【書評】『クルド学叢書 レイラ・ザーナ—クルド人女性国会議員の闘い』

【書評】『クルド学叢書 レイラ・ザーナ—クルド人女性国会議員の闘い』
    中川喜与志・大倉幸宏・武田歩編、2006.1.15.発行、新泉社、2,800円)

「本書は、一人のクルド人女性の半生を通して、パレスチナ問題と並ぶ中東世界のもう一つの焦点であるクルド人問題の本質を探るとともに、少数民族問題とは何か、テロリズムとは何か、民主主義とは何か、といったテーマに可能なかぎり迫ることを試みたものである」(「序 民主化の旗手か、テロリストか?」)。
 中東の先住の民、クルド人は、2500~3000万の人口を持ちながらも、自らの国家を形成できぬままに、トルコ、イラク、イラン、シリア等複数の国家にまたがって居住している。このような状況に至らしめたものは、それぞれの国家がクルド民族とその居住地域(クルディスタン)を分割、併合したからであった。この意味でクルド人問題は、「多国間植民地」の問題である。
そしてそれはまた、「それぞれに民族主義(アラブ民族主義、トルコ民族主義、ペルシャ民族主義)あるいはイスラーム主義がクルド人たちを無権利状態に置く、他民族支配のイデオロギーとして機能してきた問題でもある」とされる。
 「そして、全クルド人口の約半数(1200万~1500万)のクルド人が暮らし、そのクルド人たちに対して最も過酷な同化政策、抑圧政策をとってきたのがトルコ共和国である」。
 1923年のトルコ共和国建設において、トルコ共和国に暮らす全住民が「同胞としての“トルコ人”」と見なされるというスローガンが宣言された。一見したところ進歩的で寛容に見えるこのスローガンは、しかしながら現実的には、クルド民族、クルド語の存在を否定するスローガンとして展開され、暴力的に押し付けられるものとなった。すなわち「このスローガンの意味するところは、現実には『単一民族国家』の建設であり、それは、その後のいくつかのクルド人反乱を経て、『クルド民族は存在しない』『クルド語なる言語は存在しない』という究極の同化政策を生んだ」。すなわち「トルコのクルド人は『少数民族』ですらなくなった」のである。
 本書編者は、上のように紹介することで、クルド人たちの置かれている過酷な現状を批判するが、この状況に抗して、トルコにおけるクルド民族の権利を主張して登場したのが、本書で取り上げられているレイナ・ザーラであった。
 レイラは、1980年代末よりクルド人の、女性の活動家として大きな注目を集めていたが、1991年、トルコ大国民議会(国会)総選挙に同国東部のクルド人居住地域(クルディスタン)から立候補、30歳の若さで当選した。そして議員就任式に際して、クルド民族の伝統色をまとったレイラは、トルコ語で議員宣誓を行なった後、「クルド人とトルコ人の兄弟愛に万歳!」と数語のクルド語を発する。まさに「クルド民族の存在」が公然と主張されたのである。
 この事件を発端としてレイラは、国会議員不逮捕特権を剥奪され、1994年より2004年にかけての約10年間、首都アンカラの中央刑務所に投獄されることになる。この事件についてレイラ自身の「獄中メッセージ」から引用しよう。
 「私が議会で最初に発言したのは、公職に就くにあたっての宣誓を行う時だった。(中略)1980年のクーデターによって成立した軍事政権が起草し、制定した、その反民主的な文書の諸原則を尊重することを、おごそかに誓わなければならなかった。それは苦痛以外の何ものでもなかった。(中略)この憲法は、クルド民族の存在の否定を法律として成文化し、クルド人アイデンティティのいかなる主張も犯罪とした。要するに、トルコの政治・軍部の支配層は、クルド民衆に選ばれた代表である私たちに、公に自らのアイデンティティを、民主的な闘いの存在意義を、放棄するよう求め、そのような体制に忠誠を誓うことを求めていたのだ。(後略)」。
 「どのようにして、私たちは国会議員としての経歴のまさに最初から、一連の罠を回避することができたのだろうか? 誰もが、とりわけ私たちを選んだ民衆は、『クルド人のラ・パッショナリア』(マスコミが私をなぞらえたように)がどうするかを注視していた。私は圧倒的な重さでのしかかってくる責任を感じていた。私は屈服しない道を選び、自らのアイデンティティに対する誓いをはっきりと表明するため、クルド民族を象徴する色彩のスカーフを身につけた。私の名前が呼ばれた時、議会の満員のホールを重い沈黙がおおった。演壇から私の座席までを分かつ距離は、果てしないように見えた。(中略)これは、私の真実の瞬間なのだ、と私は自分に言い聞かせた。ライオンの穴に投げ込まれた、クルディスタンの農村の幼い少女・・・」。
