【資料】大阪市立大学学生運動史(1960年以降)

【資料】 大阪市立大学学生運動史(1960年以降)

以下の文章は、2011年2月に発行された「大阪市立大学の歴史」(大阪市立大学・大学史資料室編集 大阪市立大学発行)から、市大学生運動の経過に係る文章(P105以降)を転載したものである。同書は、これが初版であり、幾冊かの改定本が出来ているが、いずれも非売品となっている。
現在最新版が電子ブックとして公開されている。(大阪市大の歴史電子ブック)参照されたい。

3 混沌とする学内事情

大学紛争とは何か

大阪市立大学の歴史(2011年2月発行)

大阪市立大学の歴史(2011年2月発行)

1968(昭和43)年から69(昭和44)年にかけて、日本大学、東京大学における「全共闘」 運動が世間の耳目を集めたが、 本学にも例外なくその嵐が吹き荒れた。 「帝国主義体制を維持・ 強化するイデオロギー的・ 物質的拠点として大学を編成しようとする」「帝国主義大学政策」に反対するとして運動を展開したのである。
全共闘運動は、入るも自由、出るも自由の、ゆるやかな運動体として登場した。 そうした運動体をリードしようとするものはたえず、より「左翼的」な方針を打ち出し、過激な方向へ扇動した。

 また、バリケードの向こう側の権力側の打倒だけではなく、自分たち学生も卒業後には 「帝国主義体制」 を担う存在であるという観点から、 自分たち自身の「自已否定」、次いで「自己解体」へと突き進んだ。

大学紛争前の大阪市立大学

 本学の学生運動の動向はどのように推移したのだろうか。 1960年代前半からみていこう 。
 1962 (昭和37)年には大学管理法案反対運動が盛り上がった。 1962 (昭和37)年6月、 新聞に報道された大学管理法案に関する中央教育審議会答申原案によると、 ①大学の管理運営の執行責任者を学長とし、 学部の責任者を学部長とする、評議会は全学の、 教授会が学部の重要事項審議機関とする、 教授会の構成は原則として教授のみとする、②教員選考の責任者としての学長と、 任命責任者としての文相の権限を明確にする、 大学側の選んだ学長・ 学部長・ 教員の候補者を文相が不適当と認めた場合は、 新しく設置される中央機関に諮って再選考を求める、などを骨子とするものだった。 この案に対して、 9月、国立大学協会総会は反対の意向を明らかにした原案を採択した。 即ち、 大学の管理運営は、大学自らの責任と自覚にもとづく自主的措置によって図られるのが大学自治の本旨であり、画一的な法制化だとして反対した。
 当時、本学は公立大学協会の会長校であり、国大協案に原則的に賛成の立場をとった。 各学部、経済研究所の教授会も反対声明を発表し、個人レベルでも教職員有志が集会等で反対の意思表明を行った。 学生側は全学自治会においてストの賛否を問う全学投票を実施し、スト決行の決定を行った(3分の 1以上の1233名の投票で、 過半数以上の1036名賛成) 。 全国各地では 1万人以上のストが行われていた。 結局、 大学管理法案は国会に上程されなかった。
また、 1967 (昭和42)年10月の羽田事件に関連して、 大阪市会自民党議員団が本学のあり方を問題視した際にも教職員、 学生は一致して対応した。 羽田事件とは、羽田空港において、佐藤首相の南ベトナムを含む第2次東南アジア・ 太平洋諸国訪問の出発を阻止しようとする学生と機動隊の衝突事件のことである 。当時の文相が、 羽田事件を契機として、 全国の国公私立大学の学長を招集し、懇談会を開催しようとしたところ、本学の渡瀬学長は出席しなかった。 これに対して、 11月末の大阪市会決算委員会において自民党議員はこの件を取り上げ、また大阪市会自民党議員団総会で 「市立大学の偏向教育調査特別委員会」 の設置を決めた。 「アカの教育をする大学に大阪市が助成することは筋が通らぬ。 徹底的に調査したうえ、 左翼偏向が改められないときは同党議員団が結束して来年度の同大学関係予算をいっさい認めない」ことを申し合わせたのである。 しかしこの件が新聞紙上で報道されるや、 学間の自由、 大学の自治を侵害するものとして世論の批判が噴出した。 本学でも、教職員、学生から反対の声が巻き起こった。 そのため、自民党市議団は、直後の幹事会において、研究特別委員会は発足させるが(文教研究委員会として発足)、 学問の自由、 大学の自治を侵害するような思想調査は行わないこととした。
 大阪市立大学の教職員、 学生は不当な干渉には一致して行動した。

