【投稿】ロシア脅威論の虚構
8月末から極東に展開するロシア太平洋艦隊などは、カムチャッカ半島などオホーツク海一帯、さらには日本海で大規模な軍事演習を開始した。
この演習の一環として9月8日、ロシア空軍の戦略爆撃機2機が日本の領空を沿う形で列島を周回飛行し、翌日にはロシア太平洋艦隊の艦艇24隻が宗谷海峡を通過した。
こうした直近の活動に加え「フランスからの強襲揚陸艦購入と太平洋艦隊への配備計画」「最新型原潜のカムチャッカ半島への配備」「国後、択捉島の兵力増強」といった軍事面での動き、さらにはメドベージェフ大統領以下相次ぐ要人の北方領土訪問などから、ロシア脅威論が再び声高に叫ばれようとしている。
本誌7月号では、中国脅威論について考察したが、本稿ではロシア脅威論について考えてみたい。
強襲揚陸艦は旧CIS諸国、北朝鮮向け
ロシアは、フランスから「ミストラル」級強襲揚陸艦4隻を購入する予定となっている。「ミストラル」級は、満載排水量21500トンで、兵員のほか戦車などの戦闘車両から構成される一個大隊程度の部隊を積載し、これらを各種ヘリコプター、上陸用舟艇で、目的地域に速やかに戦力を投入することを目的としている。
また同級には充実した医療設備があり、こうした機能を生かしてこの間のリビア内戦では避難民保護のために出動をしており、多目的母艦の性格も併せ持つ艦船である。
ロシアが同級に注目したのは、08年の対グルジア紛争の戦訓からである。北京五輪の最中、旧ソ連領であったグルジアは突如、ロシアへの併合を求める南オセチアに侵攻、ロシアとの間で武力衝突に至った。この紛争は短期間でロシアの圧勝に終わったが、この地域への緊急の兵力展開には大型の揚陸艦が必要との判断から、「ミストラル」級の購入を決定したのが出発点である。
こうした計画に対し、やはり旧ソ連領であったバルト三国などからは直ちに懸念の声があがった。この動きは欧米諸国に波及しロシアに対する警戒感を高める恐れがあるため、ポポフキン国防次官は「ミストラル級の配備はクリル諸島と、リトアニアとポーランドに挟まれたロシア領=カリーニングラード防衛のため」という見解を明らかにした。
この発言を捉え日本では、「ミストラル」級配備の主要な目的は北方領土防衛と解釈されたが、紛争が予想される地域ではないカリーニングラードを持ち出したのは、欧州配備を正当化するのが目的である。
確かに、太平洋艦隊には2隻が配備される予定であるが、「自衛隊に占領されたクリル諸島を奪還しに行く」というシナリオは相当無理がある。北海道から国後、択捉までは指呼の間であるのに対して、対してウラジオストックからは津軽海峡経由の最短距離でも約1500キロである。そして紛争時は当然海峡封鎖がなされるので、津軽通過は不可能であり、宗谷海峡突破も困難だろう。また同級は、最高速力19ノットで対空兵装もさして強力ではないので、護衛艦隊や直掩機をつけなければ、ウラジオを出て日本に接近する以前に撃沈されるだろう。
さらに同級はフランスの戦略に基づいて建造されているので、主要な活動領域は、同国の旧植民地が点在する地中海やアフリカ沿岸が想定されている。この海域は通年比較的穏やかであり、写真でも分かるようなズングリした船体でも操艦は容易である。したがって黒海での運用はロシアの戦略からしても整合性を持つ。しかし、オホーツク海ではそのようなわけにはいかないのは明らかである。
日本近海で同級を有効に活用できるのは、実は北朝鮮沿岸である。ウラジオから北朝鮮の羅津、清津までは100~200キロ程度、東部の重要都市である元山まででも、600キロ弱である。北朝鮮が騒乱状態になった場合、避難民の保護を含めて同級はその能力を発揮するだろう。
太平洋艦隊、クリル守備隊は貧弱
冷戦時代ソ連太平洋艦隊は、原子力、通常動力潜水艦約100隻に加え、重航空巡洋艦(軽空母)2隻、重原子力ミサイル巡洋艦(巡洋戦艦)1隻などが配備されていた。
しかし1980年代以降艦隊の稼働率は著しく低下し、ソ連崩壊以降は欧州方面の北方艦隊が優先された(現役の空母、巡洋戦艦はすべて北方艦隊所属である)。太平洋艦隊は相次ぐ艦船の老朽化に、新規配備はおろか修理もおぼつかなくなり、現在可動できる潜水艦は10隻程度と見積もられている。水上艦艇も、軽空母は退役し、巡洋戦艦も書類上在籍しているものの可動状態にはなく、巡洋艦1隻と駆逐艦若干が実戦力に過ぎない。ロシア帝国の太平洋艦隊は日本海軍により全滅させられたが、ソ連の同艦隊は戦わずして壊滅した。
