【書評】「被爆動員学徒の生きた時代―広島の被爆者運動」
(小畑弘道著・たけしま出版・1365円)
本書は広島被爆者団体連絡会議の生みの親で初代事務局長、近藤幸四郎(二〇〇二年死去)の生涯をたどる一冊だ。遺言で託された被爆者運動関係の一切の資料、広島平和会館の移転に際して広島県被団協から寄贈された大部の資料、これを労働運動の仲間の小畑弘道がまとめたものである。
ぼくも松江澄(元広島県原水禁常任理事、二〇〇五年死去)を通じていつのころからか、近藤を知ることになる。最後に会ったのは、秋葉忠利が広島市長に立候補した八年前、その決起集会の場だったことを思い出す。
小畑は宮崎安男(元広島県原水禁事務局長、二〇〇七年死去)らの近藤評を引いて「タテの発想になりがちな労働組合において、彼は徹底したヨコの発想で異色な存在であった」「タダ酒を拒否し、完全な割り勘主義で、地位や身分ではなく、どんな立場の人とも対等に接し、一対一の人間の絆を求めた」と書いている。ぼくはあまり深い付き合いではなかったが、そんな人なんだ、と今思い返している。
近藤は一九四五年八月六日、修道中学一年の時に被爆。建物疎開作業に動員されていたが、この日は休みをもらっていた。このことが生き残ったうしろめたさとして、原水禁運動にのめり込む原体験になるのだろう。
電電公社に就職し、全電通の労働運動を通じて被爆者援護法運動にかかわる一方、電通被爆者協の結成を通じて現地の職域被爆者組織結成にかかわった。原水禁運動の形成と分裂という複雑な情勢の中で被爆者援護法の制定、フランスの核実験抗議、陸自第一三師団市中パレードに対する抗議、原爆慰霊碑前での座り込み、原爆の「加害と被害」問題への取り組みなど、戦後の被爆者問題で近藤がかかわらなかった問題はなかったと言ってもいい。
近藤は労働組合幹部によくある「天下り」の道に進まず、晩年は広島駅前で「ギフト・コンドウ」という商いをしながら運動を続けた。もともと父親が組合長をしていた駅前商業協同組合という個人商店が集まった木造建屋の二階には松江らの事務所があったという。父親も松江らの運動にシンパシーを感じ、カンパしていたという。筆者が初めて広島に来た七〇年代後半、「広島市民新聞社」という看板が駅前に見えたが、それがこの事務所だったのだろう。むろん、今はその看板を見ることはない。
松江は旧満州の戦線を経験し、復員して朝鮮戦争までの五年間、占領軍と対峙した日鋼争議の指導や「原爆廃棄」を初めて訴えた平和擁護広島大会の開催など運動のうねりの渦中に身を置く。レッドパージで勤務先の中国新聞を追われ、路線対立から六一年に共産党を離れ、社会主義革新運動(社革)に参加。二十数年後の八四年、社会主義の優位性を批判する論文を発表した。ソ連の崩壊はその七年後だった。「神のごとく尊ぶ」という批判的な言い回しをよく使っていた。その対象が天皇制であり、「前衛党」だった。最後にたどり着いたのは「もっと民主主義を」だった。
個人的に思い起こすと、共産党の中国地方の指導部にいた松江はいわば広島の運動の「プリンス」あるいは「カリスマ」だった。それに対し、労働運動たたきあげの近藤はある意味で畏怖された汚れ役であり、また黒子だったのだろう。しかし、その語り口には人間の実があったと思うし、小畑が「新人記者の教育係と言われたことがある」と書いているように辛抱と目配りの人だった。そう言えば、そんな「記者の教育係」が、つい二十年ほど前の広島には何人もいた。
ここ五年で、近藤、松江、宮崎と相次いで広島県原水禁の古参の活動家たちがなくなった。今年に入って亡くなった宮崎の葬儀に参列した。参列者の一人が「迷ったら現場に帰れ」が宮崎の口癖だったことを披瀝した。近藤も終生現場の人だったし、松江もむしろ晩年は若い市民運動家とつながりを深めた。
本書の主題、副題、或いは帯に「近藤幸四郎」の名前がないのは残念だ。一般的な被爆者運動通史ではなく、一人の被爆者・運動家の生きざまに光を当てた書だということを関係者に知ってほしいとも思う。(広島・S)
【出典】 アサート No.355 2007年6月16日