全学統一自治会はなぜ結成されたのか、 結成後どのように推移したのか

 1960 (昭和35)年の日米安保条約改定時の安保闘争から前述した運動に至る流れのなかで、 1962 (昭和37)年 6月大阪市立大学では全学自治会が結成された。大阪市立大学には、 全学的な学生組織として全学学生協議会(以下、 全学協と略す)が存在していた。 しかし、全学協はもともと大学祭などの全学的行事を行うために、 各学部自治会代表の連絡協議会として発足したものだった。 そのため、全学協は執行権をもたず、その決議は全会一致を条件としていた。 そこで、全学協はそのもとに合同執行委員会あるいは全学闘争委員会を設置して執行権を行使した。 とはいえ、 1960 (昭和35)年の安保闘争の過程で、 学生側は全学協と各学部自治会が同時に執行権を有するという組織的二重性を解消して、 一元的な執行権を有する全学統一自治会の必要を感じた。 こう して大阪市立大学に全学自治会が結成された 。

 しかし、 ようやく結成された全学自治会では、 特に中央執行委員選挙においてセクト系グループ間で激しい主導権争いが行われた。 社会主義学生同盟(以下、社学同と略す)系、 構造改革派に属する民主主義学生同盟(以下、 民学同と略す)系が多数を占める有力グループで、 そこに民青(日本民主青年同盟)系が加わって主導権争いを演じた。

 この当時、 全国的には60年安保時の旧全学連が分裂し、 革共同全国委員会が有力グループとして現れたが、 同派も分裂して、 革マル派と中核派に分かれていた。 中核派は社学同、社青同解放派とともに「三派全学連」を形成していたが、 大阪市立大学の全学自治会は、 執行部に構革派系の勢力が強まったため、「三派系」とも「革マル系」とも異なる独自の位置を占めた。

一般学生の対応

 1960年代半ばに、『大阪市大新聞』は本学学生の意識調査を行った(完全無作為抽出、回答用紙発送400人、回答者256通、回答率64%)。 その質間項目の1つに、 「デモに参加したことがありますか」 (回答者数248)があった。 その回答は、「一度もない」53.2%、「ときどき参加」 42.7%、「よく参加」 4.1%となっていた。現在からすれば、回答者の半分近くが「ときどき参加」「よく参加」と答えているのは驚きだが、 安保闘争の後に行った新聞会前回の調査では、 「参加したことがある」は94%だったのである。 この点について、『大阪市大新聞』は「ここ3年間のデモでどうしても 500名を超えることが出来ないのが分かるが、 4年間で50%の減少はおどろくべきものがある」と記した。 なお、「よく参加するもの」4.1%は全体数に直して110名にあたり、 これは最小規模デモの数、 すなわち活動家の数とほぼ一致するという 。

 本学では、 1962年に誕生した全学自治会が激しいセクト間争いのために統一機能を喪失し、機能しなくなった。 学生数が増加するなか、多くの一般学生は自治会における主導権争いをみたからか、 学生運動から距離を置いた。 他方、全体に比して多数ではないにしても、 大学教育に対する不満をもつ学生のなかで一定数のものが、積極的に上述のセクト争いを乗り越えようとする出入り自由のノンセクト・ ラジカルグループ=「全共闘運動」を形成した。 1960年代後半の大阪市立大学では一部の活動家を中心とする学生運動が行われた 。

