本隆明は、労働価値説にこだわり、(このこだわり自体は正当だ)、サービス経済化や高度情報化等についてマルクスの主要な考察、分析の射程外であったといっている。(これ自体も正当だ。端的にいうとマルクスは現在を知らなかったといっているにすぎないから)
 しかし、現実の対象と思考の対象は別なのだ。つまり、吉本隆明が、これらの著作の中で展開した思考を「交換価値に基づく生産様式の崩壊」というマルクスの思考と近づけ、結びつけたとき、はじめて、マルクスの構想と吉本の思考が、その全体像において浮かびあがると考えている。これが、私の思考において得られる現在だ。