【解説】「改訂新版 唯物論哲学入門」(山本春義さん)

改訂新版・唯物論哲学入門(2004)

「改訂新版 唯物論哲学入門」 解説 山本春義

 この夏、新泉社の編集部から、一九七二年に刊行された故森信成さんの『唯物論哲学入門』を復刊したい、ついては初版で私が書いた「解説」を、現在の地平から新たに書き直してほしい、という依頼があった。 いささか遺巡した。ソ連や社会主義体制の崩壊を挟んでいる以上、「戦後思想史」を書くというのであればともかく、本書の 「解説」を簡潔に書き直すというのは、生やさしいことではない。そもそも森さんは私より十一歳年長であるが、森さんと私の関係が近すぎるのである。私自身の思想的立場の新展開については、不十分ではあるが、 一九八〇年代から現在にかけて、自己検証の書『現代思想の稜線』(一九九四年、動草書房)や『対話・現代アメリカの社会思想』(二〇〇三年、ミネルヴァ書房)を書いているので、参照していただくことを希望しておくにとどめ、以下、いまでは知る人も少なくなった森信成さんをできるだけ客観的に紹介することを主眼に、本書の解説をしたいと思う。
 

 森信成さんは、 一九七一年五月から六月にかけて、「大阪労働講座」 で四回にわたって「哲学」について講義された。そして気迫に満ちた講義をおこなったわずかあとの七月二五日の朝に、五七歳の若さで亡くなったのである。この本は、森さんの死後、その時の録音テープをもとに文章化し、編集したものである。
 先日、やはり若くして亡くなった、すぐれた漫画家、青木雄二さん(二〇〇三年九月逝去)が、全国の地方紙に配信された共同通信の記事で「心に残る一冊」と題して、本書を強く推薦された。現在の日本の大衆の中に蔓延している「無力感」を克服し、はっきりした「世界観を得たい人」にとって、三〇年前に出た森さんのこの『唯物論哲学入門』は「最良の一冊である」と書いておられるのを読んで、私は驚いたが、また共感もした。
 この本がすぐれているのは、疎外論を駆使していることだろう。宗教的疎外(非合理的な奇跡や信仰)とそれからの解放(理性的な科学と道徳)、政治的疎外(国家による社会の共同的利害の吸収)とそれからの解放(人類の平等、民主主義)、それに疎外のいちばんの基礎である経済的疎外(資本・生産手段の私的所有)とそれからの解放(生産手段の社会的共有)というように、それこそ私たちの生活の根本にかかわる人間観、世界観の問題が、疎外論を軸にしてわかりやすく説かれているのである。


 森さんは、 一九一四年(大正三年)、大阪市の福島の町家の次男として生まれた。三一年、旧制大阪府立北野中学を卒業後、旧制高知高等学校に進み、三五年、京都大学法学部に入学した。ここで小野義彦、奈良本辰也、野間宏、村上尚治、永島孝雄などの諸氏と知り合った。翌年、文学部哲学科に転入し、学友会代議員になる。下宿をともにしていた小野さんの証言(「森信成の死とその生涯」、大阪唯物論研究会編『知識と労働』第三号、 一九七一年一二月)によれば、この学友会の民主化のための運動の成功と発展が、三六年ごろ世界的に高揚していた反ファッショ人民戦線運動の波と相侯って、森さんの後の思想運動の姿勢の基礎を形づくった。日中戦争が開始される直前の一九三七年五月二六日に京都朝日会館でおこなわれた京大事件三周年記念の 「京都学生祭」は大成功だった。森さんは、そこでの末川博博士の反ファッショ講演に、熱狂し、「人民戦線万歳」を両手をあげて絶叫し、四条河原町までデモをしたという。
 この間、森さんはまた、先輩梯明秀さんを中心に、同氏の家でおこなわれていた「哲学研究会」に熱心に参加した。森さんが唯物論者になる転機になったのは、この研究会においてであった。
 一九三九年、森さんは卒業論文に指導教官であった田辺元教授の哲学の批判、「田辺哲学批判」を書いたがパスせず、結局同じテーマの卒論を三度書いて、四一年に卒業した。


