【追悼】森信成の哲学思想

「知識と労働」第3号 1971年12月
【特集2】森信成追悼

  森信成の哲学思想

            田中 はじめ 上田 三郎

「富と権力を持たない人民の現在におけるただーつの思想であるマルクス主義の力、その力の唯一の源泉は何であろうか。それは思想の力であり、理論の力である。もしマルクス主義が思想においてアイマイであり、理論において不確かであるとするならば、それはマルクス主義と人民にとって何を意味するであろうか。」(『史的唯物論の根本問題』はしがき)

 森信成氏はその生涯を、反動イデオロギーと修正主義に対する非妥協的な闘いに、そしてマルクス・レーニン主義哲学のエネルギッシュな啓蒙活動に捧げた。彼こそ、戦後日本を代表する戦闘的唯物論者であった。

 戦後の日本におけるマルクス主義の根本特徴は、主体と指導の側の思想的混乱のために、客観情勢の圧倒的有利さにもかかわらず、人民の政治的勝利、意識と組織の真の形成をもたらしえないでいることにある。氏はこのような時代によって提起された課題—-マルクス・レーニン主義の思想的・理論的原則性の回復とその貫徹—-に、哲学の領域において、誰よりも首尾一貫して取組んだ。「民科」における「主体的唯物論」への先駆的批判の時期からはじまり、五八年前後の党文化政策及び唯研創設をめぐる論争の時期、マルクス主義人間観の理論的展開と解党主義批判の時期、中ソ論争に呼応した毛沢東哲学批判の時期、そして、晩年の、コージングおよび日共(代々木派)の公然たる哲学的修正主義への批判の時期にいたる氏の活動の足跡は、何よりも雄弁にこのことを物語っている。
 もとより、これら各時期の詳細な紹介をも含めて、氏の哲学、思想上の活動の歴史的評価のためにば戦後日本唯物論史が書かれねばならない。(森信成氏自身、ここ数年来、それの必要性を強く訴えてこられながら、ついにその仕事を果すことなく他界された。われわれはこの遺志をうけついでぜひその実現のために努力しなければならない。)本稿の目的は、今後、われわれが氏の遺産を受けつぎ、思想闘争を展開する上で、共通の原則となるべき理論的遺産のいくつかを確認するにとどまる。氏の努力にもかかわらず、日本におけるマルクス主義の思想的混乱は一層深刻化の様相を呈している。否、われわれは、真の原則的立場が一時的孤立を余儀なくされている現実を卒直に認め、この混乱の克服のためにねばりづよい闘いをつづけてゆく決意を以下において表明するものである。

1 「思想上の平和共存」の拒否
 戦後のマルクス主義の根本的誤謬は、権力規定の誤りに必然的に照応して、思想闘争の対象—-戦後日本に支配的な反動思想を—一貫して誤って把握した点にある。戦後日本の思想的出発はきわめて複雑な様相を持っていた。周知のように、一九一七年のロシア革命をさかいに、マルクス主義が全世界的規模において思想的ヘゲモニーを確立したもとでは、小ブル主義やブルジョアイデオロギーですらもが、多くの点でマルクス主義的外観を装うにいたる。マルクス主義と独占体のイデオロギーとの厳密な区別や、修正主義の批判がとりわけ重要となるのはこのような事情に由来する。ところが日本の場合、このことに加えて、本来、独占体のイデオロギーにほかならない近代主義的自由主義(実存主義やプラグマティズム等)が、戦前においては天皇制イデオロギーによる弾圧を受け、しかもその一部はマルクス主義的外観をまとったという事情があった。したがって、敗戦による天皇制の崩壊にともなって、一方では、近代主義が支配的イデオロギーとして自立してゆき、他方では、近代主義者が大量にマルクス主義に接近するという複雑な過程を見極めること自身が非常に困難となった。戦後初期におけるマルクス主義のイデオロギー的混乱と困難さはこのような歴史的条件に起因している。しかし注意すべきは、この混乱がいつまでも克服されず、むしろ日本帝国主義の復活、強化にともなって、思想上の公然たる体制内化(「思想上の平和共存」)に継承されていったということであろう。
 五〇年以前においては、反動イデオロギーが「半封建的天皇制イデオロギー」と規定された結果、本来帝国主義のイデオロギーにほかならない実存主義やプラグマティズムが、単にプチ・プル思想=同盟軍思想とされ、この「同盟」に基づいて「半封建」に近代主義的「エゴの自由」が対置された。五〇年以降「反帝・反封建」が唱えられた際にも帝国主義イデオロギー(特にプラグマティズム)は アメリカによって持込まれた「外来思想」であることが強調されてプルジョア民族主義(「日本人として」)がこれに対置されてきた。そしてこのような近代主義的民族主義的階級協調主義は、共産党八回大会以降、現在まで基本的に受け継がれている。帝国主義はもはや「独自な積極的な思想体系を持ちえぬ(文化政策草案)という代々木派の思想闘争における対象喪失は、帝国主義イデオロギーとの闘争を放棄しこれに屈服したことの、逆立ちした表現である。かくて、戦後のマルクス主義は「思想上の平和共存」 (マルクス・レーニン主義の諸原則の放棄と階級協調)の歴史であると言っても過言ではない。マルクス主義を西田、サルトル、ウェーバー、フロイト等によって「補完」しようとする新左翼や、「異なる立場の人々」との「広い討論と交流」によって党の体質改善をはかろうとした解党主義(『現代の理論』グループ)、そして「民主主義哲学を築くこと」を目指した「民科」にはじまり、最近の古在由重・芝田進午の市民主義的、生産力主義的修正主義(主体的唯物論)にいたる代々木派まで、マルクス主義の思想的敗北の深刻さは、目をおおわしめるものがある。
 森信成氏は、このような事情のなかで戦後マルクス主義の思想的混乱をいち早く理論的に総括し、思想上の真の戦略的課題を呈示した(五八年)その際の大前提は、マルクス主義の権威の回復はマルクス・レーニン自身の高い原則性に基づいてのみ、はじめて可能であるということであった。そしてこのことこそ、氏の理論活動を貫く赤い糸である。

