【書評】『紅蓮の街(ぐれんのまち)』
──フィスク・ブレット(現代思潮新社、2015年、1600円+税)
本書は、アメリカ人作家の日本語による小説である。内容は四部に分かれ、テーマは東京大空襲である。第一部は、主人公、ピアノ教師の永田昌子と両親(俊幸とキク)の東京大空襲までの戦時下での日常生活(防空壕、防火水槽、灯火管制、度重なる空襲、配給の滞り等)が描かれる。第二部は、大空襲当日絶体絶命の危機に置かれた主人公たちの逃げまどう様子(母のキクは命を落とす)と一夜明けた東京の凄惨なまでの現実が、第三部は、戦前子供の頃に短期間日本に滞在し、戦後の日本を確かめたかったもう一人の主人公、従軍牧師のジョゼフ・ワーカーが昌子とともに空襲の記録を調査し、空襲の悲惨さが確認される経過が、そして第四部は、両者の視点のすれ違いと対立で深刻な課題が明るみに出される、という構成である。
小説だけに話の筋道は本書を辿っていただくとして、ここでは本書の中心テーマを成しているが、これまで余り触れられたことがなかった二三の描写を指摘する。
第二部での大空襲の後、死体の山を見て何とか片付けを行おうとした父親の俊幸が出くわした光景である。
「(菊川国民)学校に入ってみると、何人もの死体が折り重なっていた。きっと一度校舎に入ったものの、身動きが取れなくなり、大勢の避難者がとって返して入り口へと殺到したに違いない。しかし、外からの熱気に襲われると、そこで全員が窒息して死んでしまったようだ。(略)
校門や玄関からすべての死体を運び出すと、次は校内だった。/この時、誰もが言葉を失った。廊下で男たちを待っていたのは死体の山ではなく、誰もが想像できない光景であった。/入り口から入って最初の角を曲がると、長い廊下が続くのに、不思議なことに、形を為しているような死体は一体も発見されなかった。その代わり、床を見ると、まるで吹雪が起きたかと思われるほどの粉が学校の中に積もっていた。場所によっては膝までくるこの粉は、すべて灰であった。よく見ると、所々には骨が突き出ている箇所もあり、下には細かい骨などが沈んでいた。/コンクリートでできた学校の壁は直接の炎を防ぎながらも、熱を防ぐことができなく、その熱を保つ効果まであったようだ。つまり、菊川国民学校は巨大な火葬炉と化したのだった。/「これ・・・シャベルがなければ、何もできない・・・」と一人の男性がつぶやくと、永田たちも灰を見ながら静かに頷いた」。
悲惨な地獄絵図であるが、シャベルによってすくわれる他ない灰となった人々である。
ところがその少し後のある日のこと、昌子は、爆撃の被害者と加害者が入れ替わる場面に出くわす。彼女が上野公園に行くと、爆撃を受けていない動物園が開園していた。そこにいた熊やライオンが毒殺され、象は餓死させられていたことは知っていた。
「幸い、象舎の先に見えるサル山の前には数十人の人が群がっていた(略)。/昌子は多勢の人がいる場所をめがけて進んでいった。ところが、やっと堀までたどり着いてサル山の方に目をやると、昌子は立ちすくみ、小さな悲鳴まで上げた。/サルも当然いたが、皆が見ていたのはサルではない。裸の男がサル山の石に座り、背を向けていたのだ。男は金髪だった。目を背けた昌子は体中に電流が走ったような衝撃を受けた。(アメリカ人捕虜だ・・・。きっとB29のパイロットだわ)/(略)およそ十メートルも離れていたが、男は非常に不健康そうだった。いくつもの方角から眺めている群衆から陰部を隠すため、男は何度も姿勢や位置を変えていた。/(略)何度か昌子の方に頭を向ける米兵の目から、彼が感じている恐怖や恥ずかしさ、飢えや痛みが一瞬に伝わった」。
この昌子の感覚は今でこそまともな感覚であるが、しかし当時空襲によって肉親を失い、鬼畜米英を叩き込まれてきた人々にはどうであったのか。今更ながら問われるところである。
