【投稿】高校改革をどう進めるか(その2)

【投稿】高校改革をどう進めるか(その2)
             大阪教員交流会ニュースNO.37 1992-01-20より

1月例会は8人の参加で行いました。内容は高校改革の続きです。

1 コース(領域)制と集団作りの今後のあり様について
B:コース制で、コース別クラスか原学級か、現場で議論を整理しなければならない。
A:先月号のこユースの9の集団作りのあり様についての再検討について深めたい。
T:この間、大賀さんは解放運動の第3期論で教育のあり様について問題提起をしている。そのことに我々は理論的にも実践的にも答えを出すこと、つまり先進事例を出すことで教育運動、教育労働運動をリードしていくことが求められているのである。
この問題提起の内容のひとつに集団と個人の関係の整理があるのではないか。集団を重視してきたが、個人は重視してきたか、という問題である。臨教審風に言うと、画一性に偏重してきたために個性が伸ばされなかったのではないか、という問題提起である。集団において個性が伸びるということが強調されすぎて、集団に支えられることを前提にしないと何もできないということになっていないか、という問題である。コース制を実施すると、コース別クラスにするか、原学級クラスにするのか、という問題が当然出てくる。この問題も「同質」生徒の共同体意識に依拠するか、異質なる個性を認めあっての連帯意識に依拠するかという問題である。
つまり集団と個人の関係という問題がコース制とリンクする形で具体的に現象していると捉えられる。もちろん、現実には原学級クラスによる展開授業は、生指上、教務上の問題点があることははっきりしている。このことを認めると、条件派は、だからコース制はないほうがいい、と言うことになる。にもかかわらず、コース制でいくという時には、教育改革についての助走の議論を先行させなければならないのである。
A:一時、被差別生徒の拠点クラスを作り、問題提起クラスとして学年に位置づけたが、それは良くないという総括を残してきている。このクラスは特別や、という具合いに生徒に映り、クラス間に序列ができ拠点クラス内外に悪い影響の方が大なのである。今は被差別生徒を過度に集中しないという形で各クラスの編成を行っている。しかし時には問題提起クラスのアンチで選択授業なしで10クラスとも同じカリキュラムでやるべきであるという時期もあった。そのことも余り成果を上げないということで、集団作りのあり様について一段高める必要性が出てきているのである。生徒の選択を尊重するということが必要になってきており、そのためには生指上の問題も二次的な間遠だと思っている。
T:コース別のクラスはやはり問題が多い。基本的な考え方でいえばひとつのクラスで混在する方が個性の認め合いができるのでよい。しかし、技術的には展開授業が多くなるという困難点を克服しなければならない。
この問題の本質は何か。人間はひとつの物差しで優劣をつける方が意欲が出るのか、それとも、多様な物差しでそれぞれの長所を認めることで意欲が出るのか、という問題である。コース別クラスはそれぞれのクラスに物差しがひとつである。そこから、英語クラス、体育クラス、芸術クラス等のクラスの中でひとつの物差しに基づいて生徒の中で優劣の関係が出て来ぎるを得ないのである。それは物差しがひとつだからである。クラスの中で優劣関係が生まれると、クラスの中で劣等意識をもったものは、「他の00クラスにいくよりましだ」と、他のコースに対して優越感を持とうとすることで劣等意識を補おうとすることになる。クラスの中ではひとつの物差し(体育なら体育)で能力の劣った生徒に対して他のものに負けるな、頑張れということになる。そこには優劣関係がはっきりあるわけで、いつも劣位におかれるものは固定されているのである。固定的に劣位におかれた者に優越感をもたせるのは体育大会や文化祭等の行事で他のコースのクラスに「勝つ」ということにおいて行われるのである。
学校が力を入れているコース別クラスを軸に、優劣関係が普延して、他のクラスにも優劣関係をつけることになる。つまり、コース別クラスは縦横に優劣関係を固定化するのである。お互いを認め合うのは優位にある一部の子供間のみで、多くの子供は競争の関係におかれ、お互いを蔑み合うという非常に殺伐とした関係になるのである。
A:現在、うちでも教務的に可能な限り原学級を基本にした展開授業を模索しようとしている。原学級に多様な子供を包含するのは、他の子の生き方を認め、自分の生き方を認められる関係でこそ子どもは生き生きできるという考え方(これを多様の統一といってもいい)からきているのである。体育コースを選択している子どもが自分のことを誇らしく感じるのは、他のコースを選択している子どもにそのことを認められるときである。また、他の子どものコース選択に当たっての問題意識に触れることは自分以外の人間の過去の経験の総体に触れることになるので、間接的にであれ、自分の経験を豊富にするものである。その結果、自分の興味、関心が変化して学年が進行するに当たってコースを変えてもよいではないか。コースが子どもに自分の興味・関心、学習、進路に関する自分の意識を明確にする過程を与えるものと考えると、原学級でのコース変更は、多様な進路を保障したもとでの興味・関心の変化に対するより高い次元での保障ということになる。しかし、コース別クラスの場合はコース変更は狭い進路しか保障しないもとでのドロップアウト=敗北を意味することになる。
