労働組合運動の再構築に向けて

[大阪] 依辺 瞬

(目次)
1.はじめに
(1)「崩壊」した「前提」
(2)自治労の組織分裂を経験して
(3)立ちおくれる労働組合
(4)必要な新しい理念・価値・組織運営の創造

2.労働組合とは何か
(1)問われる労働組合の存在意義
(2)必要な赤色労働組合主義の完全払拭
(3)労働組合の基本的な性格
(4)労働組合の限界と可能性

3.労働組合運動再構築の展望
(1)労働組合の存在意義の個別性
(2)基盤的機能の強化
(3)魅力を発見できる人と人のつながりの構築
(4)自己実現の可能な仕事づくり
(5)助け合い機能の強化
(6)専門性・情報の活用と地域社会への貢献
(7)組合財産の活用とサービスの拡大

4.労働組合運動の「日常」の見直し
(1)運動方針
(2)労働組合組織
(3)労働組合運営

5.終わりに


 旧「青年の旗」第183号(1993年1月15日)
    〜第187号(1993年5月15日)掲載
1.はじめに

(1)「崩壊」した「前提」
 あとで振り返ると、「あの年が新しい時代の始まりだったなあ」と感じる年があるものだが、私は、1989年がそうではなかったかと考えている。
 ポーランドに始まった東欧社会主義国の変動は、この年に、新しい時代の始まりというにふさわしい象徴的な事態を招来した。ベルリンの壁の崩壊である。
 そして、崩壊したのは、「壁」だけではなかった。これまでの労働組合運動や社会運動に大きな影響を与え続けてきた「社会主義イデオロギー」が「崩壊」したのである。
 ただ、この表現は厳密ではない。「社会主義」の何が崩壊したのか、また、それは「社会主義」だったのかという問題については、別に検討が必要だろう。しかし、ここでは、この問題について、これ以上の言及はしない。
 私が問題にしたいのは、これまでの、いわゆる「左派」労働組合運動において、あらためて議論されるまでもなく承認されていた「前提」が崩れたということである。

(2)自治労の組織分裂を経験して
 1989年は、日本の労働組合運動にとっても大きな転換点の年であった。すなわち、官民統一による統一ナショナルセンター「連合」の結成と、「全労連」の結成による労働戦線の新たな分裂の始まりである。
 特に、「全労連」の結成は、自治労や日教組などの官公労組合における組織分裂を引き起こし、各地で激しく組合員の争奪戦が行なわれる事態を生んだ。
 個人的な経験をいうと、「連合」「全労連」の結成に伴う自治労の組織分裂の際、私は、共産党系自治労組合に所属していたが、新組合を結成し、自治労へ再結集するという選択を行なった。
 その経験の中で思い知らされたのは、活動家ではない普通の組合員の目に、労働組合は、実に古めかしく、魅力のない組織として映っているという事実であった。古めかしく、魅力がないという点では、普通の組合員にとって、「連合」であろうと、「全労連」であろうと、さほど差はないのである。
 新組合の結成から3年が経過したが、私の自治体においては、新組合の結成という選択は、結果として、組織率などの労働組合総体の力量を低下させず、逆に労働組合運動の活性化をもたらした。
 そして、その最大の要因は、普通の組合員にすれば「雲の上」の話でしかない「連合」か「全労連」かの組織選択の課題を、「新しい組合、新しい組合運動の創造」という内容に転換して提示しえたこと、また、それを担
うる人材が多数存在したことだと思う。

(3)立ちおくれる労働組合
 労働組合運営の硬直化という点について、上野千鶴子氏は、その著書「家父長制と資本制−マルクス主義フェミニズムの地平」(岩波書店)において、次のような興味深い指摘をされている。

 ところで「企業」は、資本制的なものであろうか?「企業」は資本制的にふるまうが、企業の内部構造は、まったく資本制的にできていない。だから経済学と経営学とはまったくディシプリン(*学問分野)がちがう。経済学は企業の行動を扱うが、経営学は、企業組織を扱う。マルクス主義は経営を労使の対立ととらえるから、労働運動論はあるが、マルクス主義経営論というものはない。その実、労働組合という組織が、企業組織のミニチュアになっていて、経営という観点からの組織論をまったく欠いているために、労働組合の組織の方が企業組織よりもつねに硬直化して立ちおくれているという皮肉な逆説が起きる。(P-275-)
*引用者注

 1973年のオイルショック以降、約20年間、日本企業は、類いまれな適応能力を発揮してきた。リストラクチュアリング(*企業再構築)、イノベーション(*革新)、CI(コーポレート・アイデンティティー*企業イメージ・理念の確立と浸透のための広告戦略)などという言葉は、市民生活においても相当一般化したものであるが、これらはすべて、資本の側から発せられた言葉である。
 一部の労働組合で、UI(ユニオン・アイデンティティー)なるものが取り組まれたが、極めて中途半端に終わっているところが多いように思う。
 危機の深刻さは、資本の側も、労働組合の側も、全く同じであったのに、労働組合側の組織革新・再構築に向けた対応が鈍かったことに、実は、最大の問題があるのである。
 もちろん、1989年の「連合」の結成は、こうした危機的状況を背景にして成立している。
 しかし、「名前は労働組合でも、実体は企業の労務管理の下請け機関のような組合が大半を占めるかもしれない」(白井泰四郎著「企業別組合」)という企業別労働組合を一方で抱え、もう一方で、自治労や日教組などの官公労労働組合を抱えるこのビッグユニオンが、新しい時代における、新しい労働組合のあり方を提示しえているとは、到底思えない。
 一方、「連合」に対峙して結成された「全労連」はどうか。私は、「革新統一戦線の主要な一翼を担う」などという日本共産党の「革命戦略]に忠実な政治主義や、「真理を独占する」日本共産党員による一元的指導に基づく組織運営を続ける以上、今日の時代の流れの中で、早晩、批判的少数派としての存在すら危ぶまれることになると思う。

(4)必要な新しい理念・価値・組織運営の創造
 「マルクス主義に経営論が欠落している」との上野氏の指摘は、実に的確だと私は思う。しかし、「労働組合の組織の方が企業組織よりもつねに硬直化して立ちおくれる」ことになるのは、日本の場合には、上野氏が指摘するように、「労働組合という組織が、企業組織のミニチュアになっている」からというよりも、次の2点が大きな原因だと思われる。
 一つは、ユニオンショップとチェックオフという2種の「神器」によって、労働組合が、組織(経営)努力をしなくても、自ら組織の存立を維持できるシステムとなっている場合が多いことである。民間労働組合に見られるこのようなシステムは、日本の特殊な労使関係であって、このような組織にあっては、そもそも労働組合組織と企業組織の間に緊張関係が存在しない。緊張関係が存在しないところでは、主体的・意思的な組織改革が、行なわれるはずもないのである。
 もう一つは、旧総評系官公労組合を中心としたいわゆる「左派」労働組合に根強く存在する、強固な前例踏襲・マンネリズムである。そして、それは、日本の行政体質に起因するものかもしれないが、私は、「教条的な社会主義イデオロギーの亡霊」とでも表現すべきものの存在を指摘したい。
 具体的な内容は後述するが、いわゆる「左派」労働組合の組織運営においては、一種の「社会主義モデル」が何の疑問もなく受け継がれてきた。
 しかし、労働運動が社会主義運動や無産運動と分かちがたく結びいていた時代と今日では、状況がまったく異なる。労働組合の組織運営のあり方が、基本的なスタイルにおいて当時と同じだとすれば、その組織の魅力が喪失し、組合員が労働組合から離れていくのは至極当然の結末であろう。
 もちろん、問題は、組織運営のあり方にだけあるのではない。組織のあり方は、運動理念や、その組織が実現しようとする「価値」と深く結びついている。
 今、我々に求められているのは、これからの労働組合運動における理念や、実現すべき「価値」を明確にすること、そして、それに見合った組織運営を創り出すことである。それも、全面的・具体的・日常的な改革の実行が必要とされている。
 「会社丸がかえ」の労働組合でもなく、「社会主義の亡霊」を引きずった労働組合でもない、明日の時代の労働組合のあり方をめぐる創造的な議論が、今ほど重要な時代はない。今日の労働組合運動の危機は、まさに「存在意義」をめぐる危機であり、根本的な危機であるからである。そのためには、「批判」ではなく、「対案(オルターナティヴ)」こそ必要であろう。
 ここでは、自治労など官公労の労働組合を意識しながら、思いつくままに、考えたことを書いてみたい。 私が、どの程度の内容を提示できるか疑問ではあるが、労働組合運動の現場で悪戦苦闘されている方々に少しでも興味を示してもらえることがあれば、望外の喜びである。

