【投稿】戦争立法反対の強大な広がり 統一戦線論(16)
<<闘いの新しい質的な飛躍と広がり>>
安倍内閣の戦争法案の採決が無理やり強行突破されたが、これは安倍政権、自民・公明両党にとって致命的・歴史的な汚点となるであろう。
「法案が成立すれば、理解される」どころか、戦争法案反対の闘いはどんどんと裾野を広げ、あらゆる世代の人々がこの運動に参加し、大都市圏ばかりか地方においてもこれまでにない闘いが展開され、統一行動が前進している。
とりわけ若い世代が自主的、主体的に運動の前面に躍り出てきており、高校生が独自にデモを主催し、5000人も結集する(8/2、東京)ほどであり、関西でも、9/13の若者を中心とした青年11グループの呼びかけた「戦争法案に反対する関西大行動」は2万人を結集して、御堂筋デモを敢行している。長い間、学生の非政治化・運動からの逃避傾向が指摘されてきたが、これほどの若い世代の決起は、60年安保闘争以来の事態である。
5月3日に結成された「自由と民主主義のための学生緊急行動(SEALDs)」は、またたくまに何万人もの学生を結集し、国会前の抗議活動や包囲行動のの最前線に立ち、しかもこれまでの闘いを進めてきた諸団体との共同、統一行動の仲立ちを実現し、戦争法案反対の野党の全勢力・議員との共闘関係をも構築している。
国会前ばかりか、宮城でSEALDsTOHOKU、京都でSEALDsKANSAI、沖縄でSEALDs RYUKYU など、SEALDsの呼びかけで、北海道や宮城、愛知、京都、福岡、そして沖縄など、8/23には全国64ヶ所で安保法制に反対するデモや集会を組織している。
さらにSEALDsは、1万2千人を超える学者たちが賛同する「安保関連法案に反対する学者の会」と共同して国会前に集結し、デモ行進や抗議行動を成功させている。
9/15、参院特別委の中央公聴会に出席したSEALDsの組織者の一人、奥田愛基さんが現役の学生として国会に公述人として呼ばれたこと自体がすでに異例であり、そこで彼があえて「強調しておきたいことがあります」として、「私たち政治的無関心といわれてきた若い世代が動き始めているということです」「この国の民主主義のあり方について、この国の未来について、主体的に一人一人、個人として考え、立ち上がっていったものです」と述べ、「法案が強行採決されたら、全国各地でこれまで以上に声が上がり、連日、国会前は人であふれ返るでしょう」「次の選挙にも、もちろん影響を与えるでしょう」「私たちは政治家の方の発言や態度を忘れません。3連休を挟めば忘れるだなんて、国民をバカにしないでください」と強調した。まさに誰もが無視し得ない、戦争立法反対の闘いの新しい質的な飛躍と広がりを象徴したものと言えよう。
こうした事態に刺激を受け、連帯する闘いが、各界各層で続々と立ち上がっている。高校生が立ち上げた「T-ns Sowl」、働き盛り世代の弁護士や学者、報道関係者などによるMIDDLEs、「戦争法案に反対し、老人パワーを最大限発揮してその成立を阻止することを目的とする」OLDs、東京都内の現役教職員らでつくる「TOLDs」、海外からもOVERSEAsが立ち上がっている。
とりわけ注目されるのは、「国会ヒューマンチェーン 女の平和」や「レッドアクション」、「安保法制に反対するママの会」など女性独自の行動の広がりと活発化である。
筆者も参加した「安保法制反対の8・30国民大運動」の大阪の集会では、2万5千人の人々が久方ぶりに扇町公園を埋めつくし、創価学会員の壇上からの痛切な訴えは、圧倒的な歓呼と連帯の声で迎えられた。運動の質的な飛躍と拡大が進行している。
<<フラットで連携・連帯>>
もちろんこうした事態は、SEALDs単独では成し遂げられなかったであろう。安倍政権のやりたい放題、暴走をストップさせるさまざまな闘いが先行していたが、90年代以降、こうした闘いを組織する諸団体・組織間の持続的共闘は形成されなかった。せいぜいが「一日共闘」で、多少の違いがあっても「なぜ共闘出来ないのか」という腹立たしい思いが多くの人々に鬱積していたのが現実であった。