 森さんが学生のころ熱中して読んだ本は、当時ソ連邦で刊行された教程本、広島定吉氏らによって邦訳されていたミーチン監修『弁証法的唯物論』(一九三四年)、ミーチン、ラズウモフスキー監修『史的唯物論』(一九三四年)、シロコフ、アイゼンベルグほか『「弁証法的唯物論」教程』(一九三一年)などであった。
 一九二〇年代、ソ連では学問や芸術の世界でも活発な論争がおこなわれていた。哲学の領域でもブハーリンとサラビヤノフとの論争、機械論者グループ(ティミリャーゼフ、アクセルロードなど)とデボーリン派(ルソポル、リャザノフなど)との論争、デボーリン派と 「西欧マルクス主義」(ルカーチ、コルシュなど)との論争、そしてデボーリン派とミーチン派(ュージン、アドラツキーなど)の論争などである。
 だが三〇年代になるや、共産党内の反対派を粉砕し、ほとんど無限の権力を握ったスターリンは、哲学界に対しても政治主義的な介入をおこない、「一枚岩のような団結」をもった前衛党を要求し、革命を阻害する最大の要因を社会民主主義=「社会ファシズム」 に見いだした。ミーチン派はスターリンに追随し、真理の基準を党の決定に求め、機械論者グループ、デボーリン派や「西欧マルクス主義」をすべて 「反マルクス主義的、反レーニン主義的なメンシェビーキ的傾向の観念論」だと断罪した。
 言うまでもなくこのような主張は、 一九三五年のコミンテルン(共産主義インターナショナル)第七回大会で決定した 「反ファシズム統一戦線、人民戦線」 の方針と矛盾するものであったし、森さんが熱狂したあの学友会活動の体験と対立するものであった。このころから森さんは終生、ヘーゲルとフォイェルバッハを読み、 「ロシア・マルクス主義の父」 プレハーノフを重視し、またロシアの民主主義者チェルヌイシェフスキー、ドブロリューボフ、 ベリンスキーから吸収したが、やはり当時の国際的な風潮にしたがって、「マルクス・レーニン主義の哲学」「ソヴェト・マルクス主義の哲学」=廿ミーチン派の哲学につき、その負の影響は戦後においても存続した。森さんの哲学に教条主義的な傾斜があるのはそのためである。
 「ソヴェト・マルクス主義」 の特徴は、晩年のエンゲルスの哲学からレーニンの 『唯物論と経験批判論』(一九〇九年)の系譜にしたがって、「すべての哲学の最高の問題」を、いきなり超歴史的、教条的に 「精神と自然とどちらが根源的か」、「思考は存在をただしく反映することができるか否か」と問い、観念論か唯物論かに分裂させる考え方であった。
 

 戦後、森さんは、一九四八年五月に大阪商科大学(大阪市立大学の前身)の専任講師に就任したが、以後、教授で亡くなるまで、唯物論哲学を説いた。戦後思想の激動の中で、森さんの思想運動の基盤は 「民主主義科学者協会(民科)大阪支部」(一九四七–五五年)、「大阪唯物論研究会」(一九五七–七四年)、「日本唯物論研究会」(一九五九–六五年)であった。
 一九四三年、コミンテルンが解散され、戦後の四七年にはコミンフォルム(共産党・労働者党情報局)が設立されたが、そこでは「スターリン主義」がむしろ強化された。わが国でも、ソ連共産党と同型の、分派も潮流も許さない、中央集権主義にもとづく前衛党がもとめられた。大衆の自発性、創造性、積極性への信頼をもたず、多様な大衆団体の自主性や独自の役割が認められず(=伝導ベルト理論)、むしろ分派の禁止や統制が大衆団体をも風靡するようになった。
 森さんは、日本の対米従属のみを強調する日本共産党の民族主義的偏向に反対した。そして日本独占資本の再建と自立に対して、反独占の広範な民主主義闘争、民主的民族的統一戦線の結成と社会主義への移行、つまり「構造改革論」を主張した。