2.労働組合とは何か

(1)問われる労働組合の存在意義

 現在、日本の労働組合組織率は25%を割っている。その原因が、日本の労働人口が増加したこと、そして、増加した職域が労働組合の弱いサービス産業であったこと、それもパートなどの不安定雇用労働者として増加したことにあることは、すでに明白である。
 しかし、未組織労働者が多数存在するサービス分野などの産業は、改善されるべき労働条件の課題も多く、労働組合の存在意義そのものが希薄になってきているというものではない。組織率が上昇するかどうかは、要は、労働組合組織の側の「やる気」と「力量」次第であると思われる。
 とすれば、問題は、「組織された労働者」の実態であり、労働組合の実態であろう。つまり、現に組織された労働組合が、自らの存在意義と組織運営の維持に汲々としているような状態では、組織率を拡大することなど不可能といっても過言ではないからである。
 実際、組織率の高い産業分野(自治労や日教組などの官公労部門など)でも、最近の若い世代の組合加入率は低下の一方である。ユニオンショップ協定を持っている民間大手企業などでも、組合費はチェックオフで支払っている(支払わされている)が、組合への所属意識はないし、組合活動に何の関心もないという層が、圧倒的多数派であろう。
 こうした組織労働者の中における「未組織労働者」の組織化こそ、実は、労働組合運動が真に直面している課題なのではなかろうか。
 労働組合が魅力のある存在でなければ、組合活動に投ずる人材は出てこない。活動を支える人がでてこなければ、その組織の命運は尽きる。これが道理である。 特に、これまで「労働組合活動家」の供給源となってきた社会主義運動の後退は、これまでも著しいものがあったが、今後は決定的である。「労働組合とは何なのか」「労働組合活動には、どんな意義があるのか」「労働組合活動は何をめざすのか」ということを、今一度、原点にもどって議論し、再度、人をひきつける理念や、実現すべき「価値」を確立できなければ、労働組合運動の再構築は、不可能であろう。

(2)必要な赤色労働組合主義の完全払拭

 そのためには、まず、労働者政党と労働組合の関係について、そして労働組合運動のあり方について、日本の「左翼」を長くとらえて離さなかった「赤色労働組合主義」を払拭することが不可欠である。
 この問題については、吉村 勵氏がその著書「労働組合と戦線統一」(三一書房)で詳しく論じられているので、私が、今さらくり返す必要もない。この著書は、1972年に書かれたものだが、今日、なお、重要な意味を持ち続けていると、私は考えている。
 そこで、ここでは、現実の労働組合活動の場で、今なお、幅をきかせている(一部の少数組合ではあろうが)、次のような活動スタイルに対して、簡単に批判をしておきたい。
 というのは、実際にこうした活動をしている人々は労働組合活動を強化するのだという主観的意図で活動を担っているのだが、現実的には、組合員から労働組合を遠ざけ、新しい時代に対応する労働組合の創造に対して、最も大きな障害物となっている場合が多いからである。
 一つは、反合理化・長期抵抗を掲げ、労働組合運動を資本主義矛盾の暴露の場のようにとらえ、結局のところ「社会主義学習」の場へ、一部の意識的組合員を「囲い込む」活動スタイルである。
 これに類似したものとして、組合の活動路線や組合幹部を徹底的に批判し、一部の意識的組合員を別の活動(多くは自らの党派が主催する独自の運動)へ「囲い込む」というものもある。こうした活動スタイルは、日本の「左翼」諸潮流に共通したものと見えて、違うのは「囲い込み先」だけである。
 もう一つは、労働組合における活動力点を、巧みに「国政革新」や「自治体革新」の方向へシフトすることによって、または、組合が支持決定している政党の要請に応えて、結果的には、選挙闘争へ組合活動を埋没させる活動スタイルである。
 前者は日本共産党、後者は日本社会党や民社党の党員が組合幹部に多数存在し、組合運営に対する圧倒的な影響力を有している場合に行なわれている。
 しかし、労働組合活動を他の目的、例えば、自らの党派活動の人材発掘の場として利用したり、特定の労働者政党の選挙活動に動員したりすることは、労働組合にとって致命的なダメージを与え続けてきた。このことを、まず、共通の理解としなくてはならない。
 では、致命的なダメージとは何か。それは、普通の組合員にとって、または、まだ組合に組織されていない労働者にとって、労働組合の存在が、労働組合幹部ないし労働組合活動家の存在に同一視され(イメージの統一)、その上で、これが拒否されたことである。 労務管理の下請け機関のような民間労働組合の場合なら、労働組合の存在は、企業の労務管理機関の存在に同一視され、拒否されるであろうが、それに対抗すべき労働組合のイメージが、特定の政治党派のイメージだというのでも、同様に不幸であった。
 もちろん、労働組合に結びつく労働者政党の支持率が圧倒的に高い場合には、矛盾は顕在化しないこともある。その意味で、現在の労働組合の組織率の低下と、既存労働者政党(特に社会党、民社党、共産党)の支持率低下の間には、密接な相関関係が存在する。
 つまり、労働組合の組織率の低下が既存労働者政党の支持率低下を招き、既存労働者政党への信頼のなさが労働組合の組織率(組織労働者における組合への結集力も含めて)の低下につながるという訳である。
 そこで重要なのは、労働組合と労働者政党が運命共同体になるような構図の変革である。
 労働組合運動の再構築を図るためには、まず、「政治主義」を排除し、真の意味での「労働組合主義」の確立を図ることから始めねばならないのである。

(3)労働組合の基本的な性格

 労働組合の基本的な性格についての論証は、先に紹介した吉村氏の著作において尽くされているので、ここでは、実際の労働組合運動の場において気づいた事柄を指摘するにとどめたい。
 さて、「労働組合とは、組合員の『要求』実現のために結成されたものである」という定義付け(?)は、労働組合活動の現場において、よく使われている。特に、日本共産党系の労働組合では、非常に重要な役割を背負わされている言葉である。
 一見、誰も否定することのできない一連の字句の中で、特に重要な役割を果たすキーワードは、「要求」という言葉である。
 つまり、日本共産党系の労働組合においては、組合員の「要求」への意味付与が限りなく拡大される。
 すなわち、賃金・労働条件の改善要求から、果ては「安保条約廃棄」「『解放教育』の名による偏向教育反対」「革新統一戦線の結成と国政の革新」までが、組合員の「要求」だと位置づけられるのである。そして、そうすることによって、組合執行部は、日本共産党の提起するありとあらゆる行動方針に、安心して応えることができるわけである。
 しかし、これは、組合員に「イデオロギーの一致」を求めていることに他ならず、もはや労働組合の運営とは言い難い状態である。
 こうした傾向は、何も日本共産党系の労働組合に限られたことではない。
 労働組合の運動方針というものが、組合員が実際に持っている「要求」や「意識」からかけ離れたところで自己展開されている例は、数多い。
 組合幹部の「思想」が、組合員の「要求」に代わって、労働組合運営の中心にすえられる状態を改革することは、労働組合運動の再構築にとって重要な鍵を握っている。
 では、労働組合の存在基盤となる組合員の「要求」とは何なのか。私は、組合員の「要求」というものを極めて単純かつ素朴にとらえる必要があると考えている。
 つまり、自らの「労働力」を「商品」として販売する労働者が、労働組合に寄せる期待、すなわち要求は、自らの「労働力」をできる限り「高く」、「やりがいがあって」、「楽に」、「継続して」売れるようにしてほしいという点に尽きるということである。
 換言すれば、労働組合の性格は、組合員の権利・権益の擁護団体であり、交渉団体であるということ、そして、その権限は、一人ひとりの組合員の「委任」に由来するということである。
 しかし、こうした「存在意義」は、極めて単純・素朴であり、また、あいまいでもある。また、権限の委任というものを運営原理に持っているがゆえに、労働組合は、それを意味づけ、運営する者の考え方によって、また、労働組合を取り巻く外的条件に応じて、労働組合を構成する組合員の許容する範囲内で、いわば、いかようにも姿を変えてきた。
 だからこそ、労働組合運動が極めてラジカルで、反体制的になったことが、過去にはあったし、今後もありうることは否定できない。
 しかし、そういった場合の背景には、必ず、飢餓的な窮乏、産業構造の転換・国策の転換に伴う乱暴な首切り、個別企業の非人間的処遇に対する反発などが存在している。こうした場合に、労働組合が「ラジカルで、反体制的」になったとしても、これを普遍化することは、全くの誤りなのである。