 「私はこの状況に対処するために、ありったけの力を奮い起こした。最初に、宣誓文のトルコ語の文章を静かに読み上げた。それは、公式に私に[議員としての]権限を有効にした。そして、私は次の文章をクルド語で加え、トルコ語でも読み上げた。
 『私は強制されたこの形式的行為を耐えました。私は民主主義の枠内で、クルド人とトルコ人の友愛的な共存のために闘うつもりです』。
 このわずかばかりの言葉は、議場内に集団ヒステリーを爆発させた。『分離主義者! 売国奴!』という叫び声が四方から聞こえてきた。(中略)議員の中には、『逮捕しろ、絞首刑だ!』と叫んでいる者もいた」。
 かくしてレイラは、この後10年間にわたり獄窓に閉じ込められることになるが、本書はこの事件を、「Ⅰ なぜレイラ・ザーナは投獄されたのか?」「Ⅱ 夜を照らす暗黒–レイラ・ザーナ半生記」(映像作家ファイサル・ダールの寄稿)「Ⅲ 獄中からのメッセージ」「Ⅳ 獄中からの手紙」「Ⅴ 起訴状と弁論–1994年レイラ裁判」「Ⅵ トルコにおける政党政治とクルド人たち」(社会学者イスマイル・ベシクチの寄稿)という構成で、資料を駆使して詳細に焙り出す。
 そして編者は、レイラ問題の背景には、トルコ建国後にケマル・アタテュルクによって掲げられた「六つの矢」の原則(共和主義、民族主義、世俗主義、民衆主義、国家主義、革命主義)が持つ矛盾が存在すると指摘する。
すなわちこれらの中で最も重要な国民統合のイデオロギーとなってきたのが、民族主義(トルコ民族主義)であり、「トルコ民族主義は、共和国建設後、クルド民族の存在否定という政策を通して成長、発展してきたと言っていい」。
 ところが近年、建国以来西欧を範として追求してきた「近代化」の象徴的な目標として、トルコのEU加盟が日程に上ってきた。この「近代化」は、「世俗主義」との結び付きが強く、国内のイスラーム主義に対抗するイデオロギーとして機能してきたので、「EU加盟はトルコの近代化路線にとって外せぬ課題となってきた」のである。
 かくして「トルコ民族主義と表裏一体の関係で実行されてきたクルド民族の存在否定と近代化=西欧化という二つの路線が、トルコのEU加盟という問題を通して、相容れない矛盾として立ち現れたのである」。
 このトルコの建国イデオロギー(ケマル主義)の内含する矛盾の最中に、レイラ問題は置かれている。そして民族主義(クルド民族の否定)と近代化(西欧民主主義化=クルド民族の承認)の分裂という局面は、2004年6月のレイラの突然の釈放という事態で、トルコ政府の一定の譲歩を生み出した。しかしクルド民族拒否イデオロギーは強固に温存されており、レイラが言うように、「入り口に立ったばかりで、道はまだまだ続く」。
 「トルコのクルド人問題が今後、いかなる展開を見せるか依然不透明だ。それを動かす諸要因はかつて以上に複雑に絡み合っている、そんな環境のなかで、レイラ・ザーナたちは政治活動再開の新たなる一歩を踏み出した」と編者は述べる。
 なおまたレイラがマスコミによって「ラ・パッショナリア」と呼ばれていることは、かつてのスペイン市民戦争(1936~39)において「ラ・パッショナリア(受難華、もしくは情熱の花)」と呼ばれたドロレス・イバルリ(1895~1989)思い起こさせる。トルコとスペイン、対トルコ民族主義と対ファシズムという地域や時代の差、あるいは彼女たちを取り巻く政治情勢の違いはあるとはいえ、民族と民主主義への思いには通じるものがあると言えよう。そのイバルリは、『奴らを通すな!』(久保文訳、1970年、紀伊国屋書店)の最終章「新しき出発」でこう叫んでいる。
 「鎖につながれた国、牢獄のスペイン、拷問のスペイン。即決死刑のスペインの土に、新しい信頼と希望の光があらわれた。裏切りの侵略に対するわれわれ人民の叙事詩のようなレジスタンスを力づけた光、未来への人道主義を導く光、民族の苦悩の深みから輝き出る光、牢獄の暑い壁を通してさしこむ光、不死の人々のひびきわたる声で全世界に次のように知らせながら、
  スペインは生きている!
  スペインは戦っている!
  スペインは存在する!
 (中略)
 異った道から、異った遠い出発点からお互いにちがったものが同じ結論に達した。
 『死者たちのあの重荷を今生きている物が再び負わないために戦うこと、フランコがその行手をふさいでしまったスペインの歴史をつづけるために』」。
 本書は、このような状況下のクルド人問題に踏み込んだ最初の本格的な書であり、一読に値する。(R)

 【出典】 アサート No.348 2006年11月18日

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