そうした現実を克服しようと、ようやく、三つの実行委員会の共同というかたちで新たな共闘が成立(「解釈で憲法9条を壊すな!実行委員会」、「戦争する国づくりストップ!憲法を守り・生かす共同センター」、「戦争をさせない1000人委員会」の共同による「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」の結成)したのが、2014/12であった。これについて「総がかり行動実行委員会」は「これまで私たちの運動がなかなか超えられなかった考え方の違いや運動の経過などから派生した相違点を乗り越え、戦争する国づくりを食い止め、日本国憲法の理念を実現するために共同行動するものであり、、画期的な試みです。」とその意義を述べている。以降、「総がかり」は、共同行動と統一戦線の中心的な担い手としてようやく力を発揮しだし、12万人が国会周辺を埋め尽くした安保法制反対の8・30国民大運動をSEALDsと共同で組織するにいたっている。持続的共闘体勢の形成は、60年安保闘争時の「安保改定阻止国民会議」以来のことである。
三つの団体は、会議の議長も一回ごとに変え、シュプレヒコールも行動提起をする人も、一回ごとに順番を変え、中心が一つにならないよう、片寄らないように配慮を積み重ねている。主導権を奪い合うのではなく、多様性を尊重し、「オール沖縄」の闘いに学ぶ姿勢である。
SEALDsの中心メンバーの牛田悦正さんも「SEALDsのデモ参加者から(“支部”設立の)申し出があれば、『それじゃ、お願いします』と言って出来ます。東京のSEALDsが本部のような機能を持ってはいますが、他よりも偉いわけではなく、フラットで連携する関係です。なおSEALDs自体にも代表者はいなくて、奥田愛基さんを含め15人くらいの中心メンバーがみんな『副代表』で、話し合って方針を決めます。緩やかな連帯が特徴で、だから広がっていったのかなと思います」と語っている。SEALDsの奥田愛基さんは「金曜日の国会前抗議では、毎週メンバーがスピーチをしていますがその原稿はみんなで読み合わせをしているんです。それは事実関係やつまらない部分で揚げ足を取られないようにするためです。」とも語っている。
そこに見られるのは、多様な集団・組織・グループが自由で対等な連合を形成し、それぞれの団体、個人の主体性を尊重しながら、しかも非暴力を堅持した規律ある統一行動をとっていることである。暴力を否定し、ヘルメットや覆面マスク、もちろんゲバ棒など無用であり、持ち込まないことが前提であり、原則である。
<<平面主義と球面主義>>
青土社の『現代思想』2015年10月臨時増刊号「安保法案を問う」の中で、最首悟さんが、平面主義と球面主義という視点を提起されている。平面主義は、神・天の下の平等で、平面の高みに中心があり、そこから与えられる。支配が根本で、恒常的リーダーを常に必要とする。それに対して球面主義は、人間同士の平等であって、球面には中心がなく、至るところが中心であり、お互いが中心であり、対等である。
これは、民主主義のあり方を問う鋭い視点だといえよう。この視点をさらに敷衍するならば、平面主義には高みにある中心的権力あるいは指導部、それを補強する中央集権的ヒエラルキーが派生するか、または不可欠となる。その指導部がいかにすばらしくても、基本的には請け負い主義であり、指導-被指導は一方通行である。その体制に参加する個々の人々にとっては、受け身の「おまかせ民主主義」であり、あくまでも指導され、「動員」される側である。上部が下部から学ぶ回路がない。当然、指導部は美化され、下からのチェック・監視が機能しないために、「天上天下、ただ我れ独り尊し」の唯我独尊に陥りやすい。「われわれだけが一貫して正しかった、いまも唯一正しい」という宗派主義・セクト主義に陥りやすい。うまくいかなければ、別の英雄待望論となる。