(4)労働組合の限界と可能性

 労働組合の基本的性格が、「組合員の権利・権益の擁護団体であり、交渉団体である」との再確認は、労働組合が、本来、機能的・目的的組織であり、個々人の自発性に依って成り立つ自主組織であることの再確認である。
 では、「組織」とは何であろうか。
 「組織」とは、広辞苑(第四版・岩波書店)によると、「(organizastion)社会を構成する各要素が結合して有機的な働きをする統一体。また、その構成の仕方」とある。
 労働組合の場合、「各要素」とは、組合員たる「人」と、それぞれが拠出する組合費たる「金」であろう。そして、労働組合の場合、もっとも重要な性格は、人と人が「結合」するということにあり、その結びつきが自発的であるということである。
 実は、労働組合の「限界」と「可能性」も、すべてここに帰着する。
 これまでは、労働組合の存在そのものは当然の前提とし、その機能や役割、目的に関する「解釈」や「方向づけ」の議論のみが展開されていた。いわば、「存在(sein)」に関することには関心が払われず、「当為(sollen)」に関する議論ばかりが行なわれてきたといえる。
 実際、いわゆる「左派」労働組合において行なわれてきた白熱した議論は、運動方針にまつわる議論、それも具体的な行動方針の内容を巡ってではなく、情勢のとらえ方や、労働組合の姿勢や立場に関する自己規定を巡るものがほとんどであった。そして、それは、多くの場合、普通の組合員不在の「活動家」どうしのイデオロギー対立でしかなかった。
 しかし、本来重要なのは、いかなる人を構成員=組合員とするのか、人と人がどのような結びつき方をするのか、そして、何をどうやって行なうのか、それをどのように決めるのか、という組合運営に関する中身であり、「実体的事実」なのである。
 さて、実体的事実の中で、重要なものの一つは、組合員の「属性」である。
 例えば、企業別に労働組合が結成されているのであれば、労働組合が企業利害から自由でないことは当然の前提となってしまうだろう。
 逆に、企業を超える横断的組織として労働組合が組織されるなら、さまざまな衝突を繰り返しながらも、労働者に矛盾をしわ寄せするような企業行動に対する制限は、確実に強化されるであろう。
 また、労働組合が正社員だけで構成され、パート・アルバイトなどの不安定就労者や解雇者などを組織から排除しているのであれば、労働組合運動が正社員の既得権益の維持・向上にのみ力を注ぐのは、当然の成り行きであろう。
 この場合も、ともかく組合員として組織さえされていれば、何はともあれ、最低限の権利保護の具体化は期待できる。
 このように、組織性格の改革を具体化させないで、「産別運動の強化」や「未組織労働者との連帯」を運動方針に掲げたところで、空虚な「空念仏」にすぎないのである。
 もう一つ重要な実体的事実は、組合員の「意識」である。
 どんなに優れた「運動方針」であろうと、それがどの程度のリアリティを有するかは、結局、個々の組合員の意識と行動に規定される。労働組合運動の再構築は、「可能性の追求」を基本的な課題とすると私は考えているが、「実像」とかけ離れた理想論を展開しても意味がない。あくまでも「実像」から出発しつつ、可能性を追求することが重要なのである。「組合員が何を考え、何を求めているのか」──この点に関する分析や考察の深化が、再度、必要であろう。
 そして、最も重要な実体的事実とは、労働組合の運営手法である。運営手法とは、換言すれば、運営における論理であり、支配的な価値基準である。
 労働組合が「個々人の自発性に依って成り立つ自主組織」であればこそ、組織運営上の柔軟性や民主性は、会社など労働組合が対抗する権力(組織)に比して、より拡張し得るはずである。しかし、労働組合における官僚主義・権威主義・前例踏襲主義・年功秩序の強固さは、その対抗する権力(組織)を超えることが多いのが実情である。
 労働組合の可能性と限界は、労働組合の内在的優位性と、これを損なうもののしのぎ合いの中で決する。労働組合が、対抗権力に対する内在的優位性を顕在化できなければ、21世紀に労働組合が存在し続けられる保障はどこにもないのである。

3.労働組合運動再構築の展望

 次に、これからの時代における労働組合の存在意義や、実現すべき「価値」が何なのか、そして、それに見合った組織運営や活動内容はいかにあるべきなのかについて、総論的なことを、思いつくままに述べてみたい。

(1)労働組合の存在意義の個別性

 労働組合の存在意義を「再発見」していく際にポイントとなるのは、先にも述べたように、労働組合がカウンターパワー(対抗組織・権力)として存在するということである。
 この場合の「対抗性」とは、従来の社会主義的な意味での「階級的対立」を意味する訳ではなく、一種の「二重組織性」を意味している。つまり、組合員が労働組合に組織されるのは、「社員」や「職員」など、何らかの形態で被雇用者になったことを契機にするということである。
 もちろん、将来的な課題として、労働組合の失業者に対するアプローチが検討されねばならないだろうが、その場合においても、労働組合員が最後まで労働組合員でのみあり続けることは想定されないから、この性格を失わせるものではないだろう。
 労働組合が、基本的にカウンターパワー(対抗組織・権力)として存在するということは、労働組合の存在意義の個別性につながると私は考えている。
 すなわち、労働組合がなぜ必要なのか、労働組合は何をなすべきなのかという労働組合の存在意義は、対抗する組織・権力の性格や現状によって多様かつ具体的であるということである。
 もう一歩踏み込んで言うと、いわゆる「労働組合」と呼べるものの存在が必要でない場合ですらあり得ると、私は考えている。
 従って、労働組合運動の再構築に向けて、以下に何点かの指摘をするが、ある程度の共通性は是認できても、すべての労働組合において妥当性のあるものとはならないだろう。
 結局のところ、労働組合を、そして労働組合運動を魅力のあるものに再構築することは、それぞれの労働組合現場における、その時々に応じた、具体的な思索と実践の積み重ねの上にしか成り立ちえないのである。

(2)基盤的機能の強化

 労働組合の基本的性格が、「組合員の権利・権益の擁護団体であり、交渉団体である」以上、労働組合における基盤的機能である交渉能力・交渉機能の強化は、すべての前提として重要である。
 交渉能力・交渉機能の強化を図るためには、いくつかのポイントがあるが、その一つは、「情報力」である。そして、「情報力」は、@情報の収集能力 A情報の解析能力 B情報の創造能力 の3つに分けることができる。情報を収集し、解析し、対案を持って交渉にあたらねば、組合員の権利・権益の擁護、発展など望むべくもない。
 今日の労使関係において、労働組合側の発言力が著しく低下していることの背景には、こうした「情報力」における圧倒的な格差が指摘できる。
 しかし、それは、民間企業において著しく、官公労においては、あまり差がないように思える。自治労の場合などは、国−都道府県−市町村の権力構造の硬直性や自治体当局の非機能性、自治労の相対的機能性に起因して、労働組合側が「情報力」において優位性を持ち得る場合も少なくない。
 問題は、労働組合に「情報力」を向上させようとの指向性が存在するか否かである。いまだに一部の労働組合では、「労働者は絶対的に窮乏化する」との理論を単純に適用し、組合員の「生活実態」(それも相当身勝手な理解に基づいている)だけを根拠に労使交渉を進めようとするむきがある。しかし、それでは交渉は交渉となりえず、単なる労使のセレモニーと化してしまうのである。
 労働組合が「情報力」を向上させるには、@産別組織の強化を通じて、情報の収集・解析・対案づくりを強化する A労働組合以外の外部組織を有効に活用する B会社側・当局側の「情報力」を当該業務に従事する組合員の組織化等を通じて組合側の主張内容に換骨奪胎する、などの方策がある。しかし、手法はケースバイケースで良い。要は、労働組合の「やる気」なのである。
 交渉能力・交渉機能の強化を図るための、もう一つの大きなポイントは、職場・組合員に対する「規制力」である。「規制力」とは、職場・組合員に対する「圧倒的な影響力」と言い換えてもよい。
 というのも、労働組合の権限が一人ひとりの組合員の「委任」に由来することは前に述べたが、「委任」の正当性は、最終的には、職場・組合員に対する影響力の大きさで検証されることになるからである。職場・組合員の確固たる委任を受けぬ労働組合に、まっとうな交渉ができるはずがない。
 実は、現在の労働組合運動の停滞は、この点に関する具体的な手法について、今日的なイメージを確立し得なかったことに起因しているといっても過言ではないだろう。
 資本が、あるいは当局が、専制的・暴力的職場支配を行なっている場合、労働組合が職場・組合員の信頼を勝ち得て、影響力を確固としたものにする方策は、現実的には色々な困難があったとしても、本質的には比較的「容易」なことであった。
 今日の労働組合運動の困難さは、専制・暴力・強制というような前近代的支配に対する単純な抵抗ではなく、より創造的で、より魅力的な価値を具現化しながらイニシアティブを発揮し、職場・組合員に対する影響力を確保しなければならないところにあろう。

