【追悼】横田三郎先生 一周忌に寄せて

【追悼】横田三郎先生 一周忌に寄せて
   —忘れられない先生のご恩—
                八尾野 広

市大文学部入学当時の私は、実は教育学科ではなく国文科を志望していた。万葉集や記紀歌謡に関心があり、高校の古典担任の先生から、市大には古代文学研究で有名な教授が居る、と聞いていたからであった。しかし国文科には志望者が多くレポート選考となった。著名な教授による文芸講話のような講義をすぐに受けられるものと勝手に想像していた私は、与えられたレポートのテーマが余りにも非文学的で瑣末実証主義的なものに感じられてすっかり幻滅し、早々と国文科を諦めてしまった。
そこで、部落研の先輩の誘いもあり、横田先生が指導教授を務められていた教育学科に転科を申し出た。ドブロリューホフの研究者である横田先生の指導を直接受けられるという魅力はもちろんだが、学科活動が盛んであった事もその理由の一つであった。
先生のゼミでは、テキストにドブロリューホフの著作の英訳本が使われた。先生は既に立派な和訳を出版されていたので、なぜそれを使わないのですか、と聞くと、先生は「言葉を自分で調べ、訳しながら学ぶことで一層その意味を深く知る事ができる。自分も英訳本から学んだ。学問とはそういうものだ」と言われた。
先生の講義の中で特に印象に残っているのは、教育における「体罰」に対する厳しい批判、否定であった。それは暴力であり、教育の放棄と教師の敗北である。それはまた、強制的で軍隊的な規律によって子供を支配する反動思想である、と強調された。私は教員にはならなかったが、この言葉はその後地域で同和教育の取り組みを進める上で、また自分の子育ての過程で何度も思い出して自らを戒めた。
このように先生の教育思想と人柄にも触れられる有意義なゼミではあったが、学生運動に走り回っていた私は、家にもあまり帰らず、予習を含めてちゃんと勉強する時間を持てなくなり次第にゼミから足が遠のいてしまった。私が大学で生きた学問を学ぶ数少ない貴重な機会を自ら放棄したことを今も悔やんでいる。
もうひとつ、先生には個人的なご恩がある。当時、教養課程の必修単位の一つにデューイの「学校と社会」をテキストに使った別の教授の授業があったが、教条的なプラグマティズム批判に藉口して、これもさぼり続けて出席日数が足りず、単位授与のための救済策として小論文提出を担当教授から命ぜられた。
窮余の果てに山本晴義さんのプラグマティズム批判を丸ごとなぞった様な文章を一晩で書いて提出したところ、教授からは「こんな内容は授業で教えていない、書き直すように」と言われ、私はそれを峻拒した。直後に横田先生がわざわざ連絡を下さり、「君の思想信条は分かるが勉強は別だ。僕が取りなしてやるからとにかく書き直して単位を貰え」と叱責を頂いた。しかし既に大学での勉強そのものに価値を見出せなくなっていた私は、先生の折角のご配慮を無駄にし、論文の再提出をせず、結果、卒業も諦めてしまった。
思えば余りにも無意味な抵抗であり、サボり学生のたわ言であった。今思い出しても汗顔の至りである。(余談だが、最近の人権教育の中でもプラグマティズムの方法論と共通するような体験型、参加型の取組が多く取り入れられている。この評価も誰かに聞きたい)
その後、何度か先生にお会いするたびに「卒業はしたのか、どうしてるんや」とご心配を頂いた。最後にお目にかかったのはもう10数年も前、大阪市内のホテルでの会合の帰りにロビーでばったりお会いした。私が上田卓三代議士の秘書をしていることを報告し、その時ご一緒だった上田夫人を紹介した。「おおそうか、上田さんは大事な人やからしっかり支えるように」と励ましを頂いた。その時の温顔を思い出しながら、遅ればせのお礼と共に、改めて横田先生のご冥福を祈るばかりである。先生ありがとうございました。

(写真は、2008年5月佐野が同窓生と高槻市の先生宅を訪問した際に写したものです。)

【出典】 アサート No.406 2011年9月24日

カテゴリー: 追悼 パーマリンク