【追悼】市ちゃんと親しまれた偉大な先輩

【追悼】市ちゃんと親しまれた偉大な先輩
                     秋田三翁

 四十余年も前のことになる。一九六二年参議院選挙に、日本共産党は党中央幹部で労働組合対策部長の鈴木市蔵さんを全国区に、新人の東中光雄弁護士を大阪地方区にを立てペアで闘った。ペエペエの平党員であった私は、地方候補の選挙秘書を命ぜられ、候補者と共に慣れない選挙で大阪中を飛び回っていた。
 マッカーサー占領軍の軍政下、戦後初めての全国ゼネストの指導者として、伝説の人と思っていた鈴木さんを間近に見たのは、それが最初であった。
 関西弁でもない、鈴木さんの歯切れのいい雄弁は、志賀義雄さんの支持者はじめ関西人の心をつかみ、多くのファンが生まれた。労働者と現場で語り合い説得された話術は、解かり易く「市ちゃん、市ちゃん」と親しまれた。いつか、部落解放同盟の西成区の集まりで、元気なオバサン達が「市ちゃんの話はシビレる」と話し合う声を聞いたことがあった。参議院議員の鈴木さんが誕生した。
 それから二年後、志賀義雄、鈴木市蔵、両議員は、一九六四年の4・17ゼネストの共産党のスト破りに反対。部分的核実験停止条約に対する共産党の方針を批判して賛成投票し、党から除名される。
 やがて、神山茂夫さん、作家の中野重治さんなども参加した〝日本のこえ〟が結成された。
 「この獄中十八年の闘士」志賀義雄、「2・1ストの指導者」鈴木市蔵という偉大な指導者の決起を無駄にしてはいけないと血気盛んな故八木茂などの説得に応じ、小坂貢、故高橋禄朗、両先輩と共に、職場も捨て、家庭を犠牲にし、私たちは、〝日本のこえ〟の大阪指導部の常任生活に入ることになる。松本健男弁護士をはじめ、部落解放同盟の有志、民主主義学生同盟の有志たちが隊列に加わった。それでも、府党の党員数の1%にも満たない少数の決起だった。
 爾来、幾星霜、まさか、この平和労働運動の二人の指導者に、わが生涯の歩みを共にするとは夢にも思わなかった出会いだったのである。
 故八木茂を評して「彼は任侠コミニストだよ」と言われたのは、鈴木さんだった。確かに、熱血児というべきか、巧みな文章をあやつり、会議では、関西弁で国際連帯を語り東大、京大、阪大出の理論家たちと、ド迫力で渡り合う彼を半分冷やかしを含めて評されたのは、言い得て妙、鈴木さんならではの命名であった。
 「国鉄一家」という言葉があった。鈴木さんは、共産党の中央の大幹部というより、全国鉄労働組合員六十一万余の代表として、物申すという風格が感じられた。
 ある時、鈴木さんのずっと後輩で、北海道国鉄出身のK衆議院議員とある会合で同席したことがある。丁度、私鉄ストで電車が停まるかもと騒いでいた。テレビを横目に見たK氏は、「枝・葉が動いていますな…」と言い放ったものである。
 そういえば、北海道から青森、東京、大阪、下関、鹿児島まで、日本列島を貫く大動脈と、その支線、全て国鉄労働者が動かしているのだ。決して、闘士型でもない地方出のK氏の一言に、国労出身者の自負を強く感じたものである。
 鈴木さんは、そんな言い方をする人ではなかったが、アメリカ占領下での2・1ストを指導し六四年の4・17ゼネストのとき共産党中央のスト破りに、除名を覚悟で、反対された姿には、全国の労働運動を俯瞰した背骨があったのではなかろうか…。
 かつて、国鉄総裁を経て首相になった共産党嫌いの佐藤栄作が、鈴木さんの国会質問には、ややトーンが下がり、答弁したと聞いたことがある。また、共産党路線と平和運動はじめ対立していた、総評の事務局長であった、岩井章氏が、鈴木さんの銘友として深い信頼と交流が続いていたのは、いづれも鈴木さんの人柄によるものであろうが、国鉄の出身者であることが、その繋がりの基であったような気がしてならない。
 〝日本のこえ〟に参加した、大阪の残党ともいえる我々の有志で発行してきた〝大阪のこえ〟十六号に最後とも言える寄稿を頂いたのは、およそ三年前の事である。病床からの短い文章であった。ヨーロッパ諸国、中国、ロシアの政治動向に触れ、アメリカの独善的な政策が孤立を生み、自民党の子分よろしき振舞いが、日本政治の孤立化どころか、世界から「敵意」を持って見られるだろうと危惧されていた。今の小泉外交のアジアからの行き詰まり、孤立を鋭く予見されたものであった。
 終生、働くものの生活と平和のために生き抜かれた鈴木市蔵さんの生涯は、省みて病身になったり、古希を過ぎて、つい萎えがちな平凡な我が心を、いつも砥いで頂く大きな存在だった。
 心から感謝の気持ちとご冥福を祈って…      合掌。

 【出典】 アサート No.339 2006年2月25日

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