(3)魅力を発見できる人と人のつながりの構築

 労働組合の存在意義は、労働組合が「カウンターカルチャー(対抗文化)」を形成し得る組織であるという点に核心がある。
 だとすれば、労働組合運動の再構築は、労働組合が自ら実現しようとする「文化」(運営論理・価値基準)を明確にするところから始めなければならない。
 私は、以下の点が重要だと考えている。
 第1に重要な点は、組織を構成する一人ひとりの組合員の位置づけ方、または、組織と個人の関係性の見直しである。
 結論を先に述べれば、「労働組合とは、『自立した個人』の結合体である」という実体を実現することが必要であると、私は考えている。
 具体的には、自主性・自発性に基づく行動と、「違っている権利(right to be different)」が保障されること、言い換えれば、自己決定権が徹底して保障される組織とすることである。
 ところが、現在の労働運動においても、未だに「統一と団結」という言葉が必要以上に強調され、組合員にイデオロギーの一致を強制し、行動統制を行なっている場合が多い。
 また、「動員」などという言葉も、労働組合運動の世界では、日常用語として生きている。集会にせよ、何らかの行動にせよ、「動員」で送り込まれた参加者は、単なる「頭数」にすぎない。一人ひとりの意志を大切にしないで形だけを整えたような取り組みは、限りなく形骸化する。形骸化した取り組みに参加した人は、それを契機に「労働組合離れ」を加速させるだろう。こうした悪循環が、現在の労働組合運動には、確かに存在している。
 だとすれば、組合員の自己決定権を徹底して保障することは、労働組合が、自らの活動内容を不断に改革し、充実させていくための努力を担保することにもつながるのである。
 第2に重要な点は、組織運営における徹底した民主性の確立である。
 労働組合運営において組合員と組合役員は、本来、まったく対等な関係にあるはずである。同様に、本部−支部−分会という組合組織間も、本来、対等であるはずである。しかし、労働組合においても、「上位下達」式の中央集権的で官僚主義的な組織運営が蔓延している。
 これは、労働組合役員が自己をすり寄せて「権威」の源泉としている対抗組織のヒエラルヒーが反映しているか、または、労働組合運動を「指導」する労働者政党内のヒエラルヒーが労働組合内部に持ちこまれているか、そのどちらかに起因している。
 組織運営における徹底した民主性の確立のために必要なことは、組合内部における情報の風通しを良くすることである。情報の独占が「権威」の源泉となる。情報に対して開かれた組織とすること、すなわち、組合員に情報が正しく伝達される体質とシステムが確立すれば、労働組合運営の民主性は、自ずと高まると、私は考えている。
 第3に重要なことは、労働組合の人材育成機能を高めることである。
 ただ、これまでも、「左派」労働組合運動においては、「教育・宣伝」(略して教宣)活動は重視されてきた。しかし、その主眼は、資本主義の矛盾の暴露や、より高次な闘争形態への煽動であったし、社会主義思想の系統的学習であった。つまり、育成しようとした人材は、社会主義者たる労働組合活動家、あるいはその強力なシンパだったのである。
 そこで、現在必要とされているのは、いかなる人材を育成するのかというイメージの転換である。
 では、労働組合が育成すべき人材とはいかなるものか。私は、やはり、「自立した個人」ということになるのではないかと考えている。
 「自立した個人」とは何かという定義はとても難しいが、特に重要な要素は、<主張的>(アサーティブ/assertive)であることだろう。
 <主張的>とは、「自分を変える本−さわやかな女へ−」(リン・ブルーム、カレン・コバーン、ジョアン・パールマン共著、斎藤千代、河野貴代美共訳、BOC出版部)によると、「自分の率直な気持ちは何なのかをはっきり見つめ、正直に、直截に、しかも適切に、人とかかわっていく技術」ということである。
 <主張的>ではない一方の極が、「支配的で、他人の迷惑をかえりみず、自分のやりたいことをやる」という<攻撃的>(アグレッシブ/aggressive)。もう一方の極が、「とにかく葛藤を避ける−そのために自分の要求を我慢して、人の要求を通す」という<非主張的>(ノン・アサーティブ)である。
 特に、日本の場合においては、雇用主や上司、そして職場の同僚に対して、<非主張的>であることが強いられ続けてきた。また、労働組合内部においても、同様であっただろう。
 <非主張的>になりがちな組合員を支え、勇気づけ、自分をしっかり主張し、自らの仕事や生活上の希望を実現していける能力を獲得してもらうこと、このことこそ、労働組合が果たすべき役割ではないだろうか。
 以上の3点は、要するに、労働組合という組織が、人と人との「出会い」や「つながり方」において、会社などの対抗組織には期待できない新しい魅力を発見し得る場なのだということを個々の組合員が掴めるようにするためには、何が必要かということである。
 労働組合が、対抗組織から完全に独立して、独自の「文化」を創造することは、相当に困難なことである。
 しかし、それを行なうことができなければ、くり返しになるが、労働組合は自らの存在意義を再確立することなく、消滅の途を歩むことになろう。
 とりあえずは、できる限り多様なタイプの人材で労働組合運営を行なうことから始めるのが肝要である。というのも、労働組合役員のタイプの固定化が進むと、組織運営の硬直性と発想の貧困化をもたらし、可能性を封殺するからである。

(4)自己実現の可能な仕事づくり
 労働組合とは、文字どおり「労働」を契機として、「労働」に従事する者によって構成された集団である。だとすれば、その運動が、「労働」そのものの内容に対する働きかけを行なうに至ることは必然であるし、逆に、それを課題としない労働組合運動は、どこか不自然である。
 英語で「労働」という言葉には、レイバー(labor)とワーク(work)の2種類がある。前者は、「苦役」の意味合いが強く、いわば、「疎外労働」を意味し、後者は、もっと広い意味で「働く」ことを意味している。いわば、「自己実現としての労働」といえるだろう。<Labor>と書けば「労働者階級」を意味したように、労働組合運動の前提となる「労働」観は、あくまでもレイバー(labor)であった。
 だからこそ、仕事をできるかぎり早く切り上げること、できるかぎり仕事を少なくして多くの賃金を獲得することが労働組合の最大の使命であった。
 ところが、今日、「労働」の質は、必ずしも「苦役」としてのレイバー(labor)ではなく、ワーク(work)に近い場合が多いように思う。もちろん、こうした見方には、多くの反論があろう。厳密な検討は、別の機会に譲るとして、ここでは、今日の社会が、仕事を通じて社会的な分業を担いつつ、自己の成長を図ることを可能にする前提を整えつつあることを、簡単に指摘しておきたい。
 まず、自治体などの公的労働の場合は、自らの「労働」そのものが、市民に対する公的サービスを形成する場合が多いから、仕事が単なるレイバーでないことは実感しやすい。今日、サービスの提供主体の性格に若干の相違はあれ、公的サービスの領域と量は、著しく拡大し続けている。
 次に、商品の生産や販売という分野においても、地球環境に対する配慮や、製造物責任が飛躍的に厳しくなってきている。物を生産し、販売するということが、単なる利潤追求のための「私的な行為」では済まされず、「社会的な行為」であるとの規制が強まっているのである。
 そこで、資本の側の取り組みも、生産性向上、つまりは作り手の利益のためのQC(品質管理)運動から、消費者の利益を視野に含めたCS(消費者満足)運動に視座を拡大している。
 さらに外的な条件としては、時間短縮が大きく進まざるをえない状況となっている。
 こうした前提の中で、個々の労働者は、「より楽に働きたい」というだけではなく、「仕事をやる以上、良い仕事がしたい。人には喜んでもらたい。自分も評価されたい」、そして、仕事を通して成長したい」という要求を強めているのである。
 これらは、実にまっとうな要求であって、労働組合としては、もっと早くから、自らの労働内容をより豊かに、やりがいのあるものに変革するための取り組みを進めていなければならなかった。しかし、多くの場合、その課題は、手つかずに終わっている。
 労働組合運動の再生を図る際に、重要なポイントとなる課題であろう。

(5)助け合い機能の強化

 労働組合の基本的な性格は、前にも述べたように、「組合員の権利・権益の擁護団体であり、交渉団体」であるし、機能的・目的的組織である。
 しかし、このことは、決して労働組合が何かしらドライで、非人間的な集団であるということ意味しない。
 労働組合は、歴史的に見ても、構成員間の互助を図る目的で形成され、発展してきた。「組合員の権利・権益の擁護」が基本的な目的であるということは、まさに労働者の「連帯と友愛」を基本的な価値としているということであって、実にヒューマンな組織であるということである。
 このことを具現化するためには、労働組合独自の互助活動(助け合い機能)を飛躍的に強化しなければならない。
 さて、「助け合い」というものは、以下の2つに分けて考えることができる。
 第1は、「まさかの時の助け合い」である。
 例えば、自治労では、生活協同組合法に基づく「自治労共済」を独立して設立するとともに、そこでカバーしきれない事業は「自治労事業本部」を設置して、火災共済、自動車共済、団体生命共済、学資共済、交通災害共済、スポーツ・レクリエーション活動共済など民間生命保険・損害保険会社が展開している各種保険サービスを労働組合の事業として活発に展開している。
 これは実にすぐれた取り組みであって、自治労という労働組合の存在意義を確実なものとする性格を持っている。
 それは、個々のサービスの内容が民間に比べてどれだけ優位にあるかどうかというレベルで意味があるのではなく、「まさかの時」に労働組合が組合員の「力になる」、「組合役員が世話をする」という点において意味があるのである。
 「困った時の友こそ真の友」という格言があるが、組合員が「困った時」こそ、労働組合がその存在感を発揮できる時だろう。労働組合よりも民間保険会社が頼りにされるようでは、労働組合の存在価値は無いに等しい。
 また、こうした共済への加入資格を退職後にも認めることで、退職者の組織化も可能となる。
 さらに、組合員が不慮の事故や病気によって死亡したり入院したりした時に、その家族をどう支えるかということも浮かび上がってくる。
 もちろん、組合員が法律的なトラブルに巻き込まれた時に、労働組合が相談に応じるなどの対応も必要だろう。
 自治労のいくつかの単組では、共済活動の延長線上に、労働組合として本当に重要なこれらの課題の具体化を始めている。
 第2は、「日常的な助け合い」である。特に、精神的な面における支援・援助が重要であろう。
 今日の複雑な社会の中で、精神的なストレスは増加の一方である。精神症・神経症に病んでいる者は、以前とは比較にならないほど増えている。
 そこで、メンタルヘルスの重要性が強調されるようになっているのだが、不思議なのは、メンタルヘルス対策は雇用主が行なうものとする発想が労働組合側に見られることだ。だから、要求書にはメンタルヘルス対策の充実を求める内容が記載されても、労働組合自体が具体的なメンタルヘルス対策を開始したという話は、あまり聞かない(組合員の範囲ではない中間管理職層に対象者が多いからかもしれないが)。
 ところが、実際問題として、雇用主がメンタルヘルス対策を実施したとしても、悩みを抱える者が、雇用主が開設している相談窓口に行くことは、極めて困難である。自分のマイナス評価につながることを恐れるからである。
 悩みの原因の解決に向けた対応能力という点においても、労働組合の方が、対策の実施主体として優れているように思う。労働組合は、もっと主体的にメンタルヘルス対策に取り組まねばならないのである。
 また、メンタルヘルス対策とまではいかなくても、ちょっとした相談や助言、簡単な職業訓練、各種手続きの代行など、相互扶助という観点で取り組めることは色々ある。
 労働者の「連帯と友愛」という言葉を、歴史書の中に埋もれさせない努力が必要なのである。