大阪市立大学の大学紛争はどのよう に推移したか

こうした学内動向の流れを受けて、 本学の大学紛争の嵐は東京大学と同様に、医学部から吹き荒れた。

1968 (昭和43)年10月、第 1病理学教室の教授と助教授が、学生の面前で、講義担当をめぐって激しく議論をたたかわせた。 その数日後、 受講学生から、①第 1病理学教室の講義、セミナーの正常化、②臨床カリキュラム、③講座制、教授会の運営方法、 について公開質間状が提出された。 その後10月末に、 学生自治組織の学生委員会がこの間題を取り上げ、 特に③を争点とする闘争を開始した。 その際、医学部では学生だけではなく、青年医師連合(インターン生の全国組織)、 大学院生も参加しての医学部民主化共聞会議(以下、 医共闘と略す)が結成されて問題を大きく した。 医共闘が結成される背景には、 早い時期から大阪市会文教厚生委員会でも問題視されていたように、 大阪市立大学附属病院での若手医師の勤務状態のあり方が関係していた。 この点は大阪市立大学に限ったことではなく、全国の医学部で間題となっていた。さて、医共闘側は、以下のような内容を含む「医学部民主化基本綱領」を作成して医学部教授会に承認するよう、強く迫った。

A 医学部最高意志決定機関について

I 医学部最高意志決定機関の構成は、教授、助教授、講師、助手の以上の全
教官で構成し、全員は各自 1票の平等な決定権等諸権利をもつ。 この場合、医学部としての決定は全てこの医学部最高意志決定機関で行う 。 以上を基本原則とし、運営に関し、具体的に検討していく 。

II 最高決定機関の決定に対し異議がある場合、 医学部諸自治機関(学部委員会、青医連、大学院自治会)は、その決定の行使を、一時停止させることが出来る。

Ⅲ 医学部最高決定機関に学部委員会、 青医連、 大学院自治会は発言権のあるオブザーバーとして参加する。

IV 公開制:最高決定機関は全ての審議事項に関し、医学部構成貝全員に公開する。

いわば、医学部教授会の決定に対して学生自治機関等の拒否権を求めるものだった。 そして、 11月 27日から翌日にかけて15時間を超える教授会団交の末に、「1969年4月 1日より最高意志決定機関を発足させるよう各項を内規化するよう努力する 。 以上確認する」 と医共闘は教授会に認めさせたのである 。

しかし、 医学部教授会では長時間にわたる 「大衆団交」 の末の確認である以上無効であるとの議論も展開され、 同教授会の意向はこの確認書をめぐって二転、 三転した。 結局、 医共闘からのプレッシャーの中でついに大学協議会に「基本綱領」を提出せざるを得なくなった。 1969 (昭和44)年 2月 12日臨時協議会において、医学部長はこの「基本綱領」を説明して協議会に意見を求めた。 協議会は、抽象的で、無限定な「拒否権」、「教員と学生の対等」という内容は認めがたいとしつつも、各学部に持ち帰って討議することとされた。
同日午後 8時より、 学長・ 協議会代表と医共闘との大衆会見は、 約400名の参加者が見守る中(学生、教員は半数ずつ)、現在の122教室でおこなわれた。 徹夜で会見を続けた後、 翌日 13日午前 9時半に休憩に入り、 午後 3時半から講堂で再開した。 再開後は約1000名が参加した。 結局合意にはいたらず、午後6時半学生代表は決裂の言葉を発して退場した。 その直後、 2月 14日午前 3時より教養地区 3号館が封鎖された。

大学側は、その頃より、各学部 3名、保健体育科から 1名の全学25名の学生部委貝が、 午前 9時頃から午後10時頃まで数名ずつで常時待機の態勢を組んだ。
2月 17日の臨時協議会では医学部間題特別委員会の設置を決め、 19日に答申案を提出し、 それに応じて 2月20日に文書を公開した。 そこでは、参加の仕方に

ついて、 医学部最高意志決定機関において審議される事項については事前の合議を行うこと、その決定に対して所定の期間内に異議申し立てができることを提示した。 しかし、大学執行部は 2月12~13日の大衆会見の経験にこりて、学生達との大衆会見は紛争が終わるまで行わなかった。 このため、 学部ごとの闘争が激しさを増し(なかでも、 医学部、 文学部の闘争は激しかった)、全共闘の学生の側では、 学長との大衆会見を求める手段として封鎖を拡大していった。

