【投稿】 原発―死を「命令」する技術体系
福井 杉本達也
原発の新安全基準が公布されたことで、7月8日、関電など4電力事業者は大飯・高浜など10基の原発再稼働の申請を原子力規制委員会に行った(玄海原発は12日申請)。福島第一原発事故の原因も分からず、100トンもの融けた核燃料がどこにあるのか、数万トンもある汚染水はどこへ流れていくのかさえわからない泥縄式の事故対策のまま原発を再稼働したいというのである。柏崎刈羽原発の再稼働を申請したいという東電社長の説明に、新潟県の泉田知事は「安全よりおカネ優先ということですね」と迫った(日経:2013.7.6)。カネの亡者と化した我国のパワーエリート層は自らの立ち位置さえ見失っている。
1 死ぬ可能性のある命令に従う技術者集団を(小熊英二)
福島第一原発が危機的状況に陥った2011年3月11日以降のいわゆる「東電撤退問題」について、『現代思想』誌上で菅直人元首相は小熊英二からインタビューを受けている。小熊は菅の「回想記」などから3月15日未明、東京電力は、福島第一原発からの撤退を打診した(官邸はそう受け止めた)。ヨーロッパなら軍隊は政府の命令ならば残るだろう。しかし、民間会社の従業員ならばみんな残ることを断る。東京電力は民間会社だから死者が出たら責任を負うことは困難である。だから撤退していいかと聞いてくるのも無理もない。しかし、福島第一原発からあのとき作業員が全員撤退していたら、最悪の場合首都圏5000万人が避難しなければならず東日本全体が人が長く住めない地帯になる可能性があったと論点整理の後、菅に問いかける。「原発というのは、最悪の場合には誰かに死んでもらう命令を出さなければならいものであり、日本にはその仕組みがない」ことが如実に示されたと。なぜ「撤退はあり得ない」と決断しえたのかと。菅は、東日本全体が避難を余儀なくされれば、経済も立ち行かなくなり、政治も大混乱になる、「まさに日本という国自身が成り立つかどうか、その瀬戸際に追い込まれることを意味した」、そして、自衛隊や消防は原子炉の専門家ではなく、東電以上に事故対応能力を持つ組織はなかった、と答えている。必要性からやむなく、場合によっては誰かに死んでもらう政治判断がなされた。これを受けて小熊は「原発を維持するなら死ぬ可能性のある命令に従う技術者集団をどこかに作らなければならない」という(菅直人×小熊英二「官邸から見た3.11後の社会の変容」『現代思想』2013.3)。
一方、3月16日、キャンベル米国務次官補は藤崎駐米大使を呼びつけ「事故は東京電力の問題ではない。国家の問題だ。原発が非常に危険な状態になっている。それを承知で数百人の英雄的な犠牲(Heroic Sacrifice)が必要となってくる。すぐに行動をおこさないと行けない」(朝日:「プロメテウスの罠」2013.1.6)と命令した。米軍は当にするな、米国民の保護のためにしか出動しない。日本国民の「犠牲」の上で早く始末しろということであった。
2 「犠牲」から目を背けるな(山折哲雄)
これに対し、宗教学者の山折哲雄は「西洋文明には犠牲を前提にして生き残りを図る思想が根本にある」「象徴的なのが、旧約聖書に登場する『ノアの方舟』」であるとし、「フクシマ原発事故でも、作業員の命が犠牲になっても事故を食い止めるべきだという考えが貫かれている」と批判する(山折:「欲望追求の思想は破綻している」『エコノミスト』2011.11.1)。しかし、と山折はいう。我が国では「『撤退』論や『退避』論のなかで、犠牲という問題が正面からとりあげられていないらしいことだった。現場にふみとどまってもらえば、犠牲が出るかもしれない、だから全員を撤退させようと考えたのか、それともたとえ犠牲が出るとして一部の人間だけにはどうしても残ってほしいと考えたのか。」「人命の犠牲にかかわる危機的な論点がやはり隠されていたというほかはない。…犠牲という言葉を使うことが慎重に回避されていたのではないだろうか。」「わが国のメディアのほとんどは、その翌日から、この犠牲という観念と表裏一体の『ヒーロー』という言葉をいっせいに使わなくなる。封印してしまった」「危機における生き残りの道をどう考えるのか」(山折:「危機と日本人-『犠牲』から目を背けるな」日経:2012,6.24)と問う。
3 死を内包する技術体系(筒井哲郎)
「最悪の場合には誰かに死んでもらう命令」は誰がどのように出せるのか。「最大多数の最大幸福」の為に、「選ばれた少数者」は死ねということができるのか。「選ばれた少数者」とは具体的には誰なのか?東電社員なのか?自衛隊や公務員なのか?くじで決めるのか?志願か?