(6)専門性・情報の活用と地域社会への貢献

 労働組合運動の再構築を図るためには、労働組合内部の運営手法や活動を見直すだけでは不十分である。
 どんな運動団体であろうと、その組織が活性化し、運動がダイナミズムを持つのは、その団体が「社会性」を持ち得た場合だけだからである。
 これまでも労働組合運動は、自らの社会的影響力を拡大するために、様々な努力を重ねてきた。かつての「国民春闘」も、最近の「制度政策要求闘争」も、その一環であろう。
 また、最近では、ボランティア休暇・休業制度を確立して、組合員のボランティア活動を促進することや、労働組合独自のプロジェクトとして国際貢献活動に取り組む試みもなども行なわれている。これらの活動についての評価は、容易ではない。
 また、今回、ここで述べているのは、労働組合運動の再構築のために必要な、最も基本的なことがらであるので、ここでは、次の2点を指摘しておくにとどめたい。
 第1は、労働組合が「社会性」を持ち得る理由についてである。
 労働組合が「社会性」を持ち得るのは、次の2つの性格ゆえである。
 1つは、労働組合が「勤労者」で組織されているということである。つまり、「勤労者」は社会のマジョリティでありながら、社会的な発言力ではマイノリティである。労働組合には、サイレントマジョリティの代弁者たる期待が寄せられるのである。
 2つには、労働組合が「職業人」で組織されているということである。「職業人」とは、「プロ」ということであって、「プロ」が集まる労働組合には、当然、特定の事柄であっても、極めて高度で専門的な技術やノウハウ、情報が蓄積される。
 このような労働組合の性格を余すことなく活用すれば、労働組合が地域社会において、また、広く社会において、影響力を発揮し得ることは間違いない。
 そして、その時には、労働組合運動には新たな魅力が生じ、それに魅かれて活動に参加する人材も出てくることだろう。
 第2は、労働組合の政治的・社会的影響力を拡大するという言葉の下に、これまで陥ってきた誤った傾向についてである。
 これまで、「労働組合の政治的・社会的影響力の拡大」ということが語られたとき、具体的にどんな活動に結びついたのかというと、結局は、労働組合(あるいは、その基盤とする企業)の権益を代表する議員づくリ、あるいは圧力団体としての機能強化であった。
 労働組合における「政治主義」の弊害については、前に述べた。議員づくりも、圧力団体としての機能強化も、仮に必要なことであったとしても、決して人を魅きつける魅力のある活動ではない。
 次の言葉が適切であるかどうかはわからないが、労働組合の基本的な機能を再確立し得た後に問題となるのは、一種の「ロマン」である。
 労働者の立場に立って、社会の仕組みを根本的に変革するのだという「社会主義革命」思想には、人を魅きつける気高い「理想」があったし、一種の「ロマン」があった。
 これが崩壊した現在、労働組合活動の、より高次な可能性は何か、労働組合活動を通して何をなしうるのか、その「ロマン」を見いだすことが次の課題だと私は考えている。

(7)組合財産の活用とサービスの拡大

 労働組合が、組合員たる「人」と、組合費たる「金」の結びつきであることは前に述べた。労働組合の「人」と「金」は、想像以上に大きな可能性を秘めている。少しの工夫と努力で、組合員に対する新しいサービスは展開できるのである。
 福利厚生・文化・スポーツ・レクリエーション等、どんなことでもよいから具体化を開始することが必要である。労働組合は、紛れもなく一つの「対人サービス組織」である。新たなサービス開発なしに、生き残ることは難しい。
 この点について、労働組合活動の全面的な見直しに意欲的に取り組んでいる松下電器産業労働組合の中央執行委員である八木俊輔氏が、「生活者ユニオンをめざして−ゆとり時代の組合活動−」という講演の中で(大阪市政調査会発行「市政研究」第98号に掲載)、次の指摘をされている。まったく同感である。

 「…どんな小さな組織でも、構成員の欲望充足に効果的に対応できれば帰属意識をつなぎとめることができるのです。その意味では、これからはいかに組合らしさを維持し、発展させられるかが問われてくると言えるでしょう」(P-110- )。

 同様に、労働組合は、地域社会における様々な活動のセンターとなりうる能力と機能を十分に備えている。
 そう、労働組合には、事務所があって、通信機器や印刷機器が備えつけられている。多くの場合、何人かの専従職員が存在し、余裕資金もある。様々な知識・経験・ノウハウがあり、情報のネットワークも確立している。その上に、多数の人がつながっている。そして何よりも、「金儲け」のために存在している組織ではないのである!
 私たちは、これまで一体何をしてきたのだろうか。何にとらわれてきたのだろうか。
 私たちをとらえてはなさなかったパラダイムを少し転換し、労働組合というものの存在をありのままに見つめれば、労働組合運動は、素晴らしく大きなパワーを少しの工夫で簡単に発揮できるようになると、私は感じている。

4.労働組合運動の「日常性」の見直し

 労働組合運動を一から始めてみるとわかるのだが、労働組合の一つ一つの取り組みや位置づけに疑問に感じることは結構多い。しかし、それも、慣習化すると何の抵抗もなく維持されることとなる。長年培ってきたことを変えることは、大変な「勇気」を必要とするからだ。実際、従来と同じように対応しておけば、大きな失敗がない。かくして、労働組合運動は、強固なマンネリズムに支配されることになり、時代に取り残されることになる。
 換言すれば、「労働組合運動の再構築」という大きな課題も、結局のところ、日々の営みの小さな変革の積み重ねの上にしか成り立ち得ないということだろう。
 そこで、ここでは、労働組合運動の具体的・日常的な取り組みや行動様式の変革に向けて、気づいたこと、感じたことを思いつくままに指摘してみたい。

(1)運動方針
 労働組合の運動方針というものは、実際上の意義の軽重は別にして、それぞれの労働組合にとって、極めて重要な文書の一つである。
 実際、色々な労働組合の運動方針を読んでみたが、第1に気になることは、実に長文だということである。多分、普通の組合員は誰も読んでいないだろうと思われるものが多い。そして、労働組合の「伝統」と運動方針の長さは正比例の関係にあるように思える。
 ただ、その長さの原因は、「情勢分析」と「前置き」の長さにあって、具体的な行動方針や組織方針の内容は、結構簡潔な場合が多い。
 しかし、「情勢分析」もある程度は必要だが、全面展開をするとなると、「イデオロギーの一致」が必要となり、労働組合の性格を逸脱することになると思われる。従って、労働組合の運動方針とは、「基本的な方向性の確認」のためのものとの割り切りが必要だと私は考えている。具体的な個々の課題に対する対応は、個々のケースごとに、その時の状況に応じた対応方針を出さざるを得ないし、それが適切だからである。
 結局、運動方針に何もかも書き込んでしまおうとするのは、労働組合執行部の「怠慢」でしかなく、運動方針が長くなれば長くなるほど、個々の局面におけるディスカッションが希薄になるとの観察は、穿った見方だろうか。
 気になることの第2は、労働組合の「業界用語」が頻繁に使われていることである。これらを解りやすい言葉、市民感覚にマッチする言葉に置き換えることも重要だろう。
 特に、「闘う」という言葉と、「〜しなければならない」というフレーズが反復された長文の運動方針ほど、組合員から遊離したものはない。
 「ぼくなんか『闘う』という言葉は、今までスポーツの時ぐらいにしか使わなかったし、労働組合が『闘う』といっても、未だにピンときませんね…」と語っていた若い組合役員がいたが、実際そのとおりだと思う。「闘う」という言葉に意味があるのではなくて、具体的に何をするのか、その内容を書くことが重要だということに留意しなければならない。
 今後、労働組合の運動方針において、最も重要となるのは、労働組合をどう運営していくのか、運動課題の多様化に応じた活動の担い手をどう確保していくのかという「組織方針」に関わる部分であろう。しかし、「組織方針」がおざなりにされている労働組合は、まだまだ多い。そのあたりから見直しを始めるのが、ぜひ必要だと思われる。