第三部では来日したジョゼフが、空襲で多くの人たちが逃げ込んで国民学校と同じように灰と化してしまった明治座の焼け跡を訪ね、千葉県の佐原で墜落した米軍機が埋められてしまった場所を見出すなどの話が出る。しかしここでは空襲についてジョゼフは、「地上での悲劇」「空中での悲劇」という矛盾した両方の側面を知る必要を感じる。それは、対ドイツ戦とその後のテニアン島での経験から起こった。
「〈焼き払われた面積〉、〈投下爆弾トン数〉・・・。それぞれの空襲の任務報告や搭乗員たちの日々の会話では、そんな話題ばかりがだんだん強調されるようになった。それは仕方がないことであるとジョゼフはわかっていた。搭乗員たちが地上の人間のことを考えていたら任務が果たせなくなる。/だが、空襲の倫理について考えるのであれば、受ける側の苦しみなども念頭に置かなければならないだろう」。
このように感じつつジョゼフは、ヨーロッパでの対戦の記憶も思い浮かべる。
「空軍が対ドイツ戦で使っていたのはB29ではなく、主にB17という爆撃機だった。B29より一回り小さく、機能的にも劣っていた。与圧機室もなければ、暖房装置もなかった。したがって、マイナス四十度という高高度の世界では、搭乗員たちにとって恐ろしいのは敵軍よりも凍傷だった。つまり、どんなに寒くても、戦っている間は人間は必ず汗をかき、小便を漏らす。飛行服を着たままでそんな水分は凍ってしまうわけだから、ほとんどすべての搭乗員は凍傷で苦しんだ。(略)/ジョゼフの計算では、B29部隊の戦死率は二パーセント弱で、最終的には数千人に上ったはずだ。しかし、ドイツと戦ったB17部隊の戦死率は比べ物にならない七十七パーセントだった。(死者数、三万人だ・・・)イギリス空軍の死者数五万人と合わせれば、日本とドイツの上空で殺された連合軍航空兵の人数はおよそ八万人に達するのだ」。
この連合軍という視点からの叙述は、太平洋戦争(主として対米戦争)という言い方に慣らされてしまったわれわれには馴染みにくい。しかし戦争が第二次「世界大戦」であったという当然の事実すら彼方に行きかねない現在の日本にとって、戦争を再検討するための手がかり一つのとなるであろう。
第四部では、まさしくそのすれ違いが現れる。ジョゼフがパール・ハーバーや重慶爆撃や日本軍の残虐行為や本土決戦の恐れ等について語り、一刻も早く侵略戦争を終結させるために止むを得ない空襲だったと結論づける。しかし昌子は反論する。
「(略)あそこ。あの学校が見えます?あの中で、私の父が死者の灰を何日もかけてシャベルで片付けました」。(略)/ジョゼフは静かに頷いた。「空襲が恐ろしかったことはわかりますよ、昌子。私にとっても悲しいことです」。
昌子はジョゼフの顔をまっすぐ見て訴えた。「だったら、覚えていてほしいのよ。それだけです。一人でもいいから、ここに何があったのかは、アメリカ人にもわかってほしいですわ。日本人がこの町に何があったかを忘れてしまうかもしれないと思うと、私は悲しくて仕方がありません。ですけど、アメリカ人に忘れられるかと思うと、悲しいどころか、たまらなく怖いんです。しかも、私がそう思うのは、あなたたちにとって空爆は〈正しい戦争〉だったからこそです!」
このすれ違いによって結局二人は別れることになるが、昌子にとっての「真の意味での〈追悼〉」が問われ続ける。戦争、空襲の評価について加害者/被害者のそれぞれに論理があり、決着のつかないまま、被害者の論理が主流となっている今日の日本で、アメリカ人作家によって空襲の歴史小説が書かれ、これからの論議に新たな局面を開いたことを評価したい。なお著者には前作として、ルソン島での日本軍兵士と通訳を強いられた現地の混血青年を主人公にした『潮汐(ちょうせき)の間』(前掲同社、2011年)という作品もあることを付記しておこう。(R)
【出典】 アサート No.462 2016年5月28日