球面主義では、組織の通達や指令、動員ではなく、一人ひとりの個人が主体となって行動する。意見の相違や批判が生じれば、球面主義では、敬意と配慮と遠慮、あるいは妥協が常に付きまとい、互いに学びあい、意見の一致点を確認し、さらにより高い次元の合意も可能だが、平面主義では妥協し、学びあう前に排除と抑圧、抹殺の論理が先行し、言葉の暴力が横行し、果ては殺人をも含めた現実の暴力が正当化される。
民主主義の徹底こそが社会変革の核心であるとすれば、その社会や組織の球面主義的な民主主義のあり方、その具体的なありようが問われているといえよう。何よりも、統一戦線の拡大・強化にとっては、フラットな連携・連帯こそが決定的であることを、現実の運動が示しているといえよう。
<<沖縄の闘いから学ぶ>>
「オール沖縄」が示したことは、あしざまに言われることの多い「小選挙区制」ではあるが、それがもたらした反与党の統一候補の必要性と必然性が、きわめて大きいといえよう。直面する最も重要な課題で団結して闘う、そうしなければあらゆる政党も組織も運動も見放されてしまう。そうした事態を前にして、わが党、わが組織、わが運動こそが一貫して正しい、したがって全小選挙区に独自候補を擁立するといった手前勝手なセクト主義や囲い込み運動では支持を得られない。分裂していては敗北するだけという危機を前にして、統一候補を擁立する、それを可能にするような統一戦線の形成に結びついたということでもある。
もう一つ沖縄の闘いの重視すべき、そして継承すべきなのは、非暴力の闘いの伝統とその原則の徹底である。
阿波根昌鴻著『米軍と農民――沖縄県伊江島』、『命こそ宝―沖縄反戦の心』(いずれも岩波新書)で詳細に述べられているが、言葉の暴力を含めて、怒声を張り上げず、嘘も言わず、侮蔑もせず、興奮して立ち上がらず、耳より上に手を振り上げず、静かに話し、無益な挑発はせず、冷静に対処する、道理を確信し、逸脱を戒め、普段にこうした原則を確認する、という非暴力の闘いの原則である。その沖縄・伊江島の非暴力の闘いの原則のすばらしさ、粘り強い不屈の闘いの伝統は、辺野古の新基地建設反対の闘いにおいても、東村のヘリパッド建設反対の闘いにおいても脈々と受け継がれている。(写真は座り込み現場のガイドラインで、コトバの暴力を含めた非暴力が冒頭に掲げられている。)
こうした言葉の暴力は、より根底的、本質的に言えば、共に闘うどころか、共に在ることさえ拒否し、排除する思想、個人としての人格を否定し、言葉を凶器に変え、差別とヘイトクライムに通底する思想だと言えよう。それはまた、ナチズムのユダヤ人・障害者撲滅、優生思想、スターリン主義の「帝国主義の手先論」・社会民主主義主要打撃論、昨日の同志が意見の相違によって突如「反共・反党分子」となる論理、暴力と殺人を合理化するかつての「新左翼」諸派の内ゲバの論理とも重なり合う。こうした暴力を肯定する醜悪なセクト主義の論理は、もはや過去の遺物ではあるが、運動の局面転換時にはいまだにしぶとく生き続け、別の形で再生産される可能性が存在している。
嫌韓・嫌中論を闊歩させ、国賊論まで醸成させる安倍政権のもとで、その言葉の暴力に、対抗する側が同調し、はまり込んではならないし、多様性を排除し、言葉の暴力が許容されたり、鈍感であるような場や組織、社会に共生や協働、人間的連帯などありえないといえよう。
このような非暴力闘争の原則はより広範で力強い統一戦線形成において不可欠であるばかりか、あらゆる人間関係にも適用されてしかるべきものでもある。えてして心ならずも感情が先立ちつことがあるが、コトバの暴力が先行してしまっては、共に成功させるべきことをぶち壊してしまう。共同の闘いを前進させ、より大きく拡大させるためには、こうした非暴力の闘いの原則が定着し、生かされることが望まれる。(生駒 敬)
【出典】 アサート No.454 2015年9月26日