ニ 唯物論か観念論かの問題を理論と実践の全領域に貫くこと

 「思想上の平和共存」は、哲学の領域では、当然のことして、唯物論と観念論の対立を「より高い立場」に「揚棄」しようとする企図として、また消極的には、唯物論か観念論かの問題提起をセクト主義、教条主義と非難する傾向(蔵原惟人ほか)としてあらわれた。氏の全著作が哲学の根本問題である唯物論か観念論かに献げられていると言っても過言ではないほど、彼がこの問題にエネルギーを集中したのは、戦後唯物論のこのような事情に基づく。氏は、唯物論と観念論のあいだにはいかなる和解や統一の余地もなく「第3の道」(主体的唯物論)もまた、現代観念論の一形態他ならぬことを詳細に論証した。しかし氏は、従来よく行なわれた、論証抜きの「断種的発想」をもってこれを行なったのではない。氏は丹念に、エンゲルスの唯物論と観念論に関する命題の意味を吟味し、そこに即時的に含まれているいる全内容を積極的に展開し、マルクス主義への観念論の浸透の諸形態を批判の対象に即して具体的に示した。(1)非合理主義を根本特徴とする支配階級のイデオロギーは、当然のことして唯物論の非合理主義的解釈(観念論=合理主義、唯物論=非合理主義)を生みだした。これに対して氏は、窮極の原因を物質的なものに求める唯物論の見地が、意識現象をも含め一切の現象を必然性において把握することを意味すること、これに反し窮極の原因を精神すなわち必然性を根底に持たない自由に求まることは結局において「無からの創造」を説くことになる点を強調して、観念論と宗教および非合理主義との、そして唯物論と科学および合理主義との本質的同一性を明示した。(2)唯物論を「ありのままの把握」に還元する実証主義的修正主義(山田宗睦など) には、意識から独立な物質の本源性の承認を唯物論の根本規定として対置した。(3)主体的唯物論の「存在」(「主体物質」「哲学的もの」等)に対しては感覚的所与規程を対置し、無規定な、従って感覚に決して与えられることのないかかる「存在」は、唯物論の、明確な規定をもてる物質存在とは無縁なものであることを明らかにした。(4)唯物論か観念論かの対立を物か心かの二元的対立にすりかえ、両者共に悟性的一面的だとして、この対立を「弁証法的」に揚棄するという主張に対しては、唯物論も観念論も共に一元論であって、問題はどちらが本源的かという点にのみあることを強調した。(5)世界の物質性の承認の問題を世界の弁証法的統一性(物自体)の認識の問題にすりかえ、その結果、唯物論か観念論かの問題を弁証法(方法) の問題に還元する梯、ザイデルなどの見地に対しては、世界の物質性は実践的・直接的確証の問題であって媒介的論証の問題ではないことを明示した。また、史的唯物論に関しては、(6)戦後日本に支配的な上部構造決定論に対して、土台による決定の立場を貫き、一方で機械的決定論を排して上部構造の相対的自立性と土台への反作用を強調しつつ、この反作用そのものが土台による決定の範囲内における反作用であることを明示した。(7)史的唯物論における社会的諸関係の物質性を、その基礎にある生産諸力(労働力、労働手段、労働対象)の物質性にのみ求める主張(これは必然的に生産力理論に行きつく)に対し、社会の物質性の承認は、生産関係の形成・存立・消滅の法則自体が意識から独立であることの承認と結びつけられねばならないと主張した、など。