プラント技術者の筒井哲郎によると、3月13日、原子炉に注水するための消防車をだれが運転するかに議論が集中したという。放射線量が異常に高い中での作業を東電の社員も地元消防も拒否する中で東電の子会社「南明興産」の社員3名が“恫喝”されて現場に入ったものの、3号機の爆発で負傷した(「死を内包する技術体系」『世界』2013.7)。究極の「死んでもらうもの」は平等ではない。強制的な「志願」もある。高見の見物をするものと立場の弱いものに分けられる。
筒井は「過酷な問」であると断わりながら「高線量を理由にベントを諦めて爆発を受容しようという態度、原子炉の冷却手段がなくなったから原発を放棄して、爆発・放射性物質の飛散があろうともあとは成り行きに任せようという態度は、原発という技術体系を指揮・運転していく際に許されることであろうか。一般市民の中から千人単位あるいは万人単位の死者を出す事態を防ぐために、数十人あるいは数百人の責任ある関係者の生命を犠牲にするということが必要ではないのか…。」(筒井:同上)これが原発の本質ではないかと自問自答する。「10人の命を救うために1人の人を殺すことは許されるのか」(加藤尚武『現代倫理学入門』)。
4 「死」を「命令」する無内容な「国家」
「最悪の場合には誰かに死んでもらう命令を出す仕組み」=「国家」をカール・シュミットは「国民の特別な状態であり、しかも、決定的なばあいに決定力をもつ状態であって、」「絶対的状態なのである。」と定義する。「決定的な政治的単位としての国家は、途方もない権限を一手に集中している。すなわち、戦争を遂行し、かつそれによって公然と人間の生命を意のままにする可能性である。」「それは、自国民に対しては死の覚悟を、また殺人の覚悟を要求するとともに、敵方に立つ人びとを殺りくするという、二重の可能性を意味する。」(シュミット:『政治的なものの概念』)という。
ところが、今回の福島原発事故で、国家は「知識」も「決定力」も「実行力」も何も持ち合わせていないことが明らかとなった。国家という組織体の中身は空っぽ=主権者(王様)は裸であることが明らかとなった。事故を収束させる為の何の見通しも見識も持たず、根拠のない楽観論だけが支配した。原子力の安全の全てを把握しているはずの斑目原子力安全委員長は菅元首相の問いに原発は「爆発はしない」と明言した。実質的な責任者中の責任者であるべき寺坂信昭原子力・保安院長は3月11日午後7時すぎには職場放棄してしまった。その後国会事故調の参考人聴取に対し「私はどうしても事務系の人間でございますので」と答えている。
戦争にあたり、国家は通常「敵から人間としての性質を剥奪し、敵を非合法・非人間と宣告し、それによって戦争を、極端に非人間的なものにまで推しすすめようとする」(シュミット:同上)が、それでも相手は人間である。核の場合相手は目に見えない放射線であり、あらゆる物質を貫通し、大量に浴びれば即死であり、又は数週間以内に死亡する。低線量被曝でも将来がんになる。しかも、人間の寿命の何十倍・何万倍もの長期戦を強いる。そのようなものに“からっぽ”の国家の命令で闇雲の「犠牲」を強いるならば「犬死」以外の何ものでもない。そもそも、原発事故はいつどのように起こるか、どのように推移するさえ分かっていない。発電所の大きな損傷と放射能の放出に至った事故は、ウインズケール・スリーマイル・チェルノブイリ・福島があるが、各事故は別々の原因で起こっている。「これは原子力発電はまだ極めて未熟な技術で、どのような原因で事故が起こるかもまだ本当にはよく分かっていない」ということである(牧野淳一郎:「畑村委員会中間報告に書かれていないこと」『科学』2012.2)。「決定的な場合の決定力」は自然の方に握られており、全くの未知である。
5 「正しい選択」とは?
「『危機的状況を乗り越えるために正しい選択をするにはどういう能力がいるんでしょう?』とか。でも実は、そんな問いをしている時点でもう手遅れなんですよ。AかBのどちらかを選んだら生き残る、どちらかを選んだら死ぬ、というような切羽詰まった『究極の選択』状況に立ち至った人は、そこにたどり着く前にさまざまな分岐点でことごとく間違った選択をし続けてきた人なんだから。それまで無数のシグナルが『こっちに行かないほうがいいよ』というメッセージを送っていたのに、それを全部読み落とした人だけが究極の選択にたどり着く。」「正しい決断を下さないとおしまい、というような状況に追い込まれた人間はすでにたっぷりと負けが込んでいる。」(内田樹『評価と贈与の経済学』)。
人類は「将来の技術的が解決する」、「今儲かればよい」、「取りあえず今の生活」、「誰か何とかしてくれる」、「地下に入れて見えなけれ」、「10万年後には誰もいない」として過去71年間、核に対しことごとく間違った選択を続けてきてしまった。その結果、日本は福島原発で「10人の命を救うために1人の人を殺す」選択をせざるを得ない立場に追い込まれてしまった。正しい選択とは『究極の選択』=『出来ないような選択』をしないことである。そのためには核を放棄するしか『選択』の道はない。
【出典】 アサート No.428 2013年7月27日