【書評】『がん患者学――長期生存をとげた患者に学ぶ』

【書評】『がん患者学――長期生存をとげた患者に学ぶ』
               (柳原和子著、2000.7.10.発行、晶文社、2.600円)

 何故『医学』ではなくて、「患者学」であるのか。「がん、と告げられて、三年が経過した」という言葉から始まり、「今、すべての数値は最高の状態で、進んでいる」という言葉で終わる本書は、著者自身のがん闘病の生活体験に裏打ちされている。その問題意識は、こうである。
 「治すことを目的に進歩を遂げてきた現代医療は、治せない患者の具体的な心、日常のプログラムについては、無力だ。」
 「考えてみれば、現代の医療は、健康な人々の創り出したものであり、患者たちの体験の蓄積によるものとは言えない。患者たちの肉声は医療に生かされてきていないような気がする。だから、医療がいかに努力して編み出したプログラムであっても、患者は最後には納得できない、怒りと悔恨に陥るのではないか。」
 現代医療の実態が、患者にとってどのようなものとなっているかについては、本書を読んでいただければ明白であるが、患者として納得できる答を得るために、著者は、「五年間生存を果たした日米の患者を訪ね歩こう、と決心した」。以来二年間にわたる取材の成果が、本書である。
 本書は三部からなる。第一部「患者は語る」は、がん患者たちの語る五年間あるいはそれ以上の生存の聞き語り(「1.身近な仲間たちをたずねる」)、現代医療においては無視もしくは軽視されている代替療法によってがんと生きている人々(「2.代替医療機関の紹介をうける」)とアメリカのがん患者へのインタビュー(「3.アメリカをたずねる」)である。第二部「専門家にきく」は、医療過誤・薬害訴訟に取り組む弁護士、がん治療の専門家へのインタビューの記録である。そして第三部「再生――私とがん」は、著者自らのがんとの出合いから、怯えや恐怖や絶望にとらわれとまどいつつ、それらを必死にくぐり抜けていく中で、現代医療についての疑問を分析していった記録である。
 著者の目は、医療現場での自分自身の疑問を、現代医療に貫徹する構造、すなわち基礎的な医学教育から始まり先端の医療技術の隅々にまで行き渡っている構造から来ているものとしてとらえる。さらにその背後に、現代日本社会の風土的なものが存在していることを見る。本書の評価されるべき点は、がん治療を契機に、人生における積極的意味を見出そうとする著者の姿勢とともに、日本近代社会の持つ構造的欠陥を医療・医学を切り口として指摘したことにあると言えよう。
 この意味で、がん治療を受ける、あるいは拒否する患者たちへのインタビューも興味深いが、これに携わる医者や弁護士に対するインタビューに、本書の特徴がはっきり出ているように思われる。これら専門家は、日本の現代医療の構造的欠陥を、例えば次のように語る。
 「医療過誤となった多くの医療記録、医師たちの仕事と向き合ってきたわけですが、端的に言うなら、どういう考えでこの患者のために行われたのか? という基本的なことがはっきりしない治療が多い、ということです。(略)・・・/医師と患者の信頼以前に、この患者のこの病気、というような個別の観察を治療に生かしている痕跡が見えないのです。」(石川寛俊・弁護士、「がん患者はなにを怒り、恨むのか」)
 「医療はどうあるべきか? という点を争うという意味でがんの治療は老人医療と似ています。どうせ死ぬ、生きたとしても長くはない、と考えているから手抜きが起きる。技術的なことに目を奪われすぎて、目の前の患者を救済する、痛みをとる、症状をとるということ以外の心のふれあい、付き合いという重要な医療行為を医師が忘れてしまっている。」(同)
 そしてここから、ムンテラ(ムントテラピー――患者との語り合いによる治療)が、高度精密機器による新医療技術の数字の隙間を埋める重要な要素として指摘される。
 また次のような発言もなされる。
 「医療というのは科学だけで成り立っているわけではないんです。医療というのは人間が行う実践です。実践というのは、プラクティス・オブ・サイエンス。日本の場合はそのプラクティスに問題がある、と世界から指摘されて久しいんですね。サイエンスをプラクティスできない。日本はサイエンスをテクノロジーと一緒くたにしているわけです。(略)科学を実践するためには科学者でなければいけない。実践するにはロボットではできません。そこにはアートというものがあります。」(福島雅典・医師、「抗がん剤治療、その選択権は誰に?」)
 「日本の科学者の多くが技術と科学を混同して、いいとこ取りをしたい、とやってきたんですね。/科学としての使命感が狭かったために、科学を非常に歪んだ形に押し込めてしまったかもしれない。科学というのはスピリチュアルをも含めた広いものなんです。」(同)
 この、科学と技術についての議論には、現行の抗がん剤投与をめぐる深刻な問題が含まれている。すなわち、医者の持っている「治そうとして無理をしている」、「後ろを見ない責任感」に対して、「医療というよりも人間としての生活感覚」、「バランス感覚」の重要さが不可欠であることが指摘される。
 そしてこれらを支えている日本人の精神構造のあらわれとして、次の例が出される。
 「河野:ただし、一つの問題がある。日本人は『私はがんです』って言い方をします。『私はがんを持っています』とは言いません。がんを持っていようがいまいが私、人間としての私は変わらずにあるということがなかなか理解されていない。それが大事なんです。
  柳原:私も言います。私はがんです、って・・・。あ、そうか・・・。
  河野:あなたはがんではありません。卵管がんを持ったあなたなんです。がんっていうもの、がんはあくまで私のなかの一つの要素なんです。だから、がんについて私という全体はコントロールできるはずなんです。がんも身のうちって考えるべきかな。日本人はがんに私という全体が支配されてしまいがちなんですね。どうしようもない。」(河野博臣・医師、「開業医が進めるサイコオンコロジー」)
 「がんを持っている人間として、患者として、自分のがんを治すあらゆる可能性、治療を試し、受けていく権利があること。自分でそのことをはっきり意識してほしい。」(河野)
 がんとは、臓器だけのがんではなく、心ともっとも密接なかかわりのある病であり、この視点を欠落しているが故に、「日本人のがん死が無残であること」が出てくる。すなわち自分のがんを取り除くよう願うのみでなく、これといかに共に生きるか、人間としての生き方が問題とされるのである。この視点の重要さがやっと気づかれはじめて、クオリティ・オブ・ライフ(生の質)やサイコオンコロジー(精神腫瘍学)が認識されつつあるのが現状と言えよう。
 本書は、医療現場で患者の持つ疑問、意見そのものであり、説得的で鋭い。日本の医療構造へのこうした切り込みが続いていくことを期待したい。と同時に、本書を読んで、複数の視点からの諸問題へのアプローチが重要であることを改めて認識した次第である。(R) 

 【出典】 アサート No.279 2001年2月17日

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