こうした状況の中、ミストラル級2隻、さらには最新鋭戦略原潜「ユーリー・ドルゴルーキー」(艦自体は就役しているものの搭載予定の弾道ミサイルは試験中)の配備をもってしても、ロシア太平洋艦隊の海上自衛隊、アメリカ第7艦隊に対する劣勢は覆うべくもない。そもそもこの原潜配備は、アメリカが進める東欧諸国へのMD(ミサイル防衛システム)配備で、欧州の弾道ミサイル戦力が低下することに対する対応措置である。
さらには韓国、中国海軍の増強にも神経質にならざるを得ない状況である。(この情勢を利用しているのが北朝鮮である。8月4日ウラジオ訪問を終えた中国艦隊が15年ぶりに元山に寄港した。中国艦隊が日本海に面した港湾を利用できるようになれば、ロシアにとって重大問題である。その後訪露した金正日総書記はメドべージェフ大統領と会談し債務放棄、天然ガスパイプライン建設といった経済援助を取り付けた)。
国後、択捉島などは戦後冷戦期を通じて、見捨てられた土地だった。配置された兵力も迎撃機30機を含め国境警備、防衛以上のものではなく、とても「北海道侵攻の拠点」という実態ではなかったのである。しかし、プーチン政権下での経済発展はウラル山脈を越え、シベリアを横断しクリル諸島へも波及、島々の資源開発、インフラの整備が進められ、昨年11月のメドベージェフ大統領の訪問に至る。
日露間に緊張なし
そして、今年5月にマカロフ参謀総長はクリル諸島に関して「陸・海・空すべての面で確実な防衛体制をとる」と表明したが、この流れで冒頭述べた軍事演習について一方的な挑発行為と決めつけることはできない。(もちろん、日本を意識していないわけではないが、気候の安定するこの時期、日本海やオホーツク海での演習は毎年行われている。また同時期、ロシア北方艦隊は空母も参加する大規模な演習を実施しており、ロシアの軍事政策が対日に重点を移したとは言えないのである)。
今回の演習が「過去最大規模」となった背景には、昨年11月の北朝鮮による韓国・延坪島砲撃事件直後の12月に行われた「過去最大規模」の日米合同軍事演習「キーンソード2010」がある。今回のロシア軍の演習規模(動員1万人)をはるかに凌駕する「キーンソード2010」(動員4万5千人)は北朝鮮対象と言うにはあまりに過大であり、その前段で行われた米韓演習も合わせると、ロシア、中国を非常に刺激したものとなった。
ロシア軍の演習に対し日本政府は懸念を表明したが、ロシア政府は「演習目的はカムチャッカ半島東方の大陸棚の権益を守るため」と説明し、無用な摩擦は避けた。また演習終了後太平洋艦隊の一部は、舞鶴に寄港し海上自衛隊との海難救助演習を実施、さらにグアム沖で米第7艦隊との合同演習にも参加する予定となっている。
さらに椿事の類であるが、8月21日、一人でサバイバルゲームをしていた琉球大学生のゴムボートが国後島沖に漂流、一時ロシア側に身柄を拘束される事件があった。件の大学生はモデルガンやGPSを所持しており、韓国、北朝鮮の38度線付近のような緊張状況にある場所で発生したなら、射殺されていても不思議ではなかっただろう。これが笑い話ですんだのは、この海域がロシア軍の演習開始直前であるにもかかわらず、「緊張の海」ではなかったことの証左ではないだろうか。
2010年2月に改訂されたロシアの「軍事ドクトリン」では、NATOを名指し、その東欧への拡大を軍事的「危険」と位置づけ、さらにMD配備、大量破壊兵器の拡散などを列挙し、核兵器使用のガイドラインを明らかにしている。この「危険」のなかには「領土要求」が挙げられているが特定の国は示されていない。また差し迫った軍事的「脅威」としては領土内での非合法軍事組織の形成や挑発目的の軍事的デモンストレーションなどが示されている。
すなわち、ロシアの軍事的関心は外にあってはアメリカ―NATOの動向、内にあっては、チェチェンなどの武装勢力の活動であり、ソ連時代の陳腐化した兵器とシステムの更新である。
極東への関与強化は、経済発展とそれを支える地下資源の確保が主要目的であり、軍事行動の活発化はアメリカそして、中国も視野に入れたものであることを見ておかなければならない。そしてアメリカさえ放棄した「2正面作戦」を行える能力はロシアにはない。
現在、クレムリン指導部の最大の関心事は、来年の大統領選挙とその行方を占う今年年末の下院議員選挙である。大統領や首相の発言やパフォーマンスもそれを意識したものとして見ておく必要がある。
ロシア情勢の的確な分析能力の無い外務省(大統領の北方領土訪問について当時の駐露大使は直前まで「ありえない」と公言し、菅前総理の怒りを買い更迭された)と、脅威を過大に見積もる防衛省の言いなりでは、「寸土も譲らず」の野田新政権での日露関係の改善は望めないだろう。(大阪O)
【出典】 アサート No.406 2011年9月24日