(2)労働組合組織
@直接民主主義的運営
 労働組合組織においても、ほとんどの場合、代議制(間接)民主主義を基本的な運営手法として採用している。しかし、労働組合においても、この運営手法には、様々な問題がつきまとうことになる。
 それは、一言でいうと、活動家(ないしは企業利益の代弁者)が集まる代議機関が職場組合員の多数意見を反映しきれないという問題に尽きる。
 この点を修正・補強するには、労働組合組織をできる限り「直接民主主義的に」運営するしかない。
 そのためにまず重要なのは、運営単位組織を「直接民主主義的」運営に適当な規模に分割し、権限・財政の分権を大胆に進めることである。
 次に重要なのは、構成員に情報を行き渡らせるシステムとスキル(技術)を確立することである。
 「分権」「開かれた情報」をキーワードに、「直接民主主義的運営」を定着させることが、労働組合組織再生のポイントであろう。
A労働組合における分権
 現在、労働組合の組織運営における「中央集権性」は、拡大の一途にあるように見える。その原因は、労働組合が交渉課題とする基本的な事項(賃金・労働条件)に関わる決定権が本社・中央に集中し、労使の中央交渉ですべてのことが決定してしまうところにあると思われる。
 技術革新に伴い、高度に組織化された近代産業において、現場レベルで交渉の余地を見出すのは、確かに困難なことである。また、経営側の現場(支社)責任者に交渉当事者能力が存在しなければ、労働組合側組織の「形骸化」が進むのは、ある意味では無理もない。
 しかし、労働組合の存在意義が、基本的な賃金・労働条件の交渉団体としての役割にのみあるのではないことは、すでに述べた。これまで、ややもすれば労働組合の副次的な機能だと考えられてきたことそのものが、労働組合が追求し、実現すべき機能であり価値であるとすれば、「労働組合における分権」は、それ自体が目的的に追求されねばならない課題であろう。
 さて、「労働組合における分権」の具体化を進めるための第1の課題は、「組合人事」における分権である。だれが組合役員にふさわしいかを決めるのは、当該職場の組合員以外にはあり得ない。組合役員選考過程における実質的決定権が「中央」にあるようでは、分権の確立は不可能である。
 第2の課題は、「組合財政」における分権である。どのような活動に、どれだけの投資をするか、その決定権がそれぞれの組合機関に完全に付与されることが必要である。
 第3の課題は、組合組織に対する認識や意識の変革である。本部−支部−分会−職場委員会という労働組合の組織形態は、単なる「機能の分化」を目的としたものであって、上下関係(指導−被指導)にあるものではない。
 実際、自治労の中で活動していると、中央本部−都道府県本部−単組の関係が上下関係にあるものでないことが実感できる。しかし、民間の労働組合(特に大手企業の労働組合)における労働組合組織の上下関係は、想像以上に厳しいものがある。
 ある地方議員選挙事務所で民間大手労働組合の人たちと作業をしていた時に、その労働組合の本部幹部が激励に立ち寄った場に居合わせた経験がある。その時の支部執行委員クラスの活動家の対応が非常に印象的であった。動員されていた組合員全員に起立させ、直立不動で出迎えさせたのである。そういえば、その時の何ともいえぬ緊張が漂った雰囲気は、大学病院で院長回診が行なわれる時の雰囲気に似ていた。自治労では、中央本部の委員長が来ても、こんな雰囲気にはならないだろうなと、思わず苦笑したのを覚えている。
 労働組合の役職など、本当に単なる役割分担でしかない。これまで「分権」という言葉を「中央集権」に対置する概念として便宜上使用してきたが、本来的にはこれも正しくない。主権は組合員にのみ存するのであって、権限を分けようがないのが労働組合であるはずだからである。「組合員が主人公」とは、よく使われる言葉であるが、それを内実化することができていないのが現状である。労働組合運動の再生を考える際の、重要なポイントの一つであると私は考えている。
B労働組合の名称
 「何気ない」問題ではあるけれど、考えてみれば重要な問題が、労働組合機関の「名称」である。
 労働組合機関の「名称」というと、「執行委員会」「中央委員会」「委員長」「書記長」といった名称が一般的である。一体これらの用語の由来は何なのだろうか。私は、「(ソ連)共産党」の模倣だったのではないかと考えている。
 そもそも、イギリスにおける労働組合の原型において存在した役職は、「議長」と「会計係」であったと聞く。パブで酒を飲みながら話し合いをする。「乾杯!」と言う役が議長、酒を出すのをストップして話し合いをまとめるタイミングを計る役が「会計係」という訳だ。「中央委員会」や「書記長」という言葉を聞くと、どうしても「崩壊」した東欧諸国を連想する。
 名称が「意識」を規定する場合もあるから、例えば、「中央委員会」は「職場代表者会議」、「執行委員会」は「幹事会」、「書記長」は「事務局長」、「執行委員長」は「組合代表」などと置き換えてみることも意味があるのではないだろうか。
C労働組合の構成員
 労働組合の性格や役割が、その労働組合がどのような者で構成されているかによって決まるということは、すでに述べた。ここでは、労働組合の構成員についての課題を網羅的に指摘するにとどめたい。
 その第1は、これまでから繰り返し指摘されているように、「非常勤」「臨時」「パート」などという位置づけで、正社(職)員に比べて著しく低位で不安定な就労を余儀なくされている社(職)員を組合員として組織化することである。「本工主義の克服」は、随分と長い間、課題となり続けているが、まずは「本工組織」からの脱皮が先決であろう。
 第2の課題は、社(職)員でない者、特に被解雇者の組合員資格を継続することができるかどうかである。もちろん、解雇原因には様々な場合があるから、すべての被解雇者を組合員とすることはできないだろうが、少なくとも不当解雇を争う社(職)員を労働組合から排除することは、絶対にしてはならない。これは、労働組合の存在意義を根本において失わしめる「自殺行為」であると、私は考えている。
 第3の課題は、関連事業体(企業)労働者間の対等な結合を実現することである。自治体でいえば自治体関連セクターの労働者、民間企業でいえば下請け・孫請け企業の労働者と、本庁・本社労働者が対等な結合を実現することが必要なのである。海外進出をしている企業の場合には、その課題の延長線上に、現地労働者との国際連帯をどう実現するのかという課題があろう。一つの企業内で労働組合を組織する場合には、組合員間の「対等性」は無条件に確保されていた。ところが企業間の重層構造や国家間の経済関係など、労働者間の「対等性」をゆがめる「磁場」が存在する下で、労働者同士の対等な結合をどう実現するのかということについては、具体的なイメージが一向に見えてこない。労働組合が名実ともに資本から独立した存在となることは、本当に困難な道程であると思う。
 第4の課題は、外部専門家の大胆な活用である。ILO条約の批准に伴って、労働組合役員には何人を問わずなれることになっている。しかし、日本の場合は、労使ともに強固な「身内意識」が支配しており、組合役員に外部人材を導入することは皆無に近いのではないだろうか。労働組合の「プロ野球選手会」が、事務局長(?)に弁護士を充てたように記憶しているが、こうしたビジネスライクなスタイルがもっと一般的になれば、労働組合のイメージも変化するし、組織率の向上につなげられる可能性も見出せるのではないだろうか。

