【投稿】リアリストでなければ政治は語れない)

【投稿】リアリストでなければ政治は語れない)

日本の政治は、いま大きな曲がり角にきている。衆議院の選挙制度の改革案をめぐっての自民党内部での議論。統一自治体選挙で一挙に史上最低の議席数に転落した社会先のこの間の党改革案をめぐっての議論。これらは、いずれも「党内を二分しても構わない。既存の政党が自ら身を切り、血を流さねば、激動する国内外情勢に対応した政治改革などできるわけがない。その努力を怠った政党は、完全に国民から見捨てられる」という危機意識が底流に存在していると思われる。
(身を切る覚悟のない改革など政治の世界で実現したためしがない。社会党の党改革もそこまでいかなければ、完全に国民に見放されるだろう。)
ようやく日本の政治の世界にも、世界的なベレストロイカの波が、およんできたといえるのではないか。まさに時流に乗った適切な危機意識であり、これらの改革案に対して、これまでの決まりきった「左翼の論理」による機械的な反対意見や傍観者に終始するものは、完全に時代から取り残されていくことを覚悟しなければならない。
’90年代は非常に厳しい変化の時代である。我々のこれまでの常識、価値観が次々と崩れている。古いものが滅び去り、新しいものが噴き出してきている。今日政治の世界で、何が保守で何が革新かということについて、これまでの物差しで図れなくなっていることを、自覚する必要がある。いま、自民党が保守で、社会党・共産党が革新という占言い方は、実態に全く合わず、完今に時代遅れとなっている。
これまでの政治・生活のあり様を是とし、これを守ろうとするのが保守であり、これを変革しようとするのが革新であるはずであった。1967年に誕生した美濃郎都政を革新都政とよんだのは、これまでの中央政府にしばられた従来の地方自治のあり様から、中央政府と対抗し都民本位の地方自治に変革しようと実践したからである。地方自治の革新である。
1980年以降、政府・自民党は、国際政治経済状況の変化と日本経済・国民生活の変化に対応させるために、矢継ぎ早に改革路線を打ち出してきた。その象徴的政権が、中曽根内閣ではなかったか。「行政改革」から始まり「電電公社や国鉄の民営化」「臨教審による教育改革」「売上税導入による税制改革」等々まさに「戦後政治の総決算」を行おうとしたのである。それに対して革新と.言われてきた政党、労働組合、民主団体どう対応したか。「行政改革反対!地方自治を守れ!」「民営化反対・!国鉄を守れ!」「臨教審反対!民主教育を守れ!」見事に「反対・守れ」路線のオンパレードであった。姿勢そのものは、全く保守である。
どの課題をとってみても、現状のままでは矛盾が拡大するばかりであり、改革しなければならない事については、誰もが認めざるをえない課題ばかりであったはずである。問題はどういう内容で改革するかをめぐって政治の場で争われなければならないにもかかわらず、野党が具体的対案を打ち出すことができない結果として、「反対・守れ!」路線となってしまったのである。改革すべき課題に対して、どう改革すべきかという対案抜きに、ある具体的改革案が気に入らないからと言って反対するだけでは、まわりの支持を失うのは、我々の身近な生活の中では常識に帰するものと言える。
この我々の生活レベルの領域では常識的な事柄が、政治の世界では認識しようとしない、できない者が、社会党や共産党、総評系の労働組合幹部・活動家といわれる人の中に、減ってきているとは言え依然として大きなウェイトを占めている。こういう人達を、いまのソ連における政治改革での保守派、改革派にたとえて言うなら、まさに保守派と言い、社会党や労働組合の組織改革、政治制度の改革を妨げている、一つの大きな障害物なのである。いまの世の中を非として改革しようとするものが、いまの世の中のどこが問題で、どう変革しようとしているのかという具体的プランを示そうとせずに、政府・自民党が打ち出す改革案に批判だけして反対する構図は、議会制民主主義制度を持った先進資本主義国での政治の場で・は、ますますその有効性を喪失してきており、激動する今日の時代では全く政治的に無力となっていることを自覚する必要があると言える。
問題は、どんな改革案を打ち出すか、打ち出せるかと言うことに尽きる。「政府・自民党の改革案に反対なら、対案を出せ!」と言うのが、政府・自民党のみならず、一般国民の普通の感覚である。これまで、問題点矛盾点を批判することは得意だが、自ら改革案を作り上げる、創造すると言う訓練を怠ってきた、逆に言えば訓練をしなくても済んできた社会党、労働組合、民主陣営に、対案を出せる力量があるのかどうか、どうしたら対案が出せるようになるのかについてこそ、我々は真剣に考えなければならない。
対案を出すためには、まず政府・自民党の改革案を具体的に徹底して検討することが必要なのである。安易にここが悪い、あそこが悪いといった表面的、揚げ足とりてき検討をやって、それを要領よく文章化しそれに従来の左翼的理屈をつけて社会党の見解だとする従来のやり方では、いつまでたっても有効な現実性をもった対案などできるはずがない。政府・自民党の改革案には、なに故に改革しなければならないのかという、改革すべき対象に対する徹底したリアルな分析がある。そのリアルな現状分析をふまえてどう改革するのかというところでその党の立場性が出るのである。改革案の底に流れる政府・自民党の現状分析をこそ徹底して検討すべきなのである。その現状分析は、やはり政権政党だけあって、現実を的確に反映した正確性の高いものである。これをもとに政策を打ち出すのだから、客観性の高いものが求められるのは当然である。打ち出す政策そのものには、打ち出す政党の立場・利害が色濃く反映されているのは当然のことであり、それでいかに有権者の多数の支持を獲得するのが、政治なのである。
精度の高い現状分析を踏まえて、政見としてどういう政策を打ち出すかを競わなければならないにも関わらず、初めから批判することだけを考えて、対案を出そうとするから、時代遅れの観念的、抽象的な政策しか出せず、国民の信頼を失ってきたのが日本の左翼政党の歴史だったのではないか。もういいかげん、かたくなな保寸的「左翼理論」から解放するべきである。徹底したリアリストになることを抜きに、社会変革などできるわけがないのだ。 (大阪 T・I 1991年7月)

【出典】 青年の旗 No.166 1991年8月15日

カテゴリー: 思想, 政治 パーマリンク