三 意志決定論の貫徹

 人間と自由の問題こそ、唯物論と観念論がそれをめぐって闘った戦後の中心問題であった。だが、まさにこの中心問題において、戦後マルクス主義は混乱と敗北を余儀なくされたのである。それは戦後日本のマルクス主義が、唯物論=意志決定論は人間から自由と能動性を奪い宿命論と安易な状況追随をもたらすという、根強い偏見を克服しえず、自らそれに感染してきたことに由来する。したがって自由(主体性)の問題に関して森信成氏は、意志決定論の貫徹を主張し、自由を必然性に基づけて把握する見地を、必然性を根底に持たない非合理主義的意志自由論に対置した。氏はヘーゲル、フォイェルバッハ、プレハーノフなどに依拠しつつ、非合理的意志自由論こそ、人間の自由行動の根底にある課題解決への意欲と明確な目的意識性、およびこの目的の現実的勝利の必然性への確信を与えるところの物質的必然性を奪い去り、それによって、ディレッタンティズムや無為主義、あるいは絶望的妄動主義を生み出すことを明らかにし、意志決定論のみが人間の自由が可能となる唯一の前提であることを証示した。すなわち、小プル的ハネ上りと挫折の思想的背景となったいわゆる「実践の哲学」が、そこから行動を導き出す超越存在(「人間そのもの」「実存」「本能」など)は、実はと直接的体験・気分、またはたかだかその二重化に他ならぬこと、したがってこういうたぐいの 「存在」 に忠実であること(「主体真実」)は、既成事実への無原則な追随とむきだしの主観主義・本能主義を意味すること、自由はそこにおいては悠意の自由に他ならず、主体性は無原則・無方向の単なる動物的自発性(闇の衝動力)に販められていること、等々。

四 「自然発生性への拝脆」批判と指導性の擁護

 このような自由の近代主義的把握は、政治的実践における、指導性および革命理論の拒否と放棄、体験主義と大衆追随主義に結びついている。戦後日本の前衛党が一貫して大衆追随と誤った政策の官僚主義的、セクト主義的押しつけという、指導というもおこがましい「指導」に終始してきたこと、さらに「実践・認識・再実践・再認識」という正真正銘の試行錯誤論にほかならない毛沢東「実践論」の学習を通じて、プラグマティズムの「実践」観がマルクス主義のなかに恐るべき影響をもったことと関連して、指導性、革命理論、意識性は全く不評判なものになりさがっている。われわれは、「一般情勢はマルクス主義で、具体的状況は実存主義とプラグマティズムで」という定式や、「かたい決定論からやわらかい決定論へ」という主張、「集団認識による全面認識」を説いて指導者の指導の責任を免除する集団認識論、さらには、『資本論』や一般に科学は革命の必然性を証明しえず、革命の必然性は理論の彼岸にある人間の主体的行動によってのみ実証しうるという「宇野理論」にいたるまで、このことに関する無数の事例をみることができる。
 意識性と指導性の決定的たちおくれと、それらにたいする「生理的拒絶反応」の一般化という情勢のなかで、森信成氏は「科学的革命理論と指導なしに革命なし」というレーニン主義的原則に立って、それの貫徹のためにねばり強い論戦を組んだ。この問題は哲学的には党派性と科学性、階級性と人類性、理論と実践の統一の問題として提出された。(1)党派性と科学性の問題に関しては、いかなる階級が客観的存在の矛盾の陰蔽ではなくその暴露に利益を感じ、またその逆であるのか、と問題をたてねばならず、また、虚偽意識としてのイデオロギーの源泉は階級性一般にあるのではなく私有財産の特定の形態とそれに基づく特権の絶化対にあること。(2)世界史の発展の必然性は、裸で現われず、資本主義社会にあっては発展する生産力要求を反映するプロレタリアートの階級的利害とその集中的表現たる政治的課題として現われること。したがって、理論と実践の統一とは、単に主観的にプロレタリアートの立場に立つことではなく、このような発展する現実(否定的必然性)の意識的表現となること、具体的には科学的政策・指導およびそれに基づく実践によって理論を思想化することであること。(3)そしてその際、具体的対象(発展する現実) の具体的論理の把握—-それに基づいてのみ科学的政策が可能となる—-は、労働運動における体験・実践から自然発生的には生じえず、社会の運動法則にかんする高度な理論的把握を必要とすること。それゆえにこそ、社会主義的意識や科学的政策は、労働運動の外部から労働運動の内部へもちこまれねばならず、指導性がそれの不可欠の前提であること、など。