3月 2日には医共闘が医学部基礎学舎を封鎖し、 また 3月24日は全共闘が大学本館を封銀、したのである 。

そのため、 1969(昭和44)年 3月 3 ~ 5日に予定されていた入学試験は、 3号館封鎖のために学外で、 しかも 2日間に圧縮されて行われた。 また、例年行われていた全学統一の卒業式は中止せざるをえなくなり、各学部ごとに分散して学部長から卒業生に対して証書が手わたされた(この年、 医学部については紛争のため卒業者はゼロとなった) 。
以上のような事態に対して、大学側は 3月協議会で設置を決めた 「大学改革準備委員会」(その後大学改革委員会へ発展)、 「大学間題特別委員会」 の発足を記した 「大学改革問題について」(4.7改革案)を 4月 7日に示して打開を図ろうとした。 しかし、大学改革準備委員会を数回開催したが、 医学部教員会(教授を除く 医学部の教員で組織) との話し合いの結果、 「学長の諮問機関」 という位置づけを返上して自主的な委員会を志向し、職員、学生、教員三者の話し合い開催に努力するものとしたが、結局、医共關の要求によって解散した。

5月には文学部学生への暴力事件、 事態の改善を求める経済学部学生の自殺などの事件が次々に起こり、 また同月には医学部教員会の日当直拒否闘争、医共闘による一部教授の軟禁が起こった。 そして、 6月 11日医学部教員会は新規入院ストップ、入院ゼロ、外来ストップの方針を可決するまでに過激化した。
これに対して、翌12日に医学部長、病院長連名で「地方公務員法の規定に違反する行為である」 旨の警告文を発した。 その結果、 事実上の業務命令が出されたこと、運動自体の前途がみえなくなったこと、教員会執行部の会議運営が強引なものだったこと、 によって教員会は分裂へと向かった。
もう一方で、 6月に入ってからは封鎖学生の体制は崩壊しつつあった。 当初、教養部 3号館が封鎖されたとき、 少なくとも 180名を数えたといわれる封鎖派学生は、当時すでに30~50名に減少しており、時には封鎖中の学舍に「籠城」している学生は最低数名の場合もあったといわれる。 出るも自由、入るも自由という全共聞運動の組織原則そのものが、 このような激減をもたらした 1つの原因だった。 かなりの数の学生が、封鎖学舎から故郷に直行して、そのまま戻らなかったと言われた。 その過程で、 内部における主導権は、 「全共闘」、 ノンセクト・ ラジカルから、民学同左派のグループへ、さらに中核・ 社学同赤軍派へと移行しながらますます過激化していった。 その後世間を驚愕させた赤軍派による「よど号」ハイジャック事件、連合赤軍による浅間山荘事件には本学出身者が関わっていた。
大学側は、 7月 9日大学問題特別委員会が「大阪市立大学改革案要綱」(7.3改革案)を提案した。 以下がその中心的な内容である 。

第 1部 大学の理念
第 3章 大学の構成員とその地位
大学は教貝、学生、職員によって構成される。 そしてこれら 3者はともに大学の使命を分担している 。 したがって大学の使命の達成には、 これら 3者の協力がぜひとも必要であり、またその協力においては、教員、学生、職員がそれぞれ自主的かつ積極的に行動する主体であることを前提とする 。 この意味でこれら 3者は対等である。
A 教員
一教員は大学における『責任者』である。
B 学生
一学生は被教育者であると同時に、 教員のおこなう研究と教育に対する 「批判者」 でもある 。 そして学生はとくにこの批判を通じて大学の発展に寄与する。
C 職員
一職員の大学における地位は、教員にとっても学生にとってもひとしく 「協力者」である。

第 2部大学改革の基本的方向第 1章構成貝の参加
下記の事項について、 大学の各決議機関はその審議に先立って学生自治組織(当該決議機関と対応するところの学生自治組織)の正式の代表と十分な合議をおこない、 しかる後それぞれの機関で審議、決定する。 I)カリキュラムの編成、 II)履修に関する諸規定の制定・ 改廃、 m)教育・ 学習施設の建設・ 利用、

