【投稿】皇室典範の改正は象徴天皇制へのクーデター

【投稿】皇室典範の改正は象徴天皇制へのクーデター

                           福井 杉本達也

1 7月17日に改正皇室典範が成立した。改正点は、①女性皇族が結婚後も皇族の身分を保持②旧宮家の男系男子を養子として迎えられる。女性皇族の夫と子は一般国民とされる一方、養子の子が男子なら皇位継承権を持つことになる。一方、女性・女系天皇についての議論が一切ないまま、女性の皇位継承を封じてしまった。

政治学者の御厨貴氏は改正の経緯について、「本来、皇室の在り方といった国の根幹に関わる問題は、全会一致に近い形で着地点を探り、国民全体の納憲一を得るべきテマであるはずだった。しかし、今回は高市政権が『数の力』を背景に押し切るような構図になった。」とし、「本来の議論の出発点は、皇族数の減少にどう対応するか、女性皇族が結婚後も皇室に残る制度をどう整えるかのはずだったのに、途中から旧宮家の男系男子を養子に迎え入れる案に中心的な論点が入れ替わった」「筋のいい議論ではなかったと言わざるを得ない」と述べている(福井:2026.7.19)。

2 戦後天皇制へのクーデター

昭和天皇は沖縄を米国に売り渡す「沖縄メッセージ」を出すなど、当時の吉田内閣との二重外交を繰り広げ、戦後も立憲君主制の考えのままであった。ところが、長谷部恭男氏によれば、今の上皇は「平和の存続を切望する国民の意識に支えられ」て「国民統合の象徴」としてあるというひとつの天皇像をつくりあげた。憲法に象徴と書いてあるが、それだけでは国民に象徴とは思ってもらえない。そこで平成天皇(上皇)は国事行為だけでなく、公的行為にもいそしんだ。被災地を訪問し、第二次大戦の激戦地に赴き、戦死者を慰霊した。現天皇もそれを継承し、多くの国民はいまの天皇のありかたでよいと思っている。しかし、高市はそれを快く思ってはいない。戦前の天皇を頂点としたピラミッド型の『企業体国家』を目指している。今年4月の政府主催の「昭和100年記念式典」において、天皇が臨席したにもかかわらず「おことば」をさせないなど、ぞんざいな扱いを行っていることなどが示している(朝日:加藤陽子×長谷部恭男2026.7.24)。

3 戦後の国体は天皇から米国に

戦後の国体は戦前の天皇から米国へ移行した。占領軍としての米国が、日本の国政を動かしている。権威は天皇から米国大統領に「フルモデルチェンジ」したと白井聡はいう。「戦後の国体とは何かといえば、いわば日本の上にワシントンが乗っかかっている」「戦後天皇制というのは頂点にアメリカがある」「いわゆる親米保守勢力がなぜ、こんなに不敬なのか、なぜ、彼らに勤皇精神が足りないのかということは、それはアメリカである。彼らにとって本当の天皇は誰かといえば、それはアメリカである。彼らにとっての三種の神器はワシントンにある。彼らは勤皇の心というものはないですが、勤米の心はある」と述べている(白井聡『誰がこの国を動かしているのか』(鳩山友紀夫×白井聡×木村朗 2016.6.23)。

3月19日、日米首脳会談が行われたが、高市がホワイトハウスで顔を合わせたとたんに遠距離恋愛の恋人に会ったかのようにトランプに抱きつき、まるで不倫カップルのように腕を組んだが、高市の厚顔無恥な従属ぶりにはあきれ返る。高市だけが特別なのではなく、日本のパワーエリートの有力部分は、ともかく対米従属しかないと考えている(白井聡:同上)。高市など、日本のパワーエリート層にとっては、ワシントンこそが権威の象徴であり、天皇制が存続しようが、消滅しようがどうでもよいのである。

しかし、「一国の領土に他国の軍隊が居続けていることは極めて歴史的にも世界的にも異常なことで、どんなに時間がかかっても他国の軍隊の存在しない環境をつくらなければ真の独立国とは言えない」(鳩山友紀夫:同上)。

4 首の皮一枚の危機を乗り越えてきた天皇制

日本の天皇制には歴史上何度も存続の危機に見舞われた。第26代天皇・継体天皇(男大迹王(をほどのおおきみ))は「記紀によれば、応神天皇5世の来孫であり、『日本書紀』の記事では越前国、『古事記』の記事では近江国を治めていた。本来は皇位を継ぐ立場ではなかったが、四従兄弟にあたる第25代武烈天皇が後嗣を残さずして崩御したため、大伴金村や物部麁鹿火、巨勢男人などの推戴を受けて即位したとしている。先帝とは4親等以上離れて[注 1]いる。太平洋戦争後、応神天皇5世というその特異な出自が議論の対象になった。ヤマト王権とは無関係な地方豪族が実力で大王位を簒奪し、現皇室にまで連なる新王朝を創始したとする」(Wikipedia )。「継体」という諡(おくりな)がその特異性を物語っている。継体天皇の陵は大阪府茨木市にある今城塚古墳とされ、ヤマトにはない。最後まで、その出自を疑われたといえる。今回の改正皇室典範の養子案によれば、継体よりさらに特異な出自となる。