 一九四七年、民主的な科学者の統一戦線の場として民科・大阪支部が設立された。四九年中ごろには、専門・非専門の会員数一三〇〇人近くに達し、哲学、政治、経済、科学・技術など一〇近い部会ができた。 しかし五〇年の日本の共産主義へのコミンフォルムの批判(スターリンによる)とそれをきっかけとした日本共産党の大分裂を転機に、党の利害や内紛が大衆団体に直接持ち込まれ、研究会でのまともな理論論争は不可能になり、研究会は機能麻庫に陥った。東京の民科中央は五六年に解散した。
 しかし、大衆団体引き回し主義に憤慨して、大衆団体の独自性を主張した森さんは、小松摂郎さんを中心に、船山信一、清水正徳、鈴木亨、元浜清海の諸氏や私とともに、哲学部会を継続した。ふたたび活発な討論が復活し、会員も拡大した。民科大阪支部哲学部会は五九年まで続いた。一九五六年のソ連共産党第二〇回大会におけるフルシチョフのスターリン批判は、森さんや私
にとって大きな衝撃であった。しかし「ソ連派」 であった私たちは、いまだソ連社会主義体制の驚くべき国権主義や官僚主義を把握することができなかった。せいぜいスターリン個人に責任を帰することはできまいと考える程度であった。


 翌一九五七年、森さんを中心に、横田三郎さん、小野さん、そして私とで、大阪唯物論研究会を結成した。そして私たちは、その規約のはじめに、次の文章をかかげた。
「(1)唯物論の立場は、科学と基本的人権の立場であり、その徹底である。唯研はそれゆえに、科学と基本的人権を尊重し、無条件に擁護しようとする万人に開放され、その権利は確保されなければならない。(2)言論の自由は、基本的人権の基本的条項に属する。それは、言論による批判以外の、いかなる手段によってもおさえられてはならない」。


 一九五九年六月、全国各地(東京、松山、札幌、名古屋、下関、のちには水戸、静岡)の 「唯物論研究会」(名古屋は「現代哲学研究会」)の盛り上がりの中で、日本唯物論研究会が設立された。この結成にあたって、森さんの果たした役割はめざましいものであった。まず、東京唯研が主張した全国単一組織に反対して、森さんは強硬に、各地唯研の特殊性に応じた連合体組織を主張した。また、六〇年に創刊された機関誌『唯物論研究』(青木書店)の 「創刊のことば」案において、東京唯研がいきなりもちだした 「党派性の承認」という規定に対して断固反対した(「日本唯物論研究会の「創刊のことば」をめぐる論争」、神戸大学総合雑誌『展望』第四号、 一九六一年、参照。森信成『毛沢東「矛盾論」「実践論」批判』一九六五年、刀江書院に所収)。
 森さんが連合体形式に固執したのは、もちろん、あの民科時代の中央集権主義、モノリシズム(一枚岩主義)の苦い経験があったからであり、「党派性の承認」 に反対したのは、その名の下に言論の自由の抑圧、スターリンの 「伝導ベルト」化の危険があったからである。結局、日本唯研は連合体組織となり、「創刊のことば」は、日本唯研の委員長、出隆氏の 「創刊にあたって」という短い文章にかえられることになった。
 もっとも、森さんや大阪唯研がとったこのような態度は、その後、六〇年末以降、国際的に明らかになった世界の社会主義運動の新しい地平への転換をめざしてのものではなかった。つまり、コミンテルン以来、「旧左翼」がひきずっていた 「唯一前衛党主義」から「複数党派のネットワーク」 への転換をめざしたわけではなかった。また、もっぱら国家権力の奪取をめざす「旧左翼」の「政治革命」 に対して、「社会」 のさまざまな領域における「社会革命」 の重要性の視点に立ったものでもなかった。
 だから六〇年代にはいって、中ソ論争が先鋭化していくや、日本唯研は、中国共産党やソ連共産党に対する権威主義的追従や事大主義に陥り、次第に、理論上での対立者を、政治的に断罪するようなスターリン主義が蔓延した。六五年二一月、機関誌『唯物論研究』は二三号で廃刊に追いこまれ、日本唯研は実質上崩壊した。ソ連支持であった森さんも、大阪唯研も、根本的にはスターリン主義的体質が清算されていなかった。
 しかし、日本唯研は連合体組織であったため、大阪唯研は存続した。新しく、小野さんを中心に、機関誌『知識と労働』が一九七〇年から七五年まで刊行された。そしてその第三号(一九七二年一二月)は森さんの追悼号となった。