Iv)学生の福利・ 厚生施設の建設・ 利用・ 運営、 V)学費の改訂、 VI)学生参加
の方式に関する事項、 Ⅶ)その他教育 ・ 学習に関する重要事項
事前合議にもかかわらず、 各決議機関でなされた決定に対し学生がわが不満をもつときは、所定の期間内に一定の手続きをへて異議を申し立てることができる。

第 3章 研究教育体制第 1節 研究・ 教育組織
身分的職階制を廃止し、研究・ 教育・ 管理・ 運営における教員間の支配機構を廃する一現行の講座制は解体し、 それに代わるべき新しい研究と教育の単位を編成する。 原則として研究単位と教育単位を一致させるものとする。

第 2節 教育体制
教養科目の重要性にかんがみ、 教養教育課程と専門教育課程とを時期的に分離せず、 かなりの程度に重複、 平行させながら実施する方式にあらためる。 これによって学生は精神的な受容能力の発達に応じて、 教養科目を選択履修することができる一専門教育課程の改善および充実は、研究・ 教育組織の再編成をまって、学生と協議しながら、漸移的に実施するが、基本方針として2、 3の点をあげる 。 知識のつめこみ、 職業教育化の傾向を反省し学科目の内容の精選に努力する 。 入学当初から、 教養科目担当者以外の学部全教貝と学生との接触の機会をできるだけ多くし、 ある程度の専門教育を平行的に実施する。

第4章 産・ 官学協同問題
大学における教育の日的は、 現存社会が要求する単なる高級労働力の養成ではなく、真に社会の進歩に役立ちうる人材の養成にあることを銘記して、大学ほ
んらいの教育目的を見失わないようにつとめる。 同時に、大学における研究は、大学固有の特質をもち、 研究の分野における大学の社会に対する貢献は、 なにより研究上のこの特質を通じておこなわれることを忘れないようにする。

以上のような改革案によって、全共闘運動のいう 「帝国主義大学政策」 との批判に応えようとした。 この「7.3改革案」に対して、教員は紛争解決の「切り札」 となることを期待した。 しかし、 「協力者」 と規定された職員からは否定的評価を受け、 封鎖をしている学生はおろか、 一般学生の評価もはかばかしくなかった。 もう一方で、 8月 8日「大学の運営に関する臨時措置法」が成立した 。 この法律は、 大学紛争が生じて 9 ヶ月以上経過しても紛争の収拾が困難な場合、 当該大学または学部の教育・ 研究機能の停止の権限を文部大臣に与えること、 さらに 3ヶ月以上経過しても紛争が収拾困難な場合には、廃校措置を執ることのできる権限を文部大臣に与えるものだった。 この規定を本学に当てはめると、 2月14日教養部 3号館の封鎖を起点にすれば11月 13日がタイムリミットだった。 「話し合い路線」 は完全に行き詰まった。
9月 17日、 他大学の赤軍派の逮捕学生の自供に基づき、 赤軍派の凶器準備集合罪の捜索のために機動隊が出動して医学部基礎学舎の捜索がおこなわれた 。
9月 22日には封鎖下の医学部学舎から出動した赤軍派を名乗る学生が医学部附属病院付近の交番 2箇所に放火、 焼き討ちをする事件が起こり、 23日基礎学舎は再び捜索をうけた。 大学協議会は 「医学部および病院のほとんど全面的な封鎖によって、 診療機能は麻痺し、 市民に過大な迷惑をかけるに至ったこと」、

「『赤軍』 の暴力行為による社会的不安と、 それにたいする大学の社会的責任はもはや放置できない段階に達したこと」 ( 9月 30 日付 「大阪市立大学協議会声明」)から、 ついに、 9月30日府警機動隊300名の出動を要請して、 医学部学舎、付属病院の封鎖を解除した。 さらに、 10月 4日には、杉本町キャンパスの封鎖を解除するため府警機動隊600名の導入を要請した。