「壬申の乱(じんしんのらん)は、天武天皇元年6月24日 – 7月23日(ユリウス暦672年7月24日 – 8月21日)に起こった古代日本最大の内乱である。天智天皇の太子・大友皇子(1870年(明治3年)に弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が兵を挙げて勃発した。反乱者である大海人皇子が勝利するという、日本では例を見ない内乱であった」(Wikipedia )。

この内戦は、「天智天皇は即位以前の663年に、百済の復興を企図して朝鮮半島へ出兵し、新羅・唐連合軍と戦うことになったが、白村江の戦いでの大敗により百済復興戦争は大失敗に終わった。このため天智天皇は、国防施設を玄界灘や瀬戸内海の沿岸に築くとともに百済遺民を東国へ移住させ、都を奈良盆地の飛鳥から琵琶湖南端の近江宮へ移した」(Wikipedia )とされるが、白村江の戦いでの敗北により、九州王朝が滅亡し、唐・新羅連合軍に九州北部を占領下に置かれたが、占領軍勢力とこれに反旗を翻す勢力の内乱ではなかったか。現在も80年以上米軍に占領されている状況と似ている。

南北朝は、後醍醐天皇の「建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が京都で新たに光明天皇(北朝・持明院統)を擁立したのに対抗して、京都を脱出した後醍醐天皇(南朝・大覚寺統)が吉野行宮に遷った建武3年/延元元年12月21日(1337年1月23日)、終期は、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位する形で両朝が合一した明徳3年/元中9年閏10月5日(1392年11月19日)である」「南北朝のいずれが正統かをめぐって南北朝正閏論が行われてきた。明治時代には皇統は南朝が正統とされ」たが、北朝の皇統が南朝を正統とするのは矛盾である(Wikipedia)。

幕末の日本を動かす原動力は西郷隆盛や井上馨・伊藤博文・坂本龍馬といった下級武士ではなく、アングロサクソンによる明治維新クーデターであった。「大英帝国下の大商社ジャーディン・マセソン商会(前身は東インド会社)の、長崎代理店であるグラバー商会だった」「グラバーは、血気盛んな幕末の志士に巨大な資金を、膨大な武器を売りつけ、明治政府の設立へ一役も二役」買った(中尾茂夫『日本が外資に喰われる』2019.3.10)。「幕末期の天皇だった孝明天皇は、倒幕に反対どころか、妹の和宮を14代将軍・徳川家茂の正室に送り込み、公武合体論者の急先鋒だった」「1867年の孝明天皇急死は討幕派・勤皇派から殺害されたのではないか」(中尾茂夫『情報敗戦』2025.4.15)といわれる。

5 「国体」である覇権国家・米国の没落

米国は、NATO諸国を巻き込んだウクライナにおける総力戦にもかかわらず、ロシアとの戦いに敗北しつつある。また、それに懲りず、イランとの戦争を始めたが、ホルムズ海峡を封鎖されにっちもさっちもいかなくなっている。中東にある米軍基地のほとんどはイランのミサイルによって破壊された。米国の属国にあること、米軍基地を国内に置くということは安全を保障するものではなく、いかに危険なものであるかを中東諸国は身をもって経験している。

いずれ、米軍は中東から追い出され、石油独占の権利を奪われ、石油とリンクするペトロダラー体制も崩壊していくであろう。こうした、米国にあくまで追従していくのかどうか、いま日本の真価が問われている。

御厨貴氏は「高市政権が安定的な皇位継承を掲げながら、皇室典範改正がこのような経緯をたどったことで、皇室制度の長期的安定はむしろ危うくなったのかもしれない。間われているのは制度の中身だけではない。国民の納得を欠いたまま皇室の未来を決め益患の在り方そのものだ」と書き、佐伯啓思氏は「今日の日本が方向感覚を失い、世界の中で漂っているのは、権威を失ったことが大きい」「力を背景とする正統性は、統治の安定性につんがりません。別の勢力が権力を簒奪すれば、統治の正当性はその勢力に移ります」「安定した統治を行うためには、権力ではなく権威を背景とした正統性がなければなりません」と述べている(佐伯啓思「『権威の源泉』を失った日本」『月間日本』2026.9)。高市は力ずくで、皇室典範を改正したが、方向性を失った日本はますます没落することとなる。

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