(3)労働組合運営
@労働組合の会議
 労働組合の運営を日常に即して見直すとなると、まず重要なのは、会議のあり方である。会議は、意志決定の場であり、また、コミュニケーションの場であるから、どのような「会議ぶり」かで、その組織の体質がうかがえる。労働組合の会議を振り返ると、次のことが指摘できる。
 まず第1は、会議のスタイルの「古さ」である。実際例を数多く見たわけではないので断定はできないが、労働組合の機関会議(中央委員会など)は、教室形式で参加者が並び、壇上には組合旗(それも赤旗!)というスタイルが未だに多数派ではなかろうか。
 そして会議の内容は、会議のスタイルそのままに、「方針を指し示す役員」と「それを聞く参加者」の間の質疑応答や、役員への要望に終わる場合が多いのではなかろうか。もし、労働組合の会議が本当に共同して運営にあたる者同士の対等なディスカッションの場であるならば、会場の制約はあるにせよ、円卓をベースにその場にふさわしい座席配置するなど、会議の構成がもっと工夫されてしかるべきだろう。
 第2は、実に議論が低調(発言が少なく、活発でない)だということである。その原因は色々あろうが、最大のものは、批判を許容しない「雰囲気」である。そして、異論排除の正当化のキーワードが「統一と団結」という言葉である。この言葉は、何を「統一」するのか、「団結する」とはどういうことなのか、真正面から問い直されることなく、時々の組合役員に都合の良い意味で使用されてきた。いわば、崩壊した社会主義諸国において民衆支配のために用いられてきたスローガンと同種のものであった。
 ところが、イタリア労働運動においては、「反対意見者の行動留保権」が明確に保障されてきたと聞く。これが保障されないと、反対少数意見が多数意見に転化する契機を失うからとの理由に基づいているという。組織における真の民主主義を確立するために、実に重要なポイントであろう。
 議論が低調になるもう一つの原因は、「暗黙の二重理解」を会議の前提として定着させてしまったことにある。すなわち、提案された「案」はあくまでも「建て前」なのだから提案者の顔を立てて賛成するが、実際上の行動は現実対応で行なうとするスタイルの蔓延である。特に、産別組織の会議や大単組の支部代表者会議のように、独立組織の代表者が集まる会議にこうした傾向が強いように思う。これでは最初から議論する必要性がないわけだから、議論がないのは当然の帰結となる。加えて、実質的には方針が方針として成立していないから、どのような結果になろうと総括のしようがないことになる。その結果として、毎年同じような内容の方針が提案されることになり、現実とのギャップはますます開く。それ故に、提案はますます議論の対象とならないという悪循環に陥るのである。
 これを断ち切るためには、現実性・具体性がないと思うことには軽々しく賛成しないという一種の「こだわり」や責任感のようなものを一人ひとりが持ち続けることしかないと、私は考えている。
 議論が低調になる三つめの原因は、議論の方法、すなわち、何を議論し、何は議論しても仕方がないのかということが理解されていないことにある。
 労働組合においては、イデオロギーを一致させる必要はない。必要なのは、行動方針と組織方針における一致である。この点における違いを常に明らかにして議論すれば、議論は具体的になって活性化するし、意見の調整も、また調整しきれない場合の選択もそれほど困難なものとはならないのである。
 ところが、労働組合における収拾が付かないような白熱した議論の大半は、イデオロギーもしくは「想い」のぶつけあいである。もちろん、時間があればぶつけあうのも結構だ。しかし、最後は、何をどうするのかという具体的なテーマでしかありえないのである。
A労働組合の交渉
 労働組合の基盤的機能である交渉能力・交渉機能の強化に関することは既に述べた。そこで、ここでは、交渉に臨む労働組合のスタンスの問題で気づいたことを述べるにとどめたい。
 すでに組織されている労働組合の場合、交渉の実質的課題はどうしても「既得権防衛」の性格を帯びる。もちろん、これまでの闘いの成果を守ることは、労働組合にとって当然すぎるほど当然の責務である。しかし、企業であれ、行政などの公的セクターであれ、それらを取り巻く環境は激しく変化しており、労働のあり方も常に変革が求められている。
 しかし、労働のあり方の変革に対する労働組合の対応スタンスは、極めて両極端であるように思う。一方は無原則とも言える程の追認姿勢であり、もう一方はいかなる労働内容や労働形態の変更にも反対するという極端な現状維持指向である。前者は民間の労働組合に、後者は官公労の労働組合に多く見られる。そしてそれは、前者は、企業存続に関する危機意識を労働組合が先取りしているからであり、後者は、運動論としては、当局が行なおうとする変革行動はすべて資本主義の体制内合理化=資本主義の強化策(あるいは臨調「行革」路線)なのだから抵抗(反対)すべきである(?)との思想に基づいている場合が多く、本質的には、雇用関係の継続(身分保障)に対する「甘え」に依拠しているように思われる。
 実は、これまで労働組合が労使の交渉に当たって当然の前提としてきたことは、次のことであっただろう。すなわち、「現に組合員(労働者)が提供している労働の内容・形態・位置づけに大きな変化がない」ということである。その前提の上で、その強度(労働時間や労働密度)や価格(賃金)について、交渉を進めてきたわけである。
 ところが、そうした前提をくつがえすための交渉への対応となると、労働組合の手に余るというのが実際だろう。その結果が、一方で無原則な追認を生み、一方で教条的な拒絶を生むのである。確かに、「そう簡単には変われない」「生身の」組合員(労働者)で構成されている労働組合が、構成員に対して「変わる」ことを強いる課題に足を踏み入れることは、困難なことではある。しかし、これからの時代、労働組合は好むと好まざるとにかかわらず、この種の対応に追われ続けることになる。対応に必要な原則を明確にし、対応手法を整理しなければならないと思うが、まだ考えがまとまっていないので、またの機会に述べたいと思う。
B労働組合の取り組み
 次に、労働組合の取り組みの類型別に、気づいたことを思いつくままに述べてみたい。
(a)ストライキ
 ストライキという行動が、労働組合運動において最も高次な組織行動であることは言うまでもない。職場・組合員に対する労働組合の「規制力」を計る最大のメルクマールとなるし、交渉を前進させるための最大の武器ともなる。
 そして、労働組合運動の歴史は、ストライキ権獲得の歴史でもあった。ストライキを打ち抜き得る労働組合組織とそれを認める社会を確立することは、今なお、極めて重要な課題であり続けている。
 しかし、あえて私の大雑把な印象を述べさせてもらうならば、高度に発展した現代資本主義社会の中で、プロパガンダの域を超えて名実ともにストライキと呼べるストライキを打ち抜くことは、もはや不可能なような気する。
 表現を変えると、レーニン的な「革命戦略としてのゼネスト」の延長線上でストライキを考える発想はやめた方が良いということである。
 これからも、個別的・限定的な交渉戦術として、あるいは、労働組合の組織行動体様の一つとしてのストライキは、意味を持ち続けるだろう。しかし、ストライキは、それ以上でもそれ以下のものもでない。つまり、ストライキは、いわば局所的なゲリラ戦術としてのみ有効性・妥当性を持ち得るのだという割り切りが必要なのではないかということである。ただ、以上のことは、あまりにも漠然とした問題提起であるので、機会があれば、また詳しく述べてみたいと考えている。
(b)集会
 労働組合はさまざまな集会を精力的に開いているが、その中身はというと形骸化が実に著しいように思う。以下に、気づいた点を述べてみたい。
 まず第1に、どの集会でも大抵顔ぶれが固定していて、参加者に意欲を感じないことである。この点については、すでに詳しく述べたので省略するが、必要なのは「動員」というものの見直しである。学習会にせよ、諸闘争の集会にせよ、企画や内容、あるいは課題の焦点化がどこまでなしえたのかが、組合員の参加数などの「結果」で検証され得ない組織では、自己変革の契機がつかめぬままに、極めて深刻な事態に急速に陥るのではないだろうか。
 第2は、集会に限らずすべての取り組みに共通したことであるが、どんな取り組みでも、生活者としての感覚を大事にしない「質」では、組合員の共感や取り組みのひろがりは得られないということである。換言すれば、ありのままの組合員や市民(自らつくり出したイメージとしての組合員や市民ではなく)の感覚で、取り組みのコンセプトを煮詰めることが必要だということだろう。これまでの労働組合の取り組みは、まだまだ、労働組合運動「業界」の中で完結するような質のものが多いように思う。
 第3は、生活者としての組合員や市民が参加しやすい時間設定や配慮が必要だということである。時間設定に無理がやむを得ないのならば、最低「保育」の保障はすべきである。こうした配慮の積重ねが、これまで労働組合運動から遠ざけていた層(例えば女性)の組合運動参加を促進し、そのことが労働組合運動の活性化につながるのである。
(c)「教育・宣伝」
 労働組合が人材育成機能を高めねばならないこと、その際には、これまでの労働運動における「教育・宣伝」活動の質を転換せねばならないことは、既に述べた。ここで再度指摘しておきたいのは、今日労働組合運動に必要なのは、「煽動」としての「宣伝活動」ではなく、「情報公開(提供)活動」としての「宣伝活動」であるということである。
 今日、労働組合が組織している組合員は、皆、高学歴であり、様々な情報を自分で読み取り、理解し、判断する能力を有している。故に、組合員が欲しているのは、「煽動」ではなく「情報」なのである。
 実際、労働組合には、様々な情報が集まる。また、集まるからこそ存在意義があるのであって、集まらない(集められない)ような組合は論外である。ただ、集められた情報が、どれだけ組合員に還元されているかというと問題が残る。
 労働組合に集まる情報と、組合員に還元される情報の収支格差は、組合員を操作しようとの性向に起因する労働組合の強固な「情報閉鎖性」に因る場合も大きいが、還元手法が未整備なためである場合も多い。つまり、入ってくる情報が多すぎて、組合員へ報告するという処理がしきれないということである。
 こうした事態に陥らないためには、情報提供媒体を多様化する必要がある。情報提供媒体には、機関紙(誌)にとどまらず、速報・資料・議事録・録画・録音などあらゆる手法を用いなければならない。同時に、伝達手法も、配布・ファクシミリ・パソコン通信・口頭伝達など、様々な情報伝達のためのシステム確立が必要であろう。
 また、音声情報(例えば労使協議や会議の内容)を文字化する作業が大変なら、テープをおこしワープロ入力をしてフロッピーで納品する外部サービスを活用するなどの工夫もすべきだろう。
 情報提供における迅速性は、組合員の労働組合に対するニードに確実に応え、労働組合の存在意義を固めるものであるとともに、組織の民主性を高める。今後の労働組合運動を考える際の極めて重要なポイントであると、私は考えている。
(d)旗開き
 新年の最初に行なわれる「旗開き」という取り組みは、どのような内容で行なわれている場合が多いだろうか。私の経験では、次の印象に集約される。すなわち、「あいさつが長くて、退屈だ!」というものである。
 結局、どんな取り組みにしても、問題は、その取り組みが誰を対象にどんなコンセプトで行なわれているのかが明確か否かという点に尽きる。
 とすれば、現在、多くの労働組合で行なわれている「旗開き」などという取り組みは、組合員を視野に入れた取り組みではない。労働団体・友好団体・経営者団体の主だった役員間の、いわば「賀詞交換会」であり、儀礼的行事に過ぎないのである。
 もし、そういう場が必要だとの判断するのなら(私には、とても必要だとは思えないが)、もっと少数の、主だった役員間の「賀詞交換会」に徹すれば良い。
 そうではなく、組合員の参加を得て新年を祝うというのなら、堅苦しいあいさつなど無用であるし、新年パーティに徹する割り切りが必要であろう。
 このように、「旗開き」という年中行事一つにしても、見直しが必要だと私は考えている。
(e)文化・レクリエーション・福利厚生活動
 これらの活動に共通して必要なのは、魅力があり、常に新しい企画やサービスを開発する努力である。労働組合は、まぎれもなく一つの対人サービス組織である。労働組合経営においても、不断の経営努力が必要なのは当然なのである。
 ところが、労働組合にはこうした姿勢が欠如している場合が多い。それは、労働組合においては、これらのサービスは副次的なものであるととらえられ、組合費の拠出に対する反対給付なのだと意識されていないためだろう。しかし、現在、多くの労働組合が徴収している組合費水準は、他のさまざまなサービス事業における会費などと比較しても、相当な水準なのである。「甘え」は許されないのではなかろうか。
C組合財政
 労働組合の財政運営に関することでは、次のことを指摘したい。
 第1は、財政運営理念の転換の必要性である。これまで、労働組合財政の最も大きな任務の一つは、ストライキ闘争を打った時の賃金カット補償や、資本(当局)の処分攻撃に耐えうる財政基盤を確立することであったように思う。そのために多くの労働組合は、特別闘争資金などという位置付けで、巨額の蓄財に励んだのである。しかし、今日の状況は、先に述べたように、大規模なストライキ闘争を組み得るような状況ではないし、一部の特殊な場合を除いて労使関係も「敵対関係」というような関係ではなくなっている。とすれば、具体的なあてのない巨額の蓄財は無意味だということになる。そこで、これからの労働組合財政の運営理念は、「闘争資金プール型」から「単年度使いきり型」に転換せねばならないのである。拠出した組合費は、拠出した組合員が組合員である間に、何らかの形で還元するようにしなければ、巨額の組合資金が大きな不公平と災いの元になるののではないかと、私は考えている。
 第2は、組合費の使途についてもっと透明度を増すような会計システム(予算・決算形式)を確立する必要性があるということである。年間で何千万円・何億円もの金が動かされている割に、会計処理は非常にアバウトというのが労働組合の特徴でもある。それは、ある面では「強み」となり得るが、拠出者たる組合員の同意を得つづけることは、もはや不可能となるだろう。
 第3は、分権型財政運営手法を確立する必要性である。何に、いつ、どれだけ組合費を使うかを決めること、そして資金を管理し実際に執行すること、使い方が適正であったかどうかを監査することなど、これら財政運営に関する権限を大胆に分散していくことは、逆に、組合組織を直接民主主義的運営に適する規模に分割することを促進する。労働組合に対する組合員の帰属意識を高めるために、ぜひ必要なことであろう。また、組合の財政を使って、労働組合が社会的な貢献を行なうことも検討の余地があろう。例えば、組合費で福祉基金を確立し、それを活用して福祉活動を行なっている組合(日産労組)もある。福祉・文化・環境など、労働組合が組合財産を活用し、地域社会に貢献するべき課題は山積している。そうした方向へ関心を向けることで、労働組合運動の新たな地平が開けてくるのではないかと、私は考えている。
D組合事務所
 労働組合の事務所というと、どうも汚らしくて「暗い」というイメージがある。組合事務所が、対組合員サービスの拠点施設であり、人と人が魅力的な出会いを得る場であるならば、もっと組合事務所に資金を投入し、快適な空間へ改善する努力と工夫が必要だろう。具体的には、まず書類の減量化を進めること、そして新しいオフィス機器を導入し機能的で効率的な業務展開を図ること、最後はインテリアデザインを一新して組合事務所を明るいオフィス・ロビー空間として確立することが必要ではないだろうか。
E組合役員
 労働組合役員に求められているものも、大きく変化している。
 労働組合運動が社会主義運動と深く結びついていた時は、組合役員たる組合活動家にとって必要な最大の資質は、レーニンによる「ヴォルシェビキの条件」ではないが、「英雄主義」であり、「献身性」であっただろう。しかし、これからの労働組合運動においては、自己の生活を犠牲にし、労働組合活動だけにすべてを捧げる(?)ようなタイプは、組合役員としてふさわしくないことになろう。
 「組合役員は、口では革新的なことを言っているけれど、本質的には古くさくて、押し付けがましくて、酒飲みで、いつもむさくるしいから嫌い」というのが最近の若い(それも女性の)組合員の率直な印象ではないだろうか。先に述べた松下電器産業労働組合では、これからの望ましいリーダー像を次のように設定している。
 「ウォームハートでしかもクールヘッド。職場によく足を運び、皆の目線にあわせて広く意見を聞き、自分も多様な趣味をもち、清潔でさりげないおしゃれをし、具体的でわかりやすい話をする」(自治労大阪/「紙上ユニオン・カッレッジ(13)」−松下労組書記長・久保田泰雄さんの講演要旨)
 なるほどと感心させられたが、ただ、こうしたタイプばかりを組合役員に集めるのは実際不可能だろうし、また良いことでもない。要は、さまざまなタイプが組合役員になっているのが好ましいのである。古くさいタイプも新しいタイプも、また、大雑把なタイプも細かいタイプも、男も女も、多種多様の人々が存在することでこそ、魅力を醸し出すことができる。特に、最大の課題は、女性の役員を大幅に増やし、中心的なリーダーとすることだと、私は考えている。
 労働組合の役員に関することで、最後に重要なのは役員人事の絶え間のない刷新である。中心的な役員が絶えず若返らないと、活動内容が刷新されるはずもない。そのためには、退任がいつでも可能な条件づくりが必要である。
 結局、組合役員の入れ替わりを図ろうにもそれができないのは、一つは退く組合役員の処遇(職の確保)が困難であるからであり、もう一つは、長期に役員をこなすことで属人的につちかってきた交渉能力などを労働組合が「手放せない」からである。
 前者の点については、労働組合活動に専従する期間を長期にさえしなければ、前職に復職することで問題は解決する。難しいのは、後者の問題である。
 労働組合の交渉能力・折衝能力といったところで、結局、窓口となる組合役員の属人的能力に負うところが多いのは事実である。そして、それは経営者(当局)側担当者との人間関係に依拠している部分が多い。また、そうした能力は一朝一夕に獲得できないし、だからこそそうした能力にたけた組合役員は重宝なのである。しかし、多くの場合、そうした関係の深化は、労働組合側の利益に寄与するというよりも、逆に、なれ合いや癒着など労働組合にとってもマイナスに作用する危険も大きくなる。だから、多少の後退は仕方がないと覚悟して、割り切って役員の刷新を行なうしかないと、私は考えている。

