【日々雑感】つくづく思う 語り部、記念館の重要性

【日々雑感】つくづく思う 語り部、記念館の重要性

 名古屋市長の河村や、その他いろんなメディアの人々の中には、南京大虐殺は無かったことだ、捏造だと歴史をゆがめようとする人も多いが、私は新聞記事の中で、写真入りで、この大虐殺からの生き残りの人の証言を読んだことがあります。この証言者ですら、ここ2~3年の間に亡くなられたかも知れませんが、そうであればある程、歴史を意識的に歪めようとする人々の言いたい放題です。
 語り部、記録、さらには記念館等々の大切さを痛感する思いです。
 前置きが長くなりました。「岸壁の母」という歌が流行ったことがありましたが、先月2012年4月18日(水)の朝日新聞の夕刊トップで、母ならぬ「岸壁の妻願いは今も」という記事が載りました。
 戦争中に外地で消息を絶った夫を待ち続けた「岸壁の妻」。助け合いのために作った組織が18日、54年にわたる活動を休止する。多くは旧ソ連からの引き揚げ船が京都・舞鶴に入るたび、岸壁で夫の姿を探し続けた女性達だ、という記事でした。
 そして「めぐみ会」。1958年2月、夫を待つ10人で発足し、その副会長として運営を支えてきた尾崎利子さん(92)は振り返っておられます。
 夫の勲さんは結婚のわずか20日後に召集された。消息は45年8月12日、中ソ国境付近で途絶えていた。戦時死亡宣告の制度を拒否した尾崎さんは58年3月、消息を再調査するよう国に特別審査請求し、61年に戦死公報を受け取った。でも「どこかで生きている」と信じようとした。
 会員は関西を中心に最多で130人に上り、尾崎さんは機関紙「おとずれ」の発行や戦没者追悼行事、バザー、共済制度の創設など活動を切り回してきた。高齢化が進み、会員は20人ほどに。寝たきりに近い人も多い。会長の近衛正子さん(87)と相談し、活動の無限休止を決めた。尾崎さんは、時折、生き延びた勲さんが地元の女性と子どもをもうけていたらいいのに、と夢想する。「でも本当は戦死して、野ざらしなんだろう。独り取り残されてかわいそうに・・・・」
 18日午前、会の事務局がある京都市下京区の西本願寺で、最後の総会と別れの会食があった。会員や遺族計14名が出席。故人となった会員の遺影とともに、記念撮影に臨んだ。尾崎さんは「活動は終わっても追悼を続けることで会員の心はつながっていけるけれど、若い人たちが戦争のことを忘れてしまっているような風潮が気になります」と話した。
 以上が紙面の記事の概要ですが、私は最後の下線部分で、若い人達が忘れているのではなく、教えられないのだと思いますが、そういうことも含めて、次回に記念館のことを書いてみたいと思います。(2012年5月18日 早瀬達吉) 

 【出典】 アサート No.414 2012年5月26日

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