1969 (昭和44)年 1月の東大安田講堂の籠城や、 また同年 9月の京大時計塔の抗戦の中心がセクトであり、 またセクトの中心的メンバーがその抗戦に参加していたのに対して、本学の場合には、セクトは籠城に加わらず、最後の籠城者はノンセクトだった。 セクトは、封鎖を利用し、途中でその主導権を握り、「帝国主義大学解体」 にいたる極左的スローガンを次々と乱発して封鎖を長びかせ、自己のセクトの運動の拠点として封鎖を利用し、最後の局面にはいるとセクトの勢力を温存するために、 「ネズミが沈む船からいち早く逃げ出す」 と言われるように、封鎖現場を捨てたのである。 次項に述べるように、セクトグループの温存は引き続いて、 大阪市立大学を悩ますことになる 。
10月20 日から商、 経、 法、 文の 4学部と教養部の授業を 2号館、 3号館で再開し、 12月 1日から医学部でも全面的に授業が再開されるに至った。 大学紛争は、教職員、学生に対して深刻な心理的影響を残し、物的被害もことのほか大きかった。 大学全体の被害総額は図書の被害を別にして約 1億5000万円で、 紛争によって生じた附属病院会計の赤字は約 4億円と見込まれ、 授業再開に最低限必要な応急の復旧整備費だけでも 5000万円を超えると予想されたのである 。予算建設委員会は、 大学自体で10%分の予算を保留して復旧にあてるとともに、復旧整備委員会の設置を提案した 。 復旧整備委員会を通じて順次復旧整備が進められた。

大学紛争後、 寮問題が新たな火種に

前述したように、 本学の過激派は大学紛争後も生き残り、 その後も大学を混乱させることになる。 というのは、過激派学生は1977 (昭和52)年 1月 17日に完成したばかりの新寮という根城を確保して、 そこから教養地区で行われた政治セクト間の暴力的抗争に出撃したり、教養地区の授業妨害、試験妨害に向かったからである 。 なお、 暴力的抗争は教養地区と理工地区の間の公道まで及んだことがあった。 その公道を近隣の小学生や幼稚園児が通学路、 通園路として利用していたので、 保護者からの要請もあって大学は登下校する子供達の安全を守るため、 1971 (昭和46)年度から、教員が午前、午後ともに10人ずつ教養地区正門前に立って路上警備をおこなう 「路上当番」 を行っていた。 それでも、1975(昭和50)年 6月 4日には路上警備を行う前に、登校する学童の面前で、 中核派学生が革マル派学生を襲撃し、 死者が 2名に及ぶという事件が起こった。

大阪市立大学の学生寮の推移

前述したように、 1960年代初めには、都風寮と杉本寮という 2つの学生寮が存在した。 その 2つの寮はともに老朽化していたことから、 1962 (昭和37)年4月に全学協から新学生寮建設の要望が示された。 また1963 (昭和38)年 9月には自治会によってアンケートが実施され(学生数3840、 回収2755、 回収率72%)、回収者の約半分が入寮を希望していることが判明した。 もう一方で、 当時はセクト間の激しい争いや全共闘運動の登場する以前でもあったことから、 学生部側は 「自治共同精神を養う寮生で自治でよい。 問題が出たときは学生部委員会でやれる。 高い立場で審議する。 寮生をこえ、学生としてでもできる」(『大阪市立大学学生寮の歴史』)という言葉に端的にあらわれているように、寮生の自治に対して絶大な信頼をもっていた。 そこで、学生部は新寮の検討を進め、収容人員 1000名の寮を 5 カ年計画で建設し、 まず第 1期分200名寮建設案を大学側に提案した。

