民主主義の旗 58号 1969年4月11日


民主主義の旗 58号 1969年4月11日
民主主義学生同盟全国委員会発行    PDF版

【主な記事】
中教審答申粉砕・民主的改革勝利へ
同盟11回大会成功
立命館大支部 再建宣言
【同盟五年の歩み】日韓・ベ反戦闘争の昂揚の中で

同盟11回大会成功  四月闘争方針を決定
 民主主義学生同盟の第十一回全国大会が、三月二十二、二十三日の両日大阪において、全国各地からの代議員評議員の出席のもとに開かれた。激動する、国際国内情勢を反映した大学の民主的改革闘争の高揚の中で行われ、次の三つの任務を持っていた。 第一は政府独占の反動的大学再編成に対決し大学の民主的改革で闘うことの意志統一を行うこと。
 第二は、安保条約破棄、沖縄基地撤去、則時返還還闘争の方針を決定すること。
 第三は、中教審答申、新大管法阻止、大学の民主的改革闘争勝利、安保条約破棄を担う強固な学生同盟を築き上げること。
 二日間にわたる白熱した議論は大学の民主的改革闘争に集中した。神奈川大学、京大、阪大、神大、大阪市大などから、それぞれ闘いの総括を踏まえて積極的な意見が展開された。
 集中した討論の中で、政府独占の大学政策は、本格的「重化学工業段階」と規定される最近の日本帝国主義の再生産の構造に照応した労働力の質(専門技術労働者及び管理労働者)と量を、大学教育をとおして貫徹しようとする労働力養成政策として特徴づけられることが明らかにされた。
 独占資本の要請に沿った中央集権体制の整備(副学長制、執行部体制の確立、文相の人事権の掌握)
 中教審答三月答申において政府文部省は学生運動自治会活動の破壊を意図し、四月における答申では管理運営の反動的再編を予定しており、それに対して、大学の全構成員が、強固な統一戦線を形成し民主勢力と連帯して闘うことが確認された。
 阪大支部からは、政府文部省と一体となった大学当局の反動グループの機動隊導入、欺瞞的民主化の策動、それも民青全闘委を利用して行われんとしていたことが報告された。
 また京大、神戸大からは、入試中止を口実とした官憲の露骨な大学に対する攻撃が報告され、政府文部省に対決する意志が表明された。
 以上の討論をふえ、全国委員長からまとめが行われ、圧倒的多数で草案を可決した。つづいて、全国委員長から「「四一五月において、日数組を中心とする労働者階級とともに中教審答申粉砕一新大管法阻止一大学の民主的改革闘争勝利の統一行動を勝ち取り、政府独占の反動的大学再編成を粉砕しよう」の決意表明が力強くなされた。
 インターナショナル斉唱後、明日からの闘いの決意は固く二十三日午後散会した。

【同盟五年の歩み】日韓・ベ反戦闘争の昂揚の中で

9 第二期(65~67年)の特徴
 第四回全国化大会(65・3月)で全国組織化への基礎をすえた同盟は、学生戦線分断の一層の深化の中で、熾烈化する大衆闘争の鉄火によって自らをきたえつつ組織建設を推進する第二期に突入した。四大会から八大会(67・9月)に至るこの第二期は、60年安保闘争以降今日に至る日本学生戦線の歴史においても第二期を構成するものであった。
 安保以後学生運動は、日帝の侵略約帝国主義としての本格的登場を告げる日韓条約成立(65・12月)とベトナムでの米帝の後退の中で諸矛盾を深めつつもアジア反共戦線の盟主として70年への本格約胎動を開始する67年後半とによって三つの時期に区分される。第一期(60~64年)は、60・61年の分裂と低迷を序曲とし、その中で伝統を継承し続けた関西学生運動を突破口として、大管法闘争の全国化-運動の全国約再生が展開される時期であり、それを基礎として戦線統一への胎動が、わが同盟の指導する関西学生運動を中心として高まりつつあった。だが、統一への胎動は、セクト的分裂主義の嫡子たる民青「全学連」結成(64・12月)とトロツキー主義者諸集団による全員加盟制自治会運動の否定=潮流間運動の本格的展開とによって、早熟的に挫折せしめられる。この第一期は、わが同盟の直接の前史と形成期でもある。

 第二期は、先行期の運動の昂揚を一方では持続しながらも、他方では学生戦線の分裂が民青「全学連」結成と三派「全学連」結成(66・12月)に象徴される如く、内的に深化し、この二重の意味で第三期への過渡期をなしている。運動の昂揚は、激動する内外情勢下で侵略的帝国主義国として産業再編成と政治的上部構造の反動的再編に狂奔する日常の諸矛盾深化の必然的帰結であった。にもかかわらず、それと対立する戦線分裂の深化は、マル同中核派、社学同、社青同解放派の野合集団=三派「全学連」結成によって、全員加盟制自治会を軸とする「層としての学生運動」の公式の否定が行なわれるまでに至った。第二期学生運動を特徴づけるかかる矛盾に充ちた性格は、安保以後の分裂の根深さと悲劇性の表現であった。わが同盟も、後に述べる如く、苦闘を余儀なくされ、前進と後退の困難な過程を闘わねばならなかった。
 第三期(67年後半~)、この過渡期の継承であり、同時に、それを止揚する方向性を萌芽的にではあれ明示している。(次号)

