【書評】はたして現代の若者は凶暴化しているのか
『国民の道徳』西部邁著 産経新聞社 2000.10.30発行 2000円
全国どこの書店に寄っても歴史コーナーに分厚い本が山と積まれている。手に取ってみると活字も大きく用語解説もあって見やすい本である。西部邁氏著「国民の道徳」である。「国民の道徳」とは“道徳のない”全国民(と西部氏は思っている)への実に挑戦的な大仰な題名である。「なぜ道徳について語らざるをえないか」を本の冒頭で「この世紀の変わり目において、戦争世代の孫たちや曾孫たちが、『戦後』の原則のもたらした当然の帰結として、アンファン・ホリブルに、つまり、『身の毛もよだつ子供たちに』成長しつつある。それは『戦後』の本質を映し出す鏡である。」とし、「私のような…人間が道徳を語るに至ったのは、戦後の環境があまりにも不道徳であったから」であると述べている。
西部氏は「日本を含め、先進諸国において少年犯罪の激増、凶悪化そして低年齢化が進んでいる」というが、何を根拠としているのであろうか。長谷川寿一氏・長谷川真理子氏の共同研究(「科学」2000年7月号:『戦後日本の殺人動向』)では西部氏やマスコミ報道のような、最近の「多発する少年事件」「未成年者の凶悪化傾向」を明確に否定している。長谷川寿一氏は「日本の殺人率は1950年代から90年代前半までほぼ一貫して減少し続け、人口100万人あたりの殺人件数は、50年代のピーク時の約40件から、90年代には約10件前後にまで減少した。この減少にもっとも大きく寄与したのが、若者男性の殺人率の低下である。」とし、「1955年当時、20代前半の男性殺人率(100万人あたりの検挙者数)は230人で、年齢別殺人率曲線においてひときわ高い峰をなしていた。しかし、その後、高度成長と呼応して20代の殺人率はどんどん下がり、90年代には100万人あたり20人を割」ってしまったのであり、「16歳から24歳の年齢区分でみても、40年間でほぼ10分の1に減少」し、「この殺人における年齢の効果の消失は、世界的にみて極めてユニークな現象であり、若者男性がこれほど人を殺さないような社会は、筆者が知るかぎり他に類を見ない。」(「草思」2000年11月号:『現代若者考-彼らはなぜ殺さなくなったのか?』)と的確に述べている。
「16歳の少年がタクシー運転手を強盗殺害」といった個別具体的事象ををいくら羅列したところで、全体像を掴んだことにはならない。それを、「先進国において青少年の凶悪としか形容しようがない犯罪が次々と出来している…これは、実は、人権主義そのものの帰結と解釈するのが適切である。」などと、大上段に勝手に解釈されても、当の個別具体的本人は困惑することであろう。繰り返しになるが、若者の凶悪犯罪は減り続けており、減り方が少ないのはむしろ中年である。しかし、「先進国において“中年”の凶悪としか形容しようがない犯罪が…」などと書き、次に「国民の道徳」や人権主義批判を説いても様にはならない。そこに著者のごまかしがある。個別具体例だけを羅列し、全体の傾向や数字をあげないことは“大衆”を操作するうえで実に都合がよい。
一部の特異な少年事件を大々的に取り上げ、あたかも最近「凶悪な少年事件が増えた」かのように報道するマスコミの報道姿勢は大いに疑問とせざるをえない。しかし、さらに問題なのは、そのような誇大妄想的、センセーショナルな報道をアプリオリに前提として何の検証もせず「国民の道徳」をのたまう西部氏の姿勢である。
そもそも、西部氏の「道徳論」には何の検証もないことが多すぎる。「日本人には、おそらくは1万年を超える昔から、神道的な共有感覚と共同儀式があったといわれており、いまもなおそれが、強かれ弱かれ、日本社会を包んでいる。」というが、“おそらく”もなにも1万年前に『日本人』など存在していない。『日本』という国名は早くても7世紀後半以降に使われ始めたものであり(「『日本』とは何か」網野喜彦著)、それ以前に『日本人』など存在するはずもないのである。「真っ当な代物は、まず間違いなく、伝統精神という名の良識を踏まえている。