 大阪唯物論研究会結成以来、森さんは小野さんらとともに、学生や労働者の啓蒙活動に精力的にのりだした。また、学生たちが関西の各大学に「学生唯物論研究会」をつくるのに、献身的に協力した。六三年には「民主主義学生同盟」が結成されたが、その実現に大きな思想的影響を与えた。
 森さんのマンションには、年中、学生や労働者が出入りし、また、森さん自身も電話で呼び出しては、次から次へと喫茶店を渡り歩いた(森さんは酒がのめなかった)。 大声で議論しながら、町から町へと歩いた。ほとんど私生活を犠牲にして、多くのすぐれた研究者や活動家を育てた。
 もともと天衣無縫の人であり、無類のお人好しで、日常生活における八方破れの行動や、かけあい漫才的な会話は、終生変わることがなかった。激しい論争を挑んだ人であったが、相手が権威主義者でないかぎり、おたがいに憎しみあうということはなかった。


 まえにも記したように、森さんの哲学には 「マルクス・レーニン主義の哲学」 「ソヴェト・マルクス主義の哲学」 の教条主義的な傾向が存在した。だから森さんは、どこでも権威主義、官僚主義や中央集権主義を攻撃して、民主主義、思想・言論の自由を擁護したのであったが、つねにセクト主義、客観主義だと非難されることになった。
 国際的に見ても、マルクス主義が 「ソヴェト・マルクス主義」 の限界を脱却して、それまで無視されていた 「初期マルクス」 の研究がおこなわれ、初期マルクスをふくむマルクスの全体像が明らかになってくるのは、やっと六〇年代に入ってからであった。 森さんが、著書『マルクス主義と自由』(一九六八年、合同出版)の 「あとがき」 で述べているように、わが国でも、マルクスの 『経済学・哲学草稿』(一八四四年執筆)の翻訳が、三種類も次々出版され、マルクスの豊かな人間観と人間疎外の理論、人間解放の思想が明らかになったのである。六五年には慶松渉さんが、アドラツキー版『ドイツ・イデオロギー』 の編輯にさいしての偽造を指摘し(「『ドイツ・イデオロギー』編輯の問題点」『唯物論研究』第二一号)、翌年、花崎皐平さんがバガトウーリァ版の訳を出した(『新版ドイツ・イデオロギー』合同出版)。 当初から、森さんが主張していた、マルクス主義にとってのフォイェルバッハの意義と重要性についても、ひろく理解されるようになった。まさに「マルクス・ルネッサンス」 の時代であった。
 冒頭で述べたように、この本に人々が人間的な共感をもち、人々がこの本から正しく生きていくための確信を得るのは、このような 「マルクス・ルネソサンス」 の時期に、また世界の社会主義運動の地平が、スターリン主義から大きく転換していく中で、懸命に思索し、学生や大衆とともに闘っていこうとする森さんの“純粋さ”のゆえにほかならないと思う。
 おわりに、森さんの録音テープを文章化するにあたって、佐野米子さん、木村倫幸さん、田原利継さんの苦労があったこと、さらに原稿をこのような形にまで編集するにあたっては鷲田小弥太さん、田畑稔さんの努力があったことを記しておきたい。
 なお本書の復刊にあたって、快くご承諾いただいた著作権者、森さんの長女間野嘉津子さん、またいろいろとご盤力にあずかった田畑稔さん、新泉社の石垣雅設社長、同社編集部の安喜健人さんに厚く御礼申し上げる。
                           二〇〇三年一二月二〇日

京大時代の森さん(中央)

若き日の森信成さん
1936年 京大文学部学生(於京都北白川)

中央 森,左小野義彦,右奈良本辰也
大阪唯物論研究会編『知識と労働』第3号(1971年12月)より転載

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