大阪市に対して、 大学は現実性を考えて、 80名寮の建て替え案を要求した。しかし、 80名建て替え案に対してゼロ査定が続くなか、学生部の熱意に、大学として1000名寮の建設計画を打ち出し、 第 1期分200名寮建設を決定した。 やはり、大阪市は認めなかった。 その理由として以下が考えられた。 第 1に、寮生は寮費、 光熱水費の不払い運動を展開していたからである 。 この頃、 文部省より、 学寮管理に必要な経費は大学負担とし、 私生活に要する経費は寮生負担を徹底させること、それに先だって負担区分(光熱水費、人件費、消耗品費、食事材料費など)を明確化するようにとの通達があった。 それに対して寮生側は反発した。 第 2に、 寮規定間題が解決されていなかったからである 。 この点は1970 (昭和45)年 4月、 大阪市の監査で指摘された。 大学が入寮者の氏名すら把握していないことに問題があるとし、 寮の管理体制について抜本的改善を求めていた。

それでも大学は学生との約束を守りたいとの思いから、 とりわけ大学紛争後に大阪市に対して熱心に要求を続けた 。 その結果、 大阪市は本学の熱意を受けて、 3条件の履行を条件に 1974年度予算の復活折衝で新学生寮建設を認めた。
3条件とは、新寮完成後に当時入っていた寮から立ち退くこと、寮費を支払うこと、 寮生名簿を提出することであった。
これに対しては、 都風寮、 杉本寮の自治会から 「大学当局のどす黒い野望=百名寮建換策動粉砕に向けて進撃せよ!」 との批判ビラが配布されたように強く反発したものの、 1974(昭和49)年10月建設のタイムリミットを前にしてとりあえず3条件について柔軟な態度をとった。 この時点にいたって、 ようやく大学の熱意は寮生側に伝わったかに思えた。 しかし、 1976 (昭和51)年10月の新寮竣工時には以前のような預なな態度となった。

学生部は1976 (昭和51)年11月 25日に学生部長名の文書 「新学生寮について」を出し、 3条件の履行を説き、寮側が「数回にわたり交渉にのぞんでいた学生部委員に対して常識では考えられないような成圧を加え、あくまで自己の説を通そうとする態度に出た。 このため交渉は目下難航を極めている 。 しかし学生部委員会としては、なお解決への熱意をもっている一」と、自重を求めた。

これに対して、 活動家学生は学生部長室の占拠という行動で応え、 ついに学生部と寮生の交渉は決裂した。
交渉の糸口を絶たれた大学執行部は、 それでも話し合いによる円満解決を願って、学生部長を経験した当時の評議員を交渉役として再開した。 その交渉に先立つ1977 (昭和52)年 1月の臨時評議会において大学執行部は、 寮生が過激化して、非常手段に訴えることになるのを避けるためか、 「学生側が3条件を認めるまでは開寮しない」 とする評議会と学生部委員会の間で確認されていた基本方針をくつがえし、学生との交渉によって新寮への仮入居と杉本寮の 1年間の存続を容認した。 さらに評議会は話し合いの妨げになるとの判断で、学生部委員会の方針である上記11月25日の文書 「新学生寮について」 を撤回したのである。 こうして、 1977(昭和52)年 1月17日には、学生側は大学の関係者から鍵を受け取り整然と入寮するという 「実力行使」 で新寮へ入居を果たした。

1977(昭和52)年度は、以上のような「話し合いによる解決」路線のために学年末試験は長期に延期され、 日本育英会の奨学金貸与は休止された。また、廃寮するはずの杉本寮についても、「団交」の末、 1977(昭和52)年 6月に当時の学生部長は杉本寮の存続を約束してしまい、 杉本寮補修のために一般の予算から流用せざるをえなくなった。 その後、 1981 (昭和56)年度には杉本寮の老朽化で倒壊の可能性あり、 との調査が報告され、 1986 (昭和61)年 1月28日徹夜団交の結果、建て替えを確約してしまう 。 また新寮(「志全寮」)でも寮生は寮費を含む諸経費を払わなかった。

以上の出来事は一層大阪市や大阪市会をいらだたせた。 市会では自民党から共産党にいたるすべての会派が大学に寮間題の解決を追った。 経済研究所教授崎山耕作が1986 (昭和61)年 4月に学長に就任した際、 「大阪市と大学は物凄く冷え切った、 つめたい関係にあった」 と述懐するほどの関係に陥っていた。 寮問題の解決は避けられなかった。

(以下、略)

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