五 民主主義の擁護と発展

 自由をめぐる論争のいまーつの焦点は民主主義であった。この問題に関する戦後マルクス主義の根本欠陥は、近代主義のいう「近代的」(実は帝国主義的現代の)自由(エゴの自由)と近代の民主革命期の自由(基本的人権と理性の自律)との間の根本的対立を把握しえなかった点にある。したがって、戦後マルクス主義は、一方では「現代」のもとに「近代」を理解して近代主義的自由主義に妥協し自らそこに転落した。しかし、民主主義=「エゴの自由の尊重」という近代主義的理解においては、万人がそこにおいて一致するところの真理と利害の客観的基準があらかじめ排除されているのだから、民主主義とは要するに多数決という「多数の暴力」「ゲバルト次第」に、また「少数意見の尊重」を理由にした「第二組合の自由」や反組織、反指導のアナーキズムにならざるをえない。他人の隷従を前提にしてのみ可能なこのようなエゴの自由の完成された形態はさにファシズムにほかならない。しかしまた他方で戦後マルクス主義は、近代の民主主義的自由に現代のエゴの自由を移入して、両者をブルジョア自由主義・個人主義名のもとに一括して、これにプロレタリア的階級性や党派性を対置した。これによって、階級の利益や党の利害の名のもとに民主主義を平気で蹂躙するという恐るべき極左主義・セクト主義に理論的根拠が与えられたのである。こうした見解は過去現在にわたって、緊急な課題として提出された民主主義闘争を軽視する日和見主義を合理化し、それを助長してきた。党外においてはセクト主義による大衆運動の破壊を、党内においては組織内民主主義の破壊をもたらしたことは周知の事実である。民主主義はこのように反動の側からも、マルクス主義陣営の側からも否定的評価をうけ歪曲されてきた。
 このような状況にあって、森信成氏が生涯かわることなく民主主義の真の本質を示し、その擁護と発展に尽力したことはわれわれすべての知るところである。民主主義は法の前の平等から経済的・社会的平等に進む論理的必然性をその中に含んでいる。近代の興隆期ブルジョアジーはその歴史的・階級的限界の枠内ではあれ、このような人類平等の革命的実現を掲げた。だが帝国主義的現代のブルジョアジーは自己の特権を擁護するため民主主義の公然たる破壊者として現われ、したがっていまやプロレタリアートが民主主義—-ブルジョア民主主義も含めて—-の継承者にして担い手となっていることを氏は強調した。だが同時に、民主主義とは国家でありその一定の政治的支配形態である。したがって氏はまた、階級的見地を超越して「民主主義」を考える日和見主義とも闘った。さらに、組織内民主主義に関しては、氏はとくに思想闘争の権利の不断の保障を強調した。民主的決定とは多数決—-これは行動統一の原理として重要な意味をもつが—-を意味するのではなく、その決定内容が基本的人権の保証と拡大を表現しており、かつ、客観的真理を科学的に反映しているような決定を意味する。氏が「思想闘争の権利こそは科学的真理が組織内に貫徹する唯一の通路である」(『マルクス主義と自由』9頁)と主張するのはマルクス主義にとって真理の基準は組織の決定や綱領の外部に、意識から独立な客観的存在のうちに横たわっているからである。