多様なコースを選択している子どもの中で物差しそのものを対比するからこそ、自分の興味・関心についての意識が明確になり、それぞれの物差しを認めようという基盤がクラスにできるのである。この中でこそ、それぞれのコースの中で学力に優劣関係があっても、それを越えて相互に認め合う関係が基本になったクラス、学年の関係がつくられるのである。
T:もちろん、進学志望の者にはコースでの競争を協調しなければならない必要もあるし、教務的な問題としてのクリアーが前提であるが、できる限り多様な生徒を包含したクラスが基本的方向ではないか。
A:狭い意味での進路(進学)に対応しコース別クラスを積極的に導入して特進クラスをつくっているのは私学である。進学にのみ対応するということで一日8時間授業土曜も6時間授業を展開し、夏休みも無しというところもある。さらに生徒が休日に集まってソフトポールをしているところをたまたま教師に見つかったところ、宿題が少ないからこんなことになるのだとして、どっさり宿題を出された、という笑えない詰もある。
T:親もそんなゆがんだ教育は望んでいないが、私学にその様な実態を許していてもその実態が全く表に出てこないのは、それでも公立高校の進路指導よりもすっとまし、という親の意識があるからではないか。だからマスコミも取り上げない。それだけ、公立高枚の教師のサボリに比べたら、荒っぼくても熱心にやってくれているのだから文句を言えないというところではないか。我々自身の問題として考えねばならない。親に進学(私学)か人間性(公立)という選択できないものを選択せよという苦渋の選択を追っているのは公立高校の学力・進路指導のお租末さなのである。
A:だから公立高校の中でもその私学の動きを見て、私学と同じ考え方で、コース制とコース別クラス、あるいは府下一区の学科制に移行しようというところが出てくるのもうなずける。この方法の基礎にある原則は、単一の物差しで競争させるところから人間の意欲は高まるのだという考え方である。人間は「多様」なのでそれぞれの物差しに応じてクラス、学科に分けてそこで競争させるという考え方である。しかし、この原則と方法は「多様」の名のもとに多数を切り捨てる結果を生み出すのである。“全ての”子どもが尊重されるのではなく、序列で優位にある一部の者のみが尊重されるのである。
原学級をもとにした授業展開は、それぞれが持つ多様な物差しを認めることで、人間の意欲は高まるのだという考え方である。子どもの多様性を認めることで全ての子どもを尊重するという考え方である。
T:教育委員会との対決点は“全ての”子どもを尊重する多様性か、それとも一部の者のための多様性か、である。この閣いは、全ての親、解放運動と連携することで十分勝利する可能性のある運動である。教育委員会に対して納税者である親と共にこの論点で闘うための運動を構築するためにも、教育改革の内容を教職員で練り上げねばならない。そのときにてががりになるのは関東の学校である。神奈川の弥栄東や埼玉の伊奈総合学園等がすごく進んでいる。108の選択授業があって、領域選択と自由選択を組み合わせている。私学では明浄、和光、玉川、栄進(?)等である。これらはかつて工業高校がしんどい時に総合科学技術教育の高校の先進例としてつくられた高校である。しかし日教組の議論が没になってその後取り組みが広がらなかったのである。
A:それらは新しいコンセプトに基づいて新たにつくられた高校であるが、都市部では用地確保の上で困難なのでいくつかの高校をまとめてひとつにするという案がある。
T:府教委でも160数校のうち50校は不必要になると考えており、統廃合を考えている。一刻も早く地域に根ざして改革案を持たないと高校が統廃合されて無くなっていくときに飯のタネとしての職場も守れないということになってくる。
それともうひとつ高校改革を行うときには、こちらの立場でカリキュラムを作れる人間を教務に入れておくことが必要そぁる。カリキュラムをいじるということは人事が絡むのである。選択制を実施するとさにどの授業を切るか、というのはどの教師をの仕事が不用かということを打ち出すということである。首切りの宣告である。これを大衆論議でやるのは大混乱を引き起こすだけである。政治判断するトップと、そのもとでの実務スタッフが必要なのである。このスタッフが教務ということになる。教務に人材をおかずに「そんなカリキュラムは組めません」と言われたら、全ては破綻するのである。徹夜ででも自分一人ででも原則に沿って最大限の可能性を追求するという人間を投入しなければならないのである。我が方の人間がリーダーシップをとるにしても必ず、シンパの中に教務の意義と任務を理解する人間にまで育てることを目的として活動することが必要である。

【出典】 青年の旗 No.173 1992年3月15日

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