【翻訳】銃についての オーストラリアの教訓

The New York Times, International Edition  June 15, 2022
“Lessons in Australia on guns”  
By Mr. Aaron Timms, a freelance writer covering politics and culture,
who lives in New York.
[ Opinion ] 「意見」 
( The New York Times publishes opinion from a wide range of perspectives in hopes of promoting constructive debate about consequential questions. )

「銃についての オーストラリアの教訓」

前月の Texas, Uvalde の小学校での発砲事件の後、数時間以内に、アジアからの帰路、Biden 大統領は自問していた。自由な民主国家である Australia*, Canada, 英国では、銃による暴力が、うまくコントロールされている、しかし米国では、何十年も試みているのに何故に成功していないのだ、と。「それらの国々でも、心の病気を持っている人もいるだろうし、国内での議論もあることだろう。」Bidenは、その夜遅くに、国民への演説でさらに続けて述べた。「それらの国々では、死亡する人はいる。しかし、こんなにしばしば、このような銃乱射事件(“mass shooting” )は、決して起こっていない。なのに米国では起こっている。何故か?」 * Australia : 以降「豪州」と記載。

Biden大統領の心は、豪州 に思いを巡らしていることは容易に想像できる。農村(“rural”)*の銃所有者や保守的(“conservative”)**考えの活動家達との、激しい攻防の後に豪州は、1996年の 35人の犠牲者を出した銃撃事件(訳者注:Port Arthur massacreのことで後述)をきっかけとして、銃の入手を制限する抜本的な方策を導入した。その改革は、実際には広範囲であり、すべての automatic and semi-automatic shotgunsの禁止を含み、さらに厳格な免許制、許可条件を伴うものであり、すべての銃保有者―彼らは、自衛のための保持を含まない火器の所有の為の、真の理由をも提出することを要請された―にたいして包括的な安全講習の導入をも含んでいた。 連邦政府は又、銃の特赦と買い戻しを発表した。 これによって、65万丁以上の武器が警察に引き渡されて、破棄された。

* “rural” : 訳者注:”urban” 都市の、都会の、都市に住む:の対比としての “rural” で、田舎の、農村の意。 ** conservative : 保守的な、保守主義の、保守党 の意。
   訳者注:参考までに豪州、米国の人口比較は以下のごとく。
                豪州        米国
    人口: 1996年  abt. 18 million   abt. 270 million
        2021年  abt. 26 million    abt. 332 million
    国土面積      7,688,000 ㎢    9,834,000 ㎢ 

Mass shooting や自殺を含む銃器による死亡事件は、豪州においては、この26年間において、著しく減少した。銃暴力と、その悲劇を減少させることで、時として国は変わる。Biden大統領にとって、Air Force One に乗って太平洋を越えて豪州にやってくれば、その物語は希望の、かすかな光を提供したに違いない。そして、もしそのような悲劇(Texas, Uvaldeでの事件)が豪州で起こっていたならば、何故に米国で起こらないのか、と考えるだろうか?

米国と同じように、豪州は、大量に殺戮された原住民、先住民の血の中で設立された、ヨーロッパの植民者の植民地*だった。そして、そこでは銃と征圧が歴史的に重要な文化的役割を果たして来た、フロンテア神話を持った。

*植民地 
   :訳者注:豪州は、1606年オランダ東インド会社の Mr. Willem Janszoon
        によって、北東のヨーク半島西側が発見される。
     1770年、英国人 James Cook が東岸の Sydney 近くに上陸。
     1778年、本格的植民者として、英国より、第一船団 11隻、1500名
             (内、流刑囚約780名)が上陸。
     1851年、Sydney郊外にて金鉱山の発見によりgold rush が起こり
        労働力として中国人等のアジア系の人々が流入し、人口の増加。
     1901年イギリス連邦の一員としてのオーストラリア連邦 (Commonwealth of      Australia)の発足。
         
米国は、その国の独特の用語、cowboys, buckaroos(訳者: cowboy に同義) and gunslingers (殺し屋、hit man)を有しているが、豪州においても、squatters(開拓者), drovers(運転手), and bushrangers(山奥の山賊) を有している。そして、米国同様に、豪州は今日、多民族をベースとする、連邦国家であり、銃に好意的な rural area においては、彼らは、かなりの政治的な影響力を有している。

しかしこれらの類似性は、事実に基づく、ほんの一部分であることを物語っている。1996年の Port Arthur での大量殺戮 (“massacre”)* をきっかけとしての銃改革を通して、推し進められた豪州の成功は、大部分がタイミング、巡り合わせ、そして豪州の憲法の特異性の成果であった。

*Port Arthur massacre : 訳者注: 1996. 4. 28 豪州タスマニア(”Tasmania”)島の中心都市Hobart 郊外の観光地 Port Arthur で起きた銃乱射殺人事件。死者 35人、負傷者 15人を出した。犯人、Martin Bryant 29才は、翌日逮捕された。彼には知的障害があり、知能テストの結果も平均以下であったとされている。彼は、AR-15 Assault Rifle (全自動の射撃能力を持つ自動小銃)) で観光地のカフェ、ギフトショップ、駐車場、サービス・ステーションや出入りの道路上で就業員や観光客を無差別に乱射した。豪州には死刑制度がないので、現在も服役中と報じられている。
銃の政策については、豪州と米国では、類似点より相違点のほうが多い。もし何かあるとすれば、豪州の銃改革の成功のより詳しい調査、検証が、米国が直面している課題の大きさを鮮明にするであろう。