六 主体的唯物論批判

 日本における戦後の哲学的修正主義は「主体的唯物論」として結実し、今や古在由重はじめ日共代々木派をも含めて、巨大な潮流を形成している。森信成氏の「民科」における主体的唯物論への先駆的批判 これは実に二十三年も以前のことに属するが—-は、今やますますその意義が強調されねばならなくなっている。ここにその基本点を要約して紹介すると、(1)彼らは唯物論で言う意識(感覚も含めて)から独立な物質存在を、感覚と同一視し、それを無性格で規定を持たない実証主義的「交渉存在」に変えたあと、(2)実践主体としての人間—-歴史的、社会的、身体的に規定された、かつ目的意織的な—-を、合理的思惟を超越した非合理的感性・無規
定な能動性(実存)として把え、(3)ついでこのような主観客観の対立(これが彼らにあっては唯物論と観念論の対立と等置されるのであるが)を、存在論的存在(無)—-主客の根底にその未分としてあり、その能動的尖端が非合理的感性(身体)であるような—-の内に解消する。(4)この主体の実践がすなわち生産力であり、さらに生産関係をもまた感性(生産力)に対する自己意識的側面として主体の中に即自的に含ませ、(5)このようにして一切の客観的社会存在・関係を右のような「実存」の実践的自己疎外の所産として把握する。(6)したがって、社会の運動・変化は、結局、非合理的感性(無)が合理的形態(有)を破って行くという、不断の「無からの創造」と被造物のニヒルな否定の過程として把えられることになる。(7)以上のような主体的唯物論の主張の現実的・実践的意味は、第一に、生産関係を「自由」なる主体の自由な創造と止揚に基づけたことから、極端な主観主義的ハネ上りを生みだし、第二に、主観=客観のあいだにのみ「弁証法」的対立を見ることから、階級闘争を否定する生産力理論や技術史観を生みだし、第3に、生産関係を実践主体の自己意識に解哨したことから、政治的実践を観念的な「哲学者の実践」に還元するペダンティズムを生みだすことなどにある。

七 「自主独立」路線の哲学的帰結と唯物論の課題

 トロッキズムは日共代々木派の右翼日和見主義と分裂主義に必然的に伴う影であり、本体の理論的・実践的克服なしに影の克服はない、とは森信成氏の一貫した主張であった。われわれの印象に生々しい最近の論文「日共代々木派の哲学とルカーチ・コージングの哲学」で氏は再びこの問題にたち返っている。かつては森信成氏の民主主義擁護を修正主義と排撃し、氏の毛沢東哲学批判に対して「熱烈に」毛を弁護してきた代々木派の哲学者たちは、代々木が中共と手を切り議会主義と自主独立路線を歩みはじめるやいなや、掌を返すように、今度は正真正銘の右翼的、修正主義的「民主主義」(「議会制」民主主義)を「基礎づけ」、他方では毛沢東弁護論のなしくずし的修正(なかには高田求のごとく公然と自己批判する者もいるが、いずれにせよ歴史は抹殺できない)やっきとなっている。こうして、哲学的支柱を失った代々木派は今度は東独コージング派の主体的唯物論にそれを求めるに至った。すなわちコージング派の「弁証法的=史的唯物論」哲学を媒介にして、代々木派の主体的唯物論への完全な合流が実現したのである。従来、マルクス主義哲学のある種の権威とみなされてきた古在由重や芝田進午がいかにお粗末な模倣と屈服に終始しているかが、前記論文において徹底的に暴露されている。それは正に祖国防衛、議会主義の第2インター的ブルジョア民族主義と階級協調路線を公然と歩み始めたことに照応した、公然たる哲学的修正主義にほかならず、哲学上の体制内化である。
 なるほど、代々木派の主体的唯物論へのこうした屈服は、マルクス・レーニン主義と唯物論哲学の一時的な孤立を一層深めるであろう。しかし忘れてならないことは、森信成氏が強調しているように「最近のいちじるしい特徴はザイデル、コージングを媒介として両者(代々木とトロッキーズム)の本質的同一性が極めてはっきりしてきたこと」(「知識と労働」第ニ号七五頁)、従って逆に、修正主義をその原理においてあますところなく暴露、粉砕する条件か成熟しているということである。 「原則の領域では孤立を恐れてはならない」、これが森信成氏の信条であった。氏の著作活動そのものが示しているように、原則と理論の領域ではまさに、「我に足場を与えよ、然らば地球を動かさん」(アルキメデス)である。氏が戦後の困難な条件の中で築き上げてきた哲学上、思想上の遺産は開花せずにはいないだろう。後に残されたわれわれの任務は重いが、われわれはこの道を力強く進む。

 

 

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