【追悼】森さんの死を悼む(吉村励さん)

「知識と労働」第3号 1971年12月
【特集2】森信成追悼

  森さんの死を悼む     吉村 励

「森さん、ばかだなあ、どうして、だまって急にいってしまったんだい。」 もう世界を異にしてしまった森さんに語りかける言葉としては、これは不謹慎な言葉かもしれない。 だが私の心の中の本当の言葉は、これでしかない。 そして私は何度、山にむかって、林にむかって、海にむかって、またくれなやむ空にむかって、深い吐息とともに、この言葉をくりかえしたことだろう。私が持病の背椎分離症の発作をおこして、今年六月の大阪労働講座の代役に経済研究所の福田義孝君をお願いした時に、森さんは、つかれていたそうではあるが、まだ元気に聴衆にむかって語りかけていた。そればかりか、講座の後で、世話役のN君らとともに食堂に行って、天ぷらそばを二杯も平げたというそうである。 へばっていた私が、この悲しい文を書いており、元気だった森さんはすでにいない。通夜にもゆき、葬儀の列に出席した後でも、私はまだ、森さんがどこかに生きていて、 「吉村、いっちょう相手になってやろうか」と、将棋盤をもって、現われて来るような気がしてならない (葬儀の後で奈良短大学長の内田穣吉さん、市大経済研究所の崎山耕作君と三人で、天竜寺周辺をさまよいながら、しめやかに森さんを偲んで語りあった時の三人の実感が期せずして同じであった)。
 森さんと私が、とくに親しくなつたのは、 一九五〇年初頭のコミンフォルム批判で、日本の言論界が大きくゆらいだ以後のことであった。それに続く悶々の日々、ともに酒の飲めない私達二人は、時には川合一郎、吉村、または、川久保公夫、森、吉村、または小野義彦、森、吉村、あるいはまた森、吉村だけというくみあわせで、パチンコの「はしご」をしてまわった。歴史学会に出席のため上京した時、川久保君と私が車中で将棋をはじめ、終ったのは豊橋すぎで、あきれた森さんが 「おまえらの将棋は、序盤から中盤に行って序盤にもどる。だからきりがないんだ」と、玉のかこいかたを教えてくれたのも、この頃であった。それから「おまえの将棋は大和のつるし柿だ。へたなりに固まっている」という悪口をいわれながら、将棋の交際はつづいた。 「手でさすよりも口でさす」といわれた悪口の名人の森さんも、すでに私の 「上達」 については、あきらめていたようであった。その間一九五六年の「経済白書」 での 「もはや戦後ではない」との声明、 「一九六〇年の安保闘争」、安保以後の高度成長一九六八、九年のいわゆる「大学紛争」と時代が変わり、その間にスターリンの死、フルシチョフの秘密報告、ハンガリー事件、中ソ共産党の分裂、チェコ事件というような諸事件が頻発した。このような複雑で多岐な現象にたいして、森さんは常にマルクス主義の原則にたちかえって、ことを判断しようとしていた。森さんのもっとも嫌ったのは、修正主義であり、とくに官僚主義であった。哲学者として、彼は自分で考えることをとくに強調した。それゆえにこそ、彼は、自分で考えることをせず、新聞や小冊子だけの知識で、組織の権威を背景にして発言される言葉にたいして、本能的な対立と生物学的な反挽を示した。
 森さんは、常に自分で考えていた。森さんは歩くことが好きであった。歩くのが好きなのは、考えるからであった。森さんは書斎で思考するのではなくして、歩くことによって、思考していた。従って彼は間違いであっても、自分で考えぬかれた思想にたいしては寛大であった。 しかし彼は、思想の一部を統制や権威によって補足する官僚主義にたいしては、終生の敵であった。ある意味で、 『史的唯物論の根本問題』(青木書店) 以降の森さんの労作は、思考の怠惰と官僚主義、修正主義の克服にむけられていたといえよう。
 森さんは討議を好んだ。将棋の後、散歩の途中、喫茶店でコーヒーをのみながら、彼は討議を好んだ。 民主主義については、われわれは何度か激論をかわした。他のことについては、激論の後で、 一定の冷却期間をおいた後、両方がほぼ同じ結論に達するにもかかわらず(大学問題がピークであったころ、学生部委員会では、森さんと私の意見が常に対立した。森さんと私の間が、最も険悪であったのは、この頃である。しかしそれでも、すでに一九六九年の六月以降では、ほぼ同じ意見になっていた。)この問題だけは、不一致のままに終ってしまった。しかし森さんは、大体私の書くものを前もって知っていたし、私もまた森さんの書くものを前もって知らされていた。 レヴィットの一原始マルクス主義批判をはじめとして、哲学の領域で森さんの残した仕事は大きい。 しかし私は、もっと森さんに生きてもらいたかった。森さんの仕事はまだまだある筈だし、森さんはまだ五七歳にすぎなかったからである。われわれは、日がたつにつれて、質素で朴納で放浪家の哲学者がいなくなったことのいたみと悲しみを、多くの領域で強く感じるととだろう。くしくも、この文を書いている時、 キール→ヘルシンキと旅行中の共通の友人・真実一男君から、森さんの急死をいたむ葉書がついた。昨年の年末、文闘委が文学部教授会を急襲した因縁あさからざる嵐山の 「花の家」 で三人で徹夜して将棋をたたかわした真実君にとっても、森さんの死は 「青天のへきれき」 であったのだ。「森さんの急死、いくら考えても不条理だ。良い人間が死んで悪い奴が残る。」そして 「人の訃をきくやキールの秋時雨」の一句が付してあった。ロの悪い割に、内気ではずかしがりやであった人柄にふさわしく、こっそりとしかし風のようにさった友人の冥福を、今はただ心からいのるのみである。

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