豪州における銃改革への抵抗は、Port Arthur massacre に至るまでも激しかった。1987年に Melbourne において、二つの massacre* があり、計15人が死亡した。そして、この事件がこの国の政治議事日程に、はっきりと銃規制の必要性を提起した。しかし武器の院外圧力団体(”firearms lobby”)や、 QueenslandやTasmania のような銃に寛容な州の国会議員達は、連邦国家の改革への努力を挫折させるべく働いた。問題の一部分は、銃は、ほとんど各々の州によって統制されていて、これが銃改革を結果として国の調整に依存するようになっていた。このことは、今日の米国における銃規制が進まない状況と明らかに類似している。

  *Melbourne massacre : 訳者注 :
1. Hoddle Street massacre : Aug. 9, 1987, Mr. Julian Knight 19才は、同Streetで、行きかう車に乱射。死者7、負傷者19人を出した。動機は不明とされている。同日、逮捕されている。元豪州陸軍の軍人だった。
2. Queen Street massacre: Dec. 8, 1987, Mr. Frank Vitkovic 22才は、同
Street にあるPost Officeに押し入って銃を乱射。死者 8, 負傷者 5人を出した。大学を中退して、精神的にも悩みを持っていたと。警察に追われてビルの11階の窓から這い出ようとして地上に落下して死亡。

Port Arthur massacre の数週間前、連邦選挙があり、13年続いた反対党の政権に終止符が打たれて、保守党 (the conservatives) — urban & suburban 中道右派 Liberal Party とrural National Party の連合— が帰り咲いた。この勝利の衝撃は、新政権に大きな権限を与えた。Port Arthurでの殺戮(”slaughter”)によって、国の全地域に広がった嫌悪の大きさを、おもんばかり、新首相となった John Howard は、Melbourne での銃撃事件をきっかけに、始まってはいたが立ち止まっていた、銃改革を、すべての州と調整して、素早く推し進めた。
豪州 gun lobby は、これらの銃改革を黙っては受け入れなかった。銃所有者達は、何千人と集まって、改革に抗議した。National Party leader Mr. Tim Fischerの肖像画が、いくつかのrural でのデモで焼かれた。そして、Howard 首相は、Victoria州の海岸沿いの町 Saleでの銃支持者の集会で、防弾チョッキ(“bulletproof vest”) を着けての異常なる方法で、演説を行った。(彼は、後になって、防弾チョッキを着けたことを後悔していた。)しかし、米国におけると同様に、豪州における1990年代は、政治的には、より天真爛漫で潔白な (”innocent”)時期であった。あまり分極化していず、正義と公正の基本の上に立った両党合意、そして、我々が、慣れっこになって来ているものよりも、より毒々しさの少ないメディア環境にあった。

Conservative leader達にとって、選挙民に向かって立ち、銃改革を主張することは信念と勇気を必要とした。特に、Tim Fischerは、Howard首相の銃改革への支持ゆえに、自身の党内で激しい反対に直面した。そして、これらの分裂は、国の政治上での言説を害し、事実、長きにわたり被害をもたらした。しかし、それでも改革は可能であった。お互いの基盤をおろそかにするリスクを冒してまでも、実現の大部分は、原則に基づき行動し二党で共有する規範とconservativesの前向きの意欲のお陰であった。

さらに加えて言えば、豪州は、米国における銃改革に立ちはだかっている制度上や憲法上の障害に、直面していなかった。また、豪州には、議事妨害行為 (filibuster)* はないし、Bill of Rights** もない。さらに、憲法上保証されている銃所有の権利もない。 豪州の憲法では、公正な裁判や信教の自由のような、ほんの一握りの権利を明白に成文化している。 また、豪州高等裁判所は、以下の決定をしている。即ち、憲法は、政治的な交信、連絡の自由への暗黙の権利を含んでいる。しかし、銃については、この国の創立時の文書には何も述べられていない。 現代に至る豪州の法体系の卓越した物語は、憲法に規定されている諸権利を、削除するのではなく、大事なものとして、大切にして来ていることである。そこでは、個人の権利や自由について、議論がなされてきている。これらは米国におけるそれとは、明らかに異なっている。

*filibuster : 訳者注:「海賊」を意味するオランダ語が語源とされている。米国では他国で非合法な軍事行為によって革命、反乱、分離独立などを起こし政治的、経済的利益を得る者を言う。しかし政治を巡る報道での filibuster とは、上院規則第19条に謳われている「いかなる上院議員も、他の議員の討論を、その議員の同意なしには中断させることはできない。」を指す。 上院議員の発言時間が無制限となり、議事進行を意図的に遅延させる行為ともなり「議事妨害(行為)」と訳される。 これが際限なく認められれば、議会機能不全に陥ることがあることより、現在では、上院の 3/5 以上 (160議席) の賛成を得て “closure” (討議終結)と呼ばれる決議を行えば、発言時間に制限が加えられるようになった。
 さらに、1975年の上院規則修正において、filibuster を行うには filibuster の行使を宣言して議場にいれば、演説をしなくても行っていると見なされるようになったので、長時間の filibuster は、あまり見られなくなった由。

 **Bill of Right : 訳者注: 英国より独立して、しばらくしてからの 1791年、憲法に加えられた人権保障規定のことで、修正第一条から十条まである。銃所持の権利は第二条 (the second amendment) に謳われている。

豪州は、この憲法の不完全性/規定不足(”deficiency”) によって、得ているものと同量のものを失っている。 一つを挙げれば、銃乱射事件の後の感情的になっている日々における銃政策に関する米国メディアの報道で、しばしば抜け落ちていることである。(訳者の解釈:なぜ銃規制をしないのか、個人の銃所有を禁止しないのか、という論説を米国メディアは、憲法に銃保持の権利が謳われている以上、正面切って書いていない。もしそれを主張すれば、共和党やその支持者から大反撃に会う。筆者- Mr. Aaron Timms は、New York 在住とあるので、おそらく米国人であろうから、このことに敏感なのであろう。)     
The Second Amendment(訳者:米国憲法の修正第二条、銃保持の権利が謳われている。) の廃止/破棄に必要とされるであろう、極めて困難な努力に比べれば、豪州の銃改革は、比較的簡単に法制化された。しかし、”Bill of Rights” なくしては、豪州では、亡命を求める人への強制的な又は不確定な拘留を防ぐこと、や名誉棄損訴訟の身も凍る恐怖から、言論の自由を遮断することを防ぐ憲法の枠組みがない。

Port Arthur の銃撃犯は、植民地暴力の血だらけの豪州の歴史への敬意としての一部において、以前の流刑地の一つで、今は野外博物館になっているところを事件の現場として選んだと伝えられる。予期せぬことに、個人の自由を表現するに弱点のある豪州の法的構造は、しばしば起る mass shootings に終止符を打つことを手助けした。 しかし、a Bill of Rights の欠如は、議論のあるところではあるが、Port Arthur を建設した植民者(西洋人)によって、土地や財産を取り上げられたり、殺害されたりした土着の先住民* が、平均寿命や生活水準が国の平均より相当に低い状態に、耐え続けている理由の一つでもある。

 *先住民:訳者注 アボリジニ(Aborigine)を指す。
 Aborigineと呼ばれる人々が豪州に来たのは、約10 – 5万年前とされている。1788年    英国の植民地化時、Aborigine の人口は、50~100万人とされていたが、1920年には、7万人にまで激減していた。
  一番の原因は、免疫のない先住民に西洋人が持ち込んだ伝染病によるもとされているも、初期の英国移民の多くを占めた流刑囚は sports huntingとして多くのAborigineを虐殺してきた現実もある。
  Aborigine に市民権が与えられたのは、1967年になってからである。
  1996年には、35万人に回復している(豪州人口 17,500,000万人の 2%相当)。
  2008年2月、当時の首相 Kevin Rudd は、議会において政府として初めて、抑圧され  てきた先住民Aborigineに謝罪した。

1990年代の中頃以来、豪州の全地域で確認された銃による暴力の大幅な減少にもかかわらず、銃規制の全国的な枠組みの弛みの兆候が浮上し始めている。 銃の所有は、Port Arthur Massacre の時より増加している。〔1996年の 320万丁より 2020年の 380万丁へ〕 そして、最近の報告では、静かによみがえっている gun lobby は、一人当たりのベースで NRA (全米ライフル協会)と同じほどの金を使っている 。厳格な銃規制の基準は、自国で過激化した殺人者を育て、また、暴力を海外に輸出することを阻止できていない。2019年の51人の死者を出した Christchurch massacre* の gunman は、豪州人であった。

  *Christchurch massacre : 訳者注: March 15, 2019 New Zealand南島の          Christchurch で起こった銃撃事件。犯人Mr. Brenton Tarrant 28才は、二つのモスクで、金曜日の礼拝に訪れていた人々を銃で乱射し死者 51, 負傷者 49人を出した。犯人は、2016/2017年、ヨーロッパで起きたイスラム教徒によるテロ事件に執着するようになり、それ以来、犯行を計画していたと伝えられる。2020年8月、終身刑の判決が下された。

それゆえに、この豪州の銃規制の経験は、容易に米国に置き換えることが、相当にむつかしいということを示している。 しかし、豪州が何らかの例として役立つ場合があるとすれば、それは、conservative and rural leaders が、地元の銃を大切にしている有権者に、銃改革を説得する際に、自身の政治使命を賭けての、彼らが示した勇気と信念であろう。この度量/器の大きい特性を、1990年代の豪州の conservatives より引き出したことに比べれば、今日の米国のRepublican Party (共和党) の集団より引き出すほうが、遥かにむつかしく困難であろう。

                  ( 訳: 芋森 )   [完]

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