そのことを理解しているのが道徳的ということであり、そのことに頓着しないのが不道徳ということである。なぜなら、道徳というのはそうした良識のうちのもっとも基礎的な部分、つまり歴史的に形成され継承された価値論の部分のことをいう」と氏は述べるが、『日本』『日本人』というものが歴史的に形成されてきたものであり、7世紀以前には存在しなかったこと、ましてや1万年も前の縄文期にまで『日本人』を延長し、あたかも『日本人』が縄文期から連綿と続いてきたような何の証明もないいいかげんさでは「真っ当な代物」とはいえまい。1万年も前に溯って“権威付け”なければならないような「道徳」に何の価値があろうか。
さらに、西部氏は、日本的精神の特質は雑種性と包括性であるとし、「自らの文化が雑種であることを知悉し…その雑種のなかから純粋をみつけるのは至難の業だと承知した上で、その発見に倦むことなく挑戦し続けること…原理・体系を作ることの困難を重々自覚した上で、その困難を克服する努力を続けること…原理・体系への接近法それ自体が原理・体系」が「道徳の原点」であると。しかし、その前提として「日本は地勢上の位置からして、欧米はもちろんのこと中国大陸からも、一定の距離をおいていた。その意味において…外国からの直接的な圧力は小さかった。しかし、さまざまな異文化が徐々に到来したという意味では、日本は外国からそう遠くない位置にある。それが国内の歴史におけるいわば『漸進的変化』を可能にしたのである。」と。
しかし、なぜ、日本の歴史は「漸進的変化」でなければならないのか。「漸進的」ではなく「急進的」であれば、“輸入”した精神文化を日本で熟成できず、「雑種」の中からの日本的精神の「純粋」なものを見つけられないという西部氏の手前勝手な論理に基づくものである。網野喜彦氏はいう。「平穏な海ほど安定した快適な交通路はない…長い時間をかければ多くの人も膨大な物も、海を通じて運ぶことができる…海を国境として他の地域から隔てられた『孤立した島国』であるという日本人に広く浸透した日本像が、まったくの思いこみでしかない虚像」であり「この虚像をあたかも真実であるかのごとく日本人に刷り込んだのは、とくに明治以降の近代国家」であると。『孤立した島国』という「虚像」の上には「道徳」は構成できない。
ここまで書いてしまうと、この本は読む価値がないということになってしまうが、経済に関して「市場はつねに不均衡である…それゆえ市場はブーム(膨張)とバスト(破裂)の循環に放り込まれる。その過程で被る社会全体の犠牲は無視してよいものでは断じてない。二つに、所得分配の不公正ということがある。市場競争は、まず、資源の分配状態を与えられたものとしている。その状態が公正か否かの判定について、市場機構は何の基準もない。極端な場合、資源の九割をほんのひと握りの人間たちが持っていて、大方の人間たちは資源の一割しか手にしていないという前提での、市場均衡を効率的と呼ぶのが経済学なのである。」との、今の日本の論壇を賑わしている「市場経済」一本槍の新古典派経済学者への批判は的を得ている。しかし、西部氏の経済学の問題点は、ではどうしたら公正な社会を作れるかという現実的・具体的な政策を示さず、そこで思考を停止して「国民国家」という抽象的な「枠」に逃げ込んでいることにある。そこからは反アメリカ(反中国)の偏狭なナショナリズムしか生み出さない。
ところで、本書の根本的欠陥は、道徳を唱えながら肝心の日本の法に対する認識が欠落していることである。日本の刑法にしろ民法にしろ西部氏の嫌いな合理的な個人を前提とする「フランス革命の薄っぺらな合理主義」=「フランス啓蒙思想」そのものである。それらは、徳川幕府を「漸進的」にではなく「急進的」に武力“革命”で打倒し、独立宣言を行った東北各国を武力で制圧・併合し、自由民権運動を弾圧し、最終的に薩摩国を鎮圧した明治国家が制定したものである。その骨格は、けっして戦後にアメリカ占領軍が持ち込んだものではない。こうした日本の法体系への言及を避け、感覚的にヒューマニズムが好きか嫌いかだけで「道徳」は語れない。(福井・R)
【出典】 アサート No.278 2001年1月20日