10、第二期の運動の概観と同盟の闘い
 第二期学生戦線の闘いは、ベトナム・日韓闘争で開始された。65年2月以降の北爆の全面開始に直面したわれわれは、労働者の反戦闘争と連帯しつつ敏速に反撃を開始した。このベトナム反戦闘争は、単なるベトナム人民支援あるいは連帯闘争に留まるものではなく、日韓条約強行を準備し米帝のべトナム侵略の支柱たらんとする日本帝国主義支配層への闘いたる性格を持っていた。5・20闘争を大阪府学連二千の学友を軸として各地で闘った同盟は、6・4全関西学生総決起集会(五千於京都)6・24府学連統一行動(千五百)等、全国に先きがけて、大衆的反撃を展開した。
 これらの諸闘争を自治会を基盤とする層としての学生運動の大衆的展開で闘う中で、大阪市大中執選挙(65・5月)で、62年以来三年ぶりに社学同派を粉砕して自治会ヘゲモニーを回復するに至ったのである。大阪市大選挙の勝利は、同盟の政治的立場の正しさと三年にわたる少数派活動に耐えぬいた支部同盟員の不屈の献身と政治的実践の帰結であったが、当時、市大が京大と並ぶ社学同派の拠点であり、そこでの勝利が京大での彼らの敗退と関西社学同の凋落の直接の序曲となったことを思えば、その意義は大きかった。
 同年秋、最終局面を迎えた日韓闘争--とりわけ10・11月の連続闘争をも同盟は幾多の困難な条件をかかえながらも闘いぬいた。
 民青「全学連」が、諸要求主義=右翼日和見主義と組織路線としての分裂主義を全面的に露呈し、政治闘争から退場しつつあった中で、全国学生戦線は困難な闘争を余儀なくされたが、同盟は10・29闘争での大阪市大支部同盟員3名の逮捕をも跳ね返し、11・11、11・13へと至る連続闘争を闘いぬいた。
 この間、同盟は、急速に拡大する組織に即応しきれない指導体制の欠陥に若干の全国委員の個人的な活動条件の悪化も加わって、統一指導体制の危機に見舞われ、10・11月段階にその欠陥を露呈した。だが、大衆の中に定着した各支部の強固な生命力は、この熾烈な闘いの中でその欠陥を補い、同盟は全体として、第五回大会(総括大会、65・12月)第六回大会(方針大会、66・3月)で強固な闘う全国委員会の選出によってその危機を回避し来るペき闘争に備えた。
 二度にわたる大阪駅構内集会を含む国鉄運賃闘争(65・12月-66・2月)バエーズを迎えての1.19全大阪反戦集会(三千名)を中間闘争とし、再びベトナム反戦闘争に接続する66年の闘いは、日韓条約以降とりわけ急速に侵略加担を強めた佐藤内閣との対決の必要性強めていた。かかる状況下で、同盟は、米帝のベトナム侵略の最大の支柱たる日帝に対決するする闘いこそがベトナム反戦闘争の勝利と中立日本への展望を切り拓くものであるとして政治宣伝を強め、66・4月確立された同盟東京都委員会を指導して、首都ー関西を結ぶ5・6月闘争を果敢に闘い抜き、7・6ラスク国務長官来日阻止闘争(於京都、千五百名)を官憲の弾圧の中で展開した。この66年春季闘争の成果は、10・21闘争での労働者階級と連帯した巨大なデモンストレーションへと結実した。
 第七回全国大会(67・3月)を経た同盟は、ベトナム反戦闘争の質的前進をめざして、砂川闘争への現地派遣をも含む闘いを、6・9全関西集会、6・20労学集会を軸に闘いぬいた。だが、この間同盟内部に意見の相違も発生し、第八回大会(67・9月)において顕在化した。次号で述べるごとく、この意見の相違を、最終的に克服k・統一しえなかったことは、主体的条件の不十分さに規定された当時の同盟の限界であった。
 なおこの間、68・69年に至って全国的に激発する学園統一の萌芽が、慶応闘争・早大闘争として個別学園闘争の枠内ではあれ激烈化していたことも注視されねばならない。

11、三派「全学連」と運動の変質

 かかる諸闘争の持続的展開を支えた力は、学生大衆の即自的な闘争エネルギーであった。この自然発生的な闘争力量を真に止揚するためにこそ戦線の統一が要請されていたが、長期化した分裂の過程でセクト主義の汚物にまみれた民青・トロツキー主義派は、統一のための困難ではあるが必要な持続的努力に絶望し、党派別運動化の方向への突き進んだ。
 既に60・61年以降内部ゲバルトを続発させ自治会私物化を行なってきたトロ系諸派は、わが同盟を中心心とする反撃の前にその策動を封じられていたが、その後、原潜日韓共闘(前号参照)の私物化をはかり、その過程でそれを解体し、遂に66年12月三派「全学連」結成に踏み切った。それまで「全学連」再建デッチ上げの策動を繰り返しながらもそれをなしえなかった彼らは、派閥野合集団の「全学連」化をはかることによって新たな組織路線に突き進み、統一全学連運動に明確に敵対するに至ったのである。
 三派「全学連」は、その野合集団の性格のために、早くも67年末には機能を停止し翌年解体するに至るが、この組織路線こそは「ポツダム自治会の限界性の止揚」あるいは「闘う者の連帯」の名に隠れて現在推進されている、いかなる公的組織の決定にも拘束されない「全共闘運動」への決定的一歩であった。それは、層としての学生運動の名実共の破壊であり、全学連に代表される戦後学生運動の戦闘的伝統の変質を告げるものであった。民青・トロ系諸派の単一全学連の否定は、現段階にも継承され、戦線の統一と前進を一層困難にしているが、それを止揚する道が「層としての学生運動」の大衆的展開以外にないことはいうまでもない。(S・F)

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