5.終わりに

 私がこれまで労働組合運動との関わりの中で考え、部分的には実践してきたことを書き連ねると、思いもよらず長文になってしまった。如何程の問題提起ができたのか、はなはだ心もとない限りであるが、読者の皆さんの検討の素材としていただきたい。
 本稿を書き上げて、今あらためて考えてみると、私自身「労働組合運動の再構築」がありうるのかどうか、また、その前提となる「労働組合」がいかなるものであるのか、わからないことだらけだというとがはっきりした。
 不況でリストラクチュアリングに伴う人員削減などの嵐が吹き荒れるこれからしばらくの間は、旧来のスタイルの労働組合運動も引き続いて存在意義を持つだろう。日本共産党系の「全労連」も、批判的少数組合としての存在意義を多少は高めることになるのかもしれない。しかし、大きな時代の流れの中で、労働組合がどのような存在となっていくのかは、やはり私にはわからないのである。
 本文中にも書いたが、やはり鍵は労働組合の「二重組織性」であろう。労働組合の将来は、資本主義社会の、企業組織の将来形態と切り離して考えることは不可能である。私の漠然とした予感では、将来における「労働組合機能」は、組織形態としては分割されることになるような気がする。
 交渉機能の部分は経営協議会への労働者代表の参加とそのための意志決定システムの確立へ、組合員に対するサービス機能は労働者福祉専門組織へ、そして、一番難しいのが自主的なコミュニケート・ネットワーク組織がどのような形で結成され、活動していくのかという点である。
 人は、自らの属する企業(行政)組織の論理に基づくつながり中だけでは、決して満足できない。支えあい、励ましあい、コミュニケートすることを絶えず欲している。その欲求がある以上、何らかの形態で人と人は結びつく。その結びつきを労働組合と呼べるのか呼べないのかは定かではないが、一次的な所属組織とは別のものが存在することになることは間違いないだろう。
 くり返しになるが、私は本稿で労働組合組織運営についてかなり多くの指摘をしてきたが、「労働組合運動の再構築」という課題が、最終的に現存する労働組合組織形態において可能なのかどうかについてはわからないでいる。けれども、その全面的見直しに向けた具体的な思索と実践の積み重ねの上にしか、いかなる回答も用意されないことは理解している。
 今何が必要なのか、何をなさねばならないのか、今後も考え続けたいと思う。そして、読者の皆さんの意見を聞かせていただきたいと、切に願っている。(完)