【投稿】三人を大切にしよう

【投稿】三人を大切にしよう

1.田端義夫の場合
「三人を大切にしよう」、田端義夫の「島そだち」を口づさむとき、かならずといってもいい、この命の「三人」、運命の「三人」の話しが忘れられない。
バタヤン、私はこの人を知らない。会ったこともない。だが、「三人を大切にしよう」という話しは生きている。この話しを通じて私はバタヤンを知っている。
「赤提灯」ののれんをくぐると、そこのあるじが年頃が同じなのか、バタヤンびいきで、「唄ぢゃあいつがいちばん、身にしみる」と「島そだち」を小声で唄う。
このバタヤン、田端義夫は、先刻いったように私はじかには知らない。彼が奄美大島生まれかどうかも知らない。「歌のしおり」という小さな帳面にものっていない。
だから彼がいつ大阪にきて、どこの劇場で「島そだち」を熱唱したのかも知らない。
ともかく彼は、日本中が「ジャズ」一色で埋っていた頃、これでは日本は潰れると真底そう感じて、「島そだち」一本で勝負しようと大阪に乗り込んできた。
例の古ぼけたギターを肩にして、北から南、大阪の夜を流して歩いた。立ち止まって聞いてくれる人はいない。声をかけてくれる窓の女中さんもいない。彼の目にかすかな絶望の一滴が流れたその時、言葉をかけてくれた人がいた。
「うちでやってみんか」
「うち?」
「花月だよ」
バタヤンは飛び上がった。何躊躇することがあろう。
「ありがとうございます。お願いします」そう言うのが精一杯だった。このセリフは「桂三枝」の「出あいの風景」の中のセリフであるが、バタヤンも多分そうだったろうと思って、無断借用させてもらった。
その夜、かれにとっては一生一代の勝負の舞台である。その舞台が旧梅田花月の舞台なのか、新しい「花月」なのか、私は知らない。それはどっちでもいい。張り裂けるような緊張感が、幕が上がるとともに、氷のように冷たくなった。舞台をみた。お客さんは、一人、二人、三人、たったの三人でしかない。
「よし」と心に不思議な静かではあるが身を焼くような緊張感が走った。
「この三人と勝負してみよう」
力の限りかれは唄った。かれの「ジャズ」に負けるかと焔のような熱情がギターに乗った。
舞台の裾からそっとのぞいた。「花月」の主である。
「うん」
と、かれはうなった。
「この三人に向かって、これは運命の使者だ。よしこの男を男にしてやろう」
この主じが先代の林正之助氏か、中邨(なかむら)秀雄社長であったかは私にはさだかでない。

2.戸坂潤の場合
戦雲ただならぬ頃の池袋豊島師範学校の講堂である。
都会議員に立候補したのは、仏教青年同盟、この名前もさだかではない--の妹尾義郎氏である。戸坂潤はこの候補の応援演説のために、いま、この講堂の壇上に立っている。
聴衆は私を入れてたったの三人である。豊島師範は名門で、そこの講堂は少なくとも一千名は入れる大講堂である。がらんとしている。あまりにも淋しい。うしろの方に座った私には、戸坂氏の話が、たった一人の私の顔をみつめて熱情あふれる説得を試みているようにみえた。私は素直にこの感動を他に伝えねばならないと思った。演説の内容はよく覚えていない。六十五年も前の話で池袋の友人宅に下宿した国鉄時代のことであった。だが、その真摯な、この人を真実の味方に引き入れねばならぬという確信的な説得的な態度に私は深い感銘を覚えた。
かくあるべし、真情を吐露するときにのみ、対手もまたそれに応えてくれる。すべての場合、私はこの教師の真面目な姿を自分の今後に生かさねばならないと心にきめたのである。戸坂氏は治安維持法のため、投獄されそして獄死した。そのたった一人の遺子、戸坂嵐子さんは、戦後、国鉄労働組合本部の初代の書記として机を共にしたことがあった。
三人を大事にしよう。
すべての事をなすものの、それは不断の根生であらねばならないことを教示されたのは私の一生の宝物であった。
(鈴木 市蔵)

【出典】